シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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補習授業部合宿、3日目の朝。今日の天気も晴れだった。窓を開けると瑞々しい風が体の表面を撫でて、眠気で気怠い体を冷まし脳の覚醒を促した。少女達は決められた時刻に起床し、洗顔して歯を磨き、朝食を取るルーティンを熟す。その後はもう一度歯を磨いて、それから入浴を済まして身嗜みを整えれば今日という日を気持ちよく始める事ができる。
尚、ヒフミとコハルは昨日の反省を生かして何とか早起きに成功。アズサとの洗いっこと朝シャワーを浴びれない事態を回避する事ができたのは乙女のプライド的に喜ばしい事だろう。
各々の勉強用具をバッグに詰め込んだ少女達は4人揃って教室の扉の前に立つ。先頭に立つヒフミは手鏡を取り出し最終チェック。跳ねや寝癖はないため多分いつも通り。時間も授業開始10分前で完璧だ。
「おはようございます、先生────あれ?」
教室に入った少女達は先生の姿が無い事に気が付く。いつもなら誰よりも早く、タブレットか書類を片手に教室で待機しているはずであるのだが……今日はその姿が見えない。ヒフミに続く様に教室に足を踏み入れた少女達も彼の姿が無い事を不思議に思ったのかきょろきょろと当たりを見渡すが、探せども彼は何処にも居らず。
「あれ、先生どこ? もしかして寝坊?」
「いえ、朝お会いしましたので寝坊はしていないかと……」
「うん。今朝一緒に朝食を作ったし、起きてるとは思う。教材の準備とかで一時的に離席していると考えた方が自然だ」
「そうですね。アズサちゃんの言う通りだと思います。取り敢えず先生が戻ってくるまで自習して待っていましょうか」
「……あら?」
皆が口々に先生の行方について話していると、ふとハナコが声を上げた。視線の先には黒板と……そこにマグネットで張り付けられたA4サイズの紙面。あれは何だろうか、と思った少女達は黒板まで歩いて行き……紙面を手に取り視線を落とした。
『所用により席を外しています。12時頃には戻る予定です。それまでは各自自習をしておいてね』
紙面に手書きで綴られたこの文の差出人は当然先生。起きているのは間違いないようであり、離席する前に教室に寄ってくれていたようだ。教壇の上には今日の授業で使う予定のプリントやテキストが積まれていて、その隣には彼の私物が幾つか置かれていた。
「急な用事でしょうか? 最近は少しお忙しそうにしていましたし……」
「そうですね……先生の本来のお仕事はシャーレですから、火急の案件が入ってもおかしくありません。寧ろ今までそういった事が無かったのが不思議なくらいです」
「……シャーレの仕事よりも、私達を優先してくれたんだな」
「……うん」
先生が多忙である事は薄っすらとであるが理解していた。授業中は少女達の勉強を見て、食事の時間や休憩時間、自由時間は何処かに電話したりPCを開いて何かをやっていたり。それに加えて合宿中の様々な雑務も率先してやってくれているため、本当にいつ休んでいるのか不思議なほどだった。
彼は本来ならば時間が幾らあっても足りないほど多忙にも拘らず、補習授業部の合宿に参加してくれているのだ。その善意と優しさを裏切る様なまでだけはしたくない。
「……これからは今まで以上に先生を助けよう。いつまでも甘えたままではいられない」
「そうですね……では、先生が戻るまでは指示通り自習をしておきましょう」
「はい♡」
「うん」
「了解」
▼
合宿所、プール施設。全員総出で掃除をして水を入れたまでは良いが、結局使えなかったもの。
勉強には欠片も関係ない場所に立っているのは席を外していた先生と────もう一人。
「わぁっ、水が入ってる~!」
ティーパーティーの一人、聖園ミカ。楽し気な声を漏らしながら軽快に歩く彼女の視線はプールに注がれている。トリニティの湖から直接引かれている透明な水は陽光に煌めいていて、素足を触れさせると思ったより冷たくて驚いて。跳ねる雫と水面に光がキラキラと乱反射して涼しそうな様相。風にスカートが揺れて、宇宙を移したような裏地が微かに見えた。
「へ~、此処が使われてるのを見るなんていつ振りだろ? 私が1年の時はまだ使われてたような気がするけど……あ、掃除大変だったよね?」
「そうだねぇ……良い運動にはなったよ。次の日は全身筋肉痛だったけど」
