シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
美食研究会と行動を共にしてから、大体2時間が経過した頃。
「うわぁぁぁぁッ!」
ゲヘナの公道をスクーターで爆走するヒフミとコハル。背後から爆風が迫り、飛び散った破片がヘルメットに当たって軽い音を立てるがそれを気にする余裕はない。気が休まる暇もなく次の爆発が起こり、熱風が乱暴に背中を叩けばヒフミは涙目で叫ぶ。
「何ですか何なんですか!? 一体どうしてこんな事に!?」
「ヒフミ揺らさないで! 照準が合わないからっ!」
「わ、私が揺らしてるんじゃありませんッ! じ、地面がさっきから揺れっぱなしで……!」
先程から振動により碌に照準に合わせる事ができず、弾を外してしまっているコハルはヒフミにもう少し安定した走行を要求するが、それは酷だろう。先ほどから大小さまざまな振動が少女達を襲っているのだ。揺れているのは少女達ではなく、彼女達が走る地面そのもの。何処かの誰かが爆弾を仕掛けているらしく、地面はずっと振動を続け、黒煙が巻き上がっていた。
「ま、また爆発しましたぁ!」
言うや否や、次なる爆発が少女達を襲う。この爆発は先程のものよりも近距離で起きたらしく、衝撃と振動のセットで大きくバランスを崩してしまうが半ばヤケクソになったヒフミは驚異的なドラテクを発揮し何とか体勢を整え、走行を継続。それを見ていたアカリは鉄火場と思わせないほどの朗らかさで声を掛けた。
「確かヒフミさん、でしたっけ? バイクの運転、お上手ですね☆」
「ふふっ、良い調子ですわね。目的地はまだ遠いですから、このまま頑張ってくださいね」
「いえいっぱいいっぱいなんですけどぉッ!?」
「アカリさん、8秒後にまた爆発が来ますわ」
「はい、問題ありません☆」
「ハルナぁっ! もう車はいいから降ろしてーッ!?」
「フウカ、頭下げて……ッ」
この場に於いて恐らく最も不憫で最も可哀そうなフウカが涙目でそう言うが、此処で降ろしたら逆に悲惨な目に遭ってしまうだろう。先生はフウカを咄嗟に抱えて床に伏せる。巻き起こる爆発は車を掠め、先生は内心で少し焦りつつシールドを展開。予想していた事態ではあるが色々と容赦がない。
フウカを抱きしめながら後方を見る彼。システムと直結している事により千里眼と呼べる域にまで達した視力は爆炎ごときで遮られるものではない。世界を切り替える蒼い眼は万象を射貫く。
「数は……結構多いね。風紀委員会の子が大半だけど、温泉開発部の子が何人か混ざってる……あ、重機部隊が合流した」
「あら、温泉開発部の方までいらっしゃるのですね。面白くなってきましたね」
「何も面白くないから! いいからもう降ろしてーッ!?」
「フウカさんもこうして応援してくれていますし、もう少し派手にやるとしましょうか」
「そうですね、声援を力に、そして速度に♪」
「ショベルカーにブルドーザーまで来てる!? 何でッ!?」
「ど、どうしてゲヘナの温泉開発部にまで追われてるんですかぁ!?」
「やばッ、風紀委員会の増援も来た!」
秒刻みで悪くなる状況。後ろを振り返れる勇気が持てなかったヒフミは涙目でハンドルを握り直し、確りと前を見る。すると、ホルダーに固定していたスマホが震えた。アズサからの着信。何かあったのか、出来れば朗報であってほしいと思いつつ通話開始ボタンをタップする。
『こちらチームブラボー。チームアルファ、応答せよ』
「あ、アズサちゃん!」
『名前を言われるとコードネームを使った意味が無い……それはそれとして、ごめん。陽動作戦は失敗した。こっちは包囲されてる』
「はいぃッ!?」
『前方には火炎放射器を持った温泉開発部、後方は矢鱈強いツインテールの風紀委員。退路を塞がれた』
「そ、それ大丈夫なんですか!?」
『あぁ、陽動は失敗したが逃げるだけなら大丈夫。美食研究会の2人と協力して、私とハナコは先に目的地に向かう。お互い無事に落ち合おう、幸運を祈る』
その言葉を最後に通話が切れる。暗転した画面にはもう何も映らず、唯沈黙が返ってくるのみ。
「アズサちゃぁぁんッ!?」
