シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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運命の骰子

「……いよいよ明日です」

 

 補習授業部合宿、7日目。騒がしくも楽しかった日々は過ぎ去り、今は試験がすぐ先に控えている。

 教室に先生の姿はなく、代わりにプリントの束と黒板に張り付けられた彼からの言伝。所用により外出していて、帰りの時間は未定だが可能な限り早く戻ってくるとのこと。いつもより広い教室に吹き込む風はどこか少し冷たい。それが緊張によるものなのか寂しさによるものなのか分からなかった。

 

 ヒフミはいつもの彼と同じように教壇の前に立ち、対策プリントに視線を落としながら固い声音で呟く。心臓の鼓動が平常時より早い。心が落ち着かない。緊張している。そして、その心境は大なり小なり皆同じなようで、他の少女達もそれぞれ思い思いに口を開いた。コハルはヒフミよりも大きな緊張と不安を持って、アズサとハナコは極めていつも通りに。

 

「う、うん……」

「第二次特別学力試験、か」

「ふふっ……何だかあっという間でしたね」

 

 ハナコの言う通り、本当にあっという間だった。最初はどうなる事やらと思っていた合宿だったが、初日の掃除から始まり、毎日の勉強、寝る前と朝起きた後のお喋り、合宿施設を抜け出したあの夜と騒動……楽しい事は数えきれないほどあった。日々を重ねる毎に皆と仲良くなれる事が、絆を深められる事が嬉しくて。

 

 だが、その日々も明日で終わり。そう思うと少し名残り惜しい気がしなくも無いが、合宿の終わりと共に何もかもが変わる訳じゃない。例え合宿が終わって補習授業部を卒業となっても少女達は大切な友達のまま。

 だから、明日の試験は新しい一歩を踏み出すだけだ。恐れる必要は何処にもない。

 

「はい……一週間という短い時間でしたが、私達はちゃんと努力を積み上げました。これは必ず無駄にならないと信じています。模試の結果も良かったですし、今の私達であれば実力も充分ですので、第二次特別学力試験に合格できるはずです!」

 

 力一杯、拳を握り締めるヒフミ。この1週間という時間でしっかりと勉強し、知識と理解を深めた。その成果はちゃんと出ていて、直近の模試では全員合格ラインを突破している。明日の試験の難易度は前回とほぼ同じく基礎ばかりの簡単なもの。であれば、必ず合格できるはずだ。

 ちゃんと努力をしてきたという自負。結果として出始めた点数。テキストを見て『解ける』と思った回数。それが少女達の背中を強く押す。

 

「うん、当然だ。何なら100点を目指して頑張る」

「わ、私も!」

「あら、では私もそういう事で……ふふっ♡」

「わ、私はちょっと100点は難しそうですが……と、兎に角! 最終日も張り切って勉強していきましょう!」

 

 少女達の運命を決する第二次特別学力試験。その開始が近づいていた。

 

 

 ▼

 

 

「……お待ちしておりました。ご無沙汰しております、先生」

「久しぶりだね、ナギサ。元気だったかい?」

 

 少女達が団結し、明日に臨まんとしていた頃。先生はトリニティ総合学園の最奥、ティーパーティーが抱えるテラスに足を運んでいた。にこやかな笑みを携える先生の眼前には優雅に紅茶を嗜むナギサ。彼女は先生を席に促す。すると彼は「ありがとう」と一言呟いて席に着き、改めて彼女とこの景色を視界に捉えた。

 

 此処を訪れる時は大体夜だったが、今の時刻は午前と午後の境目。テラスから一望できる中庭には断章を楽しむ少女達の姿があり、活気に溢れつつも優雅さを失わないのは流石トリニティと言うべきか。少女達は先生の視線に気づくと驚きを一瞬浮べ、会釈をするか手を振る。彼も同じように手を振り、ナギサの方に視線を戻す。

 

「はい、先生もお元気そうで何よりです。報告書を拝見しましたが、補習授業部の皆さんもお元気そうですね。何せ、正義実現委員会と任務に赴いたのですから」

「そうだね。皆は快く協力してくれたし、エデン条約に罅が入らない様に、不要な軋轢を生まない様に立ち回ってくれたよ」

「……えぇ、存じています」

 

 皮肉とも警告とも呼べるナギサの言葉。事の経緯はどうであれ、不要な外出が禁じられていた合宿期間中に外に出たのは知っている……という意味合い。先にルールを破ったのは此方だと突き付ける言葉に、先生も同じように返す。あの活動は補習授業部としてではなくシャーレとしての活動であると、シャーレとして動いたから下手に荒波を立てることなく落ち着いたのだと。それは、ナギサも望む事だっただろう……そんな意趣返しを受け取ったナギサはそれ以上掘り返すことなく肯定して口を噤んだ。この話題で戦っても旨味が無いと思ったのだろう。彼女は先までの為政者に相応しい表情を掻き消し、彼が入室した時の笑みと同じものを浮べる。