「ふーん……もし良ければマッサージでもしてあげようか?」
「魅力的な提案だけどお断りさせてもらうね」
「え~、つまんなーい」
そう言いつつも彼女は楽しそうだった。歩いて、話しかけて、彼の反応を楽しんで。それから一通り楽しんだ後はプールサイドに腰を掛ける。くるぶしの少し上まで浸かった足を曲げたり伸ばしたりしながら、近くに座った彼に花束のような笑みを浮べた。
「プールかぁ……夏って感じがしていいね~。もしかして皆で泳いだり? プールパーティとか開いちゃったりした?」
「そういう催しは特にやってないけど……まぁ、終わったら開いてみても良いかもね」
「本当? 開くときは教えてね!」
そう言うミカの表情は本当に期待やら楽しみやらで埋め尽くされていて、足をぷらぷらとさせながら「ナギちゃんとセイアちゃんも一緒に連れてこよーっと!」と鼻歌混じりで呟く。
ナギサもセイアも泳ぐイメージが無いが……ミカの頼みなら多分来るだろう。最初は絶対反対するし、説得にも渋るが……最後の最後はきっと断らない。彼女達はミカに甘いし、ミカも彼女達には甘いのだ。甘えを許し、甘えられる関係。友人としては理想的な関係だろう。
ミカは天真爛漫に笑いながら、いつか来るかもしれない未来図に心を躍らせる。
彼はどんな水着が好きなのだろう。露出が多くて大人っぽいセクシーなものだろうか。それとも、ガーリー系の可愛いものだろうか。多分どんなものを着ても……それこそ、トリニティ指定のスクール水着を着てこようと絶対『可愛いね、似合ってるよ』とは言ってくれるだろうが……どうせなら彼の好みストレートな姿を見せたい。そうすれば少しは女の子として見てくれて、意識してくれるだろうか……何て淡い願いを抱きながら。
それ以外にもナギサとセイアにどんな水着を着せようか、とか。他の子達はどんな水着を着て来るのだろうか、とか。誘ったらサオリ達も来てくれるか、とか。或いは……彼はどんな水着を着るのだろうか、とか。
そういった何でもないものを思い浮かべていると、横合いから「ミカ」と声が聞こえた。優しい声。誰かの名前を呼ぶ時、彼はいつも決まってこうだった。本当に大切そうに、愛おしそうに。ミカはこの声が好きだった。
「態々、ここまで出向いてきてくれた理由を教えてもらってもいいかな?」
「……えへへっ」
月が跳ねるような笑い声。悪戯心が含まれた声は高い空に吸い込まれるように消えていった。二人の間に僅かに横たわった静寂、照れ隠しのように足をばたつかせて水しぶきを上げた。
「その前に、ちょっといいかな?」
「勿論」
その言葉に嬉しさを滲ませたミカは彼を手招き。間に一人が座れるほど空いていた距離が拳一つ分になったタイミングで……ミカの両手は彼の顔をそっと包み込んで、更に引き寄せた。鼻先がギリギリ触れ合わないような超至近距離。文字通り目と鼻の先にミカが居る状況に困惑を浮べた。
「……ミカ?」
「顔、よく見せて?」
言い、じっとミカは彼の顔を見つめる。優しい色を帯びる眼には確りとミカを映していて、通った鼻梁も薄い唇も、色白で綺麗な肌も、何もかもがミカの知る彼そのもの。少し前に見た彼と何ら変わりない。だからこそ────彼の体から感じる主神の気配が少しだけ濃くなってしまった事が赦せない。
「隈、酷いよ? それにちょっとだけ痩せてる。顔色も良くないし……生徒の為に頑張れるのは先生の良い所だと思うけど、ちゃんと休まないと駄目だよ?」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。体を壊さないようにセーブはしているからね」
彼は自身の限界を痛いほどに知っている。故に、彼のセーブとはそのライン……あと半歩でも踏み込めば壊れる地点で止めているだけに過ぎず、基本的にはアクセルを踏みっぱなし。その様子は断崖の上で全力疾走と急停止を繰り返しているようにしか見えず、半ば自殺行為染みたものだった。
それを把握しているミカはジト目で彼を見れば、彼は居心地の悪そうな苦笑い。誤魔化すように笑っても、この距離のミカの瞳は誤魔化せない。彼女は「無理はしないでね!」と彼に釘を刺し、顔から手を離れさせる。手に残った彼の温度を大切に抱きしめて、改めて彼を見ると……ミカから少し離れた彼は透明な表情を浮かべていた。
「……」