「わ、私達って試験受けに来ただけよね!? どうしてこんな事に……ッ!」
「私だって聞きたいですよ! どうしてこんな事になってるんですか!? うわぁぁぁんッ!」
▼
「えぇ、分かった。場所は何処かしら」
ゲヘナ学園、風紀委員会本部棟。限られた者しか立ち入れない……という訳ではないが、何となく皆が足を踏み入れにくい執務室の中。委員長席と彫られたプレートが鎮座する席に座る少女は電話を片手に持ちながら、もう片方の手で書類にペンを走らせる。
「イオリと彼女直属の部隊以外は全員温泉開発部の方に行きなさい……報告感謝するわ」
電話を元の位置に戻し、最後の書類にサインをし終えたペンを置く。椅子から立ち上がり、そっと窓の外に視線を送った。外は当然の如く真っ暗、見慣れた空の色。元々、今日は徹夜するつもりであったため構わないが……こんな時間に問題を起こされ、仕事を増やされるのは普通に嫌だった。面倒事が次々やって来るゲヘナ自治区の治安に若干うんざりしながら、少女は鉛のような溜息を吐く。来週は日が変わる前に帰れたらいいな、と思うのは贅沢なのだろうか。
ハンガーに掛けてあったコートを羽織り、手袋を嵌めて────
「10分で済ませる。アコは引き続き部隊の指揮を」
「はい、畏まりました。委員長」
「美食研究会は私が相手するわ」
────空崎ヒナ、出撃。
▼
ハナコはスクーターのハンドルを思いっきり傾けて背後からの砲撃を回避する。この手の乗り物はあまり乗った事が無く、ほぼぶっつけ本番での運用のためどうなるか心底不安だったが……案外何とかなっていた。これが火事場の馬鹿力かもしれない、と思いながら前を見る。道は開けている。視界は広い。
「ハナコ、ハンドル左に切って!」
アズサの鋭い声に従いハンドルを切ると、つい先ほどまで後輪があった場所に7.92×57mmモーゼル弾が突き刺さる。幾らスクーターとはいえ、全力でアクセルを踏んでいる車両の後輪を正確に撃ち抜けるなんて一体どんな射撃精度をしているのだ。しかも、射手の彼女はハナコ達を有効射程範囲に収め続けるため全力疾走しつつ、少しでも隙を見つければ即座に狙撃してくる。今この場で最も居てほしくない相手だった。
「あのツインテールの風紀委員、やたら強いし狙撃の精度も高い……できれば振り切りたいな。ハナコ、もっと速度上げれる?」
「すみません、これが限界です。これ以上はどうやっても……」
「むぅ……」
アズサはスモークグレネードのピンを抜き、道路に転がす。とっておきの隠し玉……という訳ではないが、持ち込んだ数は多くないため節約したい。だが、あのツインテールの風紀委員……イオリを相手に出し惜しみをしている余裕はないのだ。
立ち込める白煙によりこちらも若干視界が悪くなるが、背後からの追撃も幾ばくか落ち着きを見せる。イオリと雖も、轟音が響くこの場でスクーターのエンジン音のみを頼りに狙撃するのは難しいのか、狙いが若干甘くなった。だが、それでも油断すれば直撃コースの弾丸が多い。やはり強い、とアズサは内心で焦燥を滲ませた。
「目的地は第15地区よね!?」
「はい! 15地区の77番街です……っと!」
「いたたたたッ! もー、何か私ばっかり狙ってない!?」
「あんな場所に何の用があるか知らないけど、分かったわ! 飛ばすから、ちゃんと着いて────」
ジュンコがそう意気込み、アクセルを踏む足にさらに力を込めた瞬間────眼前から紫電のような神秘を纏う弾丸が飛来した。数えるのも億劫になる程のそれは一発一発が致命傷になり得る一撃必殺。直撃を貰えば『痛い』では済まないであろうそれを前に、アズサは勿論ハナコですらも顔色を露骨に悪くした。
「ハナコッ!」
アズサが叫ぶと同時にハナコはハンドリングを行い、弾丸が直撃しないように車体を操作する。だが、圧倒的な密度を前にすれば完全回避は難しく、直撃こそないものの弾丸が掠った箇所の装甲が吹き飛び、重心が変わった事により車体が大きく傾く。
更に、それを狙いすましたかのように背後から放たれる弾丸。撃ち抜かれ、破裂するスクーターの後輪。弾かれたように後ろを見れば
「射線が通っていたか……!」
