シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
────遠く、遠く。まるで水底に沈んでいくような感覚。
「────い……さい!」
声が遠い。分厚い壁を何枚も挟んだかのような、何かがでくぐもったような音。声の輪郭すらも掴めないような、無意味なノイズかと錯覚するようなそれは頭の中をするりと通り抜けて後には何も残らない。
「────!」
次第に声は声と認識できなくなって、剥離するようにぼろぼろと何かが少しずつ崩れていく錯覚を覚える。何処かが痛いはずなのに、苦しいはずなのにそれも分からなくなって、心地の良さと背筋が凍えるような悍ましさが矛盾なく共存する睡魔に似た何かが脳の裡を覆った。すると、今自分が確かに存在する筈の世界が急速に意味を失い、何も見えない白飛びした昏い視界が瞼で遮られる。
「先生! 大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
眼を閉じる前、応えなければいけない声がした。でも、血の味しかしない声帯は何も意味のある音を出さず、声になり損ねた微かな吐息が通り抜けるばかりだった。
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世界を呪う終末悪の落胤。呪いを生で覆す戦いは先生の予想通り、波乱も番狂わせも無く、先生と生徒達の勝利という形で幕を下ろした。呪いの除去は完了し、後に残る不安すら何処にもない。だというのに、戦場となった市民広場は焦燥と悲しみと怒りで一杯だった。
「先生ぇ! 起きてよッ!」
戦闘が終了する直前、先生は血を吐いて昏倒してしまった。それも、ひと目で『拙い』と分かってしまうような量のどす黒い血を。それが発端となったのか各所の傷が開いてしまい、全身が血塗れ。これに加えて今まで積み重なった怪我と不調、機能低下が合併し、今の彼は少しずつ、だが着実に死に近づいていた。
彼の生命活動に王手が掛かっている事を何の理論も論理も無い、だが今は最も信用できる直感で感じ取ってしまった少女達は声に涙を滲ませて彼の名を呼ぶ、叫ぶ。そうしても状況が一切改善しない事なんて頭では分かっている。だが、それでも声に出さないと胸の内側で際限なく膨らむ不安で押し潰されてしまいそうなのだ。
コハルとヒフミはその瞳に涙を浮べながら先生の傍まで駆け寄り、そしてあまりの惨状に絶句する。何時もの白い服装の至る所は血で赤く染まって固まって、口から漏れるのは苦悶の吐息。キヴォトスにおいては遠い死が彼の命を手折ろうとしている────それを分かってしまって、恐怖で動けなくなってしまって。
そんな少女達を押し退けるようにアズサとハルカがやってきて、手に持った救急道具でその場凌ぎの手当てを始める。アズサは別世界の記憶で、ハルカは柴関の件でそれぞれ傷だらけの彼を知っている、或いは見ているため、他の少女よりも多少は耐性がある。だが、それは恐怖を覚えないという訳ではない。寧ろ逆で、一度失いかけたからこそ、その恐怖はより肥大化している。震える手を、嗚咽を漏らしてしまいそうな喉を、悲しみと痛みで張り裂けてしまいそうな心を、必死に理性で捩じ伏せて彼の命を繋ごうとしていた。
「……」
その光景を少し遠くから見ているハナコは下唇を強く噛む。血が滲んでしまうほど、強く。
知識があったはずだ。治療に関して、医療に関して、人並み以上に持っているものがあるはずだった。知識は役立ててこそ意味がある。ただ持っているだけでは宝の持ち腐れだ。分かっていたはずなのに、知っていたはずなのに足が動かなかった。
────ヒフミやコハルのように手を握るだけでも救われる何かがあるだろうに。
