シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
「昨日から色々あったし、今日は一日お休みにしようか。皆も疲れてるだろうし、私も万全ではないからさ。積もる話はまた後で、ね?」
彼はいつも通りの表情でそう言った。何かを隠しているような、何も隠していないような。清廉潔白、貞淑、清廉。或いは、魔性。一口で表せない矛盾を何の論理破綻も無く共存させている彼の言葉と姿は安堵にも似た何かを少女に抱かせる。毒性の安心感、彼の血で作られた安らぎ。こうなったのは誰の所為なのか。彼はきっと誰の所為でもないと言うだろう。彼はそういう人だ。
ハナコは俯いて、唇を噛む。皮膚が破れて血が滲んでしまうほど強く。
変えられないと知ってしまった。地獄の底で運命を背負う彼を、生贄として望まれて未来を失くしてしまった彼を……きっと、自分では変えられない。
────彼は
相互理解など不可能。分かり合うなんて綺麗事だ。彼はこの星の異物。誰とも同じではない。時間の流れの捉え方、命の価値感すら全く異なる。心に巣食う巨大な孤独はきっと押し潰されてしまうほどの重さで、彼に酷薄な現実を突きつけてきた。一人で生きるしかない、と。誰が近くに居ようと、誰に愛されようと孤独を埋める術は無く、彼はこの広い世界で独りぼっちのまま歩いてきた。誰にも言うことなく、ずっと。
────そんなのは、人の生き方ではありません。人で在りたいはずなのに、人としての在り方を望んでいるはずなのに。それなのに彼はその在り方から遠く離れている。
「っと……」
軽い声が聞こえて顔を上げれば、彼はベッドから起き上がり、その足でちゃんと立っていた。まだ平衡感覚が戻っていないのか、それとも傷の所為でバランスが取り辛いのか。若干ふらついているが立つことは出来ており、ベッドフレームを手すり代わりにしながら少しずつ歩いていた。重傷を負い、少し前まで意識を失っていた彼がそんな事をするとは思ってもいなかった少女達は驚愕に目を見開きながら即座に彼に駆け寄り、皆より一歩早かったアズサは迷わず彼に肩を貸す。
「う、動いて大丈夫なんですか!?」
「平気平気、別に骨が折れた訳じゃないから。ちょっと痛むけど許容範囲だよ。それに、いつまでもロビーを占領するわけにはいかないからね。私は大人しく自室に戻って療養するさ」
「……分かった。部屋まで一緒に行く」
「ありがとう、アズサ。立つのは出来るけど、移動はまだ支えが無いとしんどくてね。でも、明日までには
ベッドフレームから手が離れる。アズサに体重を預ける。その軽さに、アズサは胸を刺すような痛みを覚えた。この軽さは確実に中身に影響が出ている。
「何か用事とかあったら好きに来てくれて大丈夫だよ。生憎、お茶は出せないかもだけど」
「……ゆっくり休んでください」
「ありがとう、皆もね」
▼
1日も空けていないはずなのに随分久し振りに戻ってきた気がする、合宿施設内の私室。殺風景な部屋に置かれた微かな生活感は5人分のマグカップと替えのスーツ。何となくどんよりとした空気が溜まっている気がしてカーテンと窓を開けるが、差し込んできた日差しと暖かいを通り越して暑い風は部屋の温度を無駄に上げただけだった。
いつの間にこんなに夏めいたのやら、移ろいを感じないと季節の変遷は唐突に思えてしまう。きっとこのまま夏が終わって、秋が来て、冬が終わり、春になって────昨日に消えていく花弁と共に、さよならを。
彼は内心で溜息を吐きながら先ほどの手順を逆再生。再び外界から隔離された部屋、先生とアズサは残される。
「ありがとう、肩貸してくれて嬉しかったよ。私はもう大丈夫だから、アズサも皆の所に────」
「……少し、いい?」
袖を引く。上目で見つめる。ライラックを思わせる薄紫の瞳。それに射貫かれた先生はふわりと笑ってアズサを見つめ返した。
「うん、良いよ」
透明な肯定を得たアズサは椅子を一つ引っ張ってきて、ベッドに座る彼の真正面に陣取る。遮るものは無い。お茶やお菓子のような注意や意識を逸らすものも無い。此処には2人だけが在る。
「思えば、アズサとこうして1対1で話すのは初めてだね」
