シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
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闇夜を切り裂くような赤い何かが空に走った事を認識したと同時に、地盤を揺るがすような轟音と視界を焼き尽くすような光が炸裂した。衝撃波と熱風が乱暴に全身を叩き、舞い上がった建物の粉塵で視界が遮られる。
聞き慣れた音、戦闘音。鼻孔を擽る火薬の香り。何時もなら即座に意識が戦闘用に切り替わるはずであったのだが、便利屋の少女達の内心を先に支配したのは不安と焦燥だった。
「なんで爆発が起きたのよッ!? さっき見た時は爆弾なんてどこにも……!」
「アルちゃん違う、アレ砲撃! どっかから先生達が狙い撃ちされたの!」
「方角は……あぁ、クソッ」
カヨコは砲弾が発射されたと思われる方向に怒りを伴った鋭い視線を向ける。トリニティ自治区がある方角。先生と対立していると思われるティーパーティー。誰がやったかなんて問うだけ無駄だ。
「せ、先生……ご無事でしょうか……?」
ハルカの心配そうな声に皆は固唾を呑む。彼がキヴォトスの人間ではない……つまり、脆く柔い事は身に染みてよく分かっていた。アビドスで2回、ミレニアムで1回。彼は生死の境目を彷徨っている。防御手段があると知っているが、それでも油断はできない。少女達の手に力が籠った。
「アル、作戦は失敗。狐坂ワカモとミレニアムのエージェントに合図は送った。後は2人が退路を確保してくれるから、私達は先生と補習授業部を援護、ゲヘナ自治区から脱出させるよ。最優先は先生の安全確保」
「え、えぇ……」
アルは内心で『落ち着くのよ、陸八魔アル』と呟く。怖いのは、不安なのは、焦っているのは、心配なのは皆一緒。だからこそ社長である自分がしっかりしなければと彼女は自分自身に言い聞かせ、深呼吸。きゅっと閉まった胸の痛みが僅かに和らいだ頃、アルは皆に目配せ。合図はそれだけで充分だった。
「全員ポイントを更新、あの建物に突入するわ!」
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「ナギサ様!」
「何でしょうか?」
ノックすらなく慌ただしい足取りでテラスに転がり込んできたのはナギサの付き人、専属行政官の少女。肩で息をする彼女に『はしたないですよ』と思いつつ、どんな時も礼節を欠かさなかった彼女がここまで焦るなんて何があったのだろうか────そんな疑問と、嫌な予感とも言える黒が心の片隅に生まれた。
そして、その予感は的中する。
「サーモバリック弾が使用されました! 被害半径は不明ですが、現地で監視を行っていた監視官との連絡も途絶え、補習授業部の部員ならびに先生の安否も……ッ!」
サーモバリック弾。大気中に広く拡散させた炸薬を燃焼させることにより、熱と圧力によって対象を殺傷することを目的とした兵器。簡単に言えば、ガス爆発によって攻撃する気体爆薬だ。
サーモバリック弾の炸裂は、先ずは固体から気体に変化する際の爆発的な相変化、次に分子間の歪みを起因とした自己分解による爆発、最後に空気中の酸素と結びつくことによる爆発……と、三段階に分かれている。
対象を襲うのは爆風、衝撃波による圧力の急激な変化。合成された爆薬の炸裂。爆発後の急性無気肺や肺充血、充満した一酸化炭素による窒息。
サーモバリック弾は特にキヴォトスの民には効果的だ。熱風や衝撃、爆発に耐えれても一酸化炭素中毒は防ぎようがない。酸素が無ければ死に至るのは当然であり、サーモバリック弾はキヴォトス人の頑強さを貫通するために生み出された一種のアンサーの様なものだった。
そんな兵器を使用した? 裏切り者の候補者達とはいえ、トリニティの生徒達に? しかも、キヴォトスの民よりも遥かに強度が低い先生もいるのに?
