シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
言葉を飾り、本心や本質を奥底に隠す事が多いハナコにしては珍しい真っ直ぐな言葉と、そこに籠められた意志。それはホシノとワカモ、そして誰より……隣にいるヒフミの胸を確かに打った。全てが虚しくとも、全てが無意味でも、それを理由になにもしないのは諦めと同義だ。それをアズサは何度も言っていたし、その考えはハナコに受け継がれた。
じゃあ、
それは。そんな結末は────ヒフミの思考が深くなり、脳の奥で青い言葉が花開こうとした時、電話越しから呆れた様な柔らかい声が聞こえた。
『……だってさ。私も全く同感だけど、ワカモちゃんはどうなの?』
『無論、私もこのままで善いとは思っておりません。このままあの御方を進ませてしまえばどうなるか、貴女方も分かっているでしょう?』
知らない、とは言わせないワカモの声。この世界に殉じ、生徒の為の殉教者となろうとしている彼の艱難辛苦から目を逸らす事は許されない。
『……貴女方の意志は分かりました。こちらとしても、来るべき決戦の協力者が多い事に越した事はありません』
「で、では……ッ!」
『ですが、あの御方の許可なく私が口を開く事はありません。言えない事、言いたくない事を多く抱えた御方です。口を開くたびに誰にも見えない涙を流す御方です。私達を視界に収めるたびに絶えずご自身を責め続ける御方です。そんな御方の秘密の花園を、私は無断で散らす事をしたくありません』
ワカモの彼を想う心は途轍もないほど大きい。彼が悲しむと分かっている事はやりたくないのだ。その当たり前の事実を突きつけられた少女達は交渉の決裂を予期したが、彼女の言葉には続きがあった。
『しばしお待ちを。あの御方からの許しを頂戴しますので。許しを頂けたら、次見えた時にこの続きを話しましょう』
『あ、ワカモちゃ────行っちゃった』
音もなく、まるで風が舞うように電話の向こうから消えたワカモ。ホシノが止める間も無く去っていった彼女は本当に生粋の一匹狼のようで……その協調性の皆無さに思わず笑ってしまいそうだった。尤も、七囚人に協調性や仲間意識を求める事の方がおかしいのかもしれないが。
『うへ、ごめんね。意気揚々と行ったのに……』
「い、いえ! 大きく前進出来ましたので……本当にありがとうございます!」
「私からもお礼を。ホシノさんのお陰で糸口が見つかりました」
『こちらこそだよ~……私だけじゃきっと、また何もできなかったから』
その声音は今まで聞いたどれよりも昏く落ち込んでいて。だが、それも直ぐ一瞬でいつもの昼行燈なホシノに元通り。明るいままこの電話の終わりを告げる。
『それじゃ、またね、ヒフミちゃんとハナコちゃん。何かあったら連絡頂戴、力になるからさ』
「ホシノさんも、何かお困りごとがあればいつでも! わ、私では力になれるかは分かりませんが……今日は本当にありがとうございました、それでは!」
▼
朝が終わり、昼が来て、夜が訪れ、日は廻る。昨日が当たり前のように終わり、今日が当たり前のように始まる。そこに込められた意味は変わらないまま、何かが決定的に変わってしまった補習授業部の日常。極秘としていた部活の真実の一端、楽園に潜む蛇を見つけ出すナギサの盤面遊戯。それは着実に、誰も望まないシナリオへと帰結しようとしている。
「────」
先生は結局、あれから一睡もしていない。アズサをヒフミ達の元に返してから基本的にシッテムの箱に籠りっぱなしで、アロナと共に様々なデータ処理やベアトリーチェ対策の抜本的な見直しを行い、それに伴いあらゆる手段をフルで使えるように情報網や連絡網の再整備、礼装の調整、万一の場合を考えて黒服との会談を申し込んだり……彼は何の予定もない一日をフル活用して、エデン条約を意識した対抗策を十全に整えていた。
そして────彼は
通常、彼はカードをこんな形で運用しない。大人のカードは契約であり、差し出す対価に見合った事象を起こすもの。彼はその起こす事象を未来に先送りしたのだ。
事象Aが発生したから大人のカードを使って事象Bを起こす、それに対して対価Cを支払う────これが大人のカードの例外使用の基本形だ。対象の事象Aは過去か現在、起こす事象Bが現在か未来、支払う対価Cは現在。この時系列で運用する事が定石となっている。
これの時系列を未来にすると、『事象Aが発生するから大人のカードを使って事象Bを起こせるようにする、それに対して対価Cを支払う』となる。事象A、B共に未来となっているが……対価Cのみ、現在における時間軸になっているのだ。
これこそが彼がこのような形でカードを運用しない最たる理由。事象を未来にしたからといって、差し出す対価を先送りにできないのだ。対価があってこその事象、その順序は時系列を無視する大人のカードに於いて唯一求められる因果関係だった。
つまり、未来に於いて事象を起こすと謂う事は、起こるか分からない未確定な事象に対価を払ったと謂う事。当然の如く、彼というリソースも有限だ。未確定な事象に支払えるような余裕はない。
