シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
まるで水底に引き摺り込まれているような感覚だった。意識は遠く、感覚は鈍い。五感の全て、人間が外部からの刺激を受ける悉くが機能不全に陥っているかのよう。身に覚えがないわけではなくて、寧ろ逆で、この手の感覚とは最早隣人と言っても差し支えないほどに慣れ親しんだものだった。
無論、好んで慣れ親しんだものではない。無理を重ね、無謀を押し通し、無茶でこじ開けた死地を駆け抜けた後に味わうフィードバックは何時になっても恨めしいものだった。何をこの程度で根を上げていると自身の胸ぐらを掴みたくなるが、この問題は努力でどうにかなるような場所に置かれていない。人間の、彼のフォーマットの根底にある問題なのだ。これを変革するにはまず肉体そのものをより強いものに変えなければならない。それこそ……ヘイローを持つ少女と同じような頑強な肉体に。
尤も、仮にそのような事態になれば最悪もいいところだ。もし彼の頭上にヘイローが現れれば、それは彼が完全に主神に乗っ取られた事を示す。
故に、彼は絶対に少女達と同じようにはなれないのだ。
その事を以前は人並みに悲しんでいたり、解消しようがない大きな孤独感を抱えていたのだが、いつしかそれも無くしてしまった。いつから皆と同じになれなくていいと思うようになったのか、自分は永遠に孤独だと諦めたのか。きっと、あの子を失ってしまったから。彼の時間はあの子を失った時から動いていない。明日だの未来だの幸福だの、耳障りの良い言葉をどれだけ吐いていようが、彼はずっと失ったセピア色の幸福を見つめている。
────なんて酷い話だろう。これでは生徒に対する背信だ。
そんな何度繰り返したのか分からない自嘲を噛み締めていると、ゆっくりと意識が浮上する。先程まで他人事に等しかった痛覚が他人事ではなくなり、人間に標準搭載された痛覚が絶叫し、神経が焼き切れるような熱が全身の輪郭を細かく走る。
痛みは生きている証拠。痛覚が鈍化したらそれこそお終いだ。そのことはきちんと理解しているが、それでもこれはどうにかならないのかと思ってしまう。自分が望んでやった事とはいえ、もう少し手心や優しさが欲しい。どんなに鈍くなっても痛いものは痛いのだ。
「っ……」
まるで瞼をワイヤーか何かで縫い付けられているのではないかと錯覚するほど、開眼という動作は彼の体にとっては重労働だった。薄らと開けた視界は白飛びしていたが、数瞬後に瞳孔の明順応が行われ視界のピントが合う。部屋に差し込む光は人工的な蛍光灯の光源ではない、太陽光だ。
最後に確認した時刻は4時前。一体何時間意識を失っていたのだろうか。幾ら夏至が近く日の出も段々と早くなっている時期とはいえ、この明るさを鑑みるに時刻は昼に近い。時間を確認しないと、と思うが、そういえば眼のオルタナティブは外していたと気づく。となると時間を確認する手段は必然的にシッテムの箱かスマホに頼る他なく、それを見るには上体を起こす必要がある。この、思うように動かない身体を使って。
それがどれほど無意味な事なのか身に沁みて分かっている先生は早々に諦め、溜息を吐く。シッテムの箱を使えば自分の身体でマリオネットをする事や、擬似神経を通わせて動かないはずの身体を無理矢理動かす事もできるが……アロナが起きていたら間違いなく泣かれるし、起きていなくても後になったらバレて泣かれてしまう。
泣かれるのは辛い。涙は見たくない。悲しんでほしくない。人としての当たり前の感性。それが、あの子であれば猶更だ。自身の半身に等しい彼女、或いは娘と呼んでも相違ない彼女。連邦生徒会長とアロナの関係は少々複雑で、全くの同一人物という訳ではないが、かといって無関係という訳でもない。
────私は、あの子を。自分なんかを最初に『先生』と呼んでくれたあの子を、私は。
那由多の果てまで繰り返した思考。これは自罰だ。誰も己を罰さないから、誰も己を責めないから、せめて自分だけは己を裁き続けようとした。そんな事をしても何も戻らない事なんて分かっている。誰も喜ばない事なんて痛いほど知っている。でも、それでも、贖いきれないほど大きな罪を犯したのに何の罰も無い現実に耐えられなかったのだ。
脳を鷲掴みにする黒い思考を瞬きで外に追い出し、一旦漂白する。今はまだ必要のないものだと言い聞かせて。今重要なのは現状だ。補習授業部が置かれている状況、ティーパーティーが置かれている状況、自分が置かれている状況。この内、自分の状況は分かっている。それこそ、物理的に痛いくらいに。
補習授業部とティーパーティーの状況についても大方察しがついている。過程には幾つかイレギュラーがあったが、着地点としては予想の範疇……いや、少しティーパーティー側の状況が悪いか。魔女狩りや戒厳令にまでは飛躍しないだろうが、それに近しい状況になる可能性がある。ナギサが心配だが……今の自分が会いに行っても却って刺激してしまうだけだろう。彼女の事は彼女に近しい人物……ミカやセイアに任せるしかない。
そこでふと、先生は自分の右手の指先が何かに覆われている感覚を覚えた。いや、覆われているのではない。握られている。指先を誰かの掌で包まれている。視線だけ動かして右側を見ると、椅子に座り、彼が眠るベッドの上に突っ伏して寝ているヒフミが映った。彼女の掌は彼の指先を優しく握っている。まるで、祈るように。