だが、それに気を取られる事は許されない。前方からは圧倒的な密度と攻撃力を持つ制圧射撃、後方からは超高精度の狙撃。挟み撃ちをされたアズサとハナコに与えられた猶予はごく僅か。その僅かな時間で2人はスクーターを放棄して盾にする、という解を叩き出した。
跨っていたスクーターから飛び降り、アズサは前方、ハナコは後方を見る。見据える先は未だに姿すら見えない誰かと、風紀委員会の切り込み隊長。戦力差は絶望的であるが、決して諦めないと意志を固く。この不条理な現実に牙を突き立てるべく2人は銃を握る。
ハナコは特別戦闘能力に秀でている訳でない。戦闘も銃撃も嗜む程度、キヴォトスの民としての一般の域を出ない。平の風紀委員であれば相手取れるが隊長格以上となれば厳しく、あの狙撃手と戦っても勝率はかなり低いだろう。それは分かっている。だが────やれる事はあるのだ。
彼女の狙いは正確だ。飛ぶ鳥すら落とすほどの狙撃精度。百発百中とはこの事で、狙撃の腕で彼女に並ぶのはトリニティの中ではハスミくらいだろう。
だが、彼女の狙撃は正確過ぎる。狙う場所に一切の遊びが無いのだ。脳天、心臓、首。人体急所を撃ち抜き、一撃で意識を刈り取ろうとする魂胆が丸分かり。飛んでくる場所が予め分かっている狙撃なら────幾らでも防ぎようがある。
「狙いが分かっているなら……っ!」
ハナコが狙撃手の相手を担う間、アズサは蹴り飛ばしたスクーターを即席の盾にして、念のため持ち込んでいた折り畳みシールドを展開。間に挟んだスクーターが一瞬で穴だらけになる事は予想の範疇。手榴弾を投げてスクーターを木端微塵に吹き飛ばして目晦まし、アズサはハナコを連れて道路の端の方に離脱する。
「これ、もしかして……ッ!」
10秒にも満たない攻防の果てに移動手段を奪われた2人を見て、ジュンコは青褪める。前から飛来した弾丸。ゲヘナの電動鋸とも呼称される特徴的な発射音。間違いない、行く先に立ちはだかっているのは────。
「余所見している余裕があるのかしら」
声は、直ぐ近くで聞こえた。
小柄な体躯に鋭い紫の眼光。赤熱し煙を吐く機関銃。捩じれた角と、巨大な翼。ゲヘナにおける秩序と恐怖の象徴。それを視認した刹那、唯の蹴りによってジュンコとイズミはスクーターごと吹き飛ばされた。
「うあぁぁぁぁぁッ!」
悲鳴を上げて転がる二人は途中で投げ出され、転がり、全身をコンクリートに強く打つ。だが、その程度では意識も戦意も失わないのが美食研究会。2人は直ぐに立て直し、銃を構えるが────彼女はそんな猶予を与えてくれるような相手ではない。彼女はジュンコとイズミを纏めて一撃で意識を消し飛ばし、撃破。その直後にスクーターの爆発が起きるが────たかがガソリンの爆発程度で彼女を止められる訳もなく、黒煙を切り裂きながらゆっくりとハナコとアズサの方へ歩いてくる。
「空崎……ヒナ……!」
ゲヘナ最強、空崎ヒナ。トリニティの生徒でも知っているゲヘナの有名人。
アズサは彼女を見て顔を悲痛に歪めた。相手がイオリであれば勝負になっただろう。だが、ヒナは駄目だ。天地がひっくり返っても絶対勝てない。才能、技能、神秘の総量、出力。どれを取っても圧倒的。真正面から戦って勝てる相手ではない、ハナコと2対1で戦っても結果は見えている。であれば時間稼ぎに徹するか……と思っても、時間稼ぎできるような温い手合いではない。それに、テストは全員で受ける必要がある。2人揃って、欠けることなくこの場所を突破しなければ。
「……あなた達が報告にあったトリニティの生徒ね。どうしてこう、面倒事は次々降ってくるのかしら」
ヒナは抑揚のない声で呟きながら歩いてくる。巨大な翼を広げる彼女は右手で身の丈ほどの巨大な機関銃を持ち、もう片方の手で気絶したジュンコとイズミを引きずっていた。ジュンコは兎も角として、あの僅かな時間の接敵で頑強極まるイズミの意識を奪うなんて、一体どれほどの攻撃力を有していれば可能なのか。
冷や汗が頬を伝う。放出される高濃度の神秘で喉が凍てつく。圧倒的なプレッシャー。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。
────詰み。その二文字が脳裡を過った。
