シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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「こちらアズサ、ターゲットを制圧した。これより捕縛に入る」
イズミ捕獲作戦は最初の一手を打ってからほんの20秒程度で完了した。コハルの
ヒフミが
『うん、お疲れ様。護送車の場所は共有しておいたから、終わったらイズミを連れて此処に来てね』
「了解した。捕縛方法はどうする?」
『アズサが思うようにやって貰えれば大丈夫だけど……何かあったのかい?」
「ハナコがきっこうしばり……? と言うものをやろうとしているんだけど」
『それは止めようか』
「もしやらせてもらえないなら自分を縛る、とも言っているが」
『それもアウトだね』
「ふむ、やはりそうか。コハルが『エッチなのはダメ! 死刑』と言っていたから何となく察していたが……」
アズサはスマホを耳に当てたまま、仲睦まじい……かどうかは分からないが何時ものやり取りをしているハナコとコハル、それをあたふたとしながら止めようとしているヒフミを眺める。眼を回しながら気絶しているイズミを中心としたやり取りは異様な光景であり、手早くしないと目が覚めてしまう恐れがあった。
「分かった。手早く縛って護送車に向かおう。到着は恐らく10分後になると思う」
『うん、待ってるよ』
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ハルナ、アカリ、ジュンコの逮捕完了から大体20分が経過した頃。無事に作戦を完了した補習授業部はイズミを護送車に放り込む。尚、彼女はきちんと普通に両手両足を縛られていた。そこはかとなくハナコが残念そうな顔をしていたのは気のせいだと信じたい。勿論、ハナコは普通の制服であり縛られてもいなかった。
これにて美食研究会の全四名と、ついでに巻き込まれたフウカの捕縛は完了した。
「……ふ、ぅ────」
先生は大きく息を吐き、シッテムの箱との接続を切る。今回は接続していた人数が人数だったため疲労感が圧し掛かり体の節々に重さが残留した。この程度の小競り合いであれば接続なんてしなくても余裕だが、こういった時に慣らし運転も兼ねて調整をしておかなければ後が怖い。本当に必要な時に機能不全でした、では意味がないのだ。
「お疲れ様、皆。これにて戦闘終了だよ。もう楽にして大丈夫だからね」
「先生の方こそお疲れ様でした。あの子達も良い経験を積めたと思います……指揮に関してはそれなりに自信はあったつもりですが、先生を見ると私もまだまだですね」
「唯の経験の差だよ。ハスミが本当に指揮の道を歩むなら私なんて直ぐに追い越せるさ」
先生が苦笑いでそう言えば、ハスミも思わず苦笑が零れる。彼はそう言っているが、正直本気で彼と同じ道を歩んでも彼に追いつける気なんてしなかった。彼の指揮の巧さは戦術、戦略もそうであるが、何よりも個人の性質を見抜いていることに由来している。多くいる生徒一人一人のパーソナルデータを把握したうえで能力を最も発揮できるポジションに配置する、なんてどれだけの時間を掛ければ身に着く芸当なのやら。
「補習授業部の皆さんもありがとうございました。お陰様で事態を無事に収集することができました」
「あ、あはは……途中からはもう、無我夢中という感じでしたが……」
「正義実現委員会の動きを眼の前で見る事ができて良い勉強になった。感謝する」
「や、役に立てたかどうかは、分かりませんが……」
「充分働いてくれていましたよ、コハル。もっと自信を持ってください」
「は、はい……!」
コハルの自信が無いような声を払うようにハスミはコハルの頑張りを肯定する。充分頑張ったし、役に立っていたと。これはお世辞でも何でもない。実際、彼女を含む補習授業部のメンバーは最後まで逃亡していた美食研究会の一員を捕えたのだ。これを成果と言わずして何と言う。彼女は正義実現委員会の一員として、補習授業部として何処に出しても恥ずかしくない動きをしてくれた。
「ところで、あの方々はこの後どうなるのですか?」
「本来ならば私達の方で今後の処遇を決めるのですが……今回は時期が時期ですので、ゲヘナの風紀委員会に彼女達の身柄を引き渡そうかと」
「なるほど……あまり荒波を立てられませんからね」
「えぇ。ですので、この先は……」
「うん、私が色々と手配すれば大丈夫かな?」
ハスミの言葉に名乗り出たのは先生。ゲヘナにもトリニティにも関与していない、恐らく最も中立な立ち位置にいる第三者が張り詰めている二校の橋渡しとなる。今回、補習授業部がこの作戦に参加したのは『偶然その場にいたから』という理由もあるが、一番はシャーレだ。具体的には、シャーレの先生が補習授業部を率いて捕らえた、という事実が正義実現委員会は欲しかった。
であれば、その最後の引き渡しを行えるのは必然的にシャーレの先生だけになる。
「はい、ご理解が早くて助かります……エデン条約の事を考えると、私達も今は能動的に動くのは少々避けたいのです。ですので、風紀委員会への引き渡しをお願いしてもよろしいでしょうか?」
「なるほど……中立のシャーレが引き渡す形であれば、トリニティ側もゲヘナ側も政治的な憂慮は大きく軽減されますからね」
「えぇ……今の時期に下手に関わってしまうと、敵を作る事に繋がりますから。軽はずみな行動は慎まなければ」
そう言ってハスミが見やるのはコハル。ナギサとの取引の果てに補習授業部に引き渡された人質の様なもの。彼女がコハルを取り巻く現状に対してどう思っているのかは定かではないが、少なくとも良い感情は抱いていないだろう。
だが、今が全て駄目で悪かと問われればそれは違う。良い友達ができたようだし、コハル自身も少しずつ変わっているから。けれど、それも外部から眺めている第三者の感想でしかない。結局の所、善し悪しを決めれるのは振り返ったコハル自身だけ。ハスミにとっては複雑な心持ちであった。
「分かった、任せてほしい……ゲヘナ風紀委員の人選は私がやっても大丈夫かな?」