 

「先生、紅茶は如何されますか?」

「ありがとう、いただいてもいいかな?」

 

 彼が「前はいただけなくてごめんね」と言えば、ナギサはにこりと笑みを零してティーカップとソーサーを準備する。上等な陶器が鳴らす小さな音はまるで楽器のようで、耳障りも良くすっと鼓膜を叩いた。カップに注がれる紅茶は湯気が立ち昇り、風に乗って上品な香りが鼻孔を擽る。

 

「トリニティ自治区内に本社を構えるフォートラムの茶葉を使用しております。ベルガモットで香りを付けた茶葉をベースにリコリスルート、ラベンダー、ヤグルマギク、ハニーの香りを組み合わせています。柑橘類の香りと花の甘さをお楽しみください」

 

 ナギサの説明に耳を傾けつつ、紅茶を口元まで運ぶ。香りは確かに柑橘系で、その裏側に花の香りを感じられる。傾けて口に含むと花の蜜の様な甘さが味蕾を刺激した。今まで飲んだ事のないタイプの紅茶ではあったが味は間違いなく一級品で、先生はソーサーにカップを下ろして呟く。

 

「……美味しい」

「お口に合ったようで何よりです」

 

 彼の『美味しい』を引き出せたことに確かな喜びを感じたナギサは笑みを浮べ、自身のものに口を付ける。今日淹れた紅茶は個人的にも会心の出来栄え。ここまで完璧に淹れられるのは1ヶ月に1回くらいだろうか。

 彼女は夏めく風と夏の色が濃い日差し、中庭から聞こえる生徒達の声を楽しみつつ紅茶を飲む。そうして、ティーカップの中身が3割ほど減った段階でナギサは極めて穏やかに本題を切り出した。

 

「あれからお変わりはありませんか? 合宿の方は如何でしょう、何か困った事などありませんでしたか?」

「うん、お陰様で何とか……それで、私を呼んでくれた要件を聞いても良いかな?」

「ふふっ……先生に参加いただいている合宿は言うなれば元々、『生徒達をよく観察できるように』という配慮でした」

 

 補習授業部の顧問として彼は生徒達と共同生活を送ってきた。四六時中一緒、という訳ではなかっただろうが、それでも通常よりも遥かに長い時間、彼は生徒と共に過ごしてきただろう。その時間で何か気付いた事はないのかと、共に生活を送ってどんな違和感を感じたのかと彼女は問いかけた。まるで、今日の予定を聞くかのような気軽さで。

 

「そういう事なのですが、如何でしたでしょうか? 何か判明したことなどありましたか?」

「────」

「もっと直接的に言いましょうか。『トリニティの裏切り者』は何方(どなた)だと思いますか?」

 

 ナギサの鋭い瞳が先生を射貫く。細められた眼には猜疑と疑問。権力闘争により培われた他人の心を解体するナイフの切先が彼に向けられるが、その程度の脅しで揺らぐような彼ではない。ナギサの意志をそよ風の様に受け止めて、口を開く。

 

「……前と同じ解答になるけど、私は私のやり方で対処するよ」

「……そうでしたね。生徒達を信じる、それが先生の選択でした」

 

 裏切り者の捜索も犯人探しも端からするつもりはないし、心底興味がない。疑いを持ち、偽りを隠して生徒と接するなど言語道断。そんな言動は己の掲げた信条に、人類証明に反する。

 ただ、信じよう。彼女達の道を、選択を。いつか彼女達が共に過ごしたあの時間を振り返った時、『色々あったけど楽しかった』と心から笑えるように。前に進むために、より善い未来のために、欲しい明日のために歩く彼女達の背中を押す……それこそが己に許された唯一であり、やりたい事だ。

 

「ただ、第二次特別学力試験を眼の前にした今、改めてそこを確認したかったのです。先生の方針を、意志を、在り方を……そこで、本日もこうしてお越しいただいたわけでして」

 

 ナギサはにこりと笑う。絵になり過ぎて、逆にこの場に相応しくないと思えるような笑みは……宛ら攻撃の合図。事此処に及んだ今、手加減するつもりはないと自他に宣誓するナギサ。見据えるのは様々な情報を得たはずの対戦相手(プレイヤー)。彼が抱える全てを根こそぎ引き摺り出さんと、彼女の明晰な頭脳が駆動した。

 