「あなた達、補習授業部よね?」
「……それがどうした」
此方の素性を知っている────突き付けられたその事実に2人の顔色が悪くなった。何処まで知られているかは定かではないが、表面的な部分は確実に把握されている。
脳内でのシミュレーション。
今から最短で距離を詰めてハナコと2人で挟撃────駄目だ、5手でハナコが落とされて、7手で
距離を取るのは────これも駄目、制圧射撃で磨り潰されるのが関の山。
であれば、いっそのこと背を向けて逃げるか────もっと悪手、背を向けた瞬間ゲームセットだ。
どうすれば、どうすれば。どんな手を打てば、どんな道を選べば空崎ヒナを突破する事ができるのか。決して解の出ない無理難題に頭を悩ませていると、彼女は此方にも聞こえるほど大きな溜息を吐いた。
「風紀委員会の優先度は温泉開発部、次に脱走した美食研究会。あなた達の事は正直、捕えても捕えなくてもどっちでも良いって扱いになってるの」
「……だから、何」
「これ以上、ゲヘナの自治区で騒ぎを起こさないなら見逃す」
あまりにも都合の良い提案に2人は猜疑の色を強くする。此処までやっておいて、あと一歩という段階まで追い詰めて、見逃す? 紆余曲折があったとはいえ結果だけを見れば、2人は検問を無理矢理突破して風紀委員会を相手に立ち回ったのだ。どう考えても規則違反者だろう。それをみすみす見逃すなんて提案、疑わない事の方が難しい。
「……風紀委員会が私達を見逃すメリットが無いように思えますが」
「でも、美食研究会と温泉開発部を差し置いてあなた達を深追いするメリットも無い。そうでしょう?」
ヒナがそう言うとハナコは閉口する。一応、筋は通っている。ハナコ達が攻撃を受けていたのは美食研究会と行動を共にしていたからで、あくまで狙いは美食研究会……そう解釈する事は実際可能だ。だが、彼女の言葉を信じ切るには証拠が少なく、リスクが高い。
「元々、あなた達は騒ぎを起こすつもりはなかったでしょう? こうなったのは温泉開発部と美食研究会に巻き込まれたから。此処に来た理由も……大方、ティーパーティーから無茶振りでもされたんでしょう」
「……」
「あなた達の目的地は此処じゃない。私達の本題はあなた達じゃない。なら、互いに見なかった事にするのが賢い選択とは思わない? 私もエデン条約を前に荒波を立てたくないもの。それに、本気で捕らえるつもりならイオリを下がらせたりしないわ」
ヒナの言う通り、イオリはスクーターの後輪を撃ち抜いたあと近隣で発破している温泉開発部の鎮圧に向かった。他ならぬヒナの指示で。本気で捕らえる魂胆ならもっと早く詰ませる事ができたのに、それをせずにこうして対話する時間を作っている。この状況そのものがヒナが彼女達を捕えるつもりが無い事の証明だった。
ハナコとアズサは互いに顔を見合わせ、アイコンタクト。ヒナを無傷で素通りできるならそれに越した事はない。油断させるための罠と考える事もできるが、彼女ならばそんな回りくどい事をしなくても真正面から2人纏めて踏み潰せる。どうせ戦っても勝てないのだ。であれば、彼女の言葉に乗ってみてもいいのかもしれない────2人はその結論を下した。
「この下に川を下る遊覧船が停泊してる。乗り込んで動かせば自動で15区の近隣まで行ってくれるわ。恐らく、風紀委員会の包囲網も抜けられる」
「……何故だ。何故、そこまで私達に情報を流す」
「先生が守っている生徒だから。私はあの人の意志を尊重する。それ以外に理由がいるかしら?」
「……じゃあ、
「一旦、事情徴収で牢屋に送るけど……数日もすれば釈放か、勝手に脱走するわ。2人を見棄てる事を心苦しく思うのは構わないけど、他人に気を遣える余裕はないでしょう? 同情は此処に捨てていきなさい。美食研究会はあなた達に助けてほしくて戦ったわけではないはずよ」
「……ですが、空崎ヒナさんはお2人を捕えるんですね」
「それが私の仕事だからよ。此処の風紀を守る、それが私の役目……お喋りは終わり。進むなら見逃す、向かってくるなら潰す。さぁ、選びなさい」
突きつけられた最後通告。それを青い顔で吟味した2人は苦虫を嚙み潰したような表情を浮べて……ヒナに背を向けた。
