シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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夜を歩く貴方に細やかな祈りを

 ミカの言葉に耳を傾けつつ、先生は考え込む。ミカの話に矛盾は見られず、嘘を吐いている素振りもない。だから彼に語った事は概ね全て真実だ。彼女から齎されたこれまでの情報は一先ず確かなものとして受け取って良い。しかし、鵜吞みにするのは駄目だ。彼女は意図的に彼に渡す情報を絞っている。羅列するだけで分かるほどにその穴は明確で、どれも真実に辿り着くには必要なものばかり。

 彼が真相へ辿り着くのを妨害している、と言って良いだろう。ミカは何らかの理由で彼をブロックしている。今こうやって色々と話しているのも、彼の考察が真実とは異なる明後日の方向にずれてくれる事を期待した工作の一環なのかもしれない。

 

 こんな事をする理由は依然として不明であるが……知られたくないと言っている事に態々足を踏み入れるような真似をするつもりはなかった。勿論、いざとなれば踏み込むつもりであるし、思考を止めるつもりはない。しかし、直接聞くのは少なくとも今でないだろう。何かが起きた場合に後手の対応になってしまう事は承知の上で、彼は彼女の自主性と秘密を尊重するつもりだ。生徒を信じない先生が何処にいる。

 

「でも、そんな中でナギちゃんがトリニティに『裏切り者』が居るって言い始めて……ナギちゃんが、どうしてそんな事を考え始めたのか、正確な理由は分からない。幾つか思い当たる事はあるんだけどね。私が色々と裏で動いてるときに何かやっちゃったのかもしれないし、誰かが情報を流したのかもしれない」

 

 恐らく、この状況そのものはミカにとってもイレギュラー。単純にミカにメリットが無いのだ。いや、もしかしたらあるのかもしれないが、あったとしてもデメリットの方が高くつく。実際、容疑者候補の筆頭としてアズサが集められているのだ。先生や他の生徒達が密接に生活に関わっている今の環境は動き難くいだろう。彼女がやるべきだった事はミカが巻き取っていると考えられるが……彼女は彼女でナギサの近くに居るため、あまり大っぴらには動けない。少なくとも、補習授業部はナギサにとっての想定外を抑えるという観点については充分すぎる働きをしていると言える。

 

「それで、ナギちゃんは条約締結の邪魔をさせまいとして、シャーレの権限を盛り込みつつ『補習授業部』を作ったの」

 

 ナギサとミカは協力関係ではない。それは確定だ。だが、敵対している訳ではない。単純に各々のやりたい事、やるべき事の方向性が違うだけだ。口振りから察するにミカはナギサの邪魔をするつもりはないし、ナギサも恐らくミカの邪魔をしたくて補習授業部を作った訳ではない。間が悪かった、と言えばそれまでなのだが……微かに悪意の残滓を感じるのは気のせいなのだろうか。

 

 タイミングが悪い、と言うには悪過ぎる。いっそ狙ってやったと言った方が自然なほどに。ミカとナギサの水面下での対立を煽りたくて誰かが仕込んだ……そうとも考えられる。では、誰が? 少なくともトリニティの誰かではない。ゲヘナも条約を締結する相手先が混乱していては困るため、これも除外。容疑者は高確率でエデン条約に関係ない第三者だ。

 

「最初は『補習授業部』って何の事かと思ったけど……あ、そういえば先生。何で補習授業部のメンバーがあの子達なのかって聞いたことある?」

「……いや、聞いた事は無いかな」

「ま、だよね。あそこに集まってるのは、ナギちゃんが裏切り者として疑った子達なんだけど……それ以外にも政治的な理由とかも含まれてたりするんだ」

 

 そう言い、ミカは人差し指を立てて。

 

「例えば、ハナコちゃん。ハナコちゃんはすごい変わった所があるけど、本当に、本当に優秀な生徒。勿論成績って意味でも、それ以外の意味でも。単純な頭の出来なら多分トリニティのナンバーワン。何なら生徒会長……つまり次期ティーパーティーの候補として挙がったくらいなの。それも筆頭。シスターフッドもあの子をどうにか引き入れようと頑張ってたって聞いたけど……上手くはいかなかったみたい。礼拝堂での授業で、あの敬虔な空気の中ひとり水着を着て現れた時なんか凄かったよ。私も偶々そこに居たんだけど、ドレスコード違反でシスター達に追い出されて、皆の表情も凄い事になっててさ」