「えぇ、先生が選んだ人物であれば間違いありませんから……何から何までありがとうございます、先生。それでは、私達は一旦退いた位置にいますので、引き渡しをよろしくお願いいたします」
「うん、分かったよ」
先生は朗らかに了承し、スマホを取り出して連絡先一覧を眺める。ゲヘナ風紀委員会の生徒で、政治的な憂慮が介在しにくく、権限を持っていて……その上で先生が一番信頼できる生徒。そこまで条件を与えれば連絡する生徒なんて必然的に一択になる。
果して彼女は起きているだろうか……なんて思ったが、彼に負けず劣らずのワーカホリックである彼女であればほぼ起きているだろう。彼としては歓迎しにくい事であるが、今は好都合だ。
そして、彼女以外にも一人欲しい。政治の色が無く、かつ負傷者の手当てが出来るような少女が。
「では、私達は先に合宿所に戻っておいた方が良いですね。後の事は先生がやってくれるようですし」
「うん、もう時間も時間だからね。明日の事を考えるとこれ以上留まるのは良くないかな。あぁ、外出理由に関しては私の方で何とかしておくよ。だから心配しないで」
「ティーパーティーには私がシャーレに助力をお願いした、とお伝えしておきますね」
「ありがとう、助かるよ」
これで恐らく、外出の件でティーパーティーから何らかのペナルティが付与される事は無くなった。戦闘も済んだ今、残る仕事は事後処理だけ。先生の護衛も展開している正義実現委員会だけで充分であり、補習授業部の協力は必要ない。元々彼女達は合宿中の身、明日以降も朝から授業があるのだ。これ以上の夜更かしは授業に影響が出てしまう。故に可能な限り早めに帰らせて、休ませてあげたかった。
最初は彼を置いて帰るなんて、と渋っていた少女達だが、ハスミとハナコが助け舟を出してくれたことにより何とか帰る方向に持っていく事ができた。
「で、ではお先に失礼します……お疲れさまでした!」
「何かあった際は直ぐに連絡をしてくれ、先生」
「ふふっ、ではお暇させていただきますね♡」
「お先に失礼します、ハスミ先輩!」
「皆、ありがとう。ゆっくり休んでね、おやすみ」
「皆さん、ありがとうございました」
頭を下げ、合宿所に向けて歩いて行く少女達。それを背中が見えなくなるまで手を振って見送った先生はハスミに視線を送る。すると、彼女は護送車の方を指差した。防弾ガラス越しに見えるのはシートベルトも着用し、準備万端な正義実現委員会の生徒。
「護送車の準備は出来ています。後の事はお願いいたします、先生」
「ありがとう、じゃあ私も手早く準備をするよ」
彼は連絡先をタップする。電話は1コールで繋がった。
▼
トリニティ自治区、境界ライン付近。石畳やレンガ建造物といった昔ながらの街並みが残る学園付近とは一転、境界付近はかなり現代チックな様相を呈している。立ち並ぶビルやマンション、アスファルトで舗装された道路はあまりトリニティらしからぬ外観であるが、自治区境界は近年再開発が行われているのだ。この一帯の用途は商業や工業といった産業、住宅街であり、観光目的等により街並みが保全されている中心地とは根本からして違う。
D.U.や他の自治区にアクセスするために張り巡らされた道路に路上駐車する護送車の傍ら、先生は外に出て人を待っていた。アスファルトに残る熱により暖められた、都会らしい生暖かい風が肌を撫でる。薄く目を開いて空を見ると、街明かりに掻き消されない月明かりが淡く照らしている。青褪めた月光、まるで全部を透過するかのような冷たい明かり。それを眺めつつ、だが結局やる事もなくなり、彼はフェンスに背を預けつつ溜まっていたモモトークを返していると……ふとエンジン音が聞こえた。
音が聞こえた方向に視線を送ると、ヘッドライトを点灯させ近づいてくる車が一台。ゲヘナの校章と『救急医学部』のロゴ。ナンバーは先生が呼んだ少女が保有する車のもの。
護送車の近くに止められた車はどんな悪路でも走破できそうな装甲車であった。救急医学部が保有する車としては何処かミスマッチのように思えるが、『ゲヘナの』という言葉を付けるとそうでもなくなる。広大故に様々な環境が入り乱れるゲヘナの土地を移動しようと思えば必然的にこのような車に限定され、少々血気盛んなゲヘナの生徒からの銃撃を防ごうと思うと装甲は必須パーツだ。
勿論、若干厳ついのは外見だけで、その内装は救急医学部らしいもので纏まっている。治療に必要なものが大体揃っている車内は簡易的な病院と言っても差支えなく、軽い症状や怪我だったらこの車内だけで治療できるだろう。先生もお世話になっているため、それはよく知っている事だった。
停車した車の運転席から一人の生徒が降りてきて、そのまま真っ直ぐと先生の方まで歩いてくると……開口一番、とんでもない事を言いだす。
「……お待たせしました。死体はどこですか?」
「久しぶりだね、セナ。あと、死体じゃないよ」
「……失礼しました。納品リストには新鮮な負傷者4名と人質1名……と書かれていますね」
スマホに視線を落とし、先生が先ほど送った連絡に書かれていた文言……とは微妙に異なるものを読み上げる彼女はゲヘナの救急医学部部長、氷室セナ。先生もアビドスで死にかけた時に2回ほどお世話になっている上に、それ以外でも親交があるためよく見知った顔だった。
青色をベースに白が入った制服は涼やかな見た目の彼女によく似合っており、頭のナースキャップの位置を整えて彼女は漸く先生を見る。
「お久しぶりです、先生」
「うん、久しぶり。元気だった?」
「えぇ、先生も元気そうで何よりです」
セナはその鉄仮面の様な表情を少しだけ柔らかくしながら先生に微笑んだ。口角が僅かに上がり、目尻が少し柔らかくなっている彼女は確かに笑っている。表層の変化こそ乏しいが、彼女は先生と会えたことを喜んでいた。そして、先生もセナと久し振りに会えて喜んでいる。
「このまま歓談しても良いのですが、今はした……負傷者が優先です。先生との会話は後日の楽しみに取っておきましょう。負傷者はどちらに?」
「そこの護送車の方だよ。ちょっと待ってね、鍵を開けてもらうから」
先生は運転席の正義実現委員会の生徒に合図を送ると、後ろの方で何らかのロックが外れる音。それを聞いた途端、彼女は先生よりも早く後方へ向かって行った。仕事熱心というべきか、負傷者に目が無いというべきか。兎も角、後は彼女に任せて大丈夫だろう。