「……感謝する」
「……ありがとうございます」
「賢明な判断ね」
そう言い残し、下に飛び降りる2人を見届けてヒナは銃のリロードを行う。美食研究会は残り2人。
▼
「アカリさん、どうやらヒナさんが出撃したらしいです」
「あら、それは拙いですね☆ どうにか先生達を送り届けたいのですが……」
「ジュンコさん達が引き付けてくださる内に、出来るだけ距離を離して────」
「ジュンコ達はもう捕えたわよ。だから後はあなた達だけ」
時速100kmオーバーで走行する車の真正面から聞こえたのは聞き覚えのある、だがこの場で最も聞きたくない声。マズルフラッシュが煌めき、上から撃ち下ろされる形で降り注ぐ弾丸はコンクリートごと給食部の車両を貫かんと迫るが、そこはアカリと先生の腕の見せ所。アカリは車体を器用に操り被弾を最小限しつつ、先生はその最小限の被弾をシールドで防ぐ。強烈な威力を持つ弾丸は積層展開した先生のシールドの6割を粉砕、しかし車は無傷で守り通した。アカリとヒフミはそれぞれ停車し、立ち塞がる障害を排除せんと飛び出す。
焦燥で跳ねる心臓を押さえつつ、少女は銃声が聞こえてきた方向に顔を向けると────そこで少女達はありえないものを見た。
「えっ……? えっ!?」
「と、飛んでます! あの方、飛んでますよ!?」
星月夜の輝きを一身に受けるヒナは翼を羽ばたかせ、飛翔していたのだ。月を背後に捩じれた角と巨大な翼を広げる彼女は正に宗教画の悪魔のよう。その在り得ざる光景にヒフミとコハルは瞠目し、声を上げる。
常識的に考えれば人が飛ぶなんてありえない事で、それはキヴォトスでも例外ではない。翼を持つ生徒は一定数いるが、それも大半が殆ど飾りの様なもの。感覚こそあるが多少の滑空が出来る程度で、宙に浮いたり飛ぶなんて芸当は不可能なのだ。形や系統は違えど同じ翼を持つ生徒であるコハルは、目の前の背丈がそう変わらないあの生徒のやっている事がどれほど出鱈目なのか────痛いほど分かった。
そもそも、あの生徒は飛行に翼を使っているのか。それすらもよく分からない。当然、翼がある生徒の方が空中に於ける身の制御は得意な傾向にあるが……あそこまで突き抜けていれば翼の有無なんて関係ないように思えた。
「と、と言うか、皆さん驚かないんですか!?」
「ヒナだし飛べるくらいはありえるかなって……」
「ヒナさんなら、飛ぶくらいは訳ないでしょう」
「ヒナさんですから☆」
ヒフミは人が飛んでいるのに割と平常通りな先生やハルナ、アカリに向かってもう少し驚きとかは無いのかと問うが、返ってきたのは微妙な解答。ヒナならば別に飛べても不思議ではないという、なんとも言えない意見を受け取ったヒフミは引き攣った笑み。このメンバーにこんな事を言わせるなんて、ヒナという少女はどれだけとんでもないのだろうか。彼女がゲヘナの最高戦力である事は噂で知っていたが、物理法則を捻じ曲げるほどのものとは思ってもいなかった。
「コハルは飛べる? 翼あるし」
「出来る訳ないでしょ!? 出来ても精々滑空くらいよ!」
背中の翼なんて飾り。鳥のように飛べるわけもなく、そもそも飛ぶなんて発想はなかった。正義実現委員会に翼を持つ生徒は一定数いるが、彼女達もやらなかっただけで飛べたりするのだろうか。ツルギやハスミあたりなら飛べても不思議ではないけれど……なんて思いながら、コハルはぎゅっと銃を握る。
────あの人は、強い。恐らく今まで会った事がある人の中でも突出して強い。コハルが会った事がある人物の中で彼女に並べるのは、委員長のツルギくらいだろう。尊敬してやまないハスミも、彼女と比べるとどうしても見劣りしてしまう。
真っ向からやり合っても絶対勝てない。コハル一人は勿論、ヒフミやハルナ、アカリと一斉にかかっても一蹴されるだろう。それ程までに実力差が開いている。先生の反則染みたシステムを使えばギリギリ勝算が生まれるかもしれない、と言うレベルだ。
ヒフミは青い顔でヒナを見つめている。先のアビドスの一件で彼女も来ていた事は知っていたが、こうして会うのは初めて。だが、ひと目見た瞬間に『違う』と分かるほどの力量。なるほど、先生が頼りにするのも頷ける。彼女と戦って勝てるビジョンが全く浮かばなかった。
