シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
感想評価お気に入り登録誤字、本当に嬉しいです。
トリニティの正門から外に出た先生は軽く息を吐く。容赦なく照り付ける日差しが遠慮なく肌を焼く感覚。太陽は宙の真ん中に座していて、気温は30度を超えている。この気温だと流石に今の格好……長袖の上にジャケットとコートを羽織るのはしんどい。彼は熱せられた息を1つ吐いて、ジャケットとコートを脱いで身軽に。第一ボタンを外してネクタイを緩めれば感じていた暑さと息苦しさは大幅に軽減された。
彼は人波に逆らうことなく歩き、大通りに出る。眼の前で青になった信号を渡る事なく路地裏に入り、スマホの連絡先をタップし電話を繋げた。数コールの後、通話が開始される。電話の相手は補習授業部の部長、ヒフミ。
「もしもし、ヒフミ?」
『どうかされましたか、先生?』
「今日の帰り、少し遅くなっちゃうんだけど大丈夫かな?」
『えっと、大丈夫ですけど……今日は確かナギサ様との会談でしたよね? 長引いているんですか?』
「いや、会談自体は少し前に終わってるよ。でも、ちょっと用事ができてね」
ナギサはもう手段を選ばない。本腰を入れて補習授業部の退学にさせようと様々な手を打ってくるだろう。考え得る妨害は多種多様。彼の用事とはその布石と対策だ。幸い、エデン条約に悪影響を及ぼさない部外者で、協力してくれそうな生徒には何人か心当たりがある。彼女達にお願いをしに行く、と謂うのが今の彼の目的だ。ピックアップしたのはゲヘナ、ミレニアム、百鬼夜行。
尤も、それは彼個人の用事だ。ヒフミに関係ない……訳ではないが、彼女に関係してくるのはもう少し先。この程度の案件なら彼もメッセージのやり取りで済ませていた。故に、彼が語るべき、語りたい本題はこの先にある。
「此処からが本題なんだけど……周りに誰かいるかい?」
『いえ、居ませんが……』
「今ってトリニティの掲示板見れるかな? 第二次特別学力試験について何か情報が更新されているか確認してほしいんだけど……」
『ちょ、ちょっと待ってください……』
通話状態のままヒフミがスマホを操作する。物音やヒフミの声が遠くなって10秒ほど経過すれば掲示板を見終わった彼女の声が再び彼の耳朶を擽った。
『特に更新されていませんが……』
「そっか……一応、こまめに確認しておいてほしい。何か更新されたら私に連絡をお願いね」
『な、何かあったんですか……?』
「いや、何かがあるとしたら
『は、はい……分かりました』
どこか不安げなヒフミの声を聴き、彼は「じゃあ、気を付けてね」と言って電話を切る。そうして、次にタップするのは────。
『はい、便利屋68です』
「アル、今時間大丈夫かい?」
『あら、先生。どうかしたのかしら? 依頼の話かしら? 先生からの依頼なら喜んで受けるわよ?』
「頼もしい言葉をありがとう。察しの通り依頼の話でね。皆に聞いてもらいたいから、スピーカーモードにしてくれないかな?」
彼の声に頷いたアルは『えぇ、ちょっと待って頂戴』と言い、マイクの向こう側で何やら物音が少し。その直後、スピーカーに切り替わり皆の元気な声が聞こえた。
『やっほー、先生』
『こんにちわ、先生』
『せ、先生、こんにちわ……』
「こんにちわ、皆。元気そうで安心したよ。それで、依頼の話なんだけど……」
▼
「……これが、私からの依頼の全容。急な話で申し訳ないけど……もし頼めるならお願いしたいんだ」
『……その状況、本当に起きるの?』
「可能性としては、ね。その辺りが決まるのは恐らく今日の夜だから、また追って連絡するよ。もし違ったらアル達には別の動きをお願いするつもりだけど……それまでは一先ず、私が今言った事を想定してほしい」
『どうするの、アルちゃん?』
『わ、私はアル様と先生の決定でしたら……』
「重ね重ね云うけど、無理をする必要は無いよ。アルは自分と皆の安全を最優先にしてほしい。採算が合わないと思ったなら遠慮なく────」
『受けるわ』
「……本当にいいのかい?」
「先生はただ私達が危険なだけな話は絶対に持ってこない。私もムツキもカヨコもハルカも、先生の
「……ありがとう。どうか、気を付けて」
『えぇ。先生も、ね』
