シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
第二次特別学力試験と、それを発端とした小競り合い。その渦中に居ながら限りなく巻き込まれた立場に近い補習授業部がある程度落ち着けたのは朝日が昇った午前6時を過ぎた頃だった。だが、落ち着いたからと言ってそれは問題が解決した事を示さない。
あの砲撃が誰によるものだったのか。誰が誰を排除しようとしてあのような強行手段に出たのか。温泉開発部や不良達は誰に煽られてゲヘナの風紀委員会と戦闘を行なっていたのか。トリニティに戻る道すがらに戦った、あの『敵』は何なのか。疑問は尽きない。
それを最も知っていそうな先生とティーパーティー所属の生徒は今も目を覚ましていなかった。
だが、それよりも。それらの問題全てがちっぽけに思える程に少女達の脳内を埋め尽くしている事項が彼自身のことだった。少女達によって暴かれた彼の肉体。彼の体の真実は薄い偽りを剥いだその先にあった。筆舌に尽くし難いほどの困難を、痛みを、血を、怒りを乗り越えた証左。何かと対峙するたびに傷つき、それでも尚折れずに抗い続け、最後まで彼が自分自身を裏切らなかった証明。それは決して見て嬉しいものではなく、寧ろ心に大きな影を落とした。
こんな風になるまでに一体どれだけの戦いがあっただろうか。どれだけ痛かったのだろうか。どれだけ苦しかっただろうか。あんなに優しくて、戦いなんて微塵も似合わない彼。戦場にいることの方が不自然で、なんでもない日常の中で陽だまりのように笑う姿こそよく似合う彼が……何故、あのようになってしまったのか。
それを知らなければならないと誰もが思った。少しでも彼に近づくために。少しでも彼が笑えるように。いつの日か、真っ直ぐと彼を見つめられるように。
「……一先ず、アビドスの方に連絡を入れました。これで少しは何かが分かるといいのですが……」
浮かない顔でヒフミはポツリと呟く。ヒフミの脳内にはまだ、医療ベッドの上で力無く横たわる彼の姿が鮮明に焼き付いていた。どこもかしこも怪我だらけで、痣だらけで、血塗れで、あるべきものが失われていて。あれは普通じゃない、あんな怪我をあの人が負っていていいはずがないと、誰に対する怒りかも分からない何かがずっと胸に疼いていた。
だって、この世界は。キヴォトスは。確かに苦しいことも辛いことも痛いこともあるけれど、それでも愛と希望に満ちた世界だと信じている。友情で困難を乗り越えて、努力がちゃんと報われて、涙の後には笑顔がある。それが、きっとこの世界なのに。
それなのに彼は、彼だけはその世界にいない。明るい世界を守るために一人で世界の闇を見て、戦っている。少女達が、誰かが愛と希望に満ちた世界を直向きに信じられるように、彼は『そうではない世界』を直視していた。ままならない世界、厳しい世界、辛い世界をより善いものにするために。
それは彼が大人だからなのか。彼が先生だからなのか。世界に対して責任を負う立場だからなのか。世界がどうあるべきか、どんな世界が望ましいか。そんな大きな問題、一人で背負い切れるはずがないのに。それなのに彼は今までずっと背負って、誰にも言わずに今日まで歩いてきた。ただ、自分以外の誰かがより善い未来を謳歌できるように。
────そんな寂しくて悲しいお話、私は嫌です……。
その疑念が、その思いがヒフミの中で小さく、だが確かに芽吹く。その言葉にしていない思いを共有できたハナコは徐に「皆さん」と声をかける。
「今日はこれでお開きにしましょう。色々なことが立て続けに起きてお疲れでしょうし今は一旦ゆっくり休んで、その後に考えてもいいと思います。恐らく、一朝一夕で解決しない事ばかりでしょうから」
「……そうだね。私も賛成。ただ、先生の看病とティーパーティー構成員の監視はどうする?」
「私とマリーさんで見ましょうか? 皆さんよりはまだ余裕があるので……マリーさんはそれで大丈夫ですか?」