「……負傷者を死体って言う癖、直してほしいけれど一向に直る気配が無いわね」
「────ヒナ」
助手席から降り、先生の隣というポジションをさり気なく取ったのはヒナ。彼女は呆れを含んだ視線をセナに向けて、一つの溜息を吐く。セナはゲヘナに於いてかなりの常識人であるし、対等な友人として信頼しているし信用しているのだが……あの癖だけは直してほしかった。だが、一向に直る気配が無いため、半ば諦めているのも事実。
どこか疲れを含んだ彼女の姿に先生は苦笑を零し、ハンドバッグから先ほど自販機で買ったボトルのカフェラテを2つ取り出し、1本を彼女に手渡す。残りの2本はそれぞれセナとフウカにあげる用だ。
差し出されたカフェラテに一瞬面食らったような顔をするヒナであったが、「ありがとう」と言って受け取ってくれた。蓋を開けて小さい口で少しずつ飲んでいく彼女。それを見て彼もボトルに口を付ける。疲れた体にカフェラテの甘さが沁みて、少しだけ元気になったような錯覚。そして、その錯覚はヒナも同じで、心なしか先ほどよりも表情が柔らかく見えた。
「久しぶりね、先生……ところで、こんな所で何を?」
「ゲヘナとトリニティの仲介役、って言えば伝わるかな?」
「なるほど、このタイミングでお互い政治的な問題にしないためって事ね」
どうやら正義実現委員会はエデン条約に向けて思ったよりも慎重に動いてくれているらしい。先生がこの場に居るのは偶然か態々呼んだのかは分からないが、中立的な彼を橋渡しとして使うのは理に適っていると言える。彼であればトリニティから見ても、ゲヘナから見ても文句の一つすら出てこない。
これから和平を結ぶと謂うのに今まで以上に慎重に動かないといけないなんて、と思ったヒナは1つの溜息を吐いた。そこには何処か辟易とした感情やら疲れが見て取れて、傍で聞いていた先生も思わず苦笑を零してしまう。
「確かに、政治的な問題にしたくないのは此方も同じ。だからこそ、公的には今回の引き渡しは救急医学部が主だし、違反者じゃなくて負傷者って事になってる。私もトリニティの中での扱いは基本的に付き添いでセナの護衛……先生もそれを見越しての人選でしょう?」
「そうだね。ヒナならセナと一緒に呼んだ意味を分かってくれるって思ったんだ」
「信頼されてる、って思っても良いのかしら」
「勿論。私はヒナを心から頼りにしてるよ」
「……そう」
彼の嘘偽りない信頼を受け取ったヒナは少しだけ照れくさそうに、だが嬉しさが滲んだ声でそう呟いた。彼に頼りにされている事は嬉しいが、やはり真っ向からそれを言われるとどうすれば良いのか分からなくなる。いつも短く何かを言って、『彼に頼られる自分で在ろう』と思って話題を変える。未だ大人になり切れていない少女にとってはそれ以上は難しかった。
色々な感情を飲み干す様にヒナはペットボトルを傾けつつ、ヒナは流し目で彼を見る。無機質な街灯に照らされる彼。全身の白には汚れ一つないけれど、その下はいつだって傷だらけで泥だらけ。足を引き摺って、這い蹲って、血を吐きながら、自分の喉元にナイフを突き刺しながら走り続ける。痛くて苦しくて、何度も死んでしまいたいと思っているだろうに、でも彼は前に進む。自壊を厭わずに。
遠くを見る眼。ヒナはこの眼が嫌いだった。彼が見る遠くには、彼が見据える未来には彼の居場所が無い。世界をより善くするために、と言いながら彼はその世界で生きる意志を持たなかった、持てなかった。
この世界を変えたら彼はどうなるのだろう。時折、そんな事を考える事がある。多分、誰にも悟られずに、初めから全部が夢だったようにキヴォトスから、皆の記憶から居なくなってしまうのだろう。
「……ヒナ委員長、そろそろ」
「えぇ、今行くわ」
セナの冷たい声が耳に届き、ヒナは現実に引き戻される。僅かに伏せていた顏を上げると、怪訝そうな表情のセナと心配そうな彼。少しぼうっとし過ぎたかもと思い、確かな足取りで護送車後方……負傷者という名目で引き渡される逮捕者の方に向かう。
一応、拘束済と聞いているが万が一がある。先生のいる場で下手な事をやるとは思えないが念には念を入れて、何時でも戦闘に切り替えられるようにスイッチを入れておいた。
「……ふふっ、ヒナさん、お久しぶりですね」
「ハルナ、相変わらず……いや、詳しい話は帰ってからで」
「あら、やはり救急医学部の方でしたか☆ ちょっと私の腕の角度が有り得ない方向に曲がってるのですが、診ていただけます?」
「うぅ……酔った……は、吐きそう……」
「ご、ゴールドマグロがぁ……」
後部の扉が開き、そこからぞろぞろと出てくる美食研究会の面々。1名がボコボコで、1名がほぼ無傷。残り2人はそこまで傷を負っていない。移動がしやすいように足の拘束だけ解かれた彼女達は護送車から降りて外に出た。
ハルナはヒナの顔を見て笑みを浮べ、対するヒナは苦虫を噛み潰したような表情。アカリはセナに話しかけるが無視され、ジュンコは口から乙女の尊厳が零れそうだったが何とか堪えた。尚、まだ頭の上で星が回っているイズミはセナに担ぎ上げている。
そして、その最後尾に拘束が全て解かれて漸く満足に体を動かせるようになったフウカはほっと胸を撫で下ろした。
「た、助かった……」
「あら、給食部の……今日1日見てないと思ったら、こんな所に。今学園でジュリが……いや、やっぱり説明は帰りながらで」
「えっ、な、何があったんですか? 聞きたいような、聞きたくないような……」
耳に届いた不穏な言葉にフウカは顏を青褪めさせる。一体、誘拐されてから学園で何があったというのか。ヒナが言葉を濁したという現実だけで大体察せてしまって、帰ってからも慌ただしくなりそうだと彼女は心の中でそっと一つ涙を零した。恐らく、丸焼きになったゴールドマグロを除くとこの場で最も可哀そうなのは間違いなく彼女であろう。
「フウカ、大丈夫だった? 可能な限り傷つけないようにしたけど……怪我とかは無い?」
「せ、先生! 私は大丈夫です、ご心配をおかけしてごめんなさい……あ、今度またシャーレにご飯作りに行きますね!」
「それは嬉しいんだけど……本当に色々と大丈夫かい?」