最悪の可能性が脳裡に浮かんだナギサは血相を変え、普段の優雅さをかなぐり捨てて叫ぶ。
「砲手を今すぐ此処に呼んでください! 正義実現委員会の……仲正イチカさんに連絡を! 砲手の拘束には彼女達の部隊を動かします! 多少手荒になっても構いません、何としてでも次弾装填前に捕らえてください!」
「か、かしこまりました!」
スマホを取り出し、ティーパーティーに向けて指示を出すナギサ。それを視界に入れつつ、行政官の少女は正義実現委員会に連絡を入れる。こんな時間に叩き起こしてしまうのは心底申し訳ないが、今は緊急事態のため目を瞑ってほしい。数コールの後に回線が繋がり、矢継ぎ早に状況を伝えると固い声でツルギが『分かった』と了承。イチカを動かせる事をナギサにハンドサインで伝えると、彼女は次の指示を出す。
「他のティーパーティー傘下の皆さんは全員その場で待機を! 事態が終息するまで、許可なく動いた場合は容疑者と看做し拘束します! 動かせる正義実現委員会のメンバーはティーパーティー傘下生徒の監視に当ててください!」
一先ず指示を出し終えたナギサは一息を吐き、電話を切る。その頃には行政官も正義実現委員会に指示を出し終えていて、トリニティの校舎が少しだけ騒がしくなった。校舎に残っていたメンバーが動いてくれているのだろう。
「……申し訳ありません。報告してくださったあなたを疑う訳ではありませんが、あなたを此処から動かすわけにはいきません。ティーパーティー傘下の生徒は例外なく、先の命令の対象ですから」
「は、はい……」
申し訳なさそうにそう言い、ナギサはテラスの方へ歩き出して────砲撃が行われた方向を睨み付けた。
「何故、通常砲弾ではなく特殊砲弾を使用したのですか……ッ!」
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轟々と燃え盛る炎。舞い散る粉塵。肉と血が焦げるような香りと、灰の匂い。空気を吸い込めば熱波が喉を焼き、飛びそうになる意識が世界の輪郭を曖昧にする。
超高温の熱風と凄まじい衝撃波、白く塗り潰された視界と鼓膜を貫通するような轟音、崩れ去る建物と瓦礫の影。先生が先ほど見た全ての光景。
舞い上がるのは風化しかけたコンクリートの粉塵。蛇のように地面を這う炎。時折聞こえてくる倒壊音。1階から上の階層が天井ごと吹き飛んだ建物。吹き飛ばされ、建物の外まで転がされた先生はゆっくりと立ち上がった。
熱で溶けた服の化学繊維が皮膚に張り付いて火傷を負い、吸い込んだ熱風で喉と内臓が灼けている。コンクリートの破片が全身を打ったのか節々が鈍い痛みを訴えかけているが、先生は唯の意志でそれらを全て捩じ伏せる。
痛みは酷いが、痛いのは生きている証。この痛みを認識している限り、自分は死体ではないと言い聞かせる。それに、この程度で済んだのは運が良い方だ。何せ、シールドが十全に展開し切っていなかったのだから。
「ふ、ぅ────」
試験会場に辿り着いた時点でシッテムの箱のバッテリー残量は底が見えていた。彼の身体機能補助に不足は無いが、戦闘行為は不可能。攻撃支援やシールドの展開、再生補助をしようものなら僅か数分でバッテリー切れになるというレベル。
砲撃が見えた途端、彼は自身の身体補助機能を切りシールドを展開したが構築が甘かったのと威力を見誤っていた事により貫通され、弾頭は炸裂した。自分は傷を負い、シッテムの箱は身体機能補助すら節約しなければならないほどバッテリーが減り、皆の解答用紙は恐らく炭になっただろう。
「っ、意識、が……」
一酸化炭素中毒。酸素が脳に回らない。視界がぼやける。意識が霞む。頭が痛い、吐き気がする。地面に伏した先生はバッテリーを食いつぶす事を承知の上で毒性物質の除去を実行し、周囲一帯を浄化。時間は掛かるだろうが、何もしないよりはマシだ。
「────」
補っていた循環器系と呼吸器系の働きが落ちたことにより急激に意識が遠のく。心臓が痛い。肺が痛い。息ができない。呼吸が苦しい。まるで水中に沈んだかのように音が曇って聞こえて、耳鳴りがした。全身から流れるものが汗なのか血なのか、それすらも分からない。
