シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
彼は言った。これは罪に対する贖いだと。
本来ならベアトリーチェは自然淘汰されるべきだった。世界自体の自浄作用、或いはこの世界に対して責任を背負う大人の善性で以て、もっと早期に打倒されるべき悪性だったのだ。
彼女の目的や思想、手段は彼女自身以外の全てにとって到底容認できないものだろう。子どもを利用し、己以外の全てを塵芥と見下し、この世界を壊し塗り潰そうとする愚行。誰がどう見ても下劣だと分かるだろう。どんな理屈を、言葉を尽くしても、彼女が『悪』だと断じる事ができるだろう。
だが、世界は彼女の存在を黙認した。影で蠢く悪意に気付くことができず、被害が出る前に排斥できなかった。或いは気付いていたとしても『万人死のうが自分には関係ない』、『もう少し泳がせて利用できるか見定める』などと云った理屈で彼女と、彼女によって生み出される悲劇を野放しにした。
あぁ、彼とて分かっている。気付かないのは仕方がない。保身に走るのは生命として当然の事。利益を求めるのは悪ではない。彼女が今も生きているのは色々な要因が噛み合ってしまった結果で、明確な『誰か』に咎がある訳ではないのだ。おかしいのは彼だけ、この世界に住む人々の感覚こそが正常だろう。
だが、それもまた理屈でしかない。理論で涙が消せるものか。悲劇を無かったことにできるものか。誰にも咎が無くても、仕方が無くても、明日を見てみたかった誰かが絶望の淵に瞼を閉じたのだ。この世界がベアトリーチェを排斥しなかったから。この世界に対して責任を負う者が彼女を受け入れたから。
故に、この行為は贖罪だ。この世界が、この世界に住む誰かが100年前にやるべきだった仕事。それを今、果たそう。許してほしい誰かは此処にいない。そもそも、この罪は先生のものではない。彼はキヴォトスの住人ではなく、異邦の者。本来なら全てに関与できなかった傍観者だ。
だが、だからと言って見て見ぬ振りなど出来る訳がない。無数の悲しみの上に立ち、更なる犠牲を生み出そうとしている彼女はここで終わらせる。彼女を殺す事で、これから生まれる悲劇を断つ。罪を背負うと決めた、自分が。
────なんだ。結局、同じじゃないか。理解を拒んで、対話を拒絶して、一番手っ取り早くて簡単な手段でベアトリーチェを排除しようとしている私は何処まで行ってもゲマトリアと同類だ。方向性が異なるだけで本質は何一つ変わらない。誰かを傷つけても、殺しても、目的の為なら仕方ないと思える。思えてしまう。それがどれほど罪深いと分かっていながらも。
「────」
だけど、そんな同じ穴の狢にも使える何かがあるなら、それはきっとこれだ。同類は同類同士で殺し合って、他の誰かを巻き込まない。死んでいくのは先生とベアトリーチェだけだ。
「それは、
「あぁ、天命を断つ概念武装。聖なるものを引きずり下ろす堕天術式。私達の墓標にするにはぴったりじゃないか?」
天命は対セム的一神教に特化しているが故に、それ以外の神秘に対しては効果が薄い。故にベアトリーチェがゾロアスターの神秘を取り込み、混ざり物となっていた場合、この武装一つで殺し切ることは不可能だっただろう。
だが、今の彼女は自身の神秘のみしか保有していない。恐らく別の神秘を取り込んだ時のリスク……あのバルバラのようになる場合を考えて一旦様子見したのだろう。その保身が命取りだ。永遠の淑女の神秘なら────殺し切れる。
ぎょろり、とベアトリーチェの眼が彼の真横で致死の顎を開く武装に向く。途轍もないほどの研鑽、執念とも呼べる構築、決して逃がさないと言わんばかりの殺意。それらが凝縮された武装は一種の美しさを持っていた。例えるなら、殺戮の機能美。戦場で使われ、敵の血を浴びて錆び、その度に研ぎ澄まされた剣のような。呪いと破滅と憎悪に浸されているはずなのに、どこか目を離せない危険な輝き。
────ベアトリーチェは直感した。あれは『死』だと。あらゆる理論を飛び越え、障害を踏み潰し、確実に彼女を殺すものだと。彼の目にはそれを成し遂げる意志の強さが宿っていた。