 

 これまでのハナコを見てると何となく想像できる光景だった。荘厳な礼拝堂、皆が祈りを捧げる空間に突然現れた水着姿の彼女。その光景はあまりにも非現実的過ぎて、他の生徒も祈りの時間だという事を忘れて凝視してしまっただろう。礼拝堂と水着、絶対に交わらないであろう2つが同時に存在している空間。

 それに怒りを覚えたのは礼拝堂の管理をしているシスターフッドの生徒達で、他の生徒の迷惑にもなってしまうから速やかに彼女は追い出されてしまった。その騒動の最中、足を踏み入れてから追い出されるまでの間、ハナコはずっと張り付けた様な笑顔を浮べていて……それは今でもミカの脳裏に刻まれている。

 

「あんなに優秀で将来を見込まれていて、トリニティのパワーバランスを左右する逸材って言われてたのに、あの子は急に変わっちゃったの。落第寸前の状態になるくらいに……どうしてだろうね?」

 

 1年前の4月半ば……つまりミカが2年生の頃、少し前に入学式を済ませたばかりのハナコと顔を合わせた事がある。数多の天才を凡人扱いできる本物の天才、新たな分派を作る事すら可能な少女……そんな仰々しい肩書は権力中枢にいるミカの耳にもよく入っていて、セイアが連れて来た時はサンクトゥス分派の子なのかと驚いたが……それよりも驚いたのは連れて来られた少女の眼だった。

 

 荒んでいて、擦れていて、何かに絶望している事がありありと分かる瞳。どんな言葉を掛ければいいか分からなくて、その日は軽い自己紹介を済ませただけにした。また元気な時にお話ししようと思って。だが、一向に顔色が明るくなる事は無くて、来る頻度も少なくなって、遂には来なくなって……それから、彼女は落第の烙印を押される生徒になった。

 

「確かに、いきなりそんな事になるのは不自然って思って探りを入れたくなる気持ちは分かるよ。あの子は既にトリニティの上層部とか色んな所と交流があって、結構な数の秘密を知っちゃってた事もあって……ナギちゃんにとっては気にせざるを得ないだろうね」

 

 かつては才女と呼ばれ、将来を持て囃されたのだ。フィリウス、パテル、サンクトゥスといった三大分派だけではない。ヨハネ分派等の次点で強大な分派達やシスターフッドのような政治とは関係ない箇所も彼女を引き込もうと躍起になっていた。そのロビー活動の中には情報の提供等もあっただろう。ハナコは恐らく、トリニティの内情を広く知っている。そんな彼女がもし裏切者であればトリニティが瓦解しても何らおかしくない。ナギサが警戒するのは当然と言える。

 

「コハルちゃんは……あの子はどろどろとした政治とか、そんな事とは何の関係もない純粋で良い子なんだけど……じゃあ何であの子がって話をすると……他の子達と前提が違って、そもそも裏切り者として疑われた訳じゃない。直接的な原因は本人じゃなくて、ハスミちゃん達だね」

「……正義実現委員会か」

「そう。強大な武力を持ったトリニティの治安維持機構にして、ETOの一翼を担う手筈になっている存在。そんな集団が自分の統制下に無いという不安感、何かが起きるんじゃないかっていう疑念。特にハスミちゃんのゲヘナ嫌いは凄いからね。ゲヘナと手を取り合うなんて嫌だって言って、反乱なんか起こされたら大問題。止めれるのはそれこそツルギちゃんかミネ団長か……あとは私くらいしかいないだろうね」

 

 確かにティーパーティーは正義実現委員会を動かす権限を持っているが、その統制下にいる訳ではない。武力と行政は完全に独立しており、不当な任務であればティーパーティーからの命令でも正義実現委員会は突っ撥ねる事ができる。それほどまでに正義実現委員会の権限は強いのだ。