▼
「これで便利屋の子達にはお願いできた。次は……」
▼
『最強無敵のメイド、トキです。先生ですか? 聞こえてますか? 見えてますか? ぴーすぴーす』
「聞こえてるよ、元気そうでよかった……なんか、段々とヒマリに似てきたね」
『ご不満ですか?』
「全然。トキのそういった所、私は好きだよ」
『いえい。ですが、まだです。もっと褒めてください』
「褒めたいのは山々だけど、それはまたの機会に。トキにちょっとお願いしたい事があってね……いいかな?」
『えぇ、完璧なエージェントである私にお任せください』
▼
「色々迷惑かけてごめんね……頼むよ」
『はい、勿論でございます。このワカモ、貴方様の剣となりましょう』
▼
「……ふぅ」
誰も居ない路地裏で先生は軽く息を吐く。これで打てる手は打って、動かせる生徒は動かせた。スマホをスリープモードにしてポケットに仕舞い、大通りに戻って人波の一人となる────その直前。
「……」
彼は彼方に視線を送る。トリニティの校舎、数ある教室の一室。そこにいたティーパーティー所属の生徒と視線が交わる。驚きと共に息を呑む彼女に笑みを返答として返す。気付いているけど、手出しをするつもりはない────そんな意志表明。
彼はそれ以外に何かする事もなく、青になった信号を渡り合宿所へ歩いて行った。
▼
「……なるほど、そうでしたか」
「あうぅ……」
合宿所に戻った彼はヒフミとハナコを自室に連れ、先ほどナギサと話した内容を共有する。全て話し終えた後にはヒフミは不安げな表情になり、ハナコは真剣な顔で考え込む。
「ナギサさんが何もアクションをしてこない可能性は……」
「無いね。私はナギサの要求を再三に渡って拒絶したんだ。もう彼女も手段は選ばない。補習授業部を退学させるためにあらゆる手を尽くしてくるだろうね」
「見事に手段と目的が入れ替わっていますね。それだけ余裕が無い、という事でしょうか」
ハナコは辟易とした感情を隠そうともせずに溜息を吐く。今のナギサはこの中の誰が裏切り者か、なんて興味ないのだろう。重要なのは補習授業部の中に裏切り者が居るという事。腐った林檎は何とやら、彼女は以前に言った通り、この4人を纏めて退学処分にしてトリニティを平和にしようとしている。
エデン条約締結まであと僅か。頼りにしていたシャーレは協力を拒否した。であれば、もう形振り構っていられない。彼女は全てを使って補習授業部を退学させる。
「先生はどんなパターンを想定していますか?」
「直接点数を改竄する以外の全て、かな。試験会場と時間の変更、試験範囲と合格ラインの変更、試験自体の難化、採点基準を厳しくするのもあるだろうね。あとは交通網の停止、解答用紙の焼却、試験会場に向かうまでの道中で何らかの妨害があるかもしれない。少なくとも、試験の解答用紙が皆の手元にある内は妨害を受けると考えて動いた方が良いだろうね」
「……私達側の過失、にするためですね」
第二次特別学力試験は試験会場に向かう道中、試験を受けている最中、試験の解答用紙を提出した後の3つに分類される。この内、妨害されるのは道中と試験中だ。厳密に言えば、試験の解答用紙が相手側にない時。補習授業部の過失にできるうちは必ず何らかがあるだろう。今挙げたもの以外にも考えられるのは幾つかある。流石に極端に荒っぽい手段……ヘイローが壊される可能性がある攻撃をしてくる事はないが、逆に言えばそれ以外の、多少怪我する程度の妨害はやると言っていい。
「じゃ、じゃあ、私達はどうすれば……」
「一応、私の方で幾つか手は打っておいた。けど、これ以上は特にやれる事が無いかな。ナギサの妨害をブロックすれば逆に此方が不利になりかねない。私達ができるのはナギサの策を正々堂々と真正面から踏み越える事だけ」
「……もどかしいですね。来ると分かっているものに対処できないなんて……」
想像以上に補習授業部の立っている場所は危うい。そのため、立場がこれ以上危うくなりそうな事は先生含めて避けた方が賢明だ。故にナギサのアクションに対して何もしない事が正解。妨害を正面から乗り越え、清廉潔白なまま試験を受けなければ無実の証明などできはしない。
だからこのまま、第二次特別学力試験の案内が更新されるまで待機する事が彼女達に残された唯一の道なのだが……やはり、指を咥えて見ているだけなのはもどかしい。