例え先手を打って彼を縊り殺そうとも、その次の瞬間にはベアトリーチェも死に絶えているだろう。例外は許さず、防御も回避も認めない。どちらかが動けば、どちらも死ぬ。
先生としての彼。生徒を守り、教え、救い、導く存在。
救世主としての彼。この世界を救済する事を約束された事象。
人間としての彼。迷い、悔やみながら、それでも生きる人間。
その全てを捨て去る暴挙。文字通り、彼は己の全てを投げ打って、ベアトリーチェを殺そうとしている。
「その命、ここで散らすのは惜しいのではないですか?」
「まぁ、少しは惜しいとは思うよ。一回きりの命、それも最後ともなればね。だけど、此処でお前を殺せるなら命の使い方としては上等だ。悪戯に悲劇をばら撒くお前だけは生かしておくわけにはいかないんだよ」
生徒の皆を置いて逝くのは悲しい。約束を果たせず死ぬのは口惜しい。未練、後悔は山ほどある。その未練と後悔、ベアトリーチェを天秤にかけて……彼はベアトリーチェを選んだ。
未練と後悔を抱えたまま死ぬ事を受け入れた。最後の回帰をこれで終わらせる事にした。愛した生徒の手を離して、殺戮の道具を握り、先生はたった一つの激情を装填する。
「悪意には報復を。お前を連れて行く────神秘、装填」
────死ぬのは怖いと言い聞かせてきた。死ぬのは恐ろしいと、ずっと思い込ませていた。だけど、こうして死の淵に立った今、感情は凪いでいた。何も感じなかった。怖いとも、恐ろしいとも。安堵すら得ることができない。文字通りの虚無。結局、自分は生にも死にも何の価値も抱いていなかった。最後の最後まで、この命に意味を見出せなかった。生徒が、アロナが、あの子があんなに言葉を尽くしてくれたのに。あんなに愛してくれたのに。それなのに、何も。自分はどこまで行っても異邦の人間で、この世界の異物で、
「ふむ……」
ベアトリーチェは冷静に状況を分析する。彼は本気だ。彼は本気で、自分の全てを捨てて、殺意を握りしめている。例え死んでもベアトリーチェさえ殺せればそれでいいと、心の底から思っていた。
「魂ごと削り壊す、魂ごと燃やし尽くす。私は死んでも、お前を殺せればそれでいい」
「気狂いが」
ベアトリーチェとて、こんなところで共倒れなんて真っ平ごめんだ。自殺志願者なら自殺志願者らしく独りで死ねばいい。そんな心中に巻き込まないで欲しいものだが……今のベアトリーチェの手札にアレを覆せるものはなかった。
無論、ベアトリーチェも無策で此処に来たわけではない。確実に勝つための道筋があり、策があり、万一の場合に備えた保険も用意してある。その上で『この状況なら先生を殺せる』と確信した段階で漸く表舞台に姿を現し、彼の命に手を掛けようとした。だが、あの礼装を使われるのであれば話は別だ。
ベアトリーチェの『眼』をもってしても解析できなかったアンノウン。あの時は離れていたからだと思っていたが、今こうして目の前にあっても分からない。どう目を凝らしても、どう観測しても、あの礼装だけが暗黒領域になる。
使わないと思っていた。ビナーで見せたあの破壊力は最低でも絨毯爆撃に匹敵する。それをこんな閉所で、しかも彼が『守るべき存在』と宣う生徒たちが周りにいる今、使うわけがないと踏んでいた。にも拘らず、彼は展開した。一切の躊躇いもなく。威力を集束させる術があるのかは不明だが、何れにせよベアトリーチェの目論見は外れる事になる。彼女は彼の執念を甘く見積り過ぎていた。
────と、ベアトリーチェはそこまで考えて、その全ての思考を燃やし尽くした。彼が動けば自身も死ぬという確信も、自身にあれを覆す手がないという現実も。だって、在り得ないにも程がある。あのような格下の、神秘も持たない最底辺の生命体が、自身を殺せるなんて夢物語だ。あの礼装を見た時に感じた恐怖も、彼に抱いた恐れも、何もかもが嘘。全ては悪い白昼夢に過ぎない。死ぬのは先生だけだ。
そう思い、ベアトリーチェは喜悦に表情を歪めた。
「……最期まで頼むよ」