無理はしないでほしい。身体を壊してほしくない。元気でいてほしい。彼女の言わんとしている事はちゃんと分かる。不健康よりも健康の方が好ましいのは常であるし、自ら率先して不健康でありたいとも思わない。今まで様々な生徒に何度も言われた事であり、その度に自分は馬鹿の一つ覚えのように『大丈夫』と繰り返していた。だけど、健康で在るという事は自分の体を大切にするという事。自分の体を、命を大切だと思う事。
────それは無理な話だよ。いつかこの体が皆を傷つけるかもしれないのに。
何よりも大切で、愛していて、守りたかった誰かを傷つけてしまうようなものを大切に想う事なんて、彼には到底不可能な話だった。
色を持たない、この水面よりも透き通った彼にミカは敢えて何も言わないで……軽く手を叩いて強制的に意識を自身に向けさせた。
「アイスブレイクはこの位にして、そろそろ本題に入ろっか! 私が此処に来た理由……まあ、そんなに複雑なものじゃないよ。先生は上手くやれてるかなーって、ちょっと気になって」
「んー……設備は充実してるし、皆も真面目に取り組んでくれているから今のところ困った点とかは無いよ。そういう意味では上手くやれてる……って事なのかな。勿論、皆の協力ありきだけど」
「そっかそっか! じゃあ滑り出しは上々、って感じなんだ! にしてもナギちゃん、随分補習授業部に入れ込んでるみたいだねー。こんな施設まで貸し出しちゃって。こういう合宿所、普通はちゃんと活動している部活じゃないと使用許可下りないもん」
補習授業部の4人……先生を含めてもたった5人しか使用しない合宿施設としては広さも設備も整い過ぎていたが、元は正規の活動をしている部活に貸し出す合宿所なら納得できる。ミカの言う通り、それなりに人数が居て、活動実績のある部活が長期休み等の基幹に使用するものだろう。それを気前良く貸し出してくれて、かつある程度の設備も一新してくれたとなると……確かに入れ込んでいる、と言えるのだろう。
────補習授業部の裏切り者が飛び出さないための牢獄を作る事に、入れ込んでいる。
「でも、立地はちょっと微妙だから新しく作られた所に役割を取られちゃってたけど……しかも、こういう系統の施設って沢山あるから、古かったり使われなくなったのは放置されちゃうんだよね。施設の管理自体はしてるけどお掃除とかは全然、みたいな。一応、サボってる訳じゃないんだよ? 派閥間のパワーバランスとか、政治面とか色々あってね……あとは単純に人手が足りないってのも」
ミカはスマホを取り出し、ブラウザを開いて検索。トップに出てきたWebページをタップして先生に画面を見せた。画面に映っていたのは生徒達と先生が使用している合宿施設の公式ホームページ……と思われるもの。施設の概要、設備、面積、竣工年月日……それらをざっと流し見して、最後にこの施設を建てた人物の顔写真と名前が出てくる。現行のものと少々デザインが異なるトリニティの制服を身に纏った生徒。見覚えのない顔と名前だが、それは当然だろう。これが建てられたのは10年以上前、流石に卒業した生徒までは覚えきれていない。
だが、その名前の下にある所属だけは分かる。当時のティーパーティーの一員かつ、フィリウス分派の長。つまりはナギサの先代だ。トリニティが抱える施設とはいえ自身の分派が密接に関わっているなら独断で貸し出す事も可能なのだろう。
ちょっとした納得を得られた先生は「ありがとう」と一言ミカに送ると、彼女も微笑む。スマホを仕舞った彼女はまたキラキラとした目を彼に向けて。
「ところで、合宿の方はどう? 遠いのを良い事に、何か楽しそうな事してたりしない? 例えば皆でプールパーティーとか……あとはパジャマパーティーとか!」
「そういうのは特にやってないかな。試験も近いし、皆勉強で手一杯さ」
「へ~、合宿ってなんか楽しそうだと思ってたけど、案外そうでもないのかも? ずっと勉強してるんでしょ? なんか息が詰まっちゃいそうだな~」
「ずっと、って程でもないけどね。カリキュラムはトリニティに準拠してるし、自由時間は皆好きに過ごしてくれてるよ」
「そうなんだ……あ、じゃあ先生は自由時間何してるの?」
「私かい? 私は持ち込んだシャーレの仕事とか次の日の準備をしてるよ」
「わーお、すっごい仕事人間……やっぱり無理してるでしょ?」
「してないよ」
訝しむように細められた琥珀の双眸から逃げるように彼は苦笑い。その態度が気に食わなかったのかミカは頬を膨らませて、そっぽを向く素振り。慌てて彼が謝れば、彼女は『よく言えました』と言わんばかりの表情を浮かべた。乗せられた、と思う彼も表情も柔らかくこの状況を楽しんでいるように見える。