何かしなければ、何かができるはずだ。そう思うが、下手に動けば全てが台無しになる可能性があるのだ。それが脳裏にチラついた途端、足は枷が付けられたように重くなる。
「この件はアズサちゃんとコハルちゃんに伝えた方がいいのでしょうか……?」
「難しいですね。伝えれば混乱を招いてしまいますし……かといって伝えないのも悪手ですし……」
「……今日の勉強が終わった後に伝えよう。混乱はするだろうけど、伝えないよりはマシだ。何方にせよ、いつか話さないといけない事だったんだ」
2人はこの裏に仕込まれたティーパーティーの仕掛けなんて知らない。アズサはミカ経由で何かを知っているかもしれないが、少なくともコハルは知らないだろうし、ハスミも伝えていないだろう。
この裏に仕込まれた事情を話した場合、コハルは大いに動揺しテストで上手く点数が取れなくなってしまうかもしれない。それを考えると開示しない方が賢明だが、来ると分かっているならこの時点で話した方が良いのもまた事実。どちらにせよ混乱は避けられない。それならば試験前に話してしまった方が良いだろう。
先生は目を閉じ、覚悟を固める。この子達の居場所が、笑顔が、幸福が、決して世界に奪われないように。
「私は最期まで皆の味方だよ。いざとなれば私が責任を負うからね」
この身が朽ち果てるまで、君のそばにいるよ。
▼
「……ヒフミちゃん今日はこの辺りで止めておきましょう。明日に響くといけませんから」
「あ、もうこんな時間に……」
補習授業部、合宿7日目。明日に試験が控えているという事もあり、少女達は夕食を取り就寝前の身支度を済ませた後にも自主的にペンを取っていたが、それもそろそろ頃合いだ。ハナコが見せたスマホに映る時間は20時に近づいており、これ以上の勉強は明日に響いてしまうかもしれない。
ヒフミは『いつの間にこんな時間に』と驚きつつ時計を見る。明日が試験本番という緊張感が時間を忘れて机に向かわせていたのだろう。時計を見た途端に充実と達成感から来る心地の良い疲労感が全身に渡り、息を1つ吐くと共に立ち上がる。根を詰め過ぎて空回りしてもいけないし、明日の試験に疲れを残すわけにはいかない。名残惜しいが、今日の勉強はこれで終わりだ。
「そうですね、明日もありますし今日はこれで終わりにしましょう。皆さん、本日もお疲れさまでした!」
立ち上がったヒフミはいつも通りの笑顔で皆に労いの言葉を掛けた。それを合図に少女達は各々で進めていた勉強の手を止めて書くる伸びをしたり、立ち上がって体を解していく。
何事も適量、オーバーワークは身体に良くないのだ。浮足立って何かしていないと気が済まないのは分かるが、今の少女達のやるべき事は身体をしっかりと休める事。明日の試験で実力を十全に発揮するために。
「明日は遂に本番……第二次特別学力試験です! この一週間の合宿で、私達はしっかり合格できるだけの実力を身につけれたはずです!」
「うん」
「はい♡」
「そうねっ!」
この一週間、やれる事はやった。実力は充分についたし、直前の模試では全員合格ラインを越えている。後は試験本番で身に着けた実力を発揮し、合格を勝ち取るだけだ。
鼓舞し、士気を上げる言葉をヒフミが言えば皆もそれに同意する。アズサとコハルは最初に比べて点数が大幅に上昇し、ハナコは以前の実力を取り戻しつつある。他のメンバーと比べれば点数の上昇幅こそ小さいが、ヒフミも内容理解が深まり、より点数を手堅く取れるようになった。確かな実感は自信に繋がり、その自信がパフォーマンスの向上に繋がる。きっと、合格できる。確信に近い自信が少女達の中にはあった。
「あとはしっかり試験に合格し、堂々と補習授業部を卒業するだけです! 今までの勉強が無駄ではなかった事をきっちり証明しに行きましょう! そして最後は、皆で笑ってお別れできるように……!」
そう言い、皆が息巻いていると……ふと、寂しそうな声を漏らす少女が一人。
「……そっか。合格したらお別れか……」
アズサがポツリと漏らした、晩夏の様な寂しさに満ちた一言は皆の耳に風のように届いて、心の奥底に響いて融けた。補習授業部はあくまで成績不振者の為の特別措置。故にメンバー全員が試験にパスすれば円満に卒業、部活は自然消滅し解散することになる。それ自体は確かに喜ばしい事なのだが、離れ離れになってしまうのは酷く寂しかった。