「み、んな、は────」
自身の生命が危ぶまれる土壇場であっても考えるのは生徒達の事。生徒達は大丈夫だろうか。痛くないだろうか。苦しくないだろうか。泣いていないだろうか。ヒフミ、ハナコ、アズサ、コハル、アル、ムツキ、カヨコ、ハルカ、トキ、ワカモ────それ以外にも沢山の生徒が頭を過った。
助けなければ。守らなければ。あの笑顔を、あの幸福を、あの日常を。それだけが自分の存在理由なのだから、それだけがこの身に与えられた権利だから。それが、自分のしたい事だから。溢れる意志を命と謂う燃料で燃やしながら全身に力を入れるが、その腕は空虚すら掴めない。再び地面にうつ伏せになった彼の腕は指先一つすら満足に動かせず、ただ無力を噛み締めながら失意の中で意識を失う瞬間を待つのみ。
「────み、ん、な」
崩壊した建物。地面を這う炎。誰かの声。何かの音。酸素の薄くなった空気。全てがマーブル模様を描いて混ざり合い、壁の崩れる音と共に彼は虚無の螺旋へ意識を落とした。
▼
「けほッ、けほッ、ゴホッ! い、一体何が────!?」
炸裂したサーモバリック弾は室内における有効性を存分に示し、ビルを文字通り一撃で吹き飛ばした。爆心地となったのは補習授業部の少女達が居た部屋。机、椅子は吹き飛び、それに加えて上から降り注ぐ瓦礫の山により部屋は悲惨な様相を呈しており、最早テストがどうこう言っていられるような状態ではない。
ヒフミは自身の上に覆い被さっていた瓦礫を一息で退けて、這い出る。制服やタイツは煤やら泥やら砂で汚れ破れていて、下から覗く素肌にも傷が出来ている。地面に転がっていたペロロバッグは煤で汚れており、『帰ったら洗濯しないと』と思いつつ拾い上げて────周囲の様子を改めて視界に収め、絶句した。
「こ、こんな……」
至る所が燃え、壁や天井は全て吹き飛び、周囲に火薬の香りと瓦礫の山が散乱している。くらりとしてしまうほどの熱気と煙に再び咳込みつつ、ヒフミは声を張り上げる。
「皆さん、ご無事ですか!? ご無事でしたら返事をしてください!」
酷い耳鳴りと、何かが崩れる音しか聞こえない。その事実にヒフミは喉が凍り付くような悪寒を覚えて……一番安否を気にしなければならない人に向けて、叫ぶ。
「先生! 先生! ご無事ですか!? 聞こえていたら返事をしてください! 先生ッ!」
ヒフミは銃とバッグを握り締めて炎で満ちた空間を走る。地面や瓦礫の山を注意深く見ながら彼女は声を上げて、人が居そうな場所を探す。すると、熱気で揺らめく視界の隅で僅かに揺れる瓦礫を見つけた。
「だ、大丈夫ですか!? 待ってください、今助け────」
「けほっ、こほっ……」
瓦礫の山から這い出てきたのは真白い制服を砂利や煤で黒く汚したハナコだった。彼女は転がっていた自身の銃を掴み、頬に付いた泥を拭う。露出した白い健康的な肌の至る所に擦過痕が残っており、血が流れていた。ヒフミは無事だったハンカチを傷口に縛る。
「……ひ、ヒフミちゃん。ご無事そうですね、良かったです」
「ハナコちゃんは大丈夫ですか? どこか痛んだりとか……」
「私は大丈夫です。軽傷ですので」
ハナコは差し出されたヒフミの手を掴み、立ち上がって……周囲の惨状を見渡した。
「一体、何が……?」
「わ、分からないですが……突然爆発が起きて、皆吹き飛ばされて……気が付いたらこんな事に……!」
尾を引くような火薬の香り。通常弾では考えにくい燃焼効果と温度。ビルを一棟丸々吹き飛ばす威力。この時点でハナコは用いられたのが通常の弾ではないと考えていた。何が使われたのか、と思考が回るがそれを強制的にシャットアウト。探偵ごっこなんて後で幾らでも出来る。今はやるべき事をやらなければ。
「他の皆さんは?」
「そ、それも分かりません! ハナコちゃんしか見つけられなくて……! アズサちゃんもコハルちゃんも、先生も見つからなくて……!」
「ッ! それは、拙いですね……!」
この爆発は決して笑って済ませられるようなものではない。明確な害意、或いは殺意があってやった事だ。でなければヘイローを持つ少女達が手傷を負うはずがない。そんな攻撃を神秘を持たない先生が受けてしまったら……そう考えるだけで身の毛がよだち、心臓が早鐘を打った。