「はい、勿論です。お任せください」
「いえ、お任せにしっぱなしは流石に悪いので、そうですね……交代交代で見るのが良さそうですが、どうですか?」
「うん、私はそれでいと思う。皆は?」
「えっと、私も大丈夫です」
「私もいいけど……」
「なら決まりですね。マリーちゃんもセリナさんもしっかり休んでくださいね」
その好意を無碍にするわけもない2人は互いに顔を見合わせ苦笑い、それから口を揃えて「では、お言葉に甘えさせていただきます」と言った。ハナコの聡い目には2人が疲れていたことなんてお見通しだったのだろうか。それはきっとハナコしか分からない。
「では……大体4時間後、仮眠を取った後にまた此処に集まりましょうか」
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お開きになってから大体3時間が経った頃。先生の看病を経たハナコはすっかり目が覚めてしまっていて、ベッドに戻る気も起きず、いつかの日のようにロビーでぼうっとしていた。彼の深い部分に足を踏み入れた最初の日、こうして空を眺めていた
────例えば、今のように。
「ここにいたのか、ハナコ」
「あら、アズサちゃん。私を探していたのですか?」
「うん、部屋にいなかったから。もう休まなくていいの?」
「はい、もう目が覚めてしまったので。アズサちゃんもですか?」
その問いに首肯したアズサは徐にハナコの隣に腰を下ろす。愛銃を片手に持ち、隙なんて見当たらない臨戦態勢。張り詰めている理由は皆同じ。これ以上、彼に傷を負わせたくないから。
ハナコは少し息を吐いて、僅かな思考と周囲の目視。誰も居らず、聞き耳を立てていないことを確認したハナコはまるで何でもない世間話をするように声を出した。
「アズサちゃん、先生について何か知っていますよね?」
「……なんで、そう思ったの?」
その声は平静を演出しようとしていたが、隠しきれない動揺と……納得が滲んでいた。
「先生のあの傷を見た時、アズサちゃんだけ皆さんと別の感情がありました。それ以外にも話すときの声音が少し揺れていたり、目線を伏せがちになっていたり……なので思い切って聞いてみたのですが、当たっていますか?」
それは疑問の体裁であったが、どちらかというと確認に近かった。考察、証明が本当に正しいのかを確かめる工程。ハナコにとってアズサが何かを隠しているという事は確定事項で、改めて問いかけたのはアズサの肯定を聞きたいから以上の理由はない。下手な嘘を吐いても一瞬で見破られることをよく知っていたアズサはどこか諦めたかのような表情を浮かべた。
「うん。確かに私は、皆よりも少しだけ先生のことを知ってる」
「その情報のルーツはどこですか? アズサちゃんが言っていたデカグラマトンのように、語った誰かが居ますか?」
「……いいや、いない」
「では、アズサちゃんが何かを知っているということを先生は把握していますか?」
「……多分、知らないと思う。何かを察していてもおかしくないと思うけど……」
「確信はない、と」
それに首肯したアズサ。ハナコは過去最速と言えるほどに思考が回るが、結局のところ出せる回答なんて一つしかなくて。ハナコはいつになく真剣な表情で真正面からアズサを見た。
「……もしよければ、アズサちゃんの知っていることを話してくれませんか? 強制ではありません。アズサちゃんが嫌なら何も話さなくていいですし、私もここで話したことを全て忘れます。ですが、アズサちゃんさえ良ければ……話してほしいです」
その言葉を受け取ったアズサは悩む。天秤に掛ける。何かと何か、アズサ自身にすら分からない何かの重さを比べ合う。何を優先するのか、何を捨てるのか。あるいは何を得て、何を失うのか。様々な出来事が走馬灯のように頭を過った後、アズサの口はまるで導かれるように開かれていた。