────分かっている、今後の事を考えると
「ちょっ、ちょっとアズサ!? どうしてそんな急にしんみりするわけ!?」
「なるほど。合宿も含めて、何だかんだで凄く楽しかったですもんね?」
「……あぁ。いや、それでもやっぱり、出会いがあれば別れもある。私達が前に進む知性体である以上、別離は必然のものだ」
まるで補習授業部を卒業したら二度と会えないと言わんばかりのアズサの口振りに皆は疑問符を浮べる。確かに補習授業部が解散になれば、こうして毎日のように顔を合わせる事はなくなってしまうのかもしれない。だが、それでも少女達は同じ学び舎に通う生徒なのだ。会う事も、話す事も、遊ぶ事だってできる。これで終わりなんかではないのだ。補習授業部が終わっても自分達は友達だと、ハナコは優しい口調で告げていく。
「……そこまで思う必要は無いと思いますよ。アズサちゃんも含めて皆、試験が終わったら何処かに行ってしまう訳じゃないでしょう? 補習授業部が解散しても、皆同じ学園にいるんですから。会おうと思えばいつでもすぐ会えますよ」
「ほ、ほら! 私はいつも正義実現委員会の教室にいるから! だからそんな顔しないで、暇な時があったら来れば……?」
「……うん」
言い、アズサは花のように微笑む。
帰れる場所がある。帰りたいと思える場所がある。何度ほうき星が巡っても友達だと言ってくれる誰かがいる。それだけで
「えっと、私も気持ちとしては同じなのですが、取り敢えず試験に合格する事が先決と言いますか……何だか急に青春ドラマのエンディングになっているような……兎に角、今日は早めに休んで、明日の試験に備えるとしましょう」
少しだけしんみりした空気を吹き飛ばすようにヒフミは言う。先の事を考えるのは良いが、今は試験に合格にする事が先だろう。それに、別れはあるけれども今生のものではない。『じゃあね、また明日』と言えるような別れなのだ。だから名残惜しさを抱いたまま、笑顔でさようならを。今度は補習授業部の仲間としてではなく、大切な友達として会おう。
互いに顔を見合わせ、笑う少女達。穏やかで柔らかな空気感を現実側へと引き戻したのは、コハルが発した一つの疑問だった。
「そういえば、明日の試験会場って前と同じところ?」
「……そう、ですね。先ほど見た時はまだ告知が無かったですが、告知されてるかもしれません。確認してみます」
コハルの疑問に声音を固くしたヒフミ。ハナコもどこか緊張した面持ちだった。帰ってきた直後の彼に呼ばれ、言われた様々な情報。何らかの妨害を受けるとしたらこのタイミングから。勝負は既に始まっているのかもしれない、という緊張感が2人の間で共有された。
「えっと、トリニティの掲示板っと……」
スマホでURLを叩き、学籍番号とパスワードを入力しトリニティ総合学園の在学生用サイトに入る。タブの中から掲示板の項目を選ぶとサイトが遷移し、学校内の様々なお知らせが記載されたページに移った。その一番上に『補習授業部:第二次特別学力試験に関する変更事項のお知らせ』と見出しが付けられたものが1つ。
「ッ!」
彼が言っていた事が現実となったかもしれない、そんな嫌な予感が冷や汗と共に背筋を伝う。彼女は僅かに震える指でその見出しをタップし、詳細ページを開くと……そこで目の当たりにしたのはナギサの本気だった。
「え、嘘ッ!? 嘘ですよね!?」
事前にそうなる可能性は伝えられていた。ナギサはもう手段を選ばない、補習授業部を退学させるためならあらゆる手を尽くしてくるだろうと。その言葉は今日一日中頭の中に留めていたし、仮にその言葉が現実になったとしても冷静でいられるようにシミュレーションしてきた。
だが、それもこの現実を前にすると弱く、内容を一瞥したヒフミは思わず声を上げる。まさか、此処までしてくるとは思わなかったのだ。
「ヒフミちゃん、見せてください」
ハナコはヒフミの表情と声音からある程度察しはついていたが、確認も兼ねて告知内容を確認する。受け取ったスマホのカバーを少しだけ扱い難そうにしつつ、画面に視線を落として内容を読み上げた。