「……ミカ」
その声は柔らかく、優しさを損なってはいない。だが、何処までも真剣で真摯な色を含んでいた。その音に呼ばれるようにミカは彼を見る。透徹した瞳。あらゆる虚飾を薙ぎ払い真実のみを突き付ける眼は確かにミカに突き刺さった。
「良ければ此処に来た本当の理由を話してくれないかな?」
「────あはっ」
ミカの口から漏れたのは乾いた音。乗せられた感情は嬉しさ、期待、不安、後悔。どれもが真実。彼女はくすりと笑ってから少し冗談めかした口調で言葉を紡ぐ。
「そこまで警戒されちゃうのは心外だな~。私、こう見えても繊細で、傷つきやすいんだよ?」
「────知ってるよ。君が誰かのために祈れる優しい子だって事は……良く、ね」
噛み締めるような彼の呟き、それはミカの耳に届く事はなく空に溶けて消えた。
ミカは「よいしょっ」と言い、水面から足を離す。滴る水をハンカチで拭こうとするが、それよりも早く彼はタオルを差し出した。その用意周到さに少しだけ驚きながらも受け取った彼女は水滴を拭いて、靴を履いて……それから彼に視線を送る。
「ところで此処、食事とか大丈夫? 何か美味しいものでも送ろっか? ケーキとか、紅茶とか」
「食事には特に困ってないから、気持ちだけありがたく受け取らせてもらうね」
「もう、遠慮なんてしなくていいのに……」
彼は困っていないというが、自由な訳ではないだろう。紅茶やクッキーは兎も角、ケーキなどの日持ちしない趣向品が合宿所にあるとは思えない。毎日のティータイムにも彩を、と考え送ろうと思ったのだが……生憎と断られてしまった。
「……ミカも大丈夫かい?」
「え? 何が?」
「前会った時よりも顔色が悪いように見えてね。心配なんだ」
彼の言葉にぱちぱちと眼を瞬かせるミカ。そして、彼が言っていた言葉を自身の内側に落とし込んだ彼女は呆れとも取れるような苦笑いで、でも心底嬉しそうな声を上げる。
「……それ、先生が言うの?」
「先生だからこそ、だよ。生徒の事はちゃんと見ておかないと先生の名折れだ」
「そっか、先生はそういう人だもんね」
自分の事には無頓着、でも生徒の事は誰よりも気に掛けている。本人ですら気が付かなかったようなことすら何でもない事のように言ってのけるから、彼の生徒に対する眼は本当に確かだ。百鬼夜行や山海経には真実を見抜く眼の伝承がある、と聞いたことがあるが……多分、彼はそれではない。彼は単純に誰かをよく見ていて、誰かを気に掛けるだけの本質的には普通の人だ。
「私もティーパーティーの一人だからナギちゃんやセイアちゃんほどじゃないけど結構バタバタしちゃってて。だから最近はちゃんと休めてない、のかも……? うぅ、もっとお肌のケア頑張らないと……」
「……今のままでもミカは充分────」
その言葉は愛らしく頬を膨らませたミカによって遮られる。唇の先、彼が少しでも顔を前に出せば触れそうな距離に突き出された人差し指がストッパー代わり。彼が口を噤んだ事を確認したミカは溜息を1つ吐いて。
「もう、先生は乙女心が分かってないんだから! 女の子は一番綺麗で可愛い姿を褒めてもらいたいの。先生だって隈が出来てる顔を褒められても微妙でしょ?」
「確かに……」
「それと一緒! だから、『綺麗』とか『可愛い』はその時まで取っておいてね? いつか絶対、先生に言わせてみせるから!」
それが何時になるかは分からない。数日後かもしれないし、数週間後、数か月後……もしかしたら数年後の可能性もあるかもしれない。だが、どれだけの時間が掛かろうとも絶対に彼にそう言わせてみせる。一番頑張って、とびっきり可愛く着飾って、人生で一番綺麗だって自信を持って言えるような自分の姿を彼に見せてあげたい。その時に『綺麗』とか『可愛い』って言ってもらえたら……どれだけ嬉しいんだろうか。
「ふふっ……じゃあ、その日を楽しみにしてるよ」
「言質取ったからね、先生!」
いつかの未来を小指に結び合って、約束をする。
ミカにとってはいつか必ず訪れる楽しみな未来の約束。またデートして、一日を共有して、楽しんで、大切な思い出にする。いつまでも抱えて、思い返して笑えるような記憶に。彼もそうしてくれると嬉しいな、と思って。