「……あはは、大丈夫です。もう、慣れちゃってますから……」
「フウカ……」
先生が差し出したペットボトルを受け取りながら、力なく乾いた声音でそう言うフウカに先生はそれ以上なんて言葉を掛ければいいか分からなくなった。次彼女と会う時に良い食器や調理器具、美味しいものとか持って行こう。ストレス発散にも買い物にも何でも付き合うし、彼女の心の安寧の為なら身を粉にする。だからどうか、心を強く持ってほしい。そう祈る事しか彼にはできなかった。
セナの車両へ向かう哀愁漂う彼女の背を手を振りながら見送ると、搬入準備が完了したセナが戻ってきた。相変わらず仕事が早い。自分も見習わなければ、と感想を1つ抱く。
「先生、今からした……死体を搬入します。念のためご確認をお願いします」
「とうとう言い直す事すらしなくなったね……」
先生は本日何度目かの苦笑いを浮べて、セナの真横に立つ。リストを眺めたセナが一番最初に搬入させようとしたのは美食研究会の会長、ハルナだった。
「ふふっ、先生、お久しぶりですね。色々と配慮していただいてありがとうございます。お礼は何か美味しいものでよろしいですか?」
「何でも良いよ。ハルナが好きなもので、ね」
先頭を歩くハルナ。彼女はまるで花束の様な笑みを浮べている。優雅で、華麗で、凛々しくて、純真で、絢爛で、憂いも反省も心配も後悔も邪気も罪悪も無い。本当にこの騒動を起こした張本人なのか、と疑ってしまうほどに彼女はいつも通りで、だからこそ彼女らしいと思う。
そうだ、彼女はいつだって自分を貫いていた。自分の好きなものにひたむきで、真っ直ぐで、偽る事をしない。羨ましくなってしまうほどに強固な自己は目を細めてしまうほどに眩しかった。
「そうですか……では、ディナーはどうですか? ゲヘナに良いお店が1件あるのです。ぜひ先生とご一緒したいのですが……いかがでしょうか?」
「勿論。一緒に行こうね、ハルナ」
「ふふっ、ゴールドマグロを頂けなかったのは残念ですが……」
そう言って、ハルナは先生に一歩近づく。ルビーの様な赤い瞳、銀の長い髪、ふわりと漂う甘い香りは香水かそれとも他のものか。少女としての可愛らしさと女性としての美しさ、その中間に立つ彼女は端正な顔を心底嬉しそうに歪めて笑う。まるで早咲きの向日葵の様に。
「こうして先生のお顔を見れて、約束まで出来ましたから今日は本当に良い1日でした」
少しだけ恥ずかしそうに。だけど、心を偽る事はしない。彼と会えて、彼の顔を見れて、彼と小指を結べて嬉しいとハルナは真っ直ぐと伝える。すると彼は少しだけ驚いたような表情を見せて、それから擽ったそうに、嬉しそうに、幸せそうに笑うのだ。彼と共に美食の探求に勤しむ傍ら、様々な表情や姿を隣で見てきたが、そんな彼女が一番好きな彼がこの笑みを浮べている彼だった。
「……ハルナ、早く」
「それでは先生、ごきげんよう」
「うん……あんまり無茶はしない様にね」
翼で軽く背中を押されたハルナは優雅な足取りで護送車に乗り込む。手を振り返せない現状はもどかしいがご愛敬。代わりの笑みを送れば同じように微笑み返してくれたから、それだけでハルナは満たされた気分になる。
そうして、最早顔馴染みと言っても過言ではないハルナが完全に護送車に乗り込むとヒナはうんざりとした感情を隠す素振りすら見せずに溜息を吐く。周囲に見せつけるように彼といちゃつかないでほしい、碌に彼とプライベートの時間すら作れない
本当はもっと彼と過ごしたいし、甘えたいし、じゃれ合いたいし、泣き言だって言いたいし、仕事も別に好きじゃないし。仮にそれらを全部放り投げても彼はきっと受け入れてくれるだろうが、それをする事はしない。やるべき事、やれる事はきちんとやる。そうしないと自信を持って彼の隣に立てないから。
「私ともどこか行きましょうね、先生☆」
「うん、またね、アカリ」
「はい、ではまた今度~☆」
「わ、私とも行くわよね!?」
「勿論だよ」
「し、ししゃも……ぐぅ……」
「……五月蠅い、早く入って」
それぞれ思い思いの言葉を彼に掛けて、護送車に入っていく美食研究会の少女達。その背を圧で押せば少しだけ早足になり、全員が入ったタイミングでセナがロックをかける。これで取り敢えず仕事は終了。単なる付き添いで来たはずなのに妙に疲れてしまった気がした。
「わ、私も失礼しますね、先生」
「またね、フウカ。今度、給食部にも顔を出すよ」
礼儀正しくぺこりと一礼し、護送車の方に向かって行くフウカ。これからジュリの件の事後処理が彼女の両肩に重く圧し掛かっていると思うと居た堪れない気持ちになってくる。どうか、強く生きてほしい。
「……積載完了しました。出発の準備も出来ています」
「ありがとう……少し待ってて」
美食研究会4人と人質だったフウカの全員が車に乗ったことを確認したセナはヒナに声を掛ける。今外にいる2人が乗れば出発できる状態であったが、ヒナは待ったをかけた。一瞬怪訝そうな顔をしたセナであったが、ヒナの視線が彼を向いている事から察し、「では、私は先に乗っておきます」と言ってこの場から立ち去る。此処に居るのはヒナと先生の2人だけ。
「先生、今時間大丈夫?」
「大丈夫だよ。ちょっと話そうか、ヒナ」
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深夜に片足を踏み込んだ時間帯ともなれば繁華街と雖も喧噪が遠のき、寝息の様な静寂が周囲に満ちる。車通りも少なく、時折通るのは何かを配送している大型トラックが大半。星の明かりよりも強い街灯の明かりがフェンスに背を預けている2人を照らしている。
「先生……トリニティで何をしてるの?」
「補習授業部の担任……って話は知ってるかな?」
「えぇ、その辺りの情報は入ってるわ。だから、そこはいい。重要なのは────」
「シャーレがトリニティと関わっている事、かい?」
被せるように言った彼の言葉にヒナは少しの沈黙を挟んで「そうよ」と言う。中立、中庸でありながら善を好み、悪を否定せず理解を示す在り方。生徒全員を何よりも愛し、大切にしている彼が特定の学校や個人に肩入れする事は基本的にありえない。それこそ侵略戦争が発生したり、何か大きなものが個人を排除しようとしない限り、彼は全員の味方だ。