「……恐らく、ミカさんも接触してきましたよね?」

「……」

 

 問いかけの体を成していたが、ナギサにとってそれは半ば事実確認の様なものであった。確かに、ナギサの抱える情報網はその多くのリソースを補習授業部やゲヘナ学園の万魔殿(パンデモニウム・ソサエティー)や風紀委員会に割かれている。

 だが、それで全てではない。残りのリソースが向けられている場所は補習授業部を除くトリニティ総合学園内部……正義実現委員会やシスターフッド、救護騎士団といったエデン条約に介入し得る戦力や動機を持つ団体と……同じティーパーティーのメンバーであるミカとセイア。

 

「ミカさんと何をお話になったのか、宜しければ教えていただけませんか?」

「……それは言えないよ」

 

 先生は毅然とした態度でナギサに否を返す。ミカが話してくれたことを、ミカが明かしてくれた様々な秘密を開示するつもりはない。秘密は守る、拷問をされようが自白剤を飲まされようが口を割るつもりは皆無だ。それは相談を受けた者としての、人間としての当然のルールでありマナー。そうしなければ彼女達は相談すら安心してできなくなってしまう。

 

 多くを抱え、多くを背負い、真っ直ぐ前を向いて生きている彼女達が『もう大丈夫』と安らげるような場所であり続けたいと願う彼はナギサを真っ直ぐと見据えた。

 

「私は、誰かを疑う事に時間を費やすつもりはないよ」

 

 先生の瞳。狂おしいほどの純白、透き通ったクリアホワイト、濁りを知らない深層心理。彼の口から発せられる言葉もまた同様に。

 

「私が願い、信じ、誓う事はたった一つ」

 

 この言葉が自分であると目の前の猜疑に満ちた少女に告げる。それが彼女にとって残酷な事だと知っていても、これを偽る事だけはしない。

 

「あの子達の頑張りが報われるように最善を尽くすだけだ」

 

 ナギサの問いの答えは初対面の時から既に出ている。彼は遍く全ての生徒の味方だ。補習授業部の生徒も、ナギサも、ミカも……全て等しく彼が愛を注ぐ愛し子達。そこに違いは一切ない。彼女達を愛し、信じて今を生きる。それが彼の望む『今』だ。

 

 生徒を何処までも信じる道を進む先生、楽園を乱すユダを見つけようとするナギサ。2人の視線が数秒の間だけ交わり……先に外したのは様々な感情が複雑に入り組んだ溜息を吐いたナギサだった。

 

「……一度改めて説明してみましょうか? どうして彼女達なのか。先生の方にも色々と情報網があると思いますが……順番にお話ししましょう。ご存じの事も有るかと思いますが、私の口から一から説明すれば……」

「……私が君のプランに乗る、と?」

「それが最善だと、先生も分かってくださるはずです」

 

 ナギサは籠の中に仕舞っていたバッグから一つのバインダーを取り出し、机の上に広げる。中に挟まっていたのは赤い文字で『機密事項』と記された白い書面。その下にはティーパーティーのロゴとナギサの名前。

 今の会話の流れを考えれば、これは補習授業部の生徒達に関する何かだろう。察するに、メンバーを選定する時にナギサの集めた情報が記されたもののはずだ。

 

 先生の予想は概ね当たりで、表紙を捲ると出てきたのは補習授業部の文字。更に一枚捲るとコハルの正面顔写真と、情報収集で隠し撮りされたであろう写真が幾つか、彼女に関する大まかなプロフィール。所見欄にはびっしりと文字が書き綴られている。この所見欄に書かれた内容こそが今回ナギサが見せたいものだった。

 

「まずコハルさんは、正義実現委員会、特にハスミさんたちを統制するための存在です」

 

 ────正義実現委員会所属の1年生。差押え品の保管を任されている。正義実現委員会の副委員長、羽川ハスミは彼女の事を気に掛けている。

 

 その様な文字列が躍る紙面を指でなぞりながら、ナギサは言う。

 

「ハスミさんは誰よりもゲヘナの事を憎んでいます。いつ何をしでかすか分からない、時限爆弾の様な存在です」

 

 ゲヘナが憎い、と謂う感情そのものはトリニティ内部には有り触れている。個人によって程度の差はあれどゲヘナの生徒や学園に対する薄っすらとした苦手意識は多くの生徒が持っていて、その苦手意識が憎しみに変わった生徒だって一定数いる。

 ハスミはそういった憎悪を持つ生徒の中でも目に見えてゲヘナに対する憎しみが強く、その上で戦闘能力に長けていて、かつ重要なポストに付いていた。加えて、エデン条約機構の中核を担う存在であり、今後はゲヘナと関わる機会も多くなる。それを考えると今のハスミは爆発していない事が不思議な時限爆弾であった。