先生は思う。この約束はきっと叶えられない。この命を全て使い切れたとしても残りはあと9ヶ月弱。これはあくまで現時点での最大値であって、何かがある度にカウントは指数関数的に減少するだろう。元より明日の命すら危うい身、必ず訪れる未来なんて何処にもない。
でも、叶えたいと思った。彼女との約束を。
「デートの約束もした事だし、そろそろ本題に入るとしよっか? あっ、因みに私が此処に居る事についてナギちゃんは知らないよ? 見ての通り、付き添いも無しの私の単独行動! もし見つかればすっごい勢いで怒られる事間違いなし!」
「そっか。もし見つかったら一緒に怒られようね」
「……えへへ」
一緒に、というワードが琴線に触れたのかミカははにかむように笑う。彼と一緒に居るといつも忙しない表情筋が更に大慌てだ。
「という訳で、改めて本題だけど────」
緩んだ表情を引き締める目的でミカは一つ、似合わない咳払いをする。気持ちの切り替えも同時に済ませた彼女はそのまま先生の方を向いて。
「……先生、ナギちゃんから取引とか提案されなかった?」
「どんな取引だい?」
「例えば、そうだなぁ……『トリニティの裏切り者』を探してほしい、とか?」
「……そうだね。されたよ」
彼がそう言えば、ミカは不満や呆れや色々な感情が混じった盛大な溜息を零す。
「……ふぅ、やっぱり。もうナギちゃんったら、予想通りなんだから。何か詳しい情報とかは? そういうのは何も無しで、ただ『探して』って言われた感じ? 理由とか、目的とかは? どうして補習授業部がこういうメンバーで構成されてるのかとか、ナギちゃんは教えてくれなかった?」
「概要程度はさらっと。でも、今ミカが言ったような詳しい事情は特に」
「……そっかー。もう、何も教えずに先生にこんな重荷を背負わせるなんて……秘密主義は良くないって言ったばっかなのに」
「────でも、その提案は断ったよ。ナギサには悪いけどね」
「……そうなんだ。どうして?」
疑問を投げかけつつも、ミカに驚きはない。目新しさはない。彼を良く知る彼女は確信していた。彼ならば絶対にナギサの提案には乗らないと、彼は必ずその選択をすると最初から分かっていた。
「自分の生徒を疑いたくないから? それとも────」
「勿論、その理由もあるけど……
生徒を疑いたくないのは当然だ。彼自身、疑いという行為を然程好ましく思っていない。社会に於いては必要だとは認識しているが、しなくていいならばそれに越したことはないと考えている。
だが、これは自身の好き嫌い以前の問題だ。生徒を疑う先生なんて何処に居る。
「例え全てがあの子達を疑っても、私だけはあの子達を最期まで信じてあげたいんだ」
これこそが先生の根底。世界と生徒、その二択を突き付けられた時、迷わず生徒の側に立つことを選んだ彼の願いだ。
「そっかそっかぁ……確かに先生は『シャーレ』の所属だもんね。トリニティとは本来無関係の第三者。なるほどね。まあ、私達にとってはずっと『トリニティ』そのものが世界の中心みたいな感じだから、アレだけど……先生の世界はキヴォトスで、その重さは同じ」
トリニティの生徒である限りティーパーティーの願いを断る事は難しい。ティーパーティーという分かりやすい権力の象徴から下される命令は最早天啓に近いものだ。そもそも断るという選択肢が頭の中に浮かばないだろう。それに加えて、ティーパーティーの命令を聞くという事は自身の所属先を明らかにする事にもつながる。様々な分派が入り乱れ今も尚権力闘争が巻き起こっているこの学園で平穏に過ごすためには、ある程度の協調性は必須であった。
だが、別に彼はトリニティの生徒という訳ではない。彼の所属先はシャーレ、トリニティとは本来無関係だ。故に彼の世界はキヴォトス全土であり、その中心にはいつだって生徒がいる。
「……面白い答えだね。なるほど、新鮮かも。それはそれで正しいし……」
「正しい、ね……私はこの選択を一から十まで正しいとは思っていないよ。この選択で救えない子はいるからね」
「あー……それってもしかしてナギちゃん?」
「そう。私は補習授業部の生徒の為にナギサの願いを否定した」
その声には大きな後悔が滲んでいて、本当にナギサを大切に想っているんだと誰もが分かるだろう。
「だからこの選択はきっと悪で、間違っている」
「でも、それでも先生は選んだ。ナギちゃんじゃなくて補習授業部の子達を選んだ。それは、何で?」
「そうじゃなきゃ駄目だと思ったから。正誤も善悪も関係ない。ただ、これじゃなきゃ駄目だって思ったんだ」
「……そっか、うん。とっても先生らしいと思うよ」
