シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
ある本の登場人物は地獄の所在についてこう語っている。
────地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに。大脳皮質の襞のパターンに。
つまるところ、地獄と謂うのは眼を閉じても耳を塞いでも、それこそ死んでも逃れる事ができず、苛まれ続けるものを指すのだと思う。心の中にある地獄。脳内で咲いた光景。大脳皮質の襞に刻まれた皺。それはある意味、究極の個人情報だろう。地獄と謂う心に刻まれた原初の光景が個人のパーソナルに何の影響も与えていない、なんていう事はない。大なり小なり善悪問わず心の中に刻まれたものは成長や性格を左右する。三つ子の魂百まで、と言うがその通りだ。魂に刻まれた地獄からは逃れられない。逃れられないから変わらない。
そして、逃れられないものは地獄だけではない。人と謂うものは簡単に何かに囚われ、逃げられないまま雁字搦めにされてしまう。栄光、成功。屈辱、失敗。喜び、楽しさ。怒り、憎しみ、嘆き、恨み、殺意。未来、過去、現在。或いは────神秘。
百合園セイアにとって逃れられないものと言えば己が神秘そのものであった。地獄、というほど苛まれるものではないが、逃れられず消えないもの。そういうものだとある種の諦観に似た何かを抱いてはいるものの、予知夢を通して『在り得たかもしれない未来』や『この先辿るであろう結末』を見続けるのはあまり好ましい体験とは言えなかった。
「────」
眼を閉じる。夢を見る。誰かが死ぬ夢。
眼を閉じる。夢を見る。誰かが殺す夢。
眼を閉じる。夢を見る。彼が死ぬ夢。
眼を閉じる。夢を見る。彼が殺される夢。
この世界は、ずっと前からどうしようもない程詰んでいる。
なぜここまで詰んでしまっているのか。なぜ滅びに至る道筋しか用意されていないのか。
自分達は間違いを犯したから、悲劇と失意のまま滅ぶしかないのか。必死に、懸命に、よりよい世界と未来の為に頑張る誰かの努力と献身を無意味と嘲笑するのがこの世界なのか。キヴォトスという箱庭は少女達が生まれる遥か前から終わっているから、今更足掻いても無駄なのか。
「────これが、私達の世界なのか」
諦観と共に眼を閉じたセイアはまた夢を見る。予知夢による未来視ではなく、夢の共振。受胎告知の概念同調は、生死の境目を彷徨う出来損ないの救世主の夢に入り込んだ。
▼
「……」
眼を開けると、そこは一面の荒野。生命の息吹を一切感じない灼けた大地と真紅に染まった空。中天には太陽の代わりのように黒い天体が我が物顔で居座っていて、直感的にあれがこの惨状を生み出したのだとセイアは悟った。
吹き抜ける風はまるで黄泉の国の唸り声のようで、死者の怨恨に満ちた音が乱暴に全身を叩く。眼を塞ぎたくなるような惨状にも拘わらず、何故か魅入られてしまったかのように見続けてしまう。まるで流し込まれているかのように直接五感に訴えかける世界の終わりは数多の悲劇と終わりを見続けてきたセイアでも少々辛いものがあった。
「これが、彼の光景か」
逃れられないもの、苛まれ続けるもの、忘れられないもの。即ち、彼の心に咲いた彼だけの地獄。命が無いのは死んだから。地面が灼けたのは燃やした何かがあるから。空が赤いのは滅びの黒い星が降りたから。彼の地獄と謂うのはキヴォトスが滅びた後にあるらしい。
この光景を知っているという事は、つまり。彼は全部が終わってしまった世界で生き残ったという事を示す。それは、なんて────。
「驚いた。この内側まで入り込めるんだね。精神防護プロトコルが停止しているとはいえ、精神の廃棄孔に近い場所まで簡単に辿り着けるんだ」
赤い大地によく映える、穢れの無い純白。あまりにもミスマッチ過ぎて逆に合っている様にも見えてしまう姿はシャーレ指定のコートと連邦生徒会の制服。光を灯さないひび割れたタブレットを宝物のように持つのはシャーレの先生その人であった。
「こうして言葉を交わすのは久しぶりだね、セイア。尤も、今回の私も前回の私も、直接面と向かって話した訳ではないし、そもそも会ってすらいないけれど」
「今私の眼の前に居る先生も、本物の先生ではないという事かい?」