急いで探さないと、と逸る内心のままに足を進めて────前方から二つの影が歩いてくるのを視認した。
「ヒフミ、ハナコ!」
「アズサちゃん! それにコハルちゃんも!」
「けほっ、けほっ……よ、良かった、2人とも無事だったのね……」
炸裂した弾頭により吹き飛ばされていたアズサは瓦礫の山から自力で這い出し、近くにいたコハルを助けてから既に脱出していたヒフミ、ハナコと合流する。4人全員、制服は汚れて破れて素肌に傷が散見されるが、重傷と呼べるものは1つも無い。この規模の爆発で誰一人大きな怪我を負わなかったのは奇跡だろう。
「そ、そうだ! 先生! 先生は何処!? ヒフミ達と一緒じゃないの!?」
「わ、私達も探している最中で……! 先ほどから呼んでるのですが、お返事も無くて……!」
「……そうか」
悲痛な沈黙が少女達の場を支配する。お互いに『別行動中の方に先生がいる』と思ったのだろう。だが、実際は何方にも居らず……きっと今も、この惨状の何処かにいる。
「一刻も早く探しましょう。仮に瓦礫に埋もれていたとしたら、時間経過で生存率は下がります」
「二手に別れよう。私とコハル、ヒフミとハナコ。私達が西側、ヒフミ達は東側を担当してほしい」
「で、ですが、皆で手分けした方が……」
「単独行動だと瓦礫に埋もれても誰も助けられない。崩落の危険性がある以上、単独行動は可能な限り避けた方が良いだろう」
短くそう言い放ったアズサはコハルの手を引き、西側に走っていく。それを見てヒフミとハナコも四の五の言っている場合でないと意識を新たにして東側の捜索を始めた。
「炎がさっきより広がってる。拙いな、長居すると先に酸欠になる……」
「せ、先生ぇ……! どこぉ……!」
アズサは炎と瓦礫をかき分けて進む。人が居そうな瓦礫は全てひっくり返して探し、何の手掛かりも掴めなくても次の瓦礫へ。兎に角早く助けないと、その一心でアズサは手足を動かしていた。
コハルもアズサと同じく瓦礫の山に見知った影を探す。涙の滲んだ声で彼を呼んでも何の返答も返ってこない……そんな現実に押し潰されそうになるが、我武者羅に捜索して不安を忘れようとしていた。
「先生、どこにいらっしゃいますか!?」
「ご無事でしたら返事をしてください、先生!」
ハナコとヒフミも同じように瓦礫の山と炎の海を踏み越えて、崩れ去った場所を必死に探す。物音が聞こえた方向に足を進ませ、人が居そうな瓦礫の山は片っ端から退かして、誰も居ない現実に心を痛める。その繰り返し。時間が経てば経つほど生存率は下がる。誰も居ない瓦礫をひっくり返した分だけ彼の命は消える。少女達の焦りは加速するばかりだ。
先行する内心を落ち着かせようとハナコは深呼吸。咽て咳込むが、少しは冷静になれた様な気がする。闇雲に探しても駄目だ、先ずは手掛かりを探さないと始まらない。ハナコは目を凝らして周囲を観察する。破れた服の破片でも何でも良い、手掛かりになりそうなものなら。そう思い、ハナコは建物内だけでなく外の方にも視線を向けて────視界の端、煙の向こう側に淡い光を捉えた。
「ヒフミちゃん、こっちに来てください!」
「は、はいッ!」
ヒフミの手を引き、最短距離で突っ切ると其処は建物の外。中よりは多少マシであるが、それでも酷い事には変わりなく、抉れた地面と立ち昇る煙が攻撃の激しさを物語っている。ハナコはヒフミの手を握りながら、先ほど見た光の位置を探す。
慎重に歩を進めているとつま先に何かが触れた様な感触があった。そっと屈んだハナコが拾い上げたそれは、彼が肌身離さず持っていたタブレット。彼がこの近くにいる動かぬ証拠であり、手掛かり。ハナコが見たのはこの光だった。
見つかった証拠に2人は顔色を変えて周囲を見渡す。手で煙を払いながら必死に探し、僅かな残滓すら捕えて見せると意気込んだ彼女達は……遂に視界に見慣れたシャーレの白を捕えた。
「ヒフミちゃん!」
「アズサちゃん! コハルちゃん! こっちです! こっちに先生がいます!」