天命の礼装。それは文字通り相手の天命……運命に対して攻撃する礼装だ。目の前の相手に照準を定めてはいるものの、実際は概念という目に見えない事象をターゲットにしている。メインは運命に対する攻撃であり、目に見える破壊はあくまで副産物に過ぎないのだ。故に肉体だけを守っても、礼装による攻撃を完全に防ぐ事はできない。防御するなら肉体の他に自身の運命も守らねばならず、それには最低でも権能レベルの力量が必要だろう。
だが、その防御すら無意味にするのが対聖なるもの、対セム的一神教、対秩序に対する特攻だ。対象が特攻範囲内にある場合、権能レベルの概念防御すら紙切れのように引き裂く規格外の出力となる。
しかし、それは代償ありきの力だ。無名の司祭を相手に使用した時は完全展開ではなかった。そのため、礼装の起爆剤として使用した『大人のカード』の代償も比較的軽微で、大きな対価を払う事なく日常に復帰することができた。だが、今回の相手はベアトリーチェ、無名の司祭とは保有している神秘質量の桁が違う。彼女を葬るためには礼装の完全展開が必須であり、そのためにはより深く、より強く神秘を爆発、圧縮する必要がある。起爆剤として使用する大人のカードの代償も前回とは比にならないだろう。
言うまでもなく彼の体は既にボロボロだ。奇跡の対価として差し出せるものが多く残っている訳ではない。故に、今回の使用で要求される対価はきっと命だろう。彼にはそんな確信があった。
「異端顕現────
これから先生は死ぬ。多くをやり残し、多くの悔いを残し、多くの未練を残して、先生と謂う存在は記録にしか残らない現象と成り果てる。遺してしまう生徒達には申し訳が立たない。見届けたかった、ずっと一緒に居たかった。でも、それは叶わない夢。ベアトリーチェを断つ事で過去の悲劇に終止符を打ち、罪を清算しよう。彼自身を断つことにより、未来で生まれる悲劇を消してしまおう。それがきっと最善だ。
既に生徒達との間には不可侵の障壁を作っている。他の誰かを巻き込む事はない。傷つくのは
「やめて、先生ッ!」
────そう叫ぶ声は誰のものだろうか。何もかもが飴細工のように伸びて曖昧だった。
「自負、嫉妬、貧欲────火を放ちなさいッ!」
ベアトリーチェも黙って見ているだけではない。放たれるのは彼女自身の神秘……神曲そのもの。自負、嫉妬、貧欲。それらは人の心に火を放つものだと謂う。人を衝き動かすプリミティブな衝動にして、いつか自分自身すら燃やし尽くす劫火。或いは、知性体に対する呪い。それは物理的な現象としての炎と、対象への呪詛として機能した。
轟、と音を立てて迫り来る炎の津波。人体を容易く溶解せしめる絶死の現象。それは体育館の地面を炭と灰にして、進行方向にあった折れ曲がった鉄柱を一瞬で液体にして、尚威力を減衰させず先生に向かって行く。
「熱ッ! こ、これどうなってるのよ!」
「く、ぅ……ッ!」
「この熱は私達ですら耐えられませんッ! 逃げてください、先生ッ!」
「先生ッ!」
息を吸えば肺が灼けるように熱く、発した声すら熱で揺らめいているよう。眼の前の彼の背が蜃気楼のように歪んだ途端に────補習授業部の生徒達から熱が遠のいた。シッテムの箱の権能、防御障壁。傷を阻み、呪いを阻む白い城壁。不可侵の壁に重ねて付与された盾。サンクトゥムタワーにも同様の権能があるが、彼の持つそれはより脅威の守護へと純化している。その防御性能を信頼している彼は眼の前を埋め尽くす炎の大海も、防いだ致死の呪詛も全く見ていない。彼が見据えるのは唯一つ、あの奥で嗤う悪意のみ。
「
その一言と共に、彼の眼前で展開された防壁が形を変える。防御範囲を優先した面型展開方式から、攻撃の嵐を切り裂く突撃槍のような角錐へ。青白い光が静電気のように小さく空中を舞った刹那────先生は疾走する。アリスが持つ光の剣:スーパーノヴァに匹敵する質量を持つ礼装、その持ち手に施された質量軽減の術式が、礼装を持つ先生の腕が絶叫した。
筋繊維が千切れる。血管が千切れる。霞む意識を痛みで無理矢理繋ぎ止めて、前へ。一層威力を増した炎に障壁の一部が砕かれ、そこから入り込んできた熱に舐められても構わず先生は焼き払われた道を走った。
一歩近づく。ベアトリーチェが出した33の鎖を弾き返す。