その辺りの部分……彼の性格や指針、言動についてヒナは心から信頼しているし、今更疑う事は無い。彼が今トリニティにいるのは事情があるからで、ゲヘナに敵対しているからではないのだ。だが、ヒナがそう思っていても周囲までもがそうとは限らない。この不安は彼女の周囲から噴出したものだった。
「シャーレは中立的な組織のはず。でも、先生は今トリニティの側に立っている……しかも、エデン条約を前にしたこの時期に。シャーレはトリニティ側に肩入れしているんじゃないかって、アコは凄く気にしていたわ」
「……そっか、アコには悪い事をしちゃったな」
「気にしないで、先生。あの子、元々思い込みが少し激しいタイプだから」
補習授業部の顧問になった事を迂闊な行動とは思わない。そうしなければ彼女達はもっと不利になっていただろうし、そもそもシャーレを人質に取られた以上、動かないわけにはいかなかった。生徒を守る、という意味でもあの行動は最善と言い切れなくとも間違ってはいないと思っている。だが、ゲヘナの生徒に対するケアが抜けていた自覚はあった。もう少し慎重に行動しなければ、と自身に戒めを1つ科す。
「シャーレも私も基本的には中立だよ。そこだけは違えない。確かに、今トリニティに居るのにはエデン条約が関係している。そこは間違いじゃない。でも、一番は成績不振な生徒を助けるためだよ」
先生はそう言って、ヒナに視線を送る。翼を畳み、愛銃を持っていない所為かいつも以上に小柄に見える彼女は紫に近い瞳で半分ほどになったペットボトルを眺めていた。不安そう、という訳ではないが……何処かに引っ掛かりを覚えているような彼女の表情。
それを見て彼も話すべき事を纏めた。少々長話になってしまうが、情報開示は重要だ。ゲヘナの最高戦力、ETOで重要な役割を果たす彼女はトリニティの事情もある程度知っておいた方が良いだろう。
「……此処から先は独り言。そこに偶々ヒナが居合わせただけ。今から私が話す事をどうするかは、ヒナが決めてほしい」
そう言って、彼は自身の置かれている状況や持っている情報を開示する。シャーレが今、トリニティで補習授業部の顧問となっている理由。人質に取られたシャーレの透明性、断る選択肢が剥奪されていた事。ナギサから持ち掛けられた取引……エデン条約の締結を邪魔する、トリニティの裏切り者の存在。しかし、彼はそれを探す事を選ばず、全員を信じる道を選んだこと。それ以外にもミカから齎された情報や、先生自身の考察もある程度話すと、ヒナはその明晰な頭脳で思考を回しつつ息を吐く。
「……そう、トリニティの裏切り者……先生も複雑な立ち位置にいるのね」
「そうかもね。でも、それでも困っている子は見過ごせないからね。手を差し伸べて、手を引いて、いつかその子が一人でも歩いて行けるように背中を押す。それが私のやりたい事だから」
彼はまるで星を見透かすような透明な瞳でヒナを見る。流し目。何時もよりも少しだけ細められた眼は蠱惑的な熱があって、ただ見られているだけだというのに心がざわつく心地を覚えた。
「だから誰だって助けるし、誰にだって手を差し伸べる。今日よりも少しだけ幸せな明日が皆に訪れてくれるように、ね」
「……先生らしいわね」
その献身、生徒の為であるならばあらゆる不条理を覆すほどの鉄の意志……やはり彼は何も変わっていなかった。アビドスでもミレニアムでも、そしてトリニティでも彼は自己を貫くつもりなのだ。即ち、
彼は誰よりも世界がそこまで優しくないと知っている。彼は心の奥底では世界の優しさを信じていなかった。だからこそ、彼は誰よりも優しかった。
「数多くの言葉が飛び交い、誰の言葉が真実なのか。誰が嘘を吐いているかも分からない状況……難しいわね」
「確かに難しいかもしれないけど、私は先生だからね。最期まであの子達を信じるって決めてるんだ」
「慎重なのか大胆なのか、悲観的なのか楽観的なのか、本当に分からないわね……」
見方や正解は幾らでもある。真実や唯一解なんてものは所詮は欺瞞。人はいつだって真実だと信じたいものを真実にしてきたのだから。だからこの一連のエデン条約を巡る渦にも沢山の見方があり、その分だけ正解と人の意志があるのだろう。
故にその善悪、真贋は問うべきではない。彼女達は自分の信じるものの為に、その先に善い未来があると思って生きているのだから。彼ができる事は彼女達を手助けする事、最期まで信じる事。そして、彼女達と同じようにより善い未来、世界の為に走り続ける事だけだ。
「真実も、変わらないものもどこにもない……それは先生も知っているでしょう?」
「そうだね、変わらないものなんてどこにもない。でも、だからこそ変わっちゃいけないものを探さないといけないんだと思うよ」
「……やっぱり、先生らしいわね」
言葉の細部は違えど何度か聞いたことがある彼の信条。もう見えなくなってしまった彼方の星を目指して、その光を信じて歩む姿にヒナは笑みを浮べる。今日浮べた表情の中で最も柔らかい笑みは直ぐに引っ込んでしまったが、一瞬だけでも垣間見えたため充分だろう。彼もヒナの柔らかい表情に釣られて口角を僅かに緩めた。
「……ところで、こんな大事な事を私に話しても良いの? 一応、トリニティと敵対してるゲヘナ所属だし……」
「うん、私はヒナを信じてるから」
「……そういうのが、先生の悪いところ」
「かもね」
「でも、そういうところも含めて、先生の良いところ。私は、その……す、好きよ。先生のそういうところ……」
突然発せられた『好き』の言葉。それに一番驚いたのは他ならぬヒナ自身だった。言うべきじゃなかったとか、言うつもりがなかったとか、そういう類のものじゃない。ヒナの意志とは関係なく思わず口を突いて出てきた突拍子もない言葉。勿論嘘ではないけれど、態々言う事でもなかったのではないかと内心で百面相するが、言葉は消せない。彼は目を白黒させ、頭の上の疑問符を幻視してしまうほどに不思議そうな表情を浮べて……それから擽ったそうに笑った。
「ふふっ」
「わ、笑わないでちょうだい……! やっぱり今の無し。取り消すわ」
