シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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浦和ハナコの人生相談

「……んぅ」

 

 薄らと開けた瞳にするりと月光が入り込んできて、眠気でぼやけた視界を淡く照らす。数回引かれ合って、弾かれた瞼。ぼやけたピントが徐々に合い、視界にはなんの変哲もない合宿所の一室が映った。欠伸を一つして、音を立てないように軽く背伸びをして体を解し……備え付けられた壁掛けの時計を見ると、時計の短針は2と3の中間を指し示している。まだ深夜と読んで差し支えのない時間帯。変な時間に目を覚してしまいましたね、とハナコは苦笑いを浮かべる。

 

 足の指先でスリッパを引っ掛けて、彼女は静かに立ち上がった。そのまま音を殺し、彼女は別のベッドへ足を運ぶ。アズサは小さな寝息を立てていて、その寝顔は普段の雰囲気とは全く異なる少女性を見せている。よく眠れているようで、ハナコが枕元の近くに立っても目を覚さない。最近はいつ寝ているのか分からなかったが、こうして休めている姿を見ると少し安心してしまう。

 そのまま彼女はヒフミの方へ歩く。ヒフミはモモフレンズの抱き枕を抱き締めながら眠っていて、その寝顔は穏やかそのもの。彼女も毎日夜に席を外していたため頑張りすぎていないか心配だったが、この寝顔を見る限り大丈夫そうだ。

 そして、最後にコハル。彼女は健康優良児そのもので、よく寝ているのは知っている。ハナコは穏やかな表情で彼女を見下ろし、跳ね除けられていた布団をそっとかけ直す。

 

 手持ち無沙汰になったハナコはそっと部屋を出る。扉を一つ挟んだだけで雰囲気は一変し、人の寝息で満ちていた空間から肌を刺すような静寂が満ちる空間へ変貌する。室内よりも冷えた廊下は少し肌寒いくらいで、あまり光が入らない暗い空間がよりその印象を強くしていた。

 

 彼女はふと視線を廊下の先に送る。補習授業部の顧問たる先生がいる部屋。少し離れた距離は彼と彼女達との距離感をそのまま映しているかのよう。

 皆、彼のことを慕い大切に思っている。彼も同じように皆を大切に思っているだろう。だが、どこか彼の立ち振る舞いには距離があるように思えた。壁がある、と言い換えても良いだろう。近づけるけど決して触れ合えない、分かり合えない……そういったもどかしい距離感。先生として一線を引いているのだろうし、それ以外にもきっと理由があるのだろう。その理由には自分(ハナコ)に話してくれた欠落もきっと含まれている。

 

 ────ごめんなさい、先生。まだ私には、そこへ踏み込む勇気を持てません。臆病者でしょう? 私は皆さんが言うほどの人間じゃないんです。でも、いつか向き合わせてください。その時は絶対に目を逸らしませんから。

 

 そう誓い、ハナコはロビーに足を運んだのだが。

 

「……」

 

 ロビーに繋がる扉をそっと開けると、そこには件の先生がいた。陽が出ている時間帯では皆の談笑スペースになっている場所に1人ポツンと。頬杖を突き、月を見上げている彼。その表情は今まで見たことがないほどに透明感で溢れている。憂を帯び、耽美に細められた瞳。生徒を見つめる時は愛に溢れているが、今は違う。その奥にどんな感情が込められているかハナコにも分からない。憂いがあって、寂しさがあって、悲しみがある。分かるのはそういった表層の部分だけ。その奥にある一番強い感情は決して触れることができない。まるで彼との距離感のよう。

 

 ただ無言で、身動ぎすらせずに、届かない空を見上げている彼を見て────ハナコは小さく言葉を溢す。

 

「綺麗……」

 