ハルナとアカリは銃こそ持っているものの、どこか余裕そうな表情。それは勝算があるから────などという訳では決してなく、逆立ちしたって勝てないと知っているから。勿論、諦めて捕まるつもりはないし、補習授業部を送り届けるミッションを投げ出す事もしない。
取り敢えず、ヒナが戦闘の姿勢に移るまで此方も特に引き金に指をかけない────それが2人の総意だった。ヒナはかなり常識的で話も通じ、特に問題を起こしていないなら例え美食研究会であっても友人の様な距離感で接する柔軟性を持っている。なら、即座に戦闘に移るのは短慮が過ぎる。戦闘は交渉が決裂してから。それに、此方には
「ヒナ……」
「先生……」
天上に浮かぶ星を見上げるようにヒナを見る先生。地上に咲く花を見下ろすように先生を見る彼女。互いに無言なのは言葉は要らないから。2人は互いの律動だけで思う事が伝わる。
10秒程度経った後、ヒナは軽く目を伏せ、彼はタブレットを構えた。戦闘開始の合図……かと思ったが、それはどうやら違う様で。戦闘開始直前の張り詰めた空気は何処にもなく、ただ穏やかな沈黙が2人を包んでいた。
「……良いんだね」
「えぇ、あの子達も行ってるわ」
「……ありがとう、埋め合わせはするよ」
「もう、充分すぎるほど貰ってるわ。数えきれないほどに、ね」
「それでも、だよ。ヒナには助けられてばかりだ」
「貴方には救われてばかりよ、先生」
────何も救えていないさ。何も。
その言葉を呑み込み、彼はシッテムの箱を操作。あらゆる電子機器が沈黙し、クラフトチェンバーから直接設置されたスモークグレネードが炸裂。皆の視界を白煙で埋め尽くすが、先生と接続された事により視界はクリアになる。
「ハルナ、アカリ、フウカ、今までありがとう。この先は私達だけで行くよ。だから、皆も早めに此処から逃げて。後の事は大丈夫だから」
「よろしいのですか? 車も無事ですし、まだ動かせますが……」
「うん。此処まで来たら後は目と鼻の先だし、この先は小回りが利いた方が良い。それに、ハルナ達もあんまり余裕ないでしょ? 今はヒナが融通を利かせてくれているけど、何時までもって訳にはいかない」
彼はそう言い、端末を操作。ハルナとアカリに位置情報が共有される。
「ジュンコとイズミはこの先の護送車にいる。包囲網が薄い場所も分かってるから、2人なら突破出来ると思うよ。給食部の車は使わない方が良いかな。多分、小回りが利く方が色々とやりやすい」
「そうですか……ありがとうございます☆」
「ふふっ、では、これでお別れですね」
車を降りるハルナとアカリにフウカは『助かった……』と言わんばかりの表情を浮べる。しかも、彼が釘を刺してくれたお陰でもう車を使われる事も多分ない。フウカは感謝の籠った目で彼を見ると、苦笑いしながら『これくらいはね』とアイコンタクト。
────彼の行動は善ではない。秩序を守り、取り締まろうとする風紀委員会。牢屋を脱出した美食研究会。善であろうとするならば彼は前者に立つべきだし、秩序の維持を肯定する彼の信念から見てもやはり彼は前者の側に在る方が自然だろう。
だが、彼は自身が悪である事を承知の上で美食研究会に肩入れした。助けられた恩。放っておけないから。それも確かにそうであるが、一番は彼女達の手を取ったからだ。一度手を握った生徒を自身から手放したくない、どんな境遇だったとしても手を握った自分くらいは肩入れし続けたい、最後まで手を取った生徒の味方で在り続けたいのだ。それが、どんな結末を招いたとしても。
彼はふわりと微笑んで、少女達を見る。一緒に走って来てくれた、愛しい生徒達を。
「ありがとう、本当に助かったよ」
「あ、ありがとうございました! お礼は何処かで必ず……!」
「あ、ありがとう、ございました……」
────現在時刻、午前2時29分。試験開始まで残り30分を切った。
▼
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