「あぁ、いや、揶揄ってる訳じゃないんだ。ヒナからそう言ってもらえるとは思ってなくて……うん、嬉しいよ、ありがとう」
ヒナは顏を僅かに赤らめながらサイドの髪を人差し指でくるくると回す。視線は明後日の方向を向いていて、彼を直視できていない。愛らしい照れ隠しを1つ挟んで、ヒナは軽く咳払いをしてブーツのつま先でアスファルトを叩いた。たった二音で緩んでいた空気を引き締めた彼女は真剣な口調で話を引き戻す。
「エデン条約が軍事同盟、ね……まぁ、興味深い見方ではあるかもしれない。でも……」
「でも?」
「少なくとも、私はそう思わない。あれは歴とした平和条約、私はそう考えてる」
確かに、見方を変えればそれも正解と言える。結局の所、出来上がるのはゲヘナとトリニティの戦力で構成される介入部隊だ。それを2校の独断で運用できる兵力と考えれば確かに軍事同盟と呼んでも間違ってはいないし、それを脅威に感じる学園または個人がいても不思議ではない。
だが、これが単純な軍事同盟であるならば別にトリニティの相手がゲヘナである必要性も、ゲヘナの相手がトリニティである必要性も無いのだ。それはこの二校の関係性を少しでも知っている人であれば誰だって分かる事。元より軍事同盟が目的であれば連邦生徒会が黙ってはいないし、エデン条約を考案したのは連邦生徒会長。そういった危険は考慮しなくて良いと断言できる。
「条約によって生み出される
ヒナはそこで一旦区切り、僅かな呆れを滲ませた声音で。
「万魔殿の5人、ティーパーティーの3人。それに加えて私とアコ、剣先ツルギと羽川ハスミ。最低でもこれだけの人数に色々な権力が分散される。更にゲヘナとトリニティで持つ権限の絶対値は等しいから、誰か一人の意志でETOが本来の目的を失って暴走する……なんて事は考えにくい。勿論、その全員が協力するなんて事態になれば理論的にはありえるかもしれないけれど」
「……あくまで可能性がある、というだけ」
「そう。そもそもの話として、そんな事が可能なら初めから両学園の統合でもしておけば良いはず。それが出来ないからこそエデン条約が立案されたの。だからこの話はそもそもの前提として成立しないし、理論上は可能ってだけの机上の空論」
理論と現実は異なる。確かに制度上は可能だろうが、真っ向から銃口を突きつけ合っていた2校のトップが仲良く手を取り合うとは考えにくい。そもそもそれができるならエデン条約が日の目を浴びる事などなかったのだ。故に、有り得ないと否定できる事象。
「それに、マコトは誰かと協力するだなんて事ができない質だから……」
「マコトはエデン条約に対してはどういう立場なんだい?」
「多分、何も考えていないんじゃないかしら。そもそも、ゲヘナ側でエデン条約を推進したのは私だから」
「……」
どこか疲れを滲ませる声に先生は沈黙を返す。彼女の性格や信条は充分知っているつもりであるし、その小さな体にどれほどの荷物を背負っているかも……それなりには分かっているつもりだ。彼はそっと、夜に溶けるような声音で言葉を紡ぐ。
「今は、辛いかい?」
「……辛くない、って言えば嘘になるわ。辞めたいと思った事も、もう嫌だって思った事もある。でも必要な事だってのは分かってるし、私がやらなきゃいけない事だってのも……ちゃんと分かってる」
ゲヘナに入学し、風紀委員会の情報部に所属して、今では委員長の席。高校に入ってから3年間、ずっと風紀の二文字が傍にあった。何日も徹夜した日のふとした瞬間に辛いと思う事は何度かあったし、大変な仕事だと思った事もある。風紀委員になった事を後悔している訳ではないが、風紀委員にならなかった自分はどうなっていただろうと想像する事も稀にあった。
分かっている。この仕事は必要な事だ。そして、この仕事に於いて自分が重要な役割を担っていることだって……痛いほどに分かっている。だけど、そうやって忙しい日々を送る中で……ふと、思った事がある。
「ETOが出来たら、今よりも遥かにゲヘナの治安はマシになるはず。そうなったら、私がもう風紀委員長じゃなくてもいいでしょう? それに私も3年だし、卒業が近いもの。だからこの後は後輩育成の時間と、残りの学生生活を楽しむ時間に当てて────ゲヘナの風紀委員長は、引退しようかなって」
「……そっか」
空崎ヒナがいない風紀委員会は大した事が無い────ゲヘナに在籍する不良にそう言われてしまうほどに、風紀委員会はヒナありきの組織になってしまっている。勿論、在籍する生徒は全員少しでもヒナの負担を減らせるように尽力しているが、それでもヒナが居るのと居ないのでは雲泥の差だ。
他の追随を許さない圧倒的な神秘の総量と出力、積んだ経験と磨き上げたセンス、持ち前の才能から生み出される圧倒的な個人の戦闘能力。風紀委員全体を見渡す戦術指揮、デスクワーク能力……どれを取っても風紀委員会にとっては無くてはならないもの。風紀委員会そのものではなく、
故に、ヒナが風紀委員会から抜ければ不良生徒達は思う儘に混沌の限りを尽くし、早急に学校としての統制を失うだろう。ヒナが卒業するまで残り9ヶ月弱。それまでに対処しておくべき問題こそが風紀委員会の現状だった。
もし仮にエデン条約が締結されてETOが組織されればヒナの負担は大きく軽減されるだろう。ゲヘナとトリニティが互いに戦力を出し合えば単純計算で動員できる人数は2倍になり、ヒナが動かなければならない問題も幾ばくか減る。そうして生まれた空き時間に後輩の育成をして、時期を見て委員長の座を明け渡そう。もう3年生で、高校生の折り返し地点なんて疾うに過ぎている。いい加減、別の道を……やりたくてもやれなかった事を探してみてもいいのかもしれない。
────ゲヘナ風紀委員会、委員長。ゲヘナの切り札にして最高戦力。頂に最も近い者。世界を変え得る者。英雄神であり天空神であり最高神でもあるバアル・ゼブル、サタンと同一視される悪魔ベルゼブブの原型、ソロモン72柱の序列1位バアル或いはバエルのオリジン……1つの神話体系の頂点に立つ神秘、世界最大信仰の敵対者の神秘を持つ少女。
齢17歳の少女には似合わないほどの大層な肩書。鎖と錯覚する風紀の腕章。自分が必死に溜まった書類を捌いている間、他の生徒は青春を謳歌している。自分が不良生徒を鎮圧している間、他の生徒は思い思いの放課後を楽しんでいる。自分が徹夜して仕事をしている間、他の生徒はゆっくりと体を休めている。