────ずっと手を握ってくれていたのだろうか。
先生は少しだけ驚いたような表情を浮べるが、それは即座に優しい慈しむような微笑みになる。そのまま彼はゆっくり息を吐きながら、体に負荷を掛けないようにたっぷり時間を掛けて体を少しずつ持ち上げる。3分ほどかけて体を起こした彼は自由な左手で手櫛をするようにヒフミの頭を撫でた。トリニティ指定の体操服とジャージから覗く手当の痕は彼女をちゃんと守り切れなかった証明。自分がもっとちゃんとやれていれば、もっと全てを見通せていたらこうはならなかったかもしれないのに。何もかもを捩じ伏せる事ができるような何かがあれば。
────大人のカード……縁を結んだパラレルワールドの生徒を呼び出せる権能。それが正規の……連邦生徒会長とキヴォトスが想定した使用方法だ。だが、魂が摩耗した彼は正規の使用ができず、専ら例外使用である事象干渉の用途でしか使ってこなかった。しかし、その事象干渉以外にも彼が大人のカードで行使できる権能は存在する。それが、正規の使用方法である『パラレルワールドの生徒を呼び出せる権能』を
星の数ほどの戦場を渡り歩いた先生ですら片手で数えられる回数しか使わなかった奥の手は、可能な限り使用したくなかったものではあるが……選り好みなんてしている場合じゃない。
例え使った果てに生徒達から侮蔑されようとも、彼女達さえ守り切れればそれで良いのだ。
そうして彼は不退転の決意を一つ。また一歩、己が彼女達から離れる事を知りながら。また一歩、連邦生徒会長が愛した人類の在り方から遠ざかる事を痛感しながら。ふとした瞬間、星のように遠く感じてしまうようになった愛する生徒達、その掛け替えのない一人であるヒフミの頭を撫でて、ぽつりと喉から言葉が漏れる。
「ごめんね、こんな事をさせちゃって」
嘘ばかり吐いて、偽りばかり言葉にする口から零れたのは紙切れよりも軽い言葉だった。
戦わせたくない。傷ついてほしくない。危険な目に遭ってほしくない。それは単なるエゴ。善意や愛とは名ばかりの単なる妄執の押し付けだ。そもそも、そう想うなら彼女達の周りから一刻も早く離れるべきだと謂うのに。
そんな自分のどうしようもなさ、救いの無さ、愚かさも何度も反芻したもので、結局の所自己満足の自傷行為にしかならない。
すると、ふとヒフミの手が少しだけ震えた。彼女の方に視線を送るとベッドに突っ伏した口元から少しだけくぐもった声が聞こえ、薄っすらとヘイローが浮かび上がる。何度かヘイローが浮かんだり消えたりしていると、段々と浮かんでいる時間の方が長くなり、7割方起きたであろう彼女はベッドに手を突いて体を起き上がらせた。
「あ、あれ……? 私……」
「おはよう、ヒフミ」
寝ぼけ眼のヒフミに彼はふわりといつも通りの声音で声を掛けると、彼女は驚愕で眼を見開いて声の方を勢い良く向く。先ほどまで点滅していたヘイローはばっちりと固定化され、眠気なんて一瞬で彼方に飛んで行った。ヒフミはベッドの上で体を起こし、ふわりと優しい笑顔で微笑む先生を視界に収め────それから半分涙目で大きな安堵と驚きを声に出した。
「せ、先生!? 目が覚めたんですね! ど、何処か痛い所とかありませんか!? お腹空いたり喉乾いたりしていませんか!? 大丈夫ですか!? い、いえ、先に皆さんを呼んで────!」
「うん、私はこの通り大丈夫。まだ本調子ではないけど、しばらく休めば何とかなるよ。心配かけてごめんね。皆は無事かい?」
「えっと、先生が送ってくださった方達に助けていただいたので、皆さん大きな怪我も無く無事で……」
「そっか、良かった……手当も皆が?」
「はい、私達とセリナさんとマリーさんで手分けして……」
「セリナとマリーが……」
その2人の名前が出ただけで彼はティーパーティー、ひいては今のトリニティの状況を大方察した。助けてあげたいのは山々だが、今の自分が行っても事態をややこしくするだけのため泣く泣く見送ろう。
「うん、大体把握したよ、ありがとう。じゃあ、もう一個質問。今此処に居るのは私と補習授業部の皆、セリナとマリー……だけではないよね?」
「は、はい……その、ティーパーティー所属の方と思われる生徒が一人いらっしゃって、未だ眼を覚ましていなくて……その、アズサちゃんは目が覚めたら尋問するって言ってましたけど……あうぅ……」
「その子は恐らく何も知らないよ。ナギサが自身の味方を巻き込んで何かをやるなんてあり得ない。その子が巻き込まれた時点で、この事態はナギサの手から離れている」
「で、では、一体誰が……」
「トリニティの内部崩壊、ひいてはキヴォトスの崩落の糸を引く黒幕だよ」
そう言って、彼は苦虫を嚙み潰したような表情を一瞬だけ浮べるが……それは即座に元の柔和な表情に入れ替わる。誰も気づけない位に、即座に。
「皆の目が覚めたら、一度その辺りの事も話そうか。セリナとマリー、ティーパーティーの子にはトリニティに持ち帰ってほしい情報もあるからね」
「……分かりました。それとは別に、私達からも先生に聞きたい事があるのですが……いいですか?」
「……勿論、君達には知る権利があるからね」
何の事なのかは、言わなくてもよく分かった。