2人の間に吹き抜けた風。それはミカの髪を揺らして、靡かせて。
「じゃあ、そんな先生にもう一個質問。先生は誰の味方なの?」
ミカの眼が先生の全てを射貫く。魅入られてしまうような琥珀が妖しい色を伴い、彼の奥に足を踏み入れた。確認作業に近いもの。彼の答えがミカの想像するものと一致するかどうかを確かめるための。
「もしトリニティの味方じゃないんだとしたら……ゲヘナの味方? 連邦生徒会の味方? ちょっと前に先生が行ってたアビドスとかミレニアム? もしかして連邦生徒会長? それとも……誰の味方でもない、とか?」
「────私は、生徒達全員の味方だよ」
誰かの味方をする事。誰かを助ける事。誰かを守る事。それらは全て誰かの敵になり、誰かを切り捨て、誰かを傷つける事を意味する。彼の『生徒全員の味方』と謂う言葉もその軛から逃れる事は不可能だ。皆を選ぶ事はそのまま皆を選ばない事を意味して、全員の味方である事は全員の味方でない事と等価である。
天上から手を差し伸べるかの如き傲慢。自身を上位者であると錯覚したかのような思い上がり。それは先生とて自覚している。
アビドスで戦ったヘルメット団の生徒達。
ブラックマーケットに根城を構える生徒達。
学校の規則を守る当然の行為をしたまでのセミナーと、セミナーから任務を与えられたC&C。
多くの笑顔の為に自分自身を切り刻み続けたリオ、そんな彼女に付き従う事を選んだトキ、救われた笑顔の為に世界を滅ぼそうとしたケイ。
キヴォトスの安寧の為に猜疑と策謀の海に身を投げたナギサ。
それ以外にも沢山。自身の意志、願い、譲れない何かの為に何度も対立した。
その度に吐きそうになり、殺したくなるくらいに自分を呪い、それでも諦める事を選ばず前に進み続けた。それだけが自分にできる事だったから。
この身は弱い、それは痛いほどよく分かっている。生徒同士の争いに割って入っても無意味な死体を一つ増やすだけにしかならない。愛する生徒に『先生を撃ち殺した感触』しか与えられない。傷つけ合う螺旋から解き放つ事はきっと自分にはできないだろう。自分は、無力だから。
だけど、それでも────此処に居る以上はきっと何かが出来るはずだ。無力でも、弱くても、自身を呪い続けていても、生きている実感が皆無でも、何処にも行く場所が無くても、帰る場所が無くても……それでも、救える何かがあって、手を握れる誰かが居る。
故に進み続けよう。生徒と生徒が争うならば必ず止める。先ずは言葉を尽くし、心と心を向き合わせ、それでも駄目だったらまた別の手を。その代償が何であっても構わない。彼はあらゆる代償を眼を逸らさずに受け止めて、前を向く。その先に花が咲くと信じているから。
────私はこのキヴォトスで生きる生徒全ての味方であり、先生だ。
「……うん、そっか」
その解を聞いたミカは心底安心したように微笑む。別に彼に疑っていた訳ではない。彼ならば必ずそう言うだろうと確信していたし、彼は生徒に関する選択だけは違えないと信じていた。
だが、何処か心配な部分があったのもまた事実。サオリが報告し、ミカも薄っすらとではあるが感じていた主神の気配……それが彼の精神に全く影響を及ぼしていないとは言い切れなかった。
何せ、彼以外に類例がない。神秘に体が引っ張られる事例とは訳が違う。彼の肉体に起きているのは書き換えや
まだ、彼は彼のまま。彼の心は何人たりとも穢せていない。彼の奥にある願いも愛も祈りも、その全てがミカが愛し、信じた形のままだった。
「だから私はヒフミの味方で、アズサの味方で、ハナコの味方で、コハルの味方。それと同時にナギサの味方で、セイアの味方で────」
彼ははにかむように笑いながらミカを見て。
「君の味方だよ、ミカ」
「……わーお」
あまりにも真っ直ぐな心と視線にミカも思わずたじろぐ。知ってはいたし、確信もしていたが……それでも実際に面と向かって言われるとまた違う。照れ隠しに「えへへ……」と笑って、彼の瞳を流し目で見た。
────綺麗。
瞳に映し出された数多の暖かな感情。誰かを愛し、信じ、幸福を祈る様な色。それを見つけたミカは純粋にそう思った。
▼
先生は言う。自分は生徒の味方であると。善悪ではなく、正誤ではなく。唯只管に生徒全員の味方。生徒の為であるなら躊躇いなく世界すら敵に回し、彼女達が笑って生きられるのなら悉くを乗り越える。