 

「そして、ハナコさんは本来誰よりも優秀な才能を持っていたにも拘らず、今はわざと試験で本気を出していません。何を企んでいるのか全く理解できない状態です」

 

 次期ティーパーティーの筆頭候補。学園創設以来の才女。数多の天才を凡人扱いできる本物の天才。三大派閥に代わる新たな派閥を作り出す事すら可能な才能。音に聞こえた数多の名声はいつしか全く異なるものへと変わっていた。

 水着で構内を徘徊するだの、水着で礼拝堂に来ただの……人が聞けば気でも狂ったのかと錯覚する伝聞。だが、ナギサはハナコが極めて正常に異常を演出している事を見抜いていた。しかし、彼女が正常である事は分かってもその頭の内側で何を考えているのかは依然として闇の中。馬鹿を自称する天才ほど厄介なものはない。ハナコへ監視と疑いの眼が向くのは必然であった。

 

「アズサさんは、そもそも存在自体が色々と怪しい所ばかりです。それに、他の生徒達と何度も暴力事件を起こしている、統制不可能な存在ですし」

 

 アズサは語るに及ばず。経歴からして怪しいところだらけで不自然な部分だらけ。巧妙に隠されているが、節々から漏れる靄はまるで暗雲のよう。それに、彼女は頻繁に暴力沙汰を起こしている。仮に経歴が妖しくなくても『学園の平和を乱す不穏分子』として補習授業部に加入させられていただろう。

 

「ヒフミさん、は……」

 

 そして、補習授業部の最後の一人。ヒフミの事になると途端にナギサが鈍った。紙を捲る手が止まり、口を噤む。これを言えば、可能性に過ぎなかったものが真実に変わってしまうかもしれない……そんな嫌な予感がナギサの背中を冷たい汗と共に伝った。

 

「ナギサは、ヒフミの事を気にかけていたよね」

「……はい。そう、ですね。ヒフミさんへの想いは……かなり特別です。私はヒフミさんの事を、とても大切に思っています。私は、彼女の事を好いている……その事は、間違いありません」

 

 自身の感情の事であるのに何処か他人事のように言葉を並べるナギサ。胸の内側の想いを客観視して分析して、結論を下す。自分の中にもう一人の冷静な自分を作って、それに言葉を述べさせているようなぎこちなさ。だが、それでも痛みは消せない。大切に想っている人に疑いの目を向けるのは彼女にとって大きな負担となっている。

 

「ですが……あの子の正体が実は、恐ろしい犯罪集団のリーダーである、という情報がありました」

「……」

「こういったお話が却って一番怖いのです。信じていたからこそ何かが見えなくなっている……盲目な状態になっているのではないか、と。どれだけ注意を払って築いた塔も、小さな亀裂から簡単に崩れてしまうもの……」

 

 信頼とは甘い毒だ。心地の良い微睡のように、真実を曇らせる蜃気楼。友愛や親愛は時に目と耳を塞ぐものとなる。悪意によるものではなく、善意と心の防衛本能。この人が裏切ったら、というもしもを想定したくないが故に心が自動的にその可能性を排除する。

 ナギサのヒフミに対する感情はその域に足を踏み入れていて、それを彼女自身も自覚しているからこそ……恐ろしかった。もしヒフミが裏切り者だったら、ナギサはその現実を受け入れられないまま先手を許す事になる。

 目と耳を塞がれたままでは背後から忍び寄る足音も、真正面に銃口がある事も気付かない。これは、そういう類の話だ。

 

「私はヒフミさんの事を理解できているのか。それとも、やはり私が知らない真実があるのか……私には分からないのです」

「皆、そんな子達じゃないよ。あの子達は────」

「何故、そのように断言できるのですか?」

 

 先生の声をナギサは鋭く両断する。細められた目に宿るのは猜疑、疑問。彼の言葉を夢想家の詭弁と断じ、どこまでも儘ならないものこそが現実だと知るナギサは楽園を前に理想を語らない。何処までも現実を思考の基盤に置き、最悪の一歩先を想像している。故に、彼女は彼の言葉を遮る。それは自身が最初に悪と断じた盲目であると。

 

「誰も、証明できないのです。私も、先生も……恐らく、ヒフミさん自身も。誰かが真実を語っても、その真実は誰かの脚色が加えられた真実になります。客観的な真実は誰も語れません」

 

 口ではどうとでも言う事ができる。それらしい嘘を吐いて煙に巻く事なんて誰でも可能だ。そんな強度の低いものなんて信じるに足りない。ナギサが欲したのは言葉より確かな、誰が見ても納得できるような裏打ちされた客観的な真実。