「うん……そうだね」
風が止んだかのような沈黙が2人の間に横たわり、息を合わせたかのように目を細め合う。こうした何でもない穏やかな時間が何よりも尊く、一度失えば二度と取り戻せないものであると今なら分かっている。ずっと、
だから、今度は守らないと。あの人を。あの人を傷つける悉くから。あの人を害する悪意から。
────どうやって? 現に、何も守れていないと謂うのに。
その諦観が、嫌になるくらい冷たい現実がアズサの背中に銃口を突きつける。それは振り払えないほどに重くて、覆せないほど痛みを伴っていて。そんなどうしようもない、反吐が出るような現実を変えるために。あの人が自分自身を『生きてもいい』と思えるような確固たる何かが狂おしいほど欲しくて。内心でのたうち回る感情が拳を握る力に変わった時、ボロボロの彼は思い出したかのように「そういえば伝えてなかったけど」と話を切り出した。
「別に私はアズサ……いや、アズサ達がやろうとしている事に過剰に干渉するつもりはないよ」
「ッ!?」
何でもない事のように放たれた一言は爆弾よりも大きな衝撃でアズサの全身を駆け巡る。椅子を蹴飛ばして立ち上がらなかった事を褒めてほしいほどに、彼の発言は今までの前提を全て覆すものだった。
対して、彼は『そんなに驚く事?』と言わんばかりの表情。彼の表情から察するに、逆探知されているものだと思っていたらしい。
「……どうやって知ったの」
「私には頼れる子が居てさ。その子、かなり目と耳が良いんだ。頑張ればキヴォトス全土をスキャンできるし、頑張らなくても合宿施設内で起きた事程度なら把握できる。特に日常のルーティンに組み込まれないであろう行動……深夜の哨戒や電話は目立つんだ。まぁ、プライバシーの侵害も甚だしいからなるべく見ないようにはしてるけど……嫌でも目に入るものってのはどうしてもあってさ」
緊張と驚愕で口の中がからからに乾燥する。彼の口から何が飛び出して来てもおかしくない。何処まで知られている? どこまで把握されている? あの万華鏡の様な瞳はどこまで見通している?
「だから、私はアズサがミカやアリウススクワッドの子達と連絡を取っているのは知っているんだ。勿論、どんな事を話しているかは知らないよ。何をしようとしているのか、何を考えているのか、何の目的があるのか、とかね」
「……知りたい、とは思わないの?」
「思うよ。心配だし。危ない事をしようとしてるなら止めたいし、力を貸してあげたい」
先生はアズサを手招き。近寄ったアズサは彼の真横、ベッドに腰を下ろす。すっと伸びてきた彼の手はアズサの頭に置かれ、ひたむきな愛が確かに伝わる優しさと暖かさで頭を撫でる。少しくすぐったくて、でも嬉しくて仕方が無くて。
「でも、アズサが私に話していないって事は話せない理由があるんでしょ? アズサや他の子達に何か考えがあるなら、私も無理に詮索はしないよ……心配はさせてもらうけどね」
くすり、と苦笑いする彼。秘密は誰にでもある。アズサにも当たり前にあるし、先生にも大量にあるだろう。言えないのは信頼していないからではない。信頼しているからこそ言わないことだって確かにある。
アズサやミカ、サオリ達が抱えている秘密は間違いなく後者に該当するだろう。彼を信頼しているから、彼を知っているから言えない、言わない。彼の手助けは不要。これは自分達で片付けるべき問題だ。
それに────彼に手を引かれなくても、彼の生徒として立派に歩けると証明したかった。胸を張って『彼の教え子』だと言えるような理想の自分に、彼の隣を歩くのに足る人間になりたい。子どもの背伸びかもしれないけれど、背伸びしなければ見えない景色だってあるから。
「それも全部ひっくるめて私はアズサを信じるよ」
「ミカから言われたから?」
「いいや、私の意志。アズサを信じたいから、私はアズサを信じるんだ。それにアズサは私の生徒だからね。生徒を信じない先生が何処にいるんだ」
妄執や期待の押し付けではなく。ただ、生徒を信じる。生徒の歩く道を、成そうとしている事を。折角、彼女達が自分自身の意志で確固たる一歩を、大人としての孵化を始めんとする足を踏み出したのだ。これを祝福せずして何を祝福しよう。彼女達の先達として、先生として見守る。それが彼の下した自分なりの結論だった。