その在り方は先生としての完成形だ。或いは、救世主の精神性。磔刑を以て人の罪を贖った神の子。連邦生徒会長を含めて、最も天上の玉座に近しいヒト。
だが、この在り方は自分を大事にしないと公言しているようなものだった。少なくとも、ミカにとっては。
生徒が一番大事で、その次にこの世界で生きているあらゆる命が大事で、その更に次に
人の傷と痛みと涙には真っ先に反応するのに、自分の事になれば途端に雑になる二面性。そのくせ、自分の痛みに慣れて他人の痛みに鈍感になってしまう事を強く怖れていた。色々とちぐはぐで、矛盾を孕んでいて……きっと、普通に生きているだけで辛いだろう。
ミカは知っている。彼は根本的に自分の為に生きる事ができないと。この生は生徒の為であると言い聞かせて、誓わないと、彼はこのキヴォトスで呼吸をする自由すら与えられていない。徹頭徹尾、誰かのための人生。生きる喜びも苦しみも全て、誰かに捧げられる供物に過ぎなかった。
────彼をキヴォトスに連れてきた切欠である連邦生徒会長。彼の最初の教え子であり、特別を作らない彼が持つ唯一の存在。ミカ自身、彼女と話した事はおろか会った事も無い。連邦生徒会とキヴォトスをその人望と卓越した能力で治めた超人と呼ばれる少女。
ミカが彼女に抱く感情は一口に表せない。勿論、感謝はある。彼女が居なければミカは彼に会う事すらできなかったのだから。彼を此処に連れてきた理由も意味もあって、それ自体を否定するつもりはない。彼が居たから何とかなった場面は多く在って、彼のお陰で止まっていた時間が動き出したりもしたのだから。
だが、彼をキヴォトスに巻き込み、彼が本来持っていたはずの幸せを奪った事だけは絶対に許せなかった。
あぁ、何もかも酷く許せない。こんな生き方を彼に押し付けた世界も、彼をキヴォトスに連れてきた連邦生徒会長も、受け入れたように笑う彼も。
────その為に今、ミカは此処に居る。
「生徒の味方かぁ……うん、先生らしいと思う。でも……生徒が先生の味方とは限らないんだよ?」
「それで良いんだ。別に私は生徒に味方してほしいから生徒達に肩入れしている訳じゃないからね」
ただあの子達に笑ってほしくて。
ただあの子達が幸せであってほしくて。
ただあの子達が愛おしくて。
だからあの子達に味方をすると決めたのだ。彼を行く末を案じた連邦生徒会長すら振り切り。彼女と訣別すると知りながら。選んだこの道に一握の後悔もない。皆が大輪の笑顔の花を咲かせる地平の為であれば遍く艱難辛苦を乗り越えられる。
その絶対的な肯定を前に、ミカもまた同じように肯定を重ねる。
「……私は先生の味方だよ。絶対に、何があっても」
そう言い、真っ直ぐな色で先生を見つめるミカに宿っていたのは強固な意志。ただ先生に笑ってほしい。ただ先生に幸せでいてほしい。ただ先生が愛しい。
この想いは決して偽物じゃない。憧れでもない。貴方の隣にいたい。貴方の隣で笑っていたい。でも、それよりも────ただ、生きていてほしい。なんの憂いも影もなく、当たり前の毎日を幸福に生きてほしかった。幸福に生きてほしい。幸せであってほしい。ありふれた幸せの泡を見つけて、その度に微笑むようにいてほしかった。
血も硝煙も銃口も怨嗟も憎しみも怒りも嘆きも、彼には全く以て似合わない。そんなものとは遠い場所で生きてほしくて、その為ならなんだって出来る。
故にミカは言う。自分は先生の味方であると。この銃は絶対に彼には向けない。この銃を向けるのは彼の敵だけだ。
「先生はどんなに遠く穢れても歩き続けるんだよね? 生徒の為に」
「勿論。私の納得できるゲームセットは此処じゃないからね」
「……生徒に寄り添って、一緒に歩いて、手を差し伸べてくれるんだよね?」
「それが、私にできる唯一の事だから」
酷く透明なその表情を見て、ミカの胸はきゅっと痛んだ。もし許されるのならば今すぐ彼の胸の中で声を上げて泣いてしまいたかった。行かないで、そんな風に思わないで、その願いに殉じるように死なないで、お願いだから。遠くだけを見ながら、何処か知らない彼方へまで歩き去ってしまわないで。
もうこれ以上────手の届かない場所に行かないでよ。だって。
「……私が誰より好きなのは、先生だもん」
「? 何か言った?」
「ううん、何にも」
心から漏れた小さな声に蓋をするようにミカは悪戯っぽく笑い、擽ったそうに微笑む。この気持ちはまだお預け。これからもっと育てて、大きくして……それから、どうしようか? あの時みたいに伝えてしまえば、少しは彼の驚いた顔を見られるのかな……なんて思考を飛ばすようにミカはぐっと背伸びをして、大きく息を吐く。自分の心を落ち着かせるために。