 だが、そんなものはどこにもない。ナギサの口から語られる真実はナギサの思考が含まれ、先生やヒフミの語る真実もまた同様。真実とは人の口から通って出た瞬間、誰かの思考や思想が介在する。客観的な真実なんてこの世の何処にもない。そもそも、人間は自分の見たいものを真実としてきたのだから。

 

「ヒフミさんの心を、本心を、本音を、誰がどうやって証明するのですか?」

 

 ナギサが知るヒフミ、彼が知るヒフミ、ヒフミが知るヒフミ、その他誰かが知るヒフミ……それは確かに偽りではないだろう。だが、同時に真実でもない。心の全てを詳らかにするなんて不可能だ。誰が賢しらに語ったとて、それは誰かが今まで見てきたヒフミでしかなく、彼女を構成する真実の一端に過ぎない。

 

「そうではない、誤解だ、事情がある……口では幾らでもそう言う事ができます。その言葉にどれだけの意味が? どれだけの真実性が? どうやってその言葉が真実であると証明できるのですか?」

 

 嘘も真実も語れる口から零れた言葉を真実だと断定できる証拠は? 

 ヒフミの行動を一から十まで知っている誰かがいるのか? 

 ヒフミが裏切り者でない証拠はあるのか? 

 耳に届いた噂話が嘘偽りである証拠はあるのか? 

 

 ナギサの求めているものはヒフミの全てが潔白である証明。そうではないとか、誤解だとか、事情があるとか……そういった言葉遊びに意味も無ければ興味もない。欲しいのは揺ぎ無い絶対的な証明であり、証拠。彼女の身の潔白を強く裏付けるような何か。

 

 それがないのであれば……彼女は何処まで行っても裏切り者の容疑者だ。

 

「……心の中身など、証明できるものではありません。ヒフミさんの優しいところ、礼儀正しいところ、友人想いのところ……それらを痛いほど知っていても、本心を知る事は出来ないのです」

 

 ヒフミと関わった時間は決して嘘偽りでない。彼女の好ましい部分に何度も触れてきたし、その度に彼女の事を大切に思うようになった。それは今でも変わらない。彼女に友愛の情は抱いたままであるし、優しい彼女に酷な事を強いてしまっている後悔もある。

 

 だが、それでも────エデンの先にある平和と笑顔を求めた。この後悔と痛みを上回る、大切なもの。その為にこの道を選んだのだ。

 

「当然でしょう……どう足掻いたって私達は、所詮『他人』ですから」

「────」

 

 結論はその一言に尽きる。他人だから分からない。他人だから証明できない。他人だから証拠が無い。所詮他人、自分でないものは手に余る。分からないは怖い。分からないは疑わしい。だから、どれだけ小さくとも不明点がある人物は排斥する。それがどれだけ大切な人でも、一切の例外なく。これは正義であり、必要悪であり、大義であり、楽園に至るための生贄の羊(スケープゴート)だ。

 

 ────だって(ナギサ)はトリニティ総合学園の生徒会長の一人。ゲヘナとトリニティの両方の生徒の平和を背負っているのだから。

 

 ナギサの重苦しい言葉。齢17歳の少女が背負うにしては重すぎるもの、その一部を改めて告げられた先生は真摯に彼女を見つめて……そうして、徐に口を開いた。

 

「……ナギサは、ヒフミの心を解体したい(知りたい)のかい? 一から十まで知らないと、彼女の全部を分かっていないと駄目なのかい?」

「……と言うと?」

「ナギサはナギサで、ヒフミはヒフミだろう? それでいいんじゃないかな?」

「全てを知る必要はない、と? それは偽りではないのですか? 知らないものから目を背け、分かった気になるなんて……それは冒涜でしょう」

「冒涜なんかじゃないよ。全てを知らなければ偽りなんて、そっちの方こそ偽りだ。他人は他人、その通りさ。幾ら歩み寄ろうと、幾ら近寄ろうと暗闇は暗闇で分からないものは分からない。心に触れるのは本人だけ、他人が触れられるのは心から剥離した片鱗のみ。そも、誰かの全てを分かろうなんて思い上がりなんだよ」

 

 誰かの全てを理解するという事は、自分の中に他人を落とし込むという事。それはきっと人間に対する扱いではない。

 他人とは、自分の外側に存在するから他人なのだ。それを自分の内側に変えるような行為は他人の存在否定に他ならない。他人は他人である事、理解できない事もある────その現実を受け入れる事こそが、他人と関わる最初の一歩だろう。

 