 ただ、純粋に綺麗だと思った。美しいと謂う感想を抱いてしまった。不謹慎だとは分かっている。表層を撫でただけでも今の彼が明るい類の感情を抱いていないことは明らかであるし、その奥ともなればきっと筆舌に尽くし難い感情である事は語るまでもない。だが、それでも綺麗だと思ってしまった。その瞳の色彩が、感情が、魂が綺麗なのだ。

 

 一秒か、十秒か、それとも一分か。兎に角、時間を忘れるほどに彼を見つめてしまっていたハナコであったが、いつまでもこうしてる訳にはいかない。

 折角来たが、部屋に戻ろうと思った。何だか、今の彼はそっとしておいた方がいい気がした。補習授業部の顧問を引き受けて、一緒になって勉強して、今は皆で共同生活を営んでいる。彼はその間ずっと働きっぱなしで、生徒の勉強を見つつ合間の時間を縫ってシャーレの仕事をして、余暇すら生徒のために使っていた。

 多分、彼も疲れているのだ。彼ならきっと『生徒の為ならなんて事ない』と言うだろうが、それでも。キヴォトスに来てから休むような暇はなく、ずっと自分の身の回りの事やパーソナルな事に折り合いをつけれずに進み続けていたのだと思う。だから心が訴えていた欠落の痛みも気付かなかったのだろうし、それを慣れたと言う事が出来ていた。

 でも、今はきっと違う。彼は痛みを知覚している。きっと苦しくて、辛くて、死んでしまいたくなる程に悲しいだろう。その傷に、痛みに、涙に寄り添ってあげたいのは山々だけれど……整理もつかない内にそうしてしまえば、彼の過去の重さを誤魔化すことになってしまう。大切なものを失ったら痛い、その当たり前を思い出す事がハナコが彼に与えた一番最初の宿題だった。

 

 邪魔をしてはいけませんね、と思って背を向けたのだが────立ち去る前に彼は少女に気づいて。

 

「こんばんは、ハナコ」

 

 ……どうやら今日は何をやっても上手くいかない日らしい。ハナコは内心溜息を吐きながら、でも決して嫌ではない気持ちで振り返った。

 

 

 ▼

 

 

「はい、どうぞ」

「態々ありがとうございます、先生」

「ふふっ、どういたしまして」

 

 先生は淹れたての紅茶が入ったティーカップをハナコの前に置く。それに口をつけるとじんわりとした温かさが体の中を駆け巡り、蜂蜜の甘さが心に優しい。こういう小さな気遣いも上手で、よく人を見ているのだなと思う。この紅茶だってそうだ。カフェインレスの落ち着く香りの茶葉。口をつける毎に彼の優しさに心が嬉しくなる。

 

 ……正直言ってしまうと、紅茶にいい思い出がある訳ではない。アフタヌーンティー等を嗜む機会には恵まれていたが、話した内容はどれもこれも詰まらないものばかり。気を引くためにセッティングされた場だというのは分かりきっていたが、仮初とはいえ善意で招待された場を断るのも忍びなくて、足を運んでは傷ついた気持ちになって。今では紅茶やお茶菓子、お茶会にもそこまでいい印象を抱かなくなってしまった。

 

 だけど、今彼から渡された紅茶にはそんな悪感情を一切抱いていない。寧ろ嬉しくて、温かい気持ちになって……久しぶりに紅茶を美味しいと思えた。

 

 結局のところ、『誰と一緒に居るか』なのだろう。自分が好いている人と一緒に過ごせれば場所はどこでも良くて、逆に自分を好いてもいない人とはどんな高級店でもつまらない。そんな、酷く当たり前の話だ。

 

「……ごめんなさい、お一人で過ごす時間を邪魔してしまって」

「私は一人で過ごすより、ハナコと一緒の今の方が楽しいよ。だから謝らないで。それに、本当に一人になりたかったらロビーにはいないよ」

「そうですね……先生は先ほどまで何を?」

「んー……強いて言うなら、空を眺めていただけだよ。ぼうっとね。というか、見てたでしょ。私が声かける前から」

「あら、バレちゃっていたんですね」

「これでも先生ですから」

 