もし仮にその事象が起これば採算は取れるが、起きなかった場合は完全に払い損になるし、そもそもトリガーの条件に合致した状況が出来上がる確率の方が低い。故にこの運用方法はよく言って博打、悪く言えば使い物にならないものなのだが……それでも、彼は使用した。
ベアトリーチェの狙い、性格、持ち得る手札、知っている事、これから知る事。それらを統合して、彼は確実に『起こる』ことを導き出せた。そうなる過程も何もかも不明で見えていない。だが、ベアトリーチェの目的を鑑みれば確実にこのルートを通る────と。
本来であれば通らせない事が一番だ。そんな事は彼も分かっている。だが、あの執念は凄まじいの一言に尽きる。だから通らせないようにしつつも、通った場合も考える……それが戦術の基本だろう。常に最悪を想定して、最低を想定して、そこから如何に這い上がるか。彼が打った手は、その這い上がるために必要な条件の一つを満たせるものだ。
それを考えると支払った対価────右眼の恒久的な機能喪失も、ずいぶん安いものだと思える。
「うーん、正面と左は何とかなるけど、流石に右側は見にくいな……だけど何とかなる範囲だ。これなら計画の修正は誤差で済む」
先生はベッドから立ち上がる。ナノマシンの治療を筋肉組織の方に集中させていたおかげで日常における動作の多くは人の補助なしでも出来るようになった。最新技術様様だ。これの基礎を開発してくれた誰かと、改良して更に彼専用に特化させてくれたアロナには足を向けて寝れないだろう。
彼は開けていた第一ボタンを閉じて、机の上に放り投げていたネクタイを手に取って絞め、ジャケットとコートを羽織る。そのまま幾つかの錠剤を嚥下し、針無しの注射を3つほど静脈に打ち込めば、先生として生活するのに不足は無くなった。
「さて、今日は────何から始めようか」
話すべき事、話さなければならない事は沢山あった。
▼
ヒフミ達が起床し、歯を磨いて、シャワーを浴びて、着替えて、朝食を済ませて、身支度を整えて……それから、補習授業部の務めを果たすべくいつも通り教室に集まった。いつもは先生が誰よりも先に来て準備して待ってくれていたのだが、扉を開けた先には誰も居ない。無人の空っぽ教室、それに心を痛めたのはヒフミだけではなく、皆一様に言いようのない感情に心を刺されていた。
だが、先生が居なくてもできる事はある。取り敢えず拡大した試験範囲を網羅できるように使わないと思っていたテキストを机に出すと────不意に教室のドアが開いた。
「皆、おはよう。遅れてごめんね」
そこに立っていたのはいつも通りの先生。タブレットと紙束を片手に持ち、にこやかに笑いかけるその姿にヒフミ達は驚愕のあまり立ち上がってしまった。
「せ、先生!? もう動いても大丈夫なんですか!?」
「うん、元々見た目だけ派手な怪我ばっかりだったからね。1日休んで治療に専念すればどうとでもなるさ」
「むぅ……安静にした方が良いと思うが……」
「皆が頑張ってるのに、私だけ休むわけにはいかないからね」
「……ふふっ」
「え、何その含みのありそうな笑顔……」
彼はヒフミ、アズサ、ハナコと他愛のない会話を交わし、心配する彼女達に笑みを浮べ……それから意を決したように、少し離れた場所で唇を噛んで俯いているコハルを見る。そして、彼女の元まで歩いていき、膝立ちになって視線を合わせる。二度と、目を逸らさないように。彼女を真っ直ぐ見つめられるように。
「コハル……」
「私は、絶対に許さないから」
「……そっか」
あぁ、それでいい。コハルはそれでいいのだ。許さなくていい。認めなくていい。真っ直ぐなコハルらしくあってくれればいい。いや、コハルがコハルでなくなっても────そこに居てくれれば、それで。
「あんな事、二度と先生に言わせないんだから。私が、言わせないから。だから……先生も絶対言わないでよねッ」
顔を上げたコハルの眼には強い意志の輝き。それは確かな熱量を以て先生を貫いた。二度と言わせないようにするから、二度と言わないでほしい。ともすれば矛盾しているかのような約束は、ある意味コハルの決意の様なものだった。
それに対して、何も思う事が無いと言えば嘘になる。君がそんな事を想う必要は無いのだと、そう言えれば簡単なのだが……コハルの意志よりも強い何かを、先生は何一つ持ち合わせていなかった。だから彼は短く「……あぁ」とだけ吐いて、コハルの頭を撫でる。もう二度と彼女にこんな事を誓わせないように────自分を戒めながら。
そして、2人の仲直りを感じ取ったハナコは本当に嬉しそうに一瞬だけ微笑みを浮べて、この後横たわるであろう気まずい雰囲気を吹き飛ばそうとコハルを揶揄う言葉を装填した。
「ふふっ、コハルちゃんは先生が大好きなんですね♡」
「はぁ!? ちょ、ちょっと、何言ってんのよハナコ! 意味分かんない!」
「うん? 人を好きになるのは当然のことだ。恥ずかしがる必要は無いと思うが……私も先生は好きだし、コハルも好きだぞ?」
「そういう事じゃないわよアズサ! デリカシーってものが無いわけ!?」
「あはは……」
「ヒフミも笑ってないで助けなさいよ! 私を変態とノンデリからッ!」
────こうして、凄惨な事件があった後でも、何だかんだで補習授業部は元通りの日常を取り戻していた。