一体どれほど走っただろうか。時間に直せば20分も走っていないとは思うが、色々な事があり過ぎて体に疲労が溜まり、まるで鉛のように重い。とてもじゃないがテストを受けるのにベストコンディションとは言えないが、それでもやらなければならないから足を必死に前へ動かす。
「あった、旧センタービル!」
コハルが指し示した場所は試験会場に指定されたビル。片方の扉が外れたビルの入り口からヒフミとコハル、先生は建物の中に入ると、若干かびたような、埃っぽい臭いがする。溜まり場にしていた不良達も手入れはしていなかったのか、所々蜘蛛の巣が張っていた。電源系も死んでいるのか上に垂れ下がっている蛍光灯は一切の明かりを放っておらず、頼りになるのはスマホの懐中電灯機能と外の明かりだけ。
妙な緊張感を抱えたまま3人は幾つかの部屋を通り過ぎ、遂に目的の号室まで辿り着く。
「112号室……」
恐らくドアがあったであろう場所を踏み越えて、少女達は入室する。この部屋も他の部屋やエントランスと変わらないほどに荒れ果てており、窓の大半は割れ、壁や地面には亀裂が幾重にも重なっていた。会議用と思われる机はあるが、辛うじて使用に耐えうると謂うレベルで快適な環境とは口が裂けても言えない様相。時刻は午前2時45分、このままアズサとハナコを待とう、と思った所で……3人から見て後ろ側の出入り口から入室する影が2つ。
「お待たせしました♡」
「2時45分……何とか開始時間前に着いたか。だが、流石に疲れた……」
ハナコは何故か水着で、アズサはガスマスクを装着済み。異様な光景である筈なのに何だか見慣れてしまったような気がするのは気のせいなのか。
「えっと……」
「そっちはそっちで何があったのよ……」
「その辺りの共有は後にしようか。今は……」
「はい、試験の方を優先しましょう」
いつの間にか制服に戻っていたハナコは周囲を見渡す。不穏な気配や戦場特有の緊張感はない。静かすぎるほどに静かであるが、この静寂は風紀委員会が外出規制しているためだろうか。
だが、この建物の中に不良の影が無いのはおかしい。此処はそれなりに有名な場所であり、不良であるならば外出規制なんて聞く耳を持たないだろう。にも拘らず誰も居ないのはおかしい。先に到着したヒフミ達が追い出したりしたのだろうか、と思ったが……それもどうやら違う様で。であれば、誰がやったのだろうか。そんな答えのない問いを一旦頭の中に仕舞っておく。
「ど、どうしてこんな所で試験を……あ、試験用紙とかはどうなるんでしょうか? 誰か来てるんですかね……?」
「いや、誰もいなさそうだ。でも何かしら、手段は用意しているはず……」
アズサはそう言い、窓際の方まで歩いて行き倒れているラックを退かして地面を探し始める。突然の行動に目を白黒させている内に彼女は「……これだ」と呟き、取り出したものを少女達の方まで持ってきた。
「これは……不発弾、ですか?」
「L118牽引式榴弾砲の弾頭だ。元はスローガンとかの散布用なんだろう。雷管と爆薬を取り除いて、爆発しないように加工してある」
「なるほど、L118という事はティーパーティーの……つまり、ナギサさんからという事ですね」
「あぁ、だから恐らくこの中に問題用紙か、少なくとも何かがあるはず。開けてみる」
不発弾を解体するような手つきでアズサは弾頭を解体すると、中からは丸められた紙束とスマホが1つ入っていた。
「あ、中に紙が……これが試験用紙でしょうか?」
「特に破損も見られない。こっちはスマホ……恐らく通信用だな」
スマホの電源をオンにすると、OSの起動画面が表示されたのちにビデオ映像に切り替わる。ティーパーティーのテラス、先生にとっては見慣れていて、行き慣れた場所が映った。その映像の中央、張り付けた様な嫋やかな笑みを浮べて椅子に座っていたのは────この一件を仕組んだナギサだった。
『補習授業部の皆さん、こんばんわ。これを見ているという事は無事に到着されたようですね』
「な、ナギサ様!?」
「……桐藤、ナギサ……」
「……」
「え、じゃあこの方が、ティーパーティーの……?」
「ナギサ……」