 そう言い紅茶を含む彼。それを見て……ハナコは少しずつ話し始める。別にそんなに重大なものでない。ただ何となく、彼に聞いて欲しくて。

 

「私、紅茶が好きじゃなかったんです。味は好きなんですけど……見ると、嫌な事を思い出してしまって」

「……」

「一年生の頃は色々な人の好意でお茶会に招待されていました。シスターフッド、ティーパーティー……それ以外にも沢山。五つ星ホテルの、凄くドレスコードが厳しいお茶会にも招かれた事があります。でも、どれもが……楽しくなかったんです。誰も私を見ていなかったんです。私を通して、私の中の別の何かを見ていました。それを悪と言うつもりはありません。でも……」

「────辛かったんだね」

 

 彼の言葉に肯定を示したハナコは揺れる水面に視線を落としながら。

 

「私は、ものじゃないんです。便利なツールでも、何かを着飾るアクセサリーでもないんです。皆が私に道具(それ)を望んでも、私は叶えられません」

「そうだね。ハナコはちゃんと人間だよ。心がある、皆と何も変わらない唯の女の子。だから……こんなにも、暖かい」

 

 彼はハナコの手をそっと優しく握る。掌から伝わる温度は泣きたいほどに暖かくて……ハナコも同じように握り返す。まるで、感触を確かめるように。

 

「でも、願いを無下にすることもできなくて……もう二度と願われない様に馬鹿な振りをしています」

 

 その言葉に彼が何かを返すよりも前に、ハナコは繋いでいない方の手を挙げた。それはまるで授業で挙手するかのようで。

 

「先生。人生相談、してもいいですか?」

「勿論……とは言っても、他人に語れるような何かがある訳ではないけどね」

 

 彼に語れるほどの人生の重みは無い。彼が持つのは那由多の果てまで繰り返したキヴォトスで過ごした1年弱の記憶。それだけしか無いにも関わらず、記憶は穴だらけ。大切だったのに。何より大事で、愛した思い出だったのに。擦り減って、摩耗して、朽ち果てたこの魂ではその多くを取り零してしまった。

 

 ────自身に語れるようなものは無い。この胸の内側が空っぽである事は分かり切っているし、ハナコはそれを知っている。それでも彼女は彼に人生相談を持ち掛けたのだ。ならば彼女の先生として、一人の大人として、一人の人間として真摯に向き合わなければならない。

 

「私、ずっと後悔しているんです。色々な事に」

「……例えば?」

「皆が望む私になれなかった事、理想の私になれなかった事……トリニティに来た事も、きっと後悔しています」

 

 後悔を指折り数えればそれだけで胸が苦しくなる。もっと他に何かがあったのではないか。最善があったのではないか。自分が我慢すれば済んだ話、でも心を殺し続けるのは嫌で。ずっと苦しくて、それを覆い隠して。取り繕うのは人並以上に上手だったばかりに、その仮面の奥にあった本音に誰も気付いてくれない。

 

「私、本当は怖がりなんです。自分が傷つける事にも、他人に傷つけられる事にも怯えてばかりで。本音なんて誰かに一度も言えていません。本音を言って、誰かを傷つけたり誰かに傷つけられたりするのが怖かったんです」

 

 誰かの心を見透かす事ができたから、誰かの望む自分として振る舞う事ができた。皆の『浦和ハナコ』として在る事ができた。でも、それは所詮張りぼて。誰もが才能しか見ていなくて、それを持つ浦和ハナコ本人を誰も必要としていない。

 

 いっそのこと無能であれば諦めがついたのに、と陰口のように吐き捨てる言葉を聞いても擦れた心では『そうですよね』と月並みな感想しか抱けなかった。はしたないけれど、そこで吐き捨てた相手の胸倉を掴んでいれば何かが変わったかもしれないのに。