ハナコが叫ぶと同時にヒフミも声を張り上げ、別行動中の2人に伝達する。それを聞いた2人は走って室内を突っ切り、建物の外に飛び出した。急いで駆け寄った少女達が見たのは瓦礫に半身を埋もれさせた先生。どうやら上手く体が隙間に潜り込んでいるようで、瓦礫で押し潰されていなかった。それに、見たところ息もちゃんとしている。一先ず彼の無事を知れた少女達は一様に安堵の表情を浮べた。
「せ、先生!」
「待ってて、今助けるからッ!」
「瓦礫を退かす、手伝ってくれッ!」
「はいッ!」
少女達は協力して大きな瓦礫を退かし、横に転がす。巨大な質量が地面を揺るがし、粉塵が宙に舞うが少女達は意に介さず先生の方に駆け寄る。
「先生、大丈夫ですか!?」
「……ッ」
小さな呻き声を漏らした先生を皆で協力して安全そうな場所まで運び、夜空と炎の明かりを使って全容を照らし出す。
真白い服は血で汚れ、所々黒く焦げていて。全身に切り傷の様なものが出来ていて、額や頬、口元からは血が流れている。右肩の付け根辺りも何かで切り裂かれた様な痕があり、そこからは絶え間なく血が流れていた。
「……酷い」
ポツリと呟いた声の主が誰のものなのかは分からないが、全員の総意である事は言うまでもないだろう。眼を閉じて眠るように苦悶を零す彼を見て、少女達の胸が切り裂かれたように痛んだ。
「ど、どうしましょう……! こんな時はどうすれば……!」
「と、兎に角止血しないと! 消毒液と……誰かハンカチとか持ってない!?」
コハルは鞄の中を弄り、携帯用の消毒液を持ちながら叫ぶ。絆創膏の持ち合わせはあるが、ここまで深い傷に絆創膏を使っても意味が無い。もっと大きなものか、包帯やハンカチ、或いはタオルのようなものが無ければ止血できないだろう。コハルは自身のハンカチを一番傷が深そうな肩口に当てながら後ろを振り返り、叫ぶ。するとハナコは自身のものとヒフミから貰ったものをコハルに手渡そうとした所で……アズサに肩を掴まれた。
「ハナコ、駄目だ」
「ですが、血を止めないと……」
「先生の体は神秘を受け付けないんだ。私達の血は先生にとって猛毒になる」
「……そう、なのですね」
ハナコは血で汚れた方のハンカチを再び自身の腕に巻いていると、アズサはポケットから一枚のハンカチを差し出した。受け取ったハナコはコハル、ヒフミと協力して先生の処置を進める。邪魔なコートとジャケットは一先ず脱がしてシャツ一枚に。傷口を消毒をしてから浅いものは絆創膏で、深いものはハンカチで縛って止血。ハナコは処置を進める傍らで思考を回す。
幸いなことに大きな傷はない。火傷、切り傷、打撲が主で口や耳、鼻からの出血も現時点では未確認。だが、これはあくまで目に見える範囲の、表面的な傷だ。体の中がどうなっているのかは一切不明。もしかしたら内臓に傷を負っているのかもしれない。誰も彼の傷の全てを把握できていないのだ。見落とした傷が致命傷……なんて可能性も、ありえない話ではなかった。
「処置は終わりました。できれば目を覚ますまで安静にしておきたいのですが……」
「ここに留まるのは悪手だ。次弾がいつ来るか分からない」
「……はい、私もそう思います」
アズサの意見にヒフミは賛同する。そもそも、此処は環境が劣悪だ。安静にしておきたいのは山々だが、傷の処置も応急手当の域を出ない今、可能な限り早く医療機関に受診する必要がある。この場所からの脱出は急務だった。
ハナコは先生を背負い、移動の準備をする。試験なんてもう今はどうでもいい。先ずはここから逃げないと……そう思った時、少女達の耳に複数人の足音が聞こえた。
「確か、こっちの方で声が……」
果して、少女達の眼の前に現れたのは便利屋68の少女達だった。先生の意識があれば即座に仲を取り持つことができただろうが、アズサから見ればアンノウンでしかない。彼女は弾かれたように銃を構え、それに呼応するようにカヨコも銃の照準を向ける。
「……誰だ」
「シャーレ所属、便利屋68。先生の依頼を受けて此処に居る」
別にシャーレの所属という訳ではないが、嘘も方便。こう言った方が、揺ぎ無い味方だと宣言した方がトラブルは少なくなると身に染みて分かっている。今は時間が惜しいから変に疑わないでほしいとカヨコは思い……そして、その祈りが通じたのかアズサは徐に銃を下した。