 ナギサはこれまで、そうやってヒフミと関わってきた。だからこそヒフミも彼女の事を大切な友人だと思っているのだろう。全てを知らなければ偽り、冒涜……ナギサの今言った言葉は他ならぬナギサ自身のこれまでが否定している。ナギサとヒフミの時間は、決して偽りでないのだから。

 

「他人の全てを分かってあげられない。他人同士である以上は叶わない。でも、分かろうとする努力はするし、精一杯寄り添おうと努める。それでいいんだよ、きっとね」

「……先生は、ご自身が理解されなくてもいいと?」

 

 期待の放棄、自他に妄執を押し付けない。理解できない事、理解されない事もあると受け入れる。分からない事を分からないと受け止める。確かに、その上で他人と関わる事ができれば円滑かつ望ましい人間関係が築けるだろう。

 だが、初めから『誰も分からなくていい』と思い、諦観と共に他人と接するのは……それではあまりにも悲しいのではないか。彼はそんな思いを胸に秘めたまま生きてきたのかと問うと……彼は短く「あぁ」と肯定を返した。まるで何でもない事のように。

 

「私は異邦の生命体だからね。そもそもキヴォトスに於ける他者理解の軛から外れている。皆とはそもそも()()から違うし、断絶しているからね。私はキヴォトスの人類じゃない。どれだけ近寄ろうとも、決して越えられない一線がある。でも、それでも私は皆の先生だ。そう信じる限り、私は人類で在り続けられるさ」

 

 そう言う彼の眼には偽りはない。彼は本心でそう思っているのだ。生徒達の先生である、その事実と自負だけが彼を人類たらしめる。誰にも理解されなくとも、誰にも愛されなくとも、誰も隣にいなくとも、それでも彼は自分を人類と定義した。

 その解に至るまで一体どれほどの決断、挫折、葛藤があっただろう。初めから『人類(みんな)』と同じで、『人類(みんな)』の一部であったナギサには分からない。分かる事はない。

 

「……他人と理解し合う事は出来ないから、理解できないなりに歩み寄り、尊重することが大事だと?」

「それが他人と関わる上で守るべき最低限のルールだと思ってるよ。そもそも、相互理解ってそんなに大事かな? 理解し合えなくても同じ世界で生きる事ができる。いつか離れるとしても手を握る事はできるんだ」

 

 怪物は人間になり、愛する人と結ばれて幸せになりました。めでたしめでたし。

 

 書店の児童向け絵本コーナーを探せば、似た様な結末を辿る本は何冊か見つけられる事ができるだろう。その結末に異を唱えたり、納得できないと憤る事は勿論無いが、ふと時折思うのだ。怪物は別の何かにならないと、人間になるなんて奇跡みたいな空想(ゆめ)に縋らないと対等な関係を気付けないのか、と。怪物は自らの在り方を否定して人間になるという結末でしか救われないのか、と。

 

 それはきっと違う。怪物は怪物のままでも救われるだろう。怪物のまま幸せになっていいし、手を握ってもいい。だって、同じ世界で生きられるのだから。

 

 無論、今の在り方ではなく別の在り方を目指したいと謂う思い自体を否定するつもりはない。前向きな理由での変革ならば先生も喜んで背中を押し、その一助になろうとする。だが、それでも。

 

 ────そうだ。無理に在り方を否定する必要はない。消せない後悔を抱えていても、大切な人を傷つけてしまっても、魔女に堕ちてしまっても、大きな過ちを犯してしまっても、信じる正義の元に誰かを傷つけてしまっても……それでも、きっと幸福になれる道はある筈だ。

 

「……それが先生の在り方ですか。良く分かりました。もしこれが普段のお茶会でしたら、私は先生の考えに賛同していたでしょうが……事態が切迫している今、『分からない』は排除すべきなのです。理想論を語り、善意のまま不和に歩み寄れば……多くの人を危険に晒す可能性があります」

 

 彼の言わんとしている事はよく分かった。理解し合えなくても互いに尊重すれば同じ世界で生きられる、それは確かにそうだろう。ナギサは大切な友人であるヒフミの全てを知らない。10年以上連れ添った幼馴染の事ですら、その仔細を把握しているとは言い切れない。だけど、同じ速度で生きていけている。なら、少なくとも彼の言っている事は正論だろう。彼が、ナギサが、他の皆が今なお実践し、証明し続けているのだから。

 

 だが、正論だからと言って納得できる訳ではない。トリニティの裏切り者は、ナギサの『敵』は彼のそういった善意すら利用し、貪り、己の糧としようと醜くほくそ笑む下衆なのだ。そうして、敵は平和を願った多くの人々に涙と苦しみを強いる。ただ、己の利益と欲望のままに。