 

 結局、自分の本音はずっと隠したまま生き続けてきた。喉の奥からせり上がった何かをもう一度飲み干して、苦みを覚えたまま不格好な微笑みを浮べ、それにも疲れ果てて……今が在る。

 

「もっと傷つけていれば、もっと傷つけられていれば。本音を誰かに言えていれば。そうやって後悔するのも遅すぎました」

 

 衝突を避け続けた生涯だった。なまじ能力があったから相手の望むものを出力できて、当たり前のように賞賛されて。その空虚さに嫌気を覚えても、本音の伝え方も喧嘩の仕方も仲直りの方法も分からない。教科書をひっくり返しても何処にも載っていなくて、傷つけ傷つけられながら体で覚えていくしかないものだと知った時には全てが手遅れだ。もし知っていたとしても、傷つけられる事も傷つける事も嫌っていた自分では絶対に一歩踏み出せていなかっただろう。

 

「私は普通になれませんでした。だからせめて、特別になりたかったんです。でも、特別になるのも苦しくて、今更普通にはなれなくて。トリニティに居る時はずっと息を止めていました。息を吸って吐いたら、その息と一緒に何か自分の大切なものまでも見失いそうで」

 

 もしかしたら気付いていないだけで何かを見失っているかもしれない。本当の自分、というものを。才女と呼ばれた自分。そんな自分が嫌いな自分。自分に期待をする他人が嫌いな自分。色々と吹っ切れたけれど、何処か諦めが強い自分。どれが本当の自分、どれも本当の自分。

 

「だから、人生相談させてください。私はこの先、どうすればいいんでしょうか?」

 

 ハナコは何処か彼を困らせるような色を帯びた瞳でそう問いかける。眼の前の彼はハナコの語りに口を挟まずに静かに聞いてくれていて、表情も真剣そのもの。投げられた問いを噛み締め、深く考えるように眼を閉じて……そして、徐に開いた。

 

「それは、ハナコが決めるべき事なんだ。ありきたりな意見で申し訳ないけど……私はこう云うしかない。他ならぬハナコの人生なんだからね。他者は一過性、ハナコの人生に長く関われる訳じゃない。中には一生の付き合いになる人もいるかもしれないけれど、それは極少数。その極少数もハナコと全く同じように生きる事はできない。結局、ハナコと同じ歩幅で、同じ速度で、同じ場所まで進めるのはハナコ自身しかいないんだ」

「……人間は本質的に孤独、という訳ですか?」

「そんな寂しい話じゃないけど……極論を言えばそうなるのかな。毎日顔を合わせていたクラスメイトも学校を卒業すれば会わなくなる。個別で連絡を取らない限り友人との関係も疎遠になるし、いつか顔も名前も忘れてしまう。謂わば代謝みたいなものだよ。古い細胞は新しい細胞に入れ替わっていくだろう? 他人もそれと一緒で、古い他人は新しい他人に入れ替わる。意地悪なクラスメイトもよく遊ぶ友達も、時間の流れと共にハナコは追い越していく。追い越して、思い出にして、いつか忘れていくんだ」

「……儘なりませんね。それが人間だと私は理解しているはずなのに、何処か悲しいと思ってしまいます」

 

 人間とは今を生き、未来を見据える知性体。過去を思うのは良い、偲ぶのもいい。だが、いつか必ず追い越さなければならないものだ。

 トリニティに居るのは最長でも1年と半年ちょっと。トリニティから離れれば良くも悪くも人間関係は変わる。仲の悪い人、仲の良い人。トリニティの生徒という関係性は消える。関係性が消えれば関わり方も変わっていく。今までの自分ならあの場所から離れる事に何ら抵抗しなかっただろうし、寧ろ喜んでさえいただろうが……今は違う。

 