二歩近づく。翼ある瞳から向けられた邪視を透過する。
三歩近づく。苦し紛れで展開された攻性防壁を踏み潰す。
全ての迎撃を掻い潜り、攻撃を防ぎ、防御を捩じ伏せ、いよいよ彼我の距離は零に近づく。炎の壁は薙ぎ払われた。蚊帳の外になってしまった少女達の瞳に映ったのは────禍々しい赤い光輪を掌に展開したベアトリーチェと、天命を握り締めて飛び込む先生。
「ベアトリーチェッ!」
「死になさい、救世主ッ!」
互いに互いが認められない。お前が生きていることが許せない。存在の否定を声音に乗せて、名を叫ぶ。上から振るわれる罪悪の杭。下から打ち上げれる致死の光輪。衝突の余波、灰と赤、無彩色が舞った。
「────!」
「消えなさいッ!」
撒き散らされる規格外のエネルギー。ベアトリーチェの攻撃の余波は体育館の壁や天井、地面を貫通し、まるで落雷の様な轟音を立てながら破壊を生んでいく。対して、先生は一点突破。全エネルギーを対象を穿つために使用している。それに加えて、ベアトリーチェに対する特攻。正当な使用者ではない先生が振るい、全ての性能が数ランク落ちているとは言え、孵化を済ませていないベアトリーチェが拮抗できる訳もなく。
故に、この衝突の結末はベアトリーチェが数分前に『悪い白昼夢』と断じたそれをなぞる事になる。
「なッ!」
甲高い音を立てながら砕ける赤い光輪。崩壊と共に圧縮された神秘が縦横無尽に飛び散り、先生の手足を貫いた。灼けるような激痛と、全身に回る神秘の毒。前者は気合いで耐え、後者はナノマシンで対処。彼は怯まず、臆さず、断崖を飛ぶ一歩を踏み出した。唯、殺すために。
振るわれる礼装。先の衝突により幾らか威力は減衰しているだろうが、まともに受ければ文字通り全身が吹き飛ぶだろう。その上、目と鼻の先のこの距離では回避は間に合わない。そう判断するや否やベアトリーチェは己の全リソースを使って防御に専念。加えて、先ほど砕かれた鎖の残りを先生と礼装本体に巻き付けて少しでも攻撃を遅延させようと、あらゆる手段を走らせた。
だが、僅かに遅い。ベアトリーチェが鎖で完全に捕縛するよりも早く、彼は王手を掛けていた。
鎖で縛られた全身の骨から軋む音が聞こえる。礼装の照準がブレる。視界が霞んでベアトリーチェの姿が朧になる。
万全とはまるで対極に位置する状況。その逆境を越え、遂に不俱戴天の敵を射程範囲に捉えた先生は手を弓のように弾き絞る。この好機を決して逃さないように。
「心臓を穿てッ!
魂から発せられた彼の叫びと共に────礼装が振り抜かれた。
「ガ、アァァァァッ!」
界を揺らす轟音と、ベアトリーチェの絶叫が響き渡る。
放たれた一撃は
たった一撃で、ベアトリーチェの左半身は木っ端微塵に打ち砕かれた。左腕と左足は付け根から完全に吹き飛び、右足も膝から下が消え失せている。腹部から胸部に掛けても巨大な風穴が空いており、傷口からはどす黒い血が止めどなく溢れ出ていた。更に、今までベアトリーチェが貯め込んでいた神秘の大部分が吹き飛んでいる。概算すると、あの一撃でベアトリーチェはその肉体の6割強と、神秘の8割を消し飛ばされた。
しかも、これはあくまで始まりに過ぎない。傷口は徐々に拡大する。神秘は徐々に失われる。喪失のスピードは回復するそれより圧倒的に速い。治癒も極めて困難であり、天命による一撃を回避できなかった時点でベアトリーチェの生命線は失われていた。
「────外したか」
地の底から這い出た冥府の風の様な声。血で赫く染り、蒼い燐光を発する瞳で瀕死のベアトリーチェを見やった先生は自身の狙いの甘さに舌打ちする。あの鎖の所為で狙いが逸れた。本当は先の一撃で心臓を貫くはずだったのに。しかし、幸運にも彼の体はまだ動く。
ベアトリーチェを飛び越えた先生は礼装を先に着地させ、それを軸にターン。巨大な薬莢を吐き出し────再び腰を落として構えた。
礼装を握り締める。全身の筋繊維が千切れる。
息を吐く。肺が焼ける。
体を引き絞る。骨が砕ける。
眼を開く。脳が沸騰しそうだ。
あぁ、遺すものなんて無い。今こそ燃え尽きる時だ。全てを使って、あの悪意を。多くの生徒を泣かせ、多くの悲劇を貪ってきたあの女を────この手で。