動くべき時に動けなかった。初めて感じる死神の足音に恐怖してしまった。その自責がハナコの首を絞める。
「アルちゃん、カヨコちゃん! 5時の方向に温泉開発部! このままだと正面衝突しちゃうよ!」
街灯の上から周囲の索敵を行っていたムツキは飛び降り、自身のリーダーとブレイン担当に苦い現実を伝えた。戦闘音を聞きつけたのか、それとも別の要因があるのか。それは定かではないが、兎にも角にも温泉開発部の団体が此方に向かっている。重機はなく、数自体も多くはないが、それでも怪我人を庇いながら戦うには少々分が悪い。
「ど、どうすればいいのよ……」
「社長、焦らないで。私達が今この場で出来る事は多くない。簡易的な手当だけ済ませて直ぐ出発するよ。今は温泉開発部が近いけど、私達の相手はアイツ等だけじゃない。他にも感づかれて囲まれたら逃げられる確率が更に落ちる。早く合流地点まで行って、トリニティ自治区まで逃げてもらった方が良い」
カヨコは「それに」と言って。
「
アルは息を呑み、グリップを固く握る。補習授業部はゲヘナから橋を渡ってトリニティ自治区へ抜ければ良いが、便利屋68、ワカモ、トキはそういう訳にはいかない。ゲヘナに属する便利屋68は勿論としてエデン条約に関係ない所属のワカモとトキも、今のトリニティに入ってしまうと無用な軋轢を生みかねない。故に、彼女達は全く別ルートから離脱しなければならなかった。別ルート自体は事前に先生を通して共有済であるため、迷う事はないのだが……単純にそこまで持つかどうかが問題だ。
一応、保護対象である補習授業部がいなくなれば多少楽になる。しかし、度重なる戦闘で消耗を重ねているのもあって確実に逃げ切れるとは断言できない。
────最悪……本当に最悪、便利屋68が捨て石になってでも、あの2人は逃がさないと。
カヨコは内心で決意を固め、先生の手当てを行っているハルカに視線を送った。
「ハルカ、終った?」
「は、はい! 取り敢えず傷は塞ぎました! 後はお医者様じゃないと……」
「よし、じゃあ出発するよ。あなた達は動ける?」
「あぁ、問題ない」
「は、はい……」
「ぐすっ……う、うん」
「……えぇ」
カヨコは少女達の内心をあえて見ない振り。銃を持って立ち上がる彼女達を信じて、仲間達に指示を飛ばした。
「社長は先行してムツキは殿。私とハルカで左右を固めるよ」
▼
補習授業部と便利屋68が再びランデブーポイントを目指して走り始めて10分が経過した頃。先頭に目の良いアルを置き、隠密を心掛けた甲斐もあって接敵せずに少女達はゲヘナ自治区とトリニティ自治区を結ぶ大橋まで来る事ができた。漸く見えたゴール地点に補習授業部の少女達の顔の強張りが少しだけ和らぐが……本番はこれからだ。何せ、この橋には風紀委員、温泉開発部、その他の不良が犇めき合っている乱戦地帯。
橋の至る所には弾痕や爆発で抉れた痕、ひび割れが走り、広い車線には爆発炎上している車両やスクラップ同然の重機が散乱している。伸びて意識を失っている風紀委員や温泉開発部、不良生徒も至る所に転がっており、此処で起きている戦闘の激しさを物語っていた。吹き抜ける熱波には濃い硝煙の匂いがこびり付いていて、否が応でも戦闘を想起させる。
もう隠密も安全第一も通用しない。此処を突破するには銃を握り、立ち塞がるものを全て薙ぎ払わなければならないだろう────その想いを同じくした少女達はごくりと息を呑み、互いに目配せ。覚悟を決め、いざ足を踏み出そうとした所で……少女達の行く先を塞いでいたクレーン車が盛大に爆発し、周りの生徒達ごと勢いよく吹き飛んだ。
「遅いですわよ! 一体何をやって……ッ!」