 何もかもリセットして消えてしまうには惜しいものが増えてしまった。手放したくない居場所ができてしまった。失いたくない友人関係を作れてしまった。この補習授業部がトリニティの中では異端の場所で、全体から見れば取るに足らないほどに小さな狭い世界なのかもしれないけれど……それでも、この場所でなら心から笑えたのだ。失いたくない、手放したくない。大切な友達とまだ一緒に居たいと、浅ましくも思ってしまう。この道を選んだのは自分自身だと謂うのに。

 

「……結局、私は後悔ばかりです。今更な事ばかりが頭に浮かんで、戻れない過去を呪うんです」

「人間なんて後悔だらけだよ。ああすれば良かった、こうすれば良かったの連続で、その時の最善が未来に於いても最善……なんてことは基本的にはありえない。でも、それで良いと思うよ。後悔できるのは成長の証だからね。沢山の後悔をしながら、それを元に選択を重ねて、また後悔して。私達はそうやって少しずつ前に進んでいく。私達は正解を選ぶ必要はない。そもそも選べないからね」

 

 人間の選択はYESとNOの二択ではなく、数多ある選択肢の中から選ぶもの。そして、その選択肢の中には正解なんて無いのだ。人生なんて後悔の連続で、選んでしまった選択肢を間違いだと思う事ばかり。それでも、足を止める事は許されない。起きてしまった事、選んでしまった事を結果として残すために浅ましくも歩き続ける事こそが人間の本質だ。

 

「進歩とは今の不出来を肯定する事。肯定した上で、それを乗り越えて選択する事。月並みな意見だけどね。私達は後悔を乗り越えて進んでいく。後悔を抱いたあの時の自分よりも少しだけ進歩した自分になるために。だからハナコの後悔は悔やんでいる『あの時』よりも前に進めている証拠だよ」

「そういうもの、なんですか?」

「そういうものだよ」

 

 乗り越えていく。追い越していく。思い出にしていく。過去にしていく。そして、忘れていく。それが人の成長であり進歩だ。前に進む知性体である以上は逃れられない定め、そんな事は分かっている。

 

 でも────。

 

「……いつか私は、先生を追い越してしまうんですか? 私は先生も思い出にして、忘れてしまうんですか?」

「そんな悲しい顔しないでよ……そうだね、ハナコは私を追い越していく。走って、走って、走り続けて、私みたいな人間にその背中が見えなくなるくらい遠くまで走っていくんだ」

「……一緒に居てくれる、とは言ってくれないんですね」

「ごめんね」

 

 その言葉に何を返せばいいのか分からなかったから、ハナコはすっかり夜の温度に冷めてしまったティーカップを傾ける。少しの甘さが話しすぎて疲れた喉に優しい。対面の彼も同じようにカップを傾けていて……その眼には僅かな寂しさの色が見えた。

 

「……先生も、後悔しているのですか」

「当たり前だよ。私はずっと色々な事に後悔し続けている」

 

 彼はカップを置き、雨が滴る様な口調で。

 

「もっと声を聞いておけばよかった。もっと顔を見ておけばよかった。もっと許してあげればよかった。もっと抱きしめてあげたかった。それだけで救われた何かが、きっとあったはずなのに」

 

 それは、きっと彼の胸の中にある最も大きな後悔。胸の内側を鈍い刃物で抉り取るような口調は聞くだけで痛みを覚えてしまうほどに辛さと苦しさに満ちていて、思わず耳を塞ぎたくなる程だった。でも、塞ぎたくない。逃げたくない。自分(ハナコ)に真っ向から向き合ってくれた彼のように、彼の後悔から眼を逸らさずに見つめる。

 

「それなのに、何も言えなかった。何も聞けなかった。何もできなかった。もう二度と会えないって知っていたのにね」

 

 彼の瞳に映る人は誰なんだろうか。少しだけ知りたいと思ってしまったけれど……きっと知るべきは今ではない。彼の抱える多くを知るべき時はきっと別にある。何の理論も根拠もないけれど、ハナコは直感的にそう思った。