これまでも綱渡りだった。危ない場面は数えきれないほどにあって、その度に幸運に助けられて。ミカ達が望んだ本来の状況ではないけれど、それでも何とか誰一人欠けることなくエデン条約を前にする事ができている。
だが、この先は更にどうなるか分からない。盤面に先生と謂う変数が増え、補習授業部が大きく干与し、ベアトリーチェや彼女の保有する戦力が本格的に動き出す。相手は強大極まり、その規模は把握し切れていない。負け戦、と言い切るには簡単だが、これは決して負けられない戦いなのだ。最低でもベアトリーチェを再起不能にしておかなければ第二第三のアリウスが生まれかねない。
ミカは改めて頭の中で目標を確認する。
ベアトリーチェの殺害またはキヴォトスからの追放、アリウス自治区の解放、儀式の完全破壊。
これらを全て、ミカやアリウススクワッド、アズサのみが関与する場所で終わらせる。先生は勿論、他の誰かにも感知されず全てを陽の当たらない裏側で済まさなければならない。
調印式当日、恐らく調印式の会場は戦場になるだろう。会場に通じるカタコンベの道は当日日付が変更された直後に封鎖するが、把握し切れていない他の道を使ってベアトリーチェの私兵に成り果てたアリウスの生徒は聖堂に足を踏み入れる。心苦しいが、ミカとアリウススクワッドはその相手をしていられない。ミカ達の相手はその本丸なのだから。
一応、自由に動かせる戦力としてアズサを残してはいるが……調印式の戦場に参加させる事ができるかは不明だ。より優先度の高い何かがあれば彼女はそれに当たらなければならない。調印式の会場にはキヴォトス最高峰たるツルギとヒナが居て、先生専属の護衛としてミネがいる。大丈夫、だとは思うが……それでも不安は残る。現実と謂うのはいつも想像する一歩先の最悪を映し出すものだから。
どうか上手くいきますように、と祈りを胸に────ミカは彼に視線を投げる。
「じゃあ、そんな先生に一つ取引を提案させてもらおうかな」
「取引?」
「うん、取引」
オウム返しをした彼の言葉に肯定し、ミカは悪戯っぽい蠱惑的な表情を浮かべた。
「補習授業部の中に居る『裏切り者』が誰なのか、教えてあげる」
「……」
「ナギちゃんが言う『トリニティの裏切り者』、今皆が必死になって探して退学にさせようとしている……その相手。実際のところ、もう少し複雑で大きい問題もあるんだけど……うん、ナギちゃんが探している誰かさんって点では間違いないかな」
不気味なほどの沈黙を返す彼。温度や感情、ヒトとして当たり前に持つはずの機敏や律動の悉くが淘汰され薙ぎ払われた彼の表情はこのプールの水面よりも透明だった。クリアホワイトの色彩を保ちながら、彼は静かに口を開く。
「……それを私に教える理由はあるのかい?」
「今このまま、先生がナギちゃんに振り回されている姿をただ見ている……なんていうのはちょっと申し訳ないなって。と言っても、先生は気付いているでしょ? 今何も言っていないのは裏切りの確証が無いだけで、先生はもう真実に辿り着いてる」
何に、とは言わない。気付いている、とも言わない。沈黙こそが答えだ。何も言わない誠実さを知っているミカは少しだけ上機嫌になり、唄を口遊むように。
「まぁ、先生が気付いていても気付いていなくても私が今から開示するから関係ないんだけど……そもそも、先生の事を補習授業部の担任として招待したのは私だからね。この事は知ってた?」
「何となくは、ね。招待された時点で直接の関わりがあったのはミカだけだったから、私を呼ぶとしたら君だろう……って」
「うん、先生の推測通りだよ。ナギちゃんにはずっと反対されていたんだけどね。折角の借りをこんな風に使うのはどうとかこうとかで。最終的にセイアちゃんが私の意見に賛同してくれたから折れてくれたけど……ナギちゃんと先生の間に色々あったんだね?」
「まぁ、うん。私とナギサ、あとヒフミの間でちょっと色々とね……」
「わーお、思ったより複雑。本当に色々あったんだね……まぁ、私の方にも色々あったんだけど。この辺りの話はまた何処かのタイミングにして、今は裏切り者の話だね」
ミカは少しの間だけ口を閉じ、思案顔。だがそれも一瞬。彼女は真剣な表情で彼を見据えた。
「補習授業部に居る『トリニティの裏切り者』、それは────」
「────白洲アズサ」