爆炎を銀刃で切り裂き、怒号に似た声を張り上げながら此方側に駆け寄ってきたのはワカモだった。百鬼夜行所属を示す黒の制服は至る所が破れ、焦げ付き、その下の柔らかな素肌にも幾重にも傷が走っている。トレードマークの仮面も殆ど仮面の体を成さず、辛うじて右上半分が残っている程度。露になっている素顔にも傷が幾つも出来ていて、弾丸で切り裂かれたような痕からは血が流れている。
怒り心頭といった様子で少女達の前に駆け寄ってきたワカモだったが、直ぐに想い人の姿が見えない事に気付き……その視線はアズサの背に固定された。
「……貴方様」
ワカモは震える声で彼を呼び、確かな足取りでアズサの方まで歩き出す。すると場の空気が一瞬で緊張で満ちた。警戒心に満ちた視線でワカモを貫くアズサと、アズサの事を視界にすら入れていないワカモ。
ヒフミとコハルは心配そうな色を持つ目で緊迫した2人の間を右往左往。どうか穏便に、と内心でお祈りを捧げる。
「……」
そして、ワカモの事を知っているハナコは銃を構えようと手を閃かせた。音に聞こえし七囚人、武闘派筆頭。泣く子も黙る災厄の狐。そんな危険人物をアズサや彼に近づけるわけにはいかない……そう思ったハナコの手はカヨコに捕まれて阻まれる。
「……構えなくていいよ」
「しかし、彼女は……」
「いいから」
やがて、アズサとワカモは至近距離で真正面から対峙する。警戒心に満ちた目で見上げるアズサ。そんなアズサを見下ろしながらも相変わらず視界に入れていないワカモ。
いつ臨界を迎えるか分かったものではない緊迫した空気が動いたのは、ワカモが銃を下し、地面に膝を突いた時だった。
「ッ」
意図の見えない行動にアズサの判断力が鈍り、ワカモに対するアクションがワンテンポ遅れる。それを好機と思ったのか定かではないが、ワカモは数多の感情を飲み干した金眼を伏せ、アズサの正面に垂れ下がっていた彼の手をそっと迎えに行き、優しく両手で包み込んだ。
「……よく、お戻りになりました」
その一言共にワカモは彼の手の甲にそっと口づけを落とす。彼女は自身の内側に渦巻く全ての想いに対して、それ1つで決着をつけた。言いたい事、聞きたい事はあり過ぎるが、それらは全て後。今は唯、彼を脱出させる事を優先する。目尻に溜まった一粒の涙を夜に溶かしたワカモは割れた仮面を捨て去り、腰に吊り下げていた予備の仮面を被った。
「状況は見ての通りです。予定とは多少ずれていますが許容範囲内でしょう。早く脱出させましょう。あの御方の尊いお身体にこれ以上無理はさせられません」
「そうだね……もう一人は?」
「お呼びですか?」
物静かな声はありえない事に少女達の右側……つまり橋の架かっていない水上から聞こえた。補習授業部の生徒達が驚きながら声の方向に視線を送ると、そこにはホバリングさせたアームギアに捕まり飛行しているトキが居た。彼女は眼球に仕込んだ多機能コンタクトレンズからアームギアにオーダーを下し、パルスミサイルを一斉発射。此方側に近寄っていた軍団を一網打尽にしてから少女達の傍に音もなく飛び降り、アームギアを腕に装着した。
「……ッ!?」
「あ、あぅ……」
今日は空を飛ぶ人をよく見かけると思いつつ、ヒフミとコハルはトキの格好に絶句する。やはりバニースーツ、それも度重なる戦闘で破れたり傷ついたりしてボロボロになったものは少々刺激が強いらしい。そして、案の定コハルは眼を見開き猫の様な顔をしてトキを指差した。
「え、エッ────」
「コハルちゃん、今は余裕がありませんので」
口からコハルの十八番が飛び出てくるまで秒読みとなった段階で、ハナコはコハルの口元を手で覆って詠唱キャンセル。ハナコとてトキのあの格好が気にならない訳ではないが、今はエッチ判定にかまけている余裕はないのだ。TPOは弁えなければならないだろう。こんな土壇場なら猶更だ。
「先生は……」