スマホに映る彼女はいつも通りの、ティーパーティーのホストらしい優雅さを携えたまま紅茶を口に運び、周囲を見渡すような素振りを見せる。それを補習授業部の生徒達は様々な感情が入り混じったような目で眺めていた。
『ふふっ……恨みの声が聞こえてきますね。ですが、此方は所詮録画映像なので、リアルタイムには聞こえないのですが。ですので、今の私に話しかけても無意味ですよ』
「……」
『それでは、約束の時間までに試験を終えて戻って来てくださいね。引き続きモニタリングはさせて頂いておりますので、その事をお忘れなく……では、幸運を祈りますね。補習授業部の皆さん』
此方の言動は全て筒抜けであると改めて突き付けたナギサは一層笑みを深くして。
『
その言葉を最後にビデオ映像は暗転し、スマホ自体も電源が落とされた。恐らくこれが再び点灯するのは試験が完了した後……午前4時頃だろう。
「あうぅ……」
「何だか最後、含みのある言い方でしたね……」
「一体どうなってるのよ……」
「……兎に角、時間が無い。早く始めよう」
「は、はい! 皆さん、席に着いて筆記用具を出してください! いよいよ第二次特別学力試験です!」
ナギサの言い方や態度、表情に何処か引っ掛かる部分はあったものの、今はそれどころではないと意識を入れ替える。試験開始まで残り10分も無い。急いで準備をしなければと少女達は各々の鞄から必要な筆記用具を取り出し席に着いた。その間に先生も問題用紙を準備し、少女達に配る。残りは1分。
────コンディションは万全とは言えない。トリニティからゲヘナまでの長距離移動や戦闘で精神的にも肉体的にも疲弊していて、試験環境も良いものではなかった。加えて、試験範囲は3倍に膨れ上がり、合格点は90点に引き上げられている。これで合格できたらそれはもう感涙物であり、叶わない奇跡だと知っていた。
だが、それでも……まだやってもいないのに『無理だ』なんて諦めたくなかった。最後まで前のめり、点数が出る直前まで諦めない。この合宿で過ごした一週間を無為にするもんか。
「準備はできた? 疲れてると思うけど、あと一息だ。皆なら必ず合格できるって、私は信じてるよ」
「……はいッ!」
「その期待に応えよう」
「ふふっ♡」
「う、うん……が、頑張るからッ!」
固まった心を解すように先生が背中を押せば、少女達は少しだけ柔らかい表情を浮べた。不安は和らぎ、大きな自信と合格すると謂う意志。ペンを握り締め、集中力を研ぎ澄ます。先ずはこの試験を全力で解こう。色々考えるのはその後だ。
良い表情になった生徒達に僅かな安堵を覚えた彼は片手でタブレットを持つ。バッテリーの残量は少ない。損傷した循環器系と呼吸器系を補助する生命維持機能は動作しているが、戦闘行為や探知等はもうできないだろう。信じられるのは自分の勘だけ。
それぞれの緊張と想いを抱え────時計の針が十二の文字を指示した。
「それじゃあ────試験、開始」
第二次特別学力試験、開始。
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「……やってくれましたね、先生」
ティーパーティーのテラス、ナギサは『敵』に向けて声を送る。
「あの時から私の手を読んでいた、という事でしょうか。私の部隊の方への対処も、温泉開発部の発破部隊の方への対処も……えぇ、完璧と言わざるを得ません。シャーレを敵に回す事の恐ろしさ、心底理解しました。幾つもアドバンテージを握っていたのにも関わらず、結局イーブンに持ち込まれ、念のため用意していた奥の手を使わざるを得ないなんて」
真正面からよーいドンでは絶対勝てなかったと、彼に対して混じりけの無い賞賛を送りながら────その眼は獲物を狙い定めるように。
「では、砲手────手筈通りに」
深夜3時、轟音が響いた。
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第二次特別学力試験、結果
阿慈谷ヒフミ────試験用紙紛失、不合格。
浦和ハナコ────試験用紙紛失、不合格。
白洲アズサ────試験用紙紛失、不合格。
下江コハル────試験用紙紛失、不合格。
補習授業部、第二次特別学力試験────全員不合格。