 

 それだけは許してはならないのだ。平和を願った誰かが、幸福と笑顔を祈った誰かが踏み躙られてしまう事だけは。

 

「ですから、退学させるしかないのです。エデン条約……その成功のために」

「その為に、彼女達の居場所を奪うのかい」

「……あの日の問い、ですね。あの時の私は未熟でした。言葉一つで揺らぐ覚悟で先生と対峙するなど……えぇ、ですが、私はもう決めました」

 

 平和を願った誰か。幸福と笑顔を祈った誰か。その誰かは補習授業部の中にもいるだろう。その誰かを裏切り者と一纏めにして捨てて、幕引きとする。他ならぬナギサ自身が『誰か』を踏み躙ろうとしている矛盾。

 それを指摘された時、ナギサは咄嗟に声が出なかった。目を逸らしていないつもりでいたのに、彼の言葉と共に向き合ったその現実は想定よりもずっと重く、苦しくて。反論しなければならないのに、まるで声帯が凍り付いたように動かなかった。

 

 今思うと未熟にもほどがある。彼は見抜いていたのだ、ナギサの覚悟が未完了な事を。見抜いた上で、本当にそれでいいのかと問いかけた。思えば、あれは『まだ引き返せる』という意味合いの問いかけだったのかもしれない。

 

 だが────ナギサはもう、決めた。この道を行くことを。

 

「私は、切り捨てます。エデン条約の締結のためならば、この平和な箱庭(せかい)のためならば……罪なき生徒も、大切な友人も、幼馴染も……貴方すら、切り捨てます」

「それが、君の選択か」

「えぇ、私は多くの為に少数を切り捨てます。たとえそれが悪しき選択でも、私は既にこの道を選びました。ならば、進むだけです」

 

 ナギサの意志は既に固まっている。彼女は己の信じる正義と善に従い、この道を選んだ。多少周囲を巻き込んででも裏切り者を排除した方が確実だから、現実的だから彼女はこの態勢を敷いた。

 余人が夢を語るのは良い。だが、為政者(ナギサ)が夢を見てはならないのだ。ナギサが見なればならないのは現実と実現可能なプラン、プランを叶えるに至るまでの確固たる過程。夢を見て、夢を語るなど言語道断。為政者として0点だ。現実に対して舵を切る人間が夢を見ればそれは唯の居眠り運転。どこの世界に居眠り運転する人物に自身の生活や命を預けたいと思う人間がいるのだ。

 

 先生はナギサの言葉を重く受け止める。善悪や正誤は問わない彼のスタンス。彼女の言葉は紛れもなく善であり、正解だろう。彼女は最も現実的かつ、最低限の犠牲で済むプランとしてこれを選んだ。悩んで、考えて、苦しんで、その上で『こうするしかない』と思って下した決断を言葉一つで否定したくないし、するつもりも無い。

 

「先生は、どうされますか? 私と共に来ますか? それとも────」

「私は、私のやり方でこの問題に当たる。その解答に揺らぎはないよ」

「……そう、ですか」

 

 ────この解答を予想していなかった、と言えば嘘になる。彼はきっとこの手の犠牲を善しとする事はなく、身を呈してでも止めようとするだろうと、確信にも似た予感は抱いていた。だが、一縷の望みに掛けていたのだ。言葉を尽くせば、自身の抱えているものを晒せば、きっと分かってくれるはずだと。

 

 だが、彼は頷かなかった。善良な誰かが大きな意志が発注する『仕方がないから』の一言と共に切り捨てられる事を認めなかった。

 

「私は、ハッピーエンドの話がしたいんだ」

 

 現実的なビターエンドも、胸が苦しくなるようなバッドエンドも物語の帰結として理解は示そう。だが、それらが彼女達に降りかかるのだけは御免被る。彼女達に似合うのは澄み切った青空であり、何もかもを笑い飛ばせる様なハッピーエンド。

 

「充分にハッピーエンドでしょう? トリニティとゲヘナの生徒も、完全ではないものの『銃声を聞かない安全』を手に入れられます……補習授業部の皆さんは残念ですが」

 

 手が届く範囲の生徒に関しては可能な限り配慮してきた。善良な生徒、裏の無い生徒、疑わしくない生徒。トリニティに在籍する彼女達の安全を脅かさないよう、彼女達がエデン条約が締結された先でも同じ生活を送れるように最大限手を尽くしたのだ。

 残念だが、補習授業部までは、裏切り者の候補者までは救えない。無実かもしれない彼女達を切り捨てるのは心苦しいが、ここが妥協点。これ以上、補習授業部に肩入れする事をナギサは自身に許していない。彼女は無実の可能性よりも裏がある可能性を重く見て、彼は彼女の願いを聞かず裏切り者を見つけなかったのだから。