 

 そして、ミカの言う通り正義実現委員会のNo.2のハスミは大のゲヘナ嫌い。ゲヘナと組むのは嫌だと言うのは不思議ではないし、反乱なんて起こされようものなら正義実現委員会は文字通り二分される。ハスミを止められる戦力も非常に限られていて、そのフットワークも決して軽くない。彼女達に出動命令が下るより前に甚大な被害が齎される事は眼に見えて明らかだった。

 

 そんな彼女に対するセーフティとして一人は正義実現委員会所属の生徒を入れておこうと思ったのだろう。ハスミは後輩想いの生徒であるため、後輩の身と自身の好き嫌いを天秤に掛けたら確実に前者に傾く。故にコハルはハスミ、ひいては正義実現委員会に対する人質なのだ。もし勝手な真似をしたらコハルを退学にさせる……そういう脅し。だから正義実現委員会の生徒であれば誰でも良く、適当に候補を探そうと成績を流し見して、白羽の矢が立った生徒が偶々コハルだったというだけ。然程深い理由はなく、唯ハスミとナギサの取引の果てにコハルの身柄が正義実現委員会から補習授業部に移った。

 

「だから、ナギちゃんはそこに対して何かしらの備えが欲しかったんだと思う。正義実現委員会の所属なら多分誰でも良かったんじゃないかな。ただ、取り敢えず成績が悪かったからあの子が選ばれた。つまりあの子はハスミちゃんに対する人質。『退学』の件については多分、ハスミちゃんも知っていたはずだよ」

「────」

「ハスミちゃんがそんな事する筈がないって先生は思ってるかもしれないけど、ハスミちゃんのゲヘナ嫌いは事実で、トリニティでは結構有名な事なの。ちょっと前にも、『ゲヘナなんて絶対許しません!』って言ってたって聞いたよ」

 

 正義実現委員会の子と世間話している時に又聞きしたものであるが、信憑性は充分。やるかやらないかで言えば彼女はやる。元々あった薄っすらとしたゲヘナに対する苦手意識、正義実現委員会として活動する中で育った嫌悪感……それらは決して一朝一夕で払拭できるものではないのだ。

 

「ハスミちゃんはトリニティの武力集団、正義実現委員会の副委員長だし、ゲヘナの事を凄く嫌ってる。エデン条約に全力で反対するだろうっていうのは、火を見るよりも明らかじゃない? あのゲヘナとの同盟なんてー、って」

 

 正義実現委員会はETOの片翼であり、有事の際はゲヘナの風紀委員会と合同で何らかの介入行動を行う。自由、混沌を肯定する校風で育ち、度々問題を起こしている学校に通う生徒が組織する治安維持機構に自身や仲間達の背中を預けたいと思うだろうか。間違いなく彼女は後輩の安全のためにも全力で反対するだろう。

 

「アズサちゃんは言うまでもないよね。怪しさのバーゲンセール。何処をどう見ても怪しい所しかない……自分で言うのもちょっとアレだけどね」

 

 アズサの経歴は先程ミカが話した通り。彼女の経歴は年齢や身長、生年月日等のものを除けばほぼすべて偽造だ。怪しまれない訳が無かった。

 

「あとは……ヒフミちゃんだね。ヒフミちゃん、優しくて可愛くて、良い子だよね。ナギちゃんもすっごく気に入ってるし、自分の後継者候補筆頭として大切にしてた子なんだけど……でも、それでもナギちゃんの疑いの目が向いちゃったの」

 

 最後にヒフミ。彼女も同じく容疑者として集められた少女の内の一人だった。ハナコのように何か目に見えて分かる変遷があった訳でもなく、アズサのように怪しい経歴を持っている訳でもない。彼女はトリニティ自治区内で生まれ育ち、小学校と中学校も自治区内のものを卒業。高校も転入編入をした訳でなく、1年の四月から今までずっとトリニティ総合学園に所属している。分派との関わりも特になく、ナギサに気に入られるまでは無所属の一般生徒として過ごしてきた。有力な委員会や部活にも所属しておらず、知っている秘密も精々ナギサが世間話の一環として話したものだけ。疑うような場所なんてどこにもない少女であるのだが……ナギサには一点、引っ掛かっている部分があった。