その現実を少女は正しく理解していた。おかしいのは自分で、普通なのは周り。進んで苦労を買っているのは自分でしかなく、それを投げ出さないのもまた自分。この仕事に勝手に責任感を感じているのも自分で、自分がやらなければと思い詰めているのも自分だ。
自由と混沌を肯定するゲヘナに於いて、規律を重んじる風紀委員会は基本的に疎まれる立場だ。生徒からすれば口うるさく指図するいけ好かない良い子ちゃんで、万魔殿から見れば眼の上のたん瘤。
秩序でありながら全方位に敵しかいない現状、誰からも褒められる事は無く、『頑張ったね』の一言すら掛けられる事無く次の仕事を熟す。彼の隣で屈託なく笑っている生徒の横顔を羨ましく思いながら。
「そういう日ばかりだったから、少しだけ新しい事がしたくなったのかも。こういうのって何事も経験でしょう? 私も、残りの時間を別のもので彩りたかったの。この3年間を振り返った時、案外楽しかったって素直に思えるように」
やってみたい事は色々とある。放課後にお店に立ち寄ったり、長めの休みの日に旅行に行ったり……皆が数年前に通り過ぎたことを、自分は初めての経験として味わってみたい。忙しくてできなかった学生生活というものを楽しんでみたかった。
それに加えて、時間の融通が利くという事は今までよりも遥かに簡単にシャーレに行ける事を意味する。流石にずっと、とは言えないが、それでも風紀委員長だった頃よりも長い時間、彼の隣にいる事ができるだろう。
「……私はヒナの選択を尊重するよ。だから、来たいと思った時はいつでもシャーレに遊びに来てね。ヒナならいつでも大歓迎だよ」
「────うん、ありがとう、先生」
その意図が彼に伝わったのか否かは不明であるが彼は微笑みながらそう言い、それに対してヒナも同じように笑みを返し……決意を固める。あの日失った光をもう二度と放さないと。彼の剣として、彼の盾として……この身が滅びるまで傍に居よう。
「委員長、まだですか?」
「……えぇ、今行く」
車の窓から顔を出したセナの声に頷いたヒナは佇まいを正して先生に向き直る。2人の間に流れる暖かい沈黙は心からの信頼により生み出されるもの。その静かさを数秒味わい、示し合わせたかのように同タイミングで笑みを浮べる彼とヒナ。それは互いの律動を把握している確かな証拠だった。
「じゃあね、先生。お疲れ様。また会いましょう」
「うん、またね、ヒナ」
「……補習授業部の事は、先生が守るのよね?」
「あぁ、彼女達の未来は私が守るよ」
「……そう」
先生の言葉にヒナは先よりも少しだけ……本当に少しだけ、トーンの落ちた声で返答する。予想していた彼の解答。生徒を心から愛し、慈しむ彼は何も言われずとも必ず彼女達を守り通すだろう。その果てにどれほど自己が傷ついても、顧みる事も惜しむ事もせずに。本来なら彼の悪癖として扱って然るべきものであり、勿論ヒナもそれを快くは思っていない。
だが、それでも……彼に守ってもらえるのは羨ましかった。言葉よりも雄弁なもので君が大切だと叫んでもらえているようで。
「……せん、せい……?」
その心の変化を感じ取ったのか、彼はそっとヒナの頭の上に手を乗せた。往復する手には暖かい感情が溢れていて、その手つき1つでどれほど彼が愛深いか否が応でも分かり……その愛が一時的にとは言え自分一人に向いている事にヒナは少しだけ優越感を覚えてしまう。
「碌に顔を見せない癖に何を言ってるんだって思うかもしれないけど、私はヒナが大事で、大切なんだ。困ってる時は助けてあげたい。寂しい時は傍で手を握ってあげたい。笑っている時の顔を見ていたい。これは嘘偽りない、私の本心」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど……子ども扱いしないで、先生。セナもいるし、ちょっと恥ずかしいから……」
「子ども扱いしてるつもりはないんだけど、ヒナが言うなら」
苦笑交じりの彼はそう言い、頭を撫でる手を止める。ヒナは離れる手に名残惜しさを感じて、でも自分が言った事だからと納得していると……軽い衝撃が襲った。優しい手は背中に回されて、彼の温度を全身で感じる。鼻孔を擽る花の香り、春の様な彼の香り。抱きしめられた、とまるで他人事のようにヒナは思う。行き場を失くしたヒナの両手は導かれるように彼のコートの背をきゅっと掴んだ。
「だからね。ヒナには気軽に呼んでほしい、頼ってほしい。声を聞かせてほしいし、甘えてほしいんだ」
耳元を擽る吐息。すぐ傍で聞こえる、脳と理性を甘く融かす優しい声。それを受け入れてヒナはコートを握る手に少しだけ力を入れて、彼の体により深く沈んだ。
「まぁ、こんな事急に言ってもって感じだと思うから……そうだね、8月の何処かに遊びに行こうか。一緒に」
「ふ、2人っきりで?」
「ヒナがそれを望むなら、だけどね。何処か行きたい場所ある?」
「ええと、そんなこと急に言われても……思いつく場所なんて……」
この数年間、ヒナはプライベートで何処かに行った事なんて殆ど無い。風紀委員長の席に着いてからは特にその傾向が強く、基本的に四六時中仕事ばかり、どうにか捻出できた休み時間は睡眠時間に充てていた。つまらない人間だとヒナ自身ですら思うが、休みに体力を消耗して風紀委員の活動に支障が出たらそれこそ大問題。故に彼女は『休みの日に何処かに出かける』という経験が同年代の少女達に比べて大幅に欠けていた。
行きたい場所。何処かの世界で彼と共に行った事がある場所。その中で、もう一度行ってみたい場所。
テーマパークや遊園地は呼んでもいないトラブルに巻き込まれそうだから却下。お互いそれなりに顔は知れている有名人のため、人混みの多い場所は避けた方が良いだろう。変な噂をされても困る。
じゃあどこが良いのかと言われても、ぱっと思いつくような場所は大体人混みが多い。街をぶらぶらと歩くだけでも充分楽しいが、それはそれで味気ないだろう。折角なら季節感や特別感がある様な事を……と思っていると、ふと頭に過った一つの情景。それが喉の奥を言葉として通り抜けた。