「補習授業部の、第二次特別学力試験に関する変更事項のお知らせ……試験範囲を既存の範囲から3倍に拡大……」
「はぁッ!? 何それ!?」
「また、合格基準点を60点から90点に引き上げとする……」
「わ、私でもまだ90点なんて超えた事ないのに……」
「ど、どういう事よ、これ……」
「10分前に急にアップされたみたいです……試験直前になって、こんな……」
まだ現実を上手く呑み込めていないヒフミとコハルはどこか茫然とした口調で言う。範囲を広げられ、基準点も挙げられては合格なんて出来るはずもなかった。
告知されたのが合宿前であればまだ可能性はあったが、試験直前のこのタイミングで開示されてはどうにかなるはずもない。広げられた範囲は殆ど触っておらず、点数は誰一人として引き上げられたラインに届いていない状況。
近づいていたはずの合格と卒業が一気に遠のき、全身に嫌な汗が浮かんだ。
「なるほど、此処まで露骨にやりますか。ナギサさんも形振り構っていませんね。余裕が無い事が丸わかりです……何が何でも私達を退学にしたい、と」
「……退学、か」
「えっ、た、退学!? ちょっと、どういう事!?」
ハナコが漏らした『退学』という不穏な言葉。それをオウム返しのように呟くアズサには動揺の色はない。初めから分かっていたかのような、あるべき当然の現実を改めて受け入れた様な……そういった感触。だが、コハルは違う。誰からも、何も聞いていなかった彼女は初めて開示された事実に大いに驚き感情を露にしている。
1ヶ月にも満たない付き合いであるが、ハナコは誰も良い気分にならない冗談や嘘は口にしない事はよく分かっていた。ヒフミも口元を固く結んだまま沈黙を保ち、突き付けられた現実を前に唇を噛んでいる。
突然変わった試験範囲、合格点。ハナコとヒフミの思い詰めた様な表情。数日前のハスミのどこか必死な口調。
まさか、本当に? そんな疑念がコハルの脳内を埋め尽くすと、逡巡に満ちた声でヒフミがハナコの名前を呼んだ。
「は、ハナコちゃん……」
「こうなってしまってはもう隠し事はできません。元々今日の内に話すつもりでしたし、少し早まっただけです……その前に、他にも変更された部分がありますね」
ハナコの言う通り、変更箇所はそれだけではなかった。範囲と基準が引き上がっただけでもかなりの痛手なのに、これ以外にも何かあるのか。採点が厳しくなったり、問題自体が難化したりするのだろうか。どう楽観ししても明るい事なんて何一つ書かれていないだろうが、それでも見ない事には始まらない。ヒフミは穏やかでない内心を落ち着かせ、息を1つ吐いてから画面をスクロール。
「あ、試験会場と時間も変更されてます……試験会場は『ゲヘナ自治区第15エリア77番街、旧センタービル1階、112室』……」
ヒフミの口にした試験会場は此処から遠く離れたゲヘナの一角。皆の間に沈黙が下り……そして、ヒフミはポツリと口にする。
「……ゲヘナ?」
震える声でヒフミは呟き、画面を凝視する。だが、場所は先程ヒフミが読み上げたものから変わりなく、ご丁寧に地図まで載せてあった。ゲヘナの市街地、その外れ。直線距離でも数百kmは離れている場所が今回の試験会場であった。
「げ、ゲヘナで試験を受けるんですか!?」
「な、何でよ!? どうしてトリニティの試験をゲヘナで受けるわけ!?」
「調べてみたところ、試験会場のビルは廃墟のようですね。それに、不良生徒の溜まり場になっているとの話もあります」
「ど、どうしてそんな場所で試験なんて……」
「そんな所で試験なんて受けれる訳ないじゃない!? 行くのも危険なのに……!」
「ですが、だからと言って行かなければ未受験扱いで不合格になってしまいます。何方にせよ、私達は……」
「そ、それもそうだけど、さっきの退学ってどういう事!? 初耳なんだけど!?」
「それは……」
言い淀むヒフミはハナコに視線を送る。すると、ハナコは強く頷いた。話そうという合図。覚悟を決めたヒフミは一度深呼吸をして、混乱の最中にいるコハルに真実を告げるために口を開こうとして────そのタイミングで玄関に繋がるドアが音を立てた。
「……事態はあまり良くないっぽいね」
「せ、先生ッ!」
「ごめん、遅れた。状況はある程度把握してるよ」