 

「どうも、こっそり学園の外に出て、怪しい所に行ってたみたい。トリニティの生徒は校則で出入り禁止になってるブラックマーケットとか、彼方此方にね。それに、どこかの犯罪集団と関わりがあるって情報も流れてきた。あんなに善良そうで、純粋な子に見えるのに」

 

 先生の脳裏に浮かんだのはアビドス対策委員会と行動を共にしたあの時。調査の一環としてブラックマーケットに足を踏み入れ、そこでヒフミと出会い、なし崩し的に行動を共にした。その最中に闇銀行に銀行強盗をするという、命知らずも甚だしい事をやったのだが……強盗時にヒフミを覆面水着団の頭領に据えたのだ。

 

 その一件から数か月たった今でも覆面水着団の存在はブラックマーケット内で偶に耳にする。とは言っても尾鰭背鰭が付いた半ば都市伝説のようなものだ。語られている中に正確な情報なんて殆ど無いのだが……それでも、真実の一端を掠めているものは確かにある。その情報をナギサを掴んだのだろう。

 

 ヒフミは日常的……という訳ではないが、頻度は少ないながらもブラックマーケットに足を踏み入れていた。遅かれ早かれナギサに目を付けられていただろうが、覆面水着団の一件が後押しになったのは明確。

 

 ────彼女には悪い事をしてしまった。先生はそう思い、小さく唇を噛んだ。

 

「ナギちゃんだってヒフミちゃんの事を気に入ってるのに、それでも疑いの目は向けられた。ま、それもナギちゃんらしいと言えばナギちゃんらしいんだけど。根が真面目だからそういう所に私情は挟まないんだ」

 

 ナギサは公私の分別がはっきりと付いている。それは幼い頃からフィリウス分派の中枢にいたからなのか、それとも生来の性質なのか。いずれにせよ彼女は17歳でありながら公人としての自己を確立していて、私人としての自分を押し殺す事もできてしまう。ヒフミを疑いたくない自分、疑わなければならない自分。対立した二項の内、彼女が選んだのは公人としての自分。私情は挟まない大人びた彼女は自分の心に手を掛けた。

 

「それで、ナギちゃんの中にあった『トリニティの中に裏切り者がいるかもしれない』という疑いは、色々な情報が集められ進められていく中で……『あの中の誰がトリニティの裏切り者』なのかっていう疑念に変わったんじゃないかな。もういるのかどうかなんて話はしてない、『裏切り者』は既にナギちゃんにとっては確定路線の現実問題になってる……それが、今のティーパーティー、ひいてはトリニティの状況。ちょっと長かったけど、これで今私が知ってることは全部話せたかな?」

「裏切り者……」

「そう、裏切り者。その言葉が何を指すのか、それを多少はっきりさせた上でなら、ちゃんと回答を出せるの。まず、ナギちゃんは今きっと、『自分達を、トリニティを騙そうとしている者がいる』って思ってる。誰かがスパイなんじゃないかって。そういう意味で、今ナギちゃんが言ってる『裏切り者』は、経歴を偽って入り込んでる子、白洲アズサ。そして、それを手引きした私。あの子はさっき話した通り、本当はトリニティと敵対してるアリウス出身の子だからね。私もアリウスと関係を持ってるから、裏切り者と言われても否定できない。それに、私もあんまりゲヘナの事は好きじゃないから、エデン条約に大々的に賛成はしてないんだ。反対寄りの中立、って立場かな?」

 

 ゲヘナは苦手で、嫌い。それは変わらない。だけど、何が何でも根絶やしにしたい訳ではないのだ。ナギサがやろうとしている事を邪魔しようとも思わないし、手を取り合えるならそれは喜ばしい事だと思う。流れる血が少なくなるのはきっと善い事だ。

 だけど、心を押し殺して無理に仲良くする必要は無い、相手を尊重する事と認める事ができればそれで充分────ミカにそう言ってくれた誰かが居る。

 