「……分かった。ただ、条件がある。皆には話さないでほしい。もしそれができなくても、先生だけには絶対に話さないで。そうじゃないと、本当に何が起きるか分からないから」
「勿論です。その条件、喜んで呑ませてもらいますね♪」
▼
「先生は『みんな』の先生だ。生徒を教え、導き、守り、救い、共に進んでいく在り方。生徒の為により善い未来を目指し、作ろうと歩む。先生が自分自身に課した理想像がそれだ」
「そうですね、それには私も異論はありません。先生はそのように私達と共に過ごしてくれました」
「だが、それはあくまで先生が望んで自分に与えたものなんだ。先生にはそれ以外にも、キヴォトスから与えられた役割が存在する」
「その、役割は────」
譫言のように呟くハナコ。何の根拠もないと謂うのに、嫌な予感がして堪らなかった。
「世界の救済。キヴォトスを『先のある世界』にする事。先生は救世主の役割を背負わされた」
「……世界の、救済」
「そうだ。あの人は時々、救世主やそれに近しい名前で呼ばれる事がある。私達にとって先生は先生だが、キヴォトスにとっては先生は救世主という消耗品のパーツなんだ」
「そんなの、馬鹿げています。世界なんて大きなもの、1人でどうにかできる訳がありません。どうにかできてしまう方がおかしいんです。そもそも、1人に救世主なんて役割を背負わせるなんてあまりにも……惨すぎます」
ハナコの言う通りだ。こんなの惨すぎる。だが、こんなものはアズサの知る真実の中でも序の口だ。彼がひた隠しにしたものは、決して生徒に明かさなかった深淵はこの先に在る。
「先生は救世主としてこの世界に捧げられた。ただ、そう在れと。そう在るために不要なものは削ぎ落された。先生が先生になる前に持っていたはずのものは、もう先生には残ってないんだ。キヴォトスの救世主に、キヴォトス以前のものは要らないから」
ハナコの脳裏にフラッシュバックする思い出。合宿初日、先生が寂しそうに悼むように語った欠落。心にぽっかりと空いた孔のような痛みとアズサの話が繋がった。
彼は忘れたのではない、思い出せないのではない。忘れさせられて、思い出せないようにされたのだ。必要ないから。キヴォトスに彼の思い出は不要だから。前の思い出やら何やらで期待した役割を果たせなくなってしまっては困るからという合理的極まる理由で、彼は大事なものを成す術もなく奪われた。
「先生を、人の大事なものを何だと……ッ!」
赦せない。赦せる訳がない。こんなに怒ったのは人生で初めてだと言い切れるほど、ハナコの内心は怒りで支配された。
「そんな事をされても先生は怒らなかったんだ。これが自分がキヴォトスで生きるための代償だって言って。誰かが代わりに怒ってくれるなら、それだけで充分救われてるよって。先生は自分の為には怒れない人だ。それはハナコも良く知ってると思う」
「だとしてもッ、こんな事をされて怒らないなんて……!」
掌の皮膚が裂けるほどに拳を握り締め、のたうち回る怒りを噛み締める。この怒りを抱けなかった、抱かなかった彼の代わりに精一杯怒れるように。
「……先生がこうなったのは、多分キヴォトスに来たからだ。キヴォトスに来なければ先生はこうならなかったかもしれない。でも、そんな叶わない夢に縋るのは逃避だ。もう私は逃げない。私は私のできる事をやって、少しでも先生が笑える未来の為に戦う」
話は終わりという事だろう。アズサは鋭い眼光を携えて窓から差し込む朝日を睨み付けた。この不出来な現実を理不尽に押し付ける世界と戦うという意思表示。負けない、逃げない、虚無の教義に逃げる事もしない。もう二度と目を逸らしはしない、この世界に在る限り精一杯抗い続ける。
「……ハナコ、調べられる範囲で大丈夫だから、失踪した連邦生徒会長について調べてほしい」
「構いませんが……何故ですか?」
「私達の知らない何か、キヴォトス、星、神秘。ずっと隠されていたものがあるとしたら、多分そこに在ると思う。先生を連れてきたのは連邦生徒会長だ」