だけど、それでも────守ってほしい、思い出してほしい約束が1つ。
「一個だけ約束。何かあったら迷わず私を頼って。私はずっと、アズサの味方だからね」
「……うん」
そう言って、2人は小指と小指を結んだ。
▼
「────」
ばたん、とドアが音を立てて閉じる。見慣れた部屋。補習授業部の4人で就寝と起床を共にし、親睦を深め合った場所。和気藹々とした空気が何時も満ちていたはずの空間は真逆の静謐に支配されている。ハナコはコハルをベッドの上に寝かせ、そっとブランケットを被せた。
「ハナコ、ちゃん……」
「ヒフミちゃん、場所を変えましょう。此処だと起こしてしまうかもしれませんし」
「……はい」
「アビドスの方とは連絡できましたか?」
「えっと、連絡はできたのですが、『詳しそうな生徒を連れてくる』と仰って……」
ヒフミはモモトークの画面を見せる。相手は『ホシノ』と書かれた誰か。一通り事情を話したヒフミの下の返信に、確かに先ほど彼女が口頭で行った旨の文面が記載されていた。アビドスよりも更に事情に詳しそうな生徒とは誰だろうか。ぱっと思い浮かぶのはあの時助けてくれた生徒。彼女達の内の誰か、或いは全員がアビドスの生徒達よりも更に踏み込んだ事情を把握しているのか。
「取り敢えず移動しましょうか。その方から連絡を頂くまでは私達で考えを纏めておきましょう」
ドアを開け、廊下に出る。静かな空間。それに一握のもの悲しさを覚えながら、2人は使われていない3階へと足を進めた。掃除をしているため目立つ汚れは無いが、隅の方には少しの埃が溜まっている。また掃除しないと、と思いつつ階段を上がり3階に着けば、見慣れた廊下とドアが並ぶ場所に出る。
構造自体は階層を跨いでも同じらしい。2人は一番奥まで歩き、がちゃりとドアを開けて部屋に入った。ベッドと机があるシンプルな部屋は、補習授業部が使っているものとほぼ同等。広さや備品の個数が違う程度だ。
さて、今まであった事と考えを整理しようとお互いが口を開こうとするとヒフミのスマホが震えた。慌てて画面を見れば電話の画面、相手はホシノ。ヒフミとハナコは顔を見合わせ、応答ボタンをタップ。スピーカーで増幅された声が部屋に響いた。
『もしもーし、ヒフミちゃん、聞こえる?』
「あ、聞こえてます! お久しぶりです、ホシノさん! 突然ご連絡してしまってごめんなさい……!」
『うへ、いいのいいの。おじさんとヒフミちゃんの仲じゃん、堅苦しいのはナシにしよーよ』
「あはは……他の皆さんはいらっしゃらないのですか?」
『今日は自由登校だからね~。ノノミちゃんは買い出し、シロコちゃんはサイクリング、セリカちゃんはバイトでアヤネちゃんは図書館でお勉強中なんだ』
「そうなんですね。でしたら、学校にはホシノさんだけ……という事ですか?」
『んー、おじさんも今は学校にいる訳じゃないけど……』
その微妙に歯切れの悪い解答に疑問を覚える。学校に居るものだと思っていたが、どうやら今は違うらしい。移動したのだろうか、と思っていると……ハナコが少し身を乗り出してマイクに向けて口を開いた。
「初めまして、小鳥遊ホシノさん。浦和ハナコと申します。突然ご連絡したのにも拘らず、快くお返事くださり感謝いたします」
『お、君がヒフミちゃんが言ってた子だね? よろしくね~、ハナコちゃん』
緩い空気のまま初めましてを交わす。少し話には聞いていたが、実際もこんな感じの人らしい。ふんわりとしていて、優しく、それでいて頼りになる人。それが小鳥遊ホシノという少女らしい。ハナコとしても個人的に仲良くなりたい想いがあり、このままアイスブレイクでもしようかと思ったが……電話口から緩んだ空気を引き締めるような鋭利な声が聞こえた。
『……早く本題に入らせなさい。私も貴女も、無駄話に興じる余裕はないでしょう?』
『まあまあ、そうは言わずに。ほら、仲良しに越した事はないでしょ?』
『はぁ……突然押しかけて来たかと思えばトリニティの生徒と電話を始めるなど……貴方でなければ即刻首を刎ねていましたよ』