「さっきも言った通り、アズサちゃんはアリウスとの和解の象徴。こんな形でアズサちゃんを退学にしちゃったら、私達とアリウスは二度と同じテーブルで笑い合う事ができなくなる。だから、絶対に阻止しないといけない。勿論、アズサちゃん以外なら退学して良いって訳じゃないけど……それに、トリニティの裏切り者はナギちゃんだって言う事も出来る。そうは思わない?」

「……と言うと?」

「これまで調和を保っていたトリニティを、ゲヘナを巻き込んで巨大な怪物(リヴァイアサン)に変えようとしている存在……そういう見方があってもおかしくないと思わない?」

「そうだね、おかしくはないけど……ミカはそう思ってないだろう?」

「ふふっ、本当に何でもお見通しだね。確かに、私はナギちゃんがそうなるとは思って無いよ。伊達に十年以上一緒に居ないもん。ナギちゃんがそんな事する人じゃないって事は私が一番知ってる」

「それでも、ミカは私に話した。それは何のため? ミカは私にナギサを疑ってほしいのかい?」

「んー……少し違うかな。生徒を疑わないのは先生としては美徳かもだけど、ここはトリニティだから。多少は疑わないといつか足元掬われちゃうよって……お人好しな先生へのちょっとした忠告だよ」

「……ご忠告どうも、って言えばいいのかな?」

 

 そう言い、苦笑いする彼に釣られてミカも笑って……それから徐にデッキチェアから立ち上がり襟を正して彼を見た。彼も同じように立ち上がり、衣服を整える。

 

「今までの話は全部、私からの一方的なお話でしかないよ。だから、勿論最終的には先生が決めて。アズサちゃんを信じるのか、裏切り者を見つけるのか……ナギちゃんを信じるのか。それとも、私を信じるのか」

 

 何を信じ、誰を信じ、何を守るのか。この策謀に彩られた破局への序章を如何にして走り抜けるか。それを問われた先生であったが、彼の掲げる答えは決まり切っている。生徒を信じ、守り、今よりも少し善い明日へ送り出す事。より善い世界の為に、生徒達の笑顔の為に、皆の幸福の為に今まで走ってきたのだ。その願いはどれほど困難な局面に立たされても尚、変わらない。だから彼が問いかけるのは別の事。

 

「────ミカは」

 

 名前を呼ばれたミカは少しだけ華奢な肩を跳ねさせ、驚きを交えた表情で先生を見て。

 

「ミカは、それだけで大丈夫?」

「……それって、私の事を心配してくれてるって事?」

「勿論。話してくれた時、少し辛そうな顔に見えたからね。心配なんだ」

「あはっ……本当に優しいね、先生は。うーん、何だかつい勘違いしちゃいそう。そうやって何人女の子を泣かせてきたのさ」

「人聞きの悪い事言わないでよ」

「あははっ! 冗談だよ、先生……うん、私の心配は大丈夫。こう見えても私、結構強いんだから♪」

「そうかもしれないけど……ミカも一人の女の子だろう?」

 

 確かにミカは強い。こと単純な戦闘能力、真正面からの打ち合いや殴り合いに関してはキヴォトスでも最高峰だ。神秘の質も量も黒服がキヴォトス最高と称したホシノと比べても見劣りしない。戦闘技巧や戦闘経験、修練で培われるものを排した完全なカタログスペックなら、キヴォトス最強の中でも明確に上位だ。数多の信仰、宗教、神話を薙ぎ払った唯一神……それの如き者。キヴォトスでも有数の強者の証だ。

 

 だが、そんな事とは関係なくミカは唯の女の子。17歳の高校生で、可愛いものが好きで、甘いものが好きな、本質的には何処にでもいるような多感な少女。強さがどうとか、そんなものは関係ない。これは心の問題だ。いくら幼い頃から政治の場に身を置いていたとはいえ、今の状況はミカにとっても辛いだろうから。

 

 そんな彼の心配を受け取ったミカは少しだけ顔を赤らめながら、少しだけ頬を膨らませて呟く。

 

「本当にそういう所だよ、先生」

 