「……海。海がいいわ。砂浜が綺麗な海に行きたい……先生と」
「海ね、分かったよ。じゃあ良さそうな場所を見繕っておくね。時期が近づいたら、また2人で決めようか」
「え、えぇ……楽しみにしてるわ」
突然決まった外出に混乱はあるが、それ以上に嬉しい。思えば、彼と出かけた事はおろか碌に言葉を交わした事も無かったのだ。ヒナは未来の約束を胸に抱いて優しい笑みを浮べる。楽しみが1つできた、これで明日からも頑張れる……そう思って彼女は背中に回していた腕を解き、そっと彼から離れた。これからする話は彼の眼を見て話したいと思ったから。
「……先生、これは私の独り言」
ヒナは優しそうな笑みのまま、少しだけ真剣さを空気に纏わせる。彼と同じ前置きをして、彼女は真っ直ぐと彼を見る。見慣れた姿。優しく笑った時に細くなる眼が好きだった。
だから、その青空の様な笑顔が────永劫に翳る事が無いように。ヒナは呪いに似た祈りを彼に捧げる。
「貴方の叶えたかった夢が、貴方の目指した理想が、貴方を縛っていないか本当に不安なの」
小さな口から零れたのは身を焼くような後悔。あの日、あの時、運命に殉じるように死へ向かう彼の背を止められなかった。誰かを瞳に映す事ができなくなっても、誰かの名前を呼ぶ事ができなくなっても、彼は最期まで先生で在り続けた。最期まで生徒の為に生きていた。
彼の目指した世界は誰もが当たり前に笑える世界。今日よりも少しだけ善くなった明日がある世界。確かに、それ自体は素晴らしい事だけど……その夢が、理想が、彼の生き方が、最初に見上げた星から受け継いだものが彼を縛っていないだろうか。
「私は、貴方に諦めていいと言えなかった。夢を否定された貴方の傷つく姿を見たくなかったの。歩めば歩むだけ傷つく貴方も、生きる指針を喪った貴方も……どっちも、嫌だった」
キヴォトスの民ではないが故に、人類とはカウントされない彼。彼は人類になるために、皆と同じ空を見上げるために一つの法を己に課した。
生徒の為の先生────彼がキヴォトスの人類であるための条件。彼の生き方を否定する事はそのまま彼の存在を、彼の価値観を、彼の人類観を否定する事に繋がる。
「でも────私はもう、逃げないわ」
言いたかった言葉。言えなかった言葉。伝えられなかった後悔。彼を傷つけると思って、彼を傷つけたくなくて。ヒナの口から終ぞ零れる事はなかったもの。その後悔を、その痛みを、その恐れを越えて……ヒナは彼と対峙する。
────ごめんね、先生。私は今から、貴方を傷つける。
「いいのよ。先生がそんな風になるくらいなら、諦めてしまっても。貴方が無理をして、自分を切り刻むように生きるくらいなら……私は緩やかに息を止めつつある世界のままがいい。貴方だけが失い続けて、その痛みを正当化されるなんて、そんなのは世界中の誰もが笑っていてもただの悲劇よ。少なくとも、そんな世界じゃ私は笑えない。笑いたくないの」
欲しいのは幸福な明日そのものではなくて、貴方と幸福を分かち合える明日。一人に全世界の幸福のしわ寄せを押し付けるなんて間違っている。夜の底で昏い道を一人で歩く彼を生贄として消費する世界が幸福な世界で、善い明日だと宣うなら……ずっと不幸なままでいたい。
「私は、貴方がいる世界がいい。貴方が笑って生きる世界で生きていたい」
「……」
「貴方の幸せと笑顔を祈る私がいるって事を忘れないで。言いたいことは、それだけ」
ヒナは彼の右手を優しく握る。大きな手。何度も守られた手。何度も差し伸べてくれた手。この手を今度は自分が握れるように。そんな祈りを込めて、彼女は掌に感情を乗せる。
「じゃあね、先生」
遠ざかる背。またね、と声を掛ける事も忘れて先生はヒナを茫然とした表情で眺めて……そんな彼を置き去りにするように緊急車両11号は道の奥に走って行った。
「────」
一人、道路に残された先生は
▼
「何だか、怒涛の一日でしたね……」
「そうですね、夜のお散歩がこんなにハードな事になるなんて……」
「うん、でも楽しかった」
「……えへへ」
彼と別れた後、寄り道することなく真っ直ぐ合宿所に戻った少女達。彼女達は本日何度目かのシャワーを浴びて、スキンケア等を済ませ、パジャマに着替えてベッドに腰を下ろした。あとは電気を消すだけでいつでも夢の世界に旅立てる状態で興じる雑談は今日の出来事について。夜にこっそり抜け出して街を歩こうと思っただけなのに、まさかあんなトラブルに巻き込まれるなんて思ってもいなかった。充実していたし楽しかったが、やはり疲労は募るもの。少女達は皆どこか疲れた様子で座っていた。
だが、その中でも殆ど疲労を見せない少女こそが、いつもこの時間ならぐっすりと眠っているはずのコハルだった。彼女はハスミに頼られ、褒められたことが余程嬉しかったのか先ほどからずっと笑みを零していて、傍から眺めているだけでも頬が緩んでしまうような幸せオーラを振り撒いている。
「コハルちゃんはあれからずっと嬉しそうですね? やはり、ハスミさんをしっかり手助けできたからですか?」
「そ、そうよっ、悪い!? ハスミ先輩と一緒に戦えるなんて初めてだったし……私が役に立てたなんて、嬉しい……! えへ、えへへへっ……!」
そう言い、また思い出して笑みを深めるコハル。それを見守る他の少女達の眼は優しく、皆一様に彼女の喜びに喜んでいた。
「うふふ、それは何よりです♡ あとはハスミさんが願っている通り、落第を免れないといけませんね?」
「わ、分かってる! 大丈夫よ、わ、私はエリートなんだから!」
「そうですね、コハルちゃんはエリートですからね♡」
「ば、バカにしてるでしょ!?」
「いいえ、バカにしてませんよ……私も頑張らないとって思っただけです」
「……?」
ハナコの何時もと少し違う様子にコハルは言いようのない違和感を覚えるが、それを上手く言語化する事は出来ず疑問符を浮べるだけに留まる。
「あはは……もう遅いですし、そろそろ寝ましょうか。明日の勉強に支障が出ると良くないですし……」
壁掛けの時計はそれなりに進んでいて、これ以上の夜更かしは明日以降に響いてしまう。名残惜しいが、残りの話はまた明日。ヒフミは電灯のスイッチに手を掛けて皆の方を向いた。
「では、お疲れ様でした」