ハナコとコハルの話題の渦中にいたとは露知らないトキは、その視線をアズサの背とワカモの間を一往復させる。こうなった時点である程度覚悟はしていたが、それでもやはりこうして改めて醜悪な現実を突きつけられると……思う所はある。トキは唇を噛み、銃のグリップを砕けんばかりに握り締めて────決意を新たにした。
「……私は私の任務を全うします」
怒りに吞まれない。哀しみに打ちひしがれない。憎悪に駆られない。無力を噛み締めない。ただ、只管に自分のやるべき事を。自分にやれる事を。自分に求められた事を全うする。怒りで、悲しみで、憎悪で戦っても、眠る彼はきっと喜ばない。だから、感情のままに戦う事を封印する。自分はエージェント、彼の剣だ。
「現在は橋上の戦力が手薄ですが、直ぐに増援が来ます。私達の弾丸も底が見えている今、もう一度ここまで数を減らすのは困難です。突破するなら今しかないかと」
「うん、それは私も賛成……もう動ける?」
「えぇ、私は問題ありません。準備は終わらせています……そちらはどうです?」
「無論終わっています」
既に逃走の仕込みは完了しているという頼もしい言葉にカヨコは安堵を覚える。やはり先生が見込み、頼んだ生徒と言うべきか。その辺りの心配は無用だった。故に後は策を稼働させ、橋を抜けるだけ。カヨコが補習授業部に視線を送れば、彼女達は強く頷く。後先なんて考えている余裕はない、今はただ全力で駆け抜けるだけだ。
アルは生唾を呑み込み、ヒフミに目配せ。互いに頷き、地面を踏みしめる足に力を籠める。それが最後の作戦開始の合図だった。
「行くわよ、皆ッ! 付いて来なさい補習授業部ッ!」
「は、はいッ! 補習授業部、行きますッ!」
声と共に駆け出す補習授業部と便利屋68。先頭は便利屋68が務め、彼女達は大盤振る舞いと言わんばかりに全ての武装を駆使して道を切り開く。後方から追い縋る軍団を相手取るのはトキとワカモ。2人の卓越した戦闘技能は物資と体力の底が見えた今でも一切翳る事はない。彼女達が居る限り、補習授業部に手が届く事はなくあっという間に橋の中腹まで辿り着く。
「見えた、バリケード! 此処を抜ければ────!」
「任せてアルちゃんッ!」
アルが叫ぶと同時、犬歯を剝き出しにしたムツキは爆弾が詰まったバッグを前方に投擲。橋を揺らす衝撃が駆け巡り、煙が晴れればそこには薙ぎ倒された生徒達。射線が通ったアルは走りながら狙撃を行い、バリケードを守る風紀委員二人にヘッドショット。これにてバリケードは突破可能となる。それを目視したアル達は肩の荷が下りたと言わんばかりの表情を浮べ……補習授業部に先頭を譲った。
「べ、便利屋の皆さんッ!?」
突然先頭を譲られ目を白黒させるヒフミ。一緒について来てくれるものだと思っていたが、どうやらそれは違う様で彼女達とはこの場所でお別れだった。沢山の恩がある彼女達を鉄火場に取り残してしまう罪悪感が補習授業部の全身を襲う。だが、加勢をしたら彼女達の努力を、繋いできたバトンを無にしてしまうのだ。だから、振り返らず進まなければ。
そして、残された少女達はその選択を、歩みを祝福するように声を上げた。
「行って、補習授業部!」
「私達が付いて来れるのは此処まで! 後は頑張ってね!」
「こ、ここは死んでも守りますッ!」
「じゃあね、補習授業部! 先生に悪くない依頼だったって伝えてちょうだい!」
「先生の事、お任せします」
「必ず無事に送り届けてくださいまし。これ以上、あのお方に傷を負わせたら許しません」
背に投げかけられる沢山の言葉に応えるように、補習授業部も同じく声を上げる。この胸の中にある大きな感謝を少しでも伝えられるように。
「援護感謝する。この恩は忘れない」
「あ、ありがとッ! あとは私達で頑張るからッ!」
「先生はお任せください!」
「本当に色々とありがとうございましたッ! 皆さんも、どうかご無事でッ!」