 嬉しくない訳ではない。寧ろ凄く嬉しい。気に掛けてくれて、心配してくれて。でも、この言葉はミカが特別だから掛けてくれたものではない。心苦しそうにしている生徒を見れば、彼はこの手の言葉を必ず掛ける。あくまでミカは彼にとって生徒の一人に過ぎないのだ。特別ではない。それはちょっとだけ苦しいけれど……それよりもずっと、好きな人の綺麗な瞳に自分が映っている事が嬉しかった。

 

「じゃあ、一個だけ。お願いしてもいいかな? 本当は言うつもりなんて無かったんだけど……このお願いはティーパーティーの聖園ミカじゃなくて、私という一個人のお願い」

 

 ミカは彼を真っ直ぐ見て────静かに紡ぐ。

 

「ナギちゃんを、私の大好きな幼馴染を止めてほしいの。ここでナギちゃんを止めなかったら、誰かを退学にさせちゃったら、ナギちゃんはずっとその呪縛から逃れられなくなっちゃう。ナギちゃんがこの方向に舵を切ったのは私の所為。私がお願いするのはおかしいけど、でも……」

「────その願い、確かに受け取ったよ」

 

 その声には真実のみが宿る。彼は確かにミカの願いを受け取った。シャーレとして、招かれた者としてティーパーティーのミカの話に全面的に乗る訳にはいかなかった。だが、これは違う。一人の人間として、大切な友人が引き返せない場所まで行ってしまわないように引き留めてほしいという願いだ。ならば、彼は何の迷いも躊躇いもなく受け取ろう。彼はミカの先生であり、ナギサの先生であるのだから。

 

「じゃあ、今日はこんな所かな。先生とまたこうしてお話できて楽しかったよ」

 

 ミカは一歩彼から距離を取った。その顔は先程と比べて少しだけ晴れているが、まだ何処となく暗さを孕んでいる。心配事や不安な事が幾つかあるのだろう。だが、ミカは敢えて彼に言わなかった。なら、彼はそれを尊重するだけ。誰にだって言いたくない事はあるだろうから。

 

「それに、あんまり2人でずっと一緒に居ると、変な噂が立っちゃいそうだもんね。ふふっ……まぁ、私はそれでも全然構わないし、寧ろ大歓迎なんだけど……先生に迷惑かけちゃうのは嫌だから」

 

 ────もし、今抱えている事を全部話してしまえば。サオリ達アリウススクワッドとアズサと繋がっていて、エデン条約締結日にベアトリーチェを打倒するつもりなんだと。補習授業部は先生にその動きを感づかれないために利用したのだと。セイアが彼の前に姿を現さないのは、彼女がミカの目的を色々と察してくれたからだと。全部、全部話してしまえば。この胸に巣食う何かは晴れるのだろうか。これを伝えたら彼はなんて思うのだろうか。危ない事をしないでと怒るのだろうか、協力すると言ってくれるのだろうか。多分、どっちも。彼はそういう人だから。

 

 ────でも、本当はそれ以外にも伝えたい事があるんだよ。貴方と過ごした日々の記憶はまだこの胸の中にあると。彼が生き抜いた世界は、確かに此処で生きているのだと。

 

 ミカはその想い達に蓋をする。代わりに少しだけ早口、未練が口から零れてしまわないように。

 

「じゃ、またね。先生」

 

 そう言い、ミカは手を振り駆け足で去っていこうとして────その背に声を掛けられた。彼の優しい声、ミカの好きな声。

 

「────私は、何があってもミカの味方だからね」

 

 そう言って、穏やかに微笑んだ顔。目を離した隙に溶けて消えてしまいそうなほどに儚い彼はそう告げて、「じゃあね、今日はありがとう」とミカに背を向ける。

 

 2人はそれぞれの生活に戻る。ミカはトリニティの生徒としてのミカに、彼は補習授業部の顧問としての彼に。この会合は秘密の儘、多くを語りながら、語られない多くをそのままに終わる。

 

 一歩一歩遠ざかっていく背中。嘆き、怒り、悲しみ、憎しみ……押し潰されてしまいそうな重荷を抱えながら、明けない夜を歩く人。いつか、貴方は遠くへ行ってしまう。

 