便利屋68、その存在を過去の知識の産物とはいえ勿論アズサは知っている。そして、彼女達の事は充分に信頼できるとも。一先ず戦力が増えた事に安堵しつつ便利屋68の少女達を改めて見ると、控え目そうな少女の背に人影が1つ。
「そこの紫髪の人が背負ってるのは?」
「この建物の少し離れた場所で気を失っていたから、一応運んできたのだけど……もしかして知り合いかしら? 多分、トリニティの生徒だとは思うけど……」
アルはそう言い、ハルカを前に出して背負っている生徒の顔をアズサに見えるようにする。だが、その生徒はアズサの見知った人物ではなかった。
「いや、見覚えはないな。だが、恐らくトリニティの……ティーパーティーの生徒のはずだ」
「助けたのは正解だったって事だね。少なくとも、この件に関して私達よりは知っているはずだし」
「あ、あの、私はどうすれば……この方、皆さんにお渡しした方が良いでしょうか……?」
「……そうだな、ありがとう」
アズサは預かった生徒を自身の背中にハーネスを使って固定する。念のため手足を縛り、即席の猿轡を噛ませれば充分だろう。この生徒には聞きたい事が多過ぎる。
「じゃあこっちからも質問なんだけど~、先生ってどこかな?」
声音は朗らかだが、その眼は全く笑っていない。一切の虚飾を許さないと言わんばかりにムツキが瞳を蠱惑的に細めれば、アズサは僅かに顔を顰め……それから一つ息を吐いた。
「……ハナコ、こっち」
少女達はハナコに背負われた傷だらけの彼を見る。何度か見た傷を負う彼。だが、慣れる事なんて全くない。寧ろ逆で、彼が傷を負う度に、痛みを新たにするたびに……焼き尽くすような怒りが沸いて出てくる。ムツキは奥歯を鳴らし、獰猛に笑った。
「くふふっ……面白くなってきたじゃん」
「……えぇ、本当に。面白くて……腸が煮え繰り返りそうです」
この件を実行したのは誰か知らない。だが、背後で糸を引いているのは間違いなくナギサだ。彼女はどうやら何が何でも補習授業部を退学にさせたいらしく、その為であれば先生に怪我を負わせることや最悪殺すことも厭わないようだ。
これを面白いと言わずして何と言えば良いのだろう。らしくないどろどろとした怒りが零れてきて、皆には見られたくない表情が浮かんだ。それはムツキも……と言うより便利屋の少女達全員も同様だった。彼を傷つけられて、殺されかけて黙ってなどいられないのだ。
「今、ゲヘナの自治区は大騒ぎになってるのは知ってるよね?」
「は、はい。温泉開発部? って方々が何かしてるようで……」
「そう。それで検問とか厳しくなってるし風紀委員会も動いてて、あちこちで戦闘が起きてる。無事に脱出するのは無理なくらいに」
「そ、それじゃどうすれば……! 先生、怪我してるのに……ッ!」
「焦らないで。退路を確保するためにシャーレの別動隊が動いてるわ……ハルカ、ムツキ、現状はどうなってるかしら?」
「えっと、ワカモさんは少々苦戦しているようですがあと20分もすれば整えられるそうです……!」
「トキちゃんの方も同じ感じだってさ~。ちょっと面倒なことになってるっぽいけど、間に合わせるって」
2人とも大体似た様な現状で、苦戦しているものの首尾はそれなりのようだ。流石は七囚人の武闘派筆頭とミレニアムお抱えの凄腕エージェントと言うべきか。何方も単独での突破力が突出している。
「社長、今から動いた方が良い。先生も早めに此処から脱出させたいし」
「えぇ、そうね……補習授業部、行くわよ。あなた達と先生は死守してみせるから、無事にトリニティまで辿り着きなさい」
「は、はい! 何から何までありがとうございます!」
見えた活路に希望を見出し、少女達は立ち上がる。補習授業部の目的はゲヘナの自治区からの無傷での脱出。便利屋68の目的は補習授業部の援護と脱出支援。
「で、では────補習授業部、出発です!」
「便利屋68、出撃するわよ!」
「了解ッ!」
トリニティとゲヘナ、いがみ合う二校の生徒達で構成された異色のチームによる撤退作戦が開始された。