「天邪鬼的な言い方だけど、真贋が存在するなら私は何方にも当て嵌まるよ。君は確かに私を認識していて、私を先生と同定できている。なら、論ずる余地なく私は私だ。何せ、私は君の前に私として現れている。他ならぬ君が私を私として認識しているなら、第三者から見た真贋なんて意味が無いんじゃないかな? 此処に君と私以外居ないなら、猶更さ」
そうだ、此処には誰も居ない。この光景の中に生命と呼べるものは何一つない。セイアはあくまで夢の外側から足を踏み入れただけであり、この夢の中に居る彼の心臓は止まっている。この夢の住人は誰一人として例外なく生きていないのだ。息があるのは来客者たるセイアだけ。真贋なんてどこにも意味が無かった。
「尤も、ここにいる私はあくまで
「自分の事だと謂うのに素っ気無いね。先生にとって自身の生死はそれほどまでに軽いものなのかい?」
「軽いという訳ではないけど、重要な事ではないよ。
「……それでも、自身の死をそこまで軽く考えられるのは不可解と言わざるを得ない。先生、貴方は何かが壊れている。一体、貴方の身に何があったんだ。何がそこまで貴方を変えてしまったんだ」
「もう忘れてしまったよ。思い出して懐かしんでも、意味が無い事だからね」
そう言って、彼は感情の読めない透明な瞳を地平線に向けた。何かを見ているようで、その実何も見ていない眼。彼の眼には誰も映っていない。生徒達に向ける視線とは似ても似つかないそれは、彼の個人に根差す何かから零れ落ちたものだった。
「……本当の貴方も、こうなのか」
「口にするかしないかは兎も角として、内心ではそう思っているはずだよ。私なんかがこの世界で生きていいはずが無いってね。今はまだやるべき事があるから死ぬ訳にはいかないけど、それを終えたら後に死ねるなら幸福だと思ってるはずさ」
「……これではミカが可哀想だよ。ミカがあれほど先生に心を砕いていたというのに、当の本人の生きる気力が希薄だなんてね」
「そっか、ミカが……それは申し訳ないな。でも、もう無理なんだよ。人の心は元の形には戻らない。私はどうやったって、この光景を抱くより前の私にはなれないんだ」
地獄の在処。彼の地獄。彼を変えた決定的な要因。それがきっとこれなのだろう。今も尚、彼の心を苛み続け、影を落とし、質の悪い自滅願望の背中を押す風。彼はこの地獄に殉じるために、或いは報いるために走り、死のうとしている。これを知った生徒はきっと彼を止めようと言葉と心を尽くしただろうが、この地獄は拭い去れるほど軽くない。傍に誰が居ようと、誰と笑い合っていても、誰と過ごしていても、彼の心の中には常にこの地獄があって、心臓を止めようとしている。
それではあまりにもミカが報われないではないか。いいや、ミカだけではない、彼に心を開いた生徒全てが報われない。
「……君は馬鹿だね。誰だって生きていいはずだろう。資格など無くとも、この世界に居る以上は誰でも『生きていい』と肯定されて然るべきだよ」
「そうかもね。でも、私はどう頑張ってもその『誰か』や『皆』に自分を入れられなかったんだよ」
────最初に自分を『皆』の一員として入れてくれたあの子を、永遠に失ってしまったから。
その言葉を喉の奥に呑み込んで、先生は笑顔を作ってセイアを見た。
「さ、少し話そうか、セイア。ただの偶然の同調とはいえ、何も手土産を持たせないで帰らせるのは少々忍びない。こんな何もない殺風景な夢の中だけど、それは情報が皆無な事を示さないんだ。夢のような輝く思い出を、とはいかないが君に役立つ何かは渡せたらいいな」
先生はセイアに手を差し伸べる。多くの生徒の手を取ってきたであろう手は優しい温度で満ちていて、思わず取ってしまいたくなる魅力に溢れていた。
差し伸べられた手を取らない理由が無かったセイアは苦笑いを1つ浮べ、長い袖に隠れた小さな掌をそっと彼に重ねる。
「……女性のエスコートに随分手馴れているね」
「生徒が皆女の子だからね。そりゃ慣れるよ」
そんな下らない雑談を交わしつつ、先生とセイアは手を繋ぎながら赤い世界、彼の地獄を踏んでいく。
「……この光景の詳細を聞いてもいいかい」
「あぁ、良いよ。そうだね……結論から言うと、この光景は『間に合わなかった世界』かな。キヴォトスには滅びに至るトリガーがダース単位であるっていうのはセイアも知る所だと思うけど、その中でも目覚めやすいものと目覚め難いものがあるんだ。
「ふむ……では、この光景はそれらの神秘が目覚めた後……という単純な話でもないね。それではあの黒い天体の説明がつかない」