「次は、外さない……」
次弾、装填。爆発し、圧縮される神秘。どくん、と心臓が脈打つ。最後の鼓動を確かめた先生は互いの命を終わらせるべく足に力を入れる。そして
「────双方、矛を収めてください」
何の脈略も無く現れた怪人が制止の声を掛けた。
▼
先生とベアトリーチェの間にぽつんと立っていたのは異形のヒトガタだった。トレンチコートを纏い、ステッキを持った姿は如何にも初老の紳士の出で立ちだが、頭部は黒い靄のようなものに覆われている。片手に持っているのはシルクハットを被った男性の後ろ姿が掛かれた絵画。先の声は、この絵画から発せられたものだった。
先生はこの男性達を知っている。彼等はゲマトリアの一角、その名を────。
「ゴルコンダ、デカルコマニー……」
「はい。お初にお目にかかります。少々故あって、このような形で貴下に挨拶することとなりましたが……背を向けた状態での挨拶となるご無礼、どうかお許しくださいませ。私にはこれ以外の方法がありませんもので……」
「まあそういうこった!」
虚像、非実在。存在しているが、存在していないもの。それらを表す記号でありメタファー。唐突な出現もその辺りが関係しているのだろう。彼等は何処にもいないが故に、何処にでもいる。先の衝突からずっと見ていた可能性すらあった。
先生は状況を分析する。二対一……いや、三対一。いずれにしても状況は彼に不利。だが、出直しや仕切り直しなんて選択肢にも入れていない。この程度、不利の内にも入らないのだ。彼は溜息を一つ吐いて、脳のスイッチを再び殺しに入れ替えた。
「邪魔するな。そこを退かないなら────」
「私達から殺す、と。それはそれで構いませんが、私達を殺した後、貴方に時間が残っているとは思えません」
痛い所を突くな、と先生は思った。ゴルコンダの謂う通り、二撃目で最後だ。これを放ったが最後、1分経たずに先生は死に絶える。その間にベアトリーチェを確実に仕留められるかと問われれば微妙と言わざるを得なかった。だが、それでも今更止まる訳はない。ベアトリーチェを逃がすなんてできる訳がないのだ。
そんな彼の内心を見透かすような声音でゴルコンダは言葉を続ける。
「やっと見えた怨敵を前に、頭に血が上るのは理解できますが……貴方のそれは少々常軌を逸している。少し頭を冷やしては如何ですか?」
「そういうこった!」
「頭を冷やす暇すら惜しい。私が此処でベアトリーチェを取り逃せば、また彼女はアリウスの生徒を傷つける。だから……」
「傷などこの世界にありふれています。確かにマダムは多くの悲劇を生み出したでしょうが、仮にマダムが消えても他の誰かが同じ事をするだけです。その程度の悲劇は……いえ、失言でしたね。失礼しました」
生徒に降りかかった悲劇を『その程度』と称したゴルコンダに、人を射殺せそうなほどの殺意が篭った先生の眼が突き刺さる。明確な地雷を踏んでしまった、と悟ったゴルコンダは恭しく一礼。ベアトリーチェとは違い、この二人に先生と敵対する意思はない。
ただ、ベアトリーチェの死を先送りにする。この時点で彼女が消える事を阻止する。それが二人の目的だった。
別に仲間意識が芽生えたわけでなく、情が湧いたわけでもない。単なる契約、取引の話。あくまでビジネスのため。二人がベアトリーチェに手を貸す理由はそれ以上でもそれ以下でもなかった。
「先生、貴方も限界でしょう。生徒との接続、指揮に加え……邪なる聖女とマダム、計2回もの直接戦闘を行っています。この世界で最も脆弱な貴方が、です。既に意識を保つのも苦しいのではありませんか?」
「……」
「とは言え、単に仕切り直すのでは貴方にメリットが無いのもまた事実。今の貴方には退く理由がない。私が幾ら言葉を尽くしたとて、貴方の鋒は必ずマダムを穿つでしょう……貴方自身を代償にして。それを私は望みません。故に貴方にも退くに足る理由を作り、互いに利がある形で終わらせる、と謂うのが私が此処に居る目的です」
「なりません、救世主に利を与えるなど……!」