『うへ、相変わらず物騒だな~。あ、ちょっと待ってね。今ビデオ通話にするから』
その声と共に殺風景な通話画面が切り替わり、電話の向こう側の景色が映し出される。ふわふわの笑顔で手を振るホシノ、彼女の背後の景色はヒフミが何度か目にしたアビドスの校舎ではなかった。
白を基調とした近未来的な場所は教室ではなくオフィスに近い。窓の外から見える景色を鑑みるにそれなりに高い場所にあるようだ。ちらりと端に映ったロゴから察するに、場所は恐らくシャーレのオフィス。ホシノはヒフミから連絡を受け取り、即座にシャーレへ移動したようだった。そこに、詳しそうな生徒がいると踏んで。
そして、その詳しそうな生徒こそが先ほど口を開いた────。
『その様子ですと、あの御方は無事に届けられたようですね』
「狐坂、ワカモ……」
ホシノの真横に立つ少女はワカモ。真新しい百鬼夜行の黒い制服に身を包み、仮面越しでも分かる鋭利な視線を画面の向こう側に居るヒフミとハナコ、そして序でにホシノに向けている。友好的、とは口が裂けても言えない態度。七囚人の武闘派筆頭、音に聞こえし災厄の狐は心底興味無さそうに溜息交じりで口を開いた。
『それで、何が目的ですか。態々アビドスからシャーレまで来たのです。相応の理由があるのでしょう?』
『んー……この際、洗いざらい吐いてもらおうかなって思ってね』
『……何をです?』
『先生の事』
────瞬間、文字通り空気が凍りついた。電話越しですら感じる冷たさ、視線の鋭さ。躊躇なく、遠慮なく踏み抜いたワカモにとっての地雷。ヒフミは勿論、ハナコですら思わず息を呑んでしまった。
『以前に言ったでしょう。私達が知ってもどうしようもない、と。あの御方が抱えている痛みを解決できる何かなど、何処にもないのです』
『でも、ワカモちゃんは知ってるでしょ? それは何で?』
『少々込み入った事情があるので。別にあの御方に直接お教えいただいた訳ではありません。知っているとお伝えした時、あの御方はとても悲しそうに微笑みました……きっと、望んでいなかったのでしょう』
ワカモに重荷を背負わせてしまった────あの時の彼はそう思っただろう。知らなくても良かった事。知らない方が幸せだった事。それを背負わせてしまった。変えられない事を、不可避の未来を知ることはきっと辛いだろう……誰よりも痛みの渦中にいるはずの彼は当たり前の善性で、ワカモが抱えた痛みを偲んだ。
それが何よりも悲しくて、悔しくて。だから最後まで付き従うと決めた。夜を行く彼が凍えないように。誰よりも独りぼっちな彼が本当の意味で孤独にならないように。
ワカモが自分の意思で彼の秘密を話すことは無い。あの時に見た彼の表情を繰り返させてなるものか。あんな泣きそうな、吐きそうな、いっその事死んでしまった方が救われる表情を二度も浮かべさせる事など────。
「……狐坂ワカモさんはそれでいいのですか?」
『────は?』
「は、ハナコちゃん……ッ!」
だからこそ、ハナコの発言は百度殺しても飽き足らぬものだった。場に満ちていた殺気が一人に向けて凝縮されて放たれる。刃物、とは言い当て妙で、本当に鋒を首元に突き立てられているようだった。その余波に当てられたヒフミはハナコを心配そうに見つめるが、向けられた当の本人たるハナコは恐怖を飲み込み口を開く。それが、自分のやるべき事と信じて。
「何もできない事を、何も変えられない事を理由に口を閉ざす。甘美な停滞に身を委ね、傷つく先生を後ろから眺める。本当に、それでいいのですか?」
『知ったような口を。お前に何が────ッ』
「何も分かりません。何も分からないからこそ、知りたいと思っています」
知らないからこそ、知りたい。手が届くようにしたい。何からもかけ離れている彼に少しでも近づきたいのだ。
「確かにどうしようもない事かもしれません。私達では解決しようがない問題も往々にあるものです。ですが、それでも諦観に膝を折る事はしたくありません。たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない────私の大切な友人は、きっとそう言います」