セイアがそう言うと彼は「あぁ」と言って────怨敵を睨み付けるようにそれを見た。
「色彩。人の意識が沸騰しても覆らない、現実に空いた孔。実在と非実在、法則と原理を曖昧なまま往復する概念に似た何か。神秘を反転させる力場みたいなものだよ。
「神秘の反転か……成程、それであれば確かに世界を滅ぼせる。私達は今まで神秘に適応し生存してきた。それがいきなり反転すれば生命維持困難になるだろうね。正にキヴォトスに対する殺戮兵器だ」
いかに効率的に、抵抗を許さずに殺戮するか。それのみに特化した色彩は究極の大量殺戮兵器だろう。尤も、悪趣味にもほどがあるが。
「私達の世界もこうなる可能性がある、か……」
「ある、じゃないよ。何も手を打たないと遅かれ早かれ必ずキヴォトスはこの光景を発症する」
いつになく強い口調でそう断言した彼は、空を睨んだまま。
「発症……まるで病のような物言いだが、それには意図があると思っていいかい? 不幸と伝染病はよく似ていると言うが、これも恐らくその類だろう。最初に引かれた引き金が取るに足りない小さなものでも、それ自体をトリガーにより大きな引き金が引かれてしまう。ある一つの滅びを引き金に、更なる滅び達を呼び寄せてしまった……それがこの光景の真相だろう」
セイアが言い、空を見上げると黒の天体がまるで帯同するように膨張した。それは宛らブラックホールであり、この赤く焼けた死の大地から何かを吸い上げているよう。
「そのフィナーレを飾ったのが色彩。言うなれば、色彩は世界自体が『詰み』に陥った時に現れるのだろう。蒐集の終末装置。色彩が現れたから終わったのではない、終ったから色彩が現れたんだ」
前後の因果の違いは非常に大きい。色彩が現れたから終わった、のであれば色彩さえどうにかしてしまえば終わりを回避する事ができる。色彩の回避策が存在するのかは定かではないが、『どうにかできるかもしれない』という可能性が残っていること自体が重要なのだ。
だが、『終ったから色彩が現れた』というパターンは違う。色彩自体が終わりのトリガーでないならば、色彩をどうこうしても根本的な解決にはならない。それはつまり、色彩が現れた時点で『詰み』を回避する事が不可能という訳で────。
セイアが考え込んでいると、先生はその坩堝に嵌っていく思考を融かすように掌を頭の上に乗せて髪の流れに沿うようにそっと撫でた。
「んー……まぁ、その回答だと70点くらいかな。良い線はいってるからあと少しだよ」
彼はどこか悪戯っぽくそう言って……いつになく真剣な表情を浮べた。
「セイアには話しておこうか。私の目的は神秘の根絶。私は神秘を否定して、この星を真っ新に戻す。神の痕跡を消して、二度と悲劇を起こさない。私の生徒達が神の操り人形にされるのは我慢ならないんだよ。皆には当たり前に笑える毎日を生きてほしい。誰にも泣いてほしくない。幸せになってほしいんだよ」
彼は「だから」と言って。
「私は此処に立っている。私の命は、この世界に住む遍く
セイアは彼の言葉を静かに受け止め、痛みと共に眼を閉じた。彼がこう言い切るに至るまでの、地獄と呼ぶ事すら生温い苦しみを思って。
「さて、夢の時間は終わりだ。あんまり長居するものではないからね。眠りの時間はここまでだよ」
「……そう、か」
「次は直接話そうね、セイア」
彼は屈み、セイアと目線を合わせて緩く微笑む。先生らしい、彼らしい表情。日常の陽だまりの様な彼を見て思わずセイアも笑みを浮べて……それから、先生の瞳を大天使の神秘で以て見つめた。
「最後に幾つか質問させてほしい、先生」
「勿論、私に答えられる範囲でなら何でも」
足を踏み入れた夢が崩れ始める。深い眠りから覚める兆候。傷を負った彼は再び、痛みと共に目覚めようとしている。その前に聞くべき事を聞かなければ。
「一つ、貴方は生徒の味方か?」
「あぁ、そこだけは違える事はないよ」
これは、予想通り。
「二つ、貴方はキヴォトスに存在する生命体の味方か?」
「うん、味方だよ」
これも、予想通り。
「これが最後だ……貴方はキヴォトスの味方か?」
「……いや、私はキヴォトスの敵だ。
────あぁ、やはり、そうだったのか。
妙な納得感と安堵を覚えたセイアは崩れて輪郭を失う世界を見ながら、脳の奥で口を開く。
『連邦生徒会長……君は、なんてものを彼に背負わせたんだい』