少し前から席を外していた先生が戻り、少女達に朗らかに笑いかければ少しだけ悲観的な空気感が払拭される。だが、コハルの抱えた疑問はそのまま。この事態を最も深く知って良そうな彼に先ほど2人に投げた問いを改めて投げかけた。
「ハナコが言ってたんだけど、退学って何!? 先生は何か知ってるの!?」
「……」
「ヒフミ、ハナコ、いいかい?」
2人の了承を貰った彼はコハルとアズサに話す。補習授業部の裏側を。ティーパーティーが何を目的として、何を経てこの4人を集めたのか────その真実を。
▼
「試験に3回落ちたら、退学……!?」
「……ふむ、なるほど」
補習授業部のある程度の事情を離されたコハルは愕然としたような表情で言葉を漏らす。成績不振者が集められただけの部活に、まさかこんなドロドロとした事情があるとは思ってもいなかったのだろう。更に、失敗した場合の処分もコハルの想像よりも何倍も重い。退学、このキヴォトスに於いて学生身分の剥奪は明るい世界からの追放を意味している。もし試験に落ちてしまったら、今の生活も何もかもが失われてしまうのだ。
「か、隠しててごめんなさい……まさか、こんな事になるなんて……」
「ど、どうすれば良いの……!? 退学になんてなったら、正義実現委員会に復帰できない……!」
「それは……」
コハルの悲痛な叫びに言葉を詰まらせてしまう。退学処分を下されてしまったら、彼女は目標としていた正義実現委員会への復帰どころの話ではなくなる。そもそも、トリニティからすら追放されてしまうのだ。もし、今回も点数が取れなかったら。次の試験でも点数を取れなかったら。そして、退学になってしまったら。頭の中を悪い想像が埋め尽くし、身動きが取れなくなってしまった時……闇を切り裂くような凛としたアズサの声が皆の耳に届いた。
「……状況は理解した。兎に角、出発しよう」
「えっ、えぇっ!?」
「試験時間が明日の午前3時って書いてある。今から出発しないと間に合わない」
「た、確かに……」
「驚くにせよ、怒るにせよ、絶望するにせよ……それは試験を受けてからでも遅くない。障害物の多さに文句を言った所で状況が変わる訳じゃない。大切なのは、それでも最後まで足掻く事」
「あうぅ……」
「う、うぅっ……」
悲観するなとは言わない。絶望も当然の権利だ。だが、まだ動いてすらいないのに『無理だ、できない』と決めつけるの早計だろう。出来る事が全く無い訳ではない。だからまずは、足と手を動かし考える事から始めよう。悲観も絶望も怒りもその後だ。どこまでも現実と向き合い、抗う心持のアズサにハナコは「そうですね」と同意を示し、軽く手を叩いて皆の意識を向かせる。
「アズサちゃんの言う通りです。今は兎に角、動くしかありません……それにしても、ふふっ、面白そうですね。ゲヘナに試験を受けに行くなんて、初体験です♡」
「ああもう、何もかも意味分かんない! と、とにかく行くのね!?」
「あぁ、直ぐに出発しよう。各自、装備を忘れずに」
「そ、装備!? 銃火器ですか!?」
「そうですね。ゲヘナ自治区は唯でさえ無法地帯ですし、条約締結前という事もあって風紀委員会も多忙です。恐らく、対処し切れていないでしょう……」
「あ、あうぅ……ど、どうしてこんな事に……」
トリニティ自治区にいるうちは大きな危険も戦闘行為もないだろう。だが、ゲヘナに一歩足を踏み入れればそこは無法地帯、戦闘行為が予想される。眼を光らせている風紀委員会はエデン条約で忙しいためあまり当てにできない。降りかかった火の粉は自らの手で払う必要があった。
「……先生、シャーレのヘリって出せる?」
「いや、今日は終日トリニティ自治区内全域で航空機の運用が禁止されている。ステルス機なら掻い潜れるかもしれないけど、露呈した時のリスクを考えると今回は陸路で行った方が良いと思う」
「……そうか。いや、時短できるかなって思っただけ。対策されているなら仕方ない、自分達の足で行こう。先生は私が抱えて走る」
「手間かけてごめんね、頼むよ」
方針は固まった。先ずはトリニティ自治区とゲヘナ自治区の境界まで行き、その後は最短経路で試験会場のビルまで向かう。移動手段は徒歩。立ち塞がる障害は全て排除し、一刻も早く試験を受ける事を最優先。
「じゃあ、準備ができ次第出発しようか」
この不条理な現実に抗うため、少女達は銃を取る。