 

 故に、その罪を半分背負う彼が問いかけたのは全く別の事。眼の前にいる少女の事だった。

 

「……君はどうなんだい、ナギサ?」

「私、ですか?」

「もし、補習授業部を切り捨ててエデン条約が結ばれて。そうして作った未来で、君はちゃんと笑えているかな。君は苦しんでいないかな」

「……心配しているのですか、私を」

「心配してるに決まってるよ。君は私の大切な生徒だからね」

 

 彼はそう言って、ナギサを真っ直ぐ見た。その眼で見つめられた時、ナギサは思わず息を呑んで同じように彼を見つめ返してしまう。吸い込まれるような瞳、とはこの事だろう。そもそも目を逸らそうとは思わないほどに透徹した双眸のまま、彼は口を開く。

 

「私は、許せないんだよ。誰かの笑顔のために頑張ったナギサがこれ以上苦しむ事を許せない。他の誰が許しても、ナギサ自身が許しても私は許さない。頑張りは報われるべきで、努力は褒められるべきなんだよ。誰かの幸福の為に走り続けた君の行く先が苦しみであるなんて、許せる訳がない」

 

 多くの幸福の為に走ってきて、多くの笑顔の為に走ってきて。それが叶った先に、走り続けた者に更なる苦しみが待っているなんて許せる訳がないだろう。走り続けた誰かには、今までの全てを笑い飛ばせる様な幸福な結末が待っていて然るべきなのだ。それが、自分の愛し子達であるならば猶更。

 

「君みたいな優しい子が望んだ未来の果てで苦しみに苛まれるなんて事、絶対にあっちゃいけないんだ」

「私は優しくなど……」

「いいや、ナギサはナギサ自身が思うよりもずっと優しい子だ。ミカやセイア、ヒフミに聞いてみなよ。きっと同じ答えが返ってくるはずだからね」

 

 そうだと確信しているかのような彼の口振りにナギサは口を噤む。彼女自身、自分が優しい人だなんて思った事はなかった。寧ろ逆、必要であれば誰であろうと切り捨てられる冷血だと思っていたのに。

 だが、彼は優しい人だと評した。そして、その評価はミカもセイアもヒフミも共通している、と。そう思ってくれるのは嬉しいが……それでも、やはり。

 

 ────優しくなんてありませんよ、私は。

 

 自嘲にも似た呟きを心の中で一つ漏らせば、彼はナギサの眼を真っ直ぐ見たまま。

 

「私は、ハッピーエンドが好きなんだ。誰かの涙を幸福に辿り着くための必要経費だなんて思いたくない。幸福の裏側で苦しみ続ける誰かを見て見ぬ振りなんてできない」

 

 だから今まで走ってきた。だから今まで数多の屍を踏み越えてきた。幸福に泣く誰かの、地の底で運命を呪う誰かの手を取りたくて。美しくも残酷なこの世界で、幸福になれる未来を探すために。

 

「私は皆が笑える世界の為に走る。補習授業部の子達もナギサも、全員が笑えるような未来の為に進むよ」

 

 皆の笑顔を。皆の幸福を。その為に生きる。誰一人取り零さない、誰一人例外はない。彼は、全ての生徒の笑顔と幸福の為に走り続ける。

 

「……そう、ですか」

 

 先生はナギサのプランを認めず、ナギサは彼のやり方を認めない。否定を根底としていながらも、そこに後ろ暗いものはなかった。ただ、目指すべきものと切り捨てられたものが違っただけ。ナギサは自身の心と補習授業部を切り捨てた。先生は『地獄に落ちるべきは自分だけ』と他の全てを救わんとした。

 

 ────此処に、彼我の溝は絶望となる。

 

「えぇ、理解しました。つまり、お話がシンプルになったという事ですね」

「そうなる、かな」

 

 これにてお茶会は終わり。ナギサは先生を『自身のプランを邪魔する敵』と見做した。敵であるならば……排除し、切り捨てるだけだ。大切な友人(ヒフミ)に対して、そうしたように。

 

「……承知しました。どうか頑張ってください、先生」

 

 ナギサは優雅な所作で立ち上がり、先生に対して一礼する。それは宛ら宣戦布告のよう。

 

「お気をつけて。私は、私なりに頑張りますので」

「あぁ、ナギサもどうか気を付けて」

 

 先生はナギサに「紅茶、美味しかったよ。ありがとう」と言い、その場を去る。残されたのはナギサだけ。彼女は静かになった空間でカップに口づけを1つ。味は驚く程にしなかった。

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