 

「私の後悔はもう取り戻せないものだ。どれだけ願っても、どれだけ泣いても、私はもうあの子と一緒に星を見る事すら叶わない。でも、ハナコは違うでしょ?」

 

 そう言い、ハナコを見つめる彼はやはり真剣そのもので虚飾の色は一切見えなかった。

 

「ハナコの後悔は、後悔の先があるんだ。ハナコはまだまだ道半ば。今までよりもこの先の方がずっと長い。その道中できっと今の自分に胸を張れるような選択ができる。それは私が保証する。ハナコはもっと素敵なハナコになれるよ」

 

 だから────彼はそう言って。

 

「ハナコはそのままでいいんだ。全部を肯定しなくていいし、否定しなくてもいい。好きなものがあって嫌いなものがある。うん、すごく人間らしいと思うよ。その心を大事にして、恐れなく進んでほしい」

 

 ハナコの道行きには太陽の光も月の明かりも、星の導もある。そして、彼女はきっと一人ではない。ハナコのありのままを受け入れた上で、一緒になって進んでくれる誰かがいる。だから恐れは必要ない。彼女はその心に従い、前に進むための一歩を踏み出せるはずだ。

 

「誰かから何かを希われたとしても、最後に決めるのはハナコだよ。ハナコがやってもいいなって思ったならやればいいし、やりたくないって思ったならやらなくていい。やって嫌だったら後悔して次はやらないようにして、やれば良かったって思ったなら次はやろう。必要だから、義務だから、出来るから。そんな風に生きていても、きっと苦しいからさ。もう少し肩の力を抜いて、楽に生きてもいいんじゃないかな?」

「……ですが────」

「嫌な事を嫌だって言うの、そんなに自分勝手かな?」

 

 頭では分かっている。人間には好き嫌いがある事。その好き嫌いと得手不得手が必ずしも一致する訳ではない事。好きだけど不得意な事はあるし、逆も然り。頭では分かっているはずの事なのに、何故だか受け入れられなくて。

 

 胸の奥の苦さを噛み砕く様に自嘲すれば、それを見透かしたように彼はハナコの頭に手を乗せて、ゆっくりと形を覚えるように撫でる。

 

「もし頑張れないことをハナコが許せないなら……代わりに私が許すよ。だから、いいんだよ」

 

 その言葉は甘えも弱さも嘘も、何もかもを許して溶かしてしまうような声だった。魔性のようでありながらも清廉で、その色彩はクリアホワイトそのもの。

 

「大丈夫、私は知ってるよ。ハナコが頑張ってることは、ちゃんとね」

 

 頭を優しく往復する手と、投げかけられる声の優しさ。それに無上の安心感を覚えたハナコはゆっくりと眼を閉じる。

 抱えてしまった色々な事、その重さは変わらないけれど────次に眼を開けた時は、少しだけ真っ直ぐ前を向けるような気がした。他の誰でもない、皆と何一つ変わらない唯一人の女の子の浦和ハナコとして。

 

 

 ▼

 

 

「……寝ちゃったか」

 

 彼の前には穏やかな寝息を立てているハナコ。ヘイローは完全に消え去っていて、頬を突いても、肩を軽く揺すっても起きる気配は皆無。時間も時間であるため無理もない事だろう。

 

 彼は椅子に座ったまま寝ている彼女を起こさないように抱き上げ、そのままロビーの出口まで歩き、少女達が眠る部屋を目指す。ドアの前で軽く聞き耳を立てるが、物音は聞こえない。そっと扉を開け室内に入れば少女達3人が眠っている光景。穏やかな笑みを浮べた彼はハナコのものと思われるベッドまで歩き、そっと寝かせて布団をかけて……それから最後にもう一回だけ頭を撫でる。

 

「おやすみ、ハナコ」

 

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