「……ミカ?」

 

 ────衝動だった。いつもの考えなしの、後になって枕に顔を埋める事間違いなしの突飛な行動。

 

 だけど。そう、だけど。此処で見送ってしまえば、二度とこの想いを伝えられない気がして。二度と会えない気がして。

 

「私ね、先生が大事」

 

 ミカは抱き締めた彼の背中に顔を埋めながら、少しずつ言葉を零していく。

 

「先生に苦しんでほしくない。危険な目にあってほしくない。ずっと、ずっと笑ってほしい。幸せでいてほしい。それが、私の本当の願い」

 

 だけど、それを他ならぬ彼自身が許していないのを痛いくらいに知っている。

 

「だから、さ」

 

 天上に浮かぶ光輪と何処までも青い空。白い雲が遠のいては溶ける、キヴォトスの夏の光景。時間は流れているはずなのに、ミカと先生の中ではこの瞬間が止まったまま。

 ミカは抱き締める力を少しだけ強くして、彼の掌をぎゅっと握った。伝わる体温は暖かくて、優しくて。

 

「本当にどうしようもない時。ホントにダメになって、辛くて苦しくて死んじゃいたいって思ったら……その時は、私に言って」

 

 もしも────本当にもしも先生が辛くなって、苦しくなって、自死を選びたくなるほどに痛かったら。歩みを止めてしまいたくなって、立ち止まってしまって、もうそこから一歩も動けなくて蹲ってしまったなら。

 

 その時、ミカの名前を呼んで、『助けて』とか『もう嫌だ』とか『逃げたい』とか……ポツリと一言でもそう言ったなら。

 

「何処へでも連れて行って、一緒に逃げてあげるから」

 

 泣き言を零した彼に何処までもついていく。何処へだって連れて、一緒に逃げよう。何処か遠い所へ、此処ではない何処かへ。彼が辛くない場所、苦しくない場所、死にたくないと思えるような場所へ、一緒に。キヴォトスの喧騒が聞こえない場所で、駆け落ちみたいに消えてしまおう。

 

 それで、彼が笑えるのなら。

 

「先生の為なら私……私の全部、捨てれるよ」

 

 恋焦がれ愛し続けた貴方の為なら何もかもを捨てて、貴方の為に何処までもついていく。世界の全部を敵にしようが、幼馴染や友達に裏切り者と罵倒され後ろ指を指されようと構わない。貴方のためなら全部を捨てれる、その覚悟がある。

 

 ────もう後悔したくない。諦めたくない。絶対に逃げ出さない。彼を脅かす悪意も敵意も殺意も、全部振り払う。誰一人味方がいなくなっても自分だけは、絶対に。彼に救われた1人の生徒として、彼を愛した1人の女の子として最期までこの銃と力を彼の為に使う。彼の為に捧げた決意と誓いは決して違えない。夜の道を歩き続ける彼の(希望)になりたかった。彼にとっての唯一()になりたかった。ミカにとっての彼と、同じように。

 

 ミカは彼に重ねた手に願いを込める。この想いが届いてほしいと祈りながら。彼は決して無価値ではないのだ。彼は皆にずっと大切にされていて、必要とされていて、愛されている。彼自身が思うよりもずっと、皆は彼のことが好きで大切である事を知ってほしくて。

 いいや、違う。自分(ミカ)はどうしようもないほど貴方が大切で、愛おしくて、大好きだと伝わってほしかった。

 

 背中から抱きついているから彼の表情は見えない。だけど────なんて思っていると、彼の空いている手がミカの上にそっと重ねられた。確かめるように握る手にくすぐったさと愛おしさ、嬉しさを感じて。

 

「……ありがとう」

 

 彼は一言だけ呟く。その声音は、ミカが想像したものと違わぬ優しい声音だった。

 

 彼は誓う。決して足を折らない。願いを曲げない。立ち止まらない。もう二度と、何も取り零さない。この道を進み続けよう。

 誰か1人でもそう思ってくれるなら、ミカがそう祈ってくれるなら────己は何処までも、如何なる道でも歩ける。歪み塞がれた夜の先にある希望の星を信じて。

 

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