「マダム、貴女は敗者です。貴女は彼と戦い、破れました。私が此処に来なければ確実に殺されていたでしょう。貴女の敗北と死を無かった事にするには、彼にもそれに相応しいメリットが必要です。これは等価交換の話なのです。それとも、マダム、貴女は此処で野垂れ死にたいので?」
吠えるベアトリーチェにゴルコンダは冷たく言葉を被せる。彼女は彼との直接対決に敗北し、殺されかけていた。本来ならばこの敗北と死は覆せないもの。それを変えるのであれば相応の対価が必要だ。その対価が彼の手に渡るのをベアトリーチェが望まないのであれば、ゴルコンダとデカルコマニーは無感動に彼女を見捨てる。助けられたいなら黙っていろ、と言外に告げられた彼女は屈辱と憤怒に顔を歪めながら口を閉じた。
「ですが、命と等価なのは命だけ。私が支払える対価となると、ふむ……」
そう言いながら思案に耽り、少しの時間が経過した頃、ゴルコンダは徐に口を開いて提案した。
「貴方が先ほど支払った代償を巻き戻す、と謂うのは如何ですか?」
その提案に先生の眼が細くなる。だが、それは提案を吟味しているわけではなく、『そんな事ができるのか』と謂う猜疑の視線だった。大人のカードとは先生と
「まだ貴方の支払いは完全ではありません。この状態なら巻き戻す事もできるでしょう。確定していないのであれば解釈によって観測結果は変わります。貴方が支払うという実在に非実在を混ぜ込むのです。ですが、完全に戻る訳ではありません。半分戻ってくる、とお考え下さい」
「ハッ……それに私が『はい、分かりました』と言うとでも? 今更、我が身可愛さにベアトリーチェを見逃す訳ないだろ。私の答えは変わらない。ベアトリーチェは終了させる。邪魔をするなら貴方達も此処で────」
「えぇ、分かっておりますとも。ですので、先の提案は貴方に向けたものであって、貴方に向けられたものではありません……私が提案したのは生徒の皆さんに向けてです」
その時、初めて異形の認識が補習授業部に向けられる。ベアトリーチェの様なドロドロとした執念はなく、先生の様な春の暖かさはなく。無味乾燥とした砂の様な気配。ゴルコンダとデカルコマニーは生徒に何の感情も抱いていない。敵意も執念も愛も。多少の興味こそあれど、本当にそれだけ。そんな得体の知れない者から差し出された提案を────。
「如何でしょうか、生徒の皆さん」
「分かった、その提案を受け入れる。だから先生を……ッ!」
アズサは一も二もなく、文字通り即座に頷いてみせた。この交渉の時間すら惜しい、口を開く暇があるなら直ぐにでも先生にその処置を施してほしい。そんな焦りがよく見えていた。
「アズサちゃん……」
「あ、アズサ!? こんな見るからに怪しそうな奴の言う事なんて嘘かもしれないじゃん!」
「コハルちゃんの言う通りです。契約を違えないという保証が何処にもない取引を信じるのはあまりにも危険です。撤退は賛成ですが、この人達の手を借りず……」
その向こう見ずな首肯をヒフミは困惑混じりで受け止め、コハルとハナコは落ち着いてほしいと諭すように言葉を紡ぐ。三者とも共通しているのは、『この提案に乗ってもいいのか』と謂う疑念。先生やベアトリーチェなる者の口振りから察するに、彼らは間違い無く『あちら側』であり、先生や補修授業部の敵対者だ。そんな彼等の提案に乗るのは明らかにリスクが大き過ぎる。だから、彼等の言葉に乗るのはやめよう────そんな友人の声にアズサは感情を込めて否を返す。
「だとしてもッ! 先生は特権を使ったんだ!」
アズサの涙混じりの悲痛な叫びは、この体育館に鋭く響き渡る。彼女らしくない姿……ともすれば、第二回特別学力試験の折に先生が負傷した時よりも焦っている様にも見えた。そして、それは裏返せば今の彼の状態が生死の境目を彷徨いかけたあの時よりも拙いと謂う事になる。その考えに至った瞬間、全身から血の気が引いた。
「だから、その代償は先生の体を蝕んでる。それを1回でも無かった事にできるなら……!」
まるで真空に居るみたいに、アズサの最後の言葉は掠れて詰まっていた。ヒフミはアズサの肩に手を置いて、先生に視線を送る。コハルとハナコも同じく心配そうな眼で先生を見て、固唾を呑んで行く末を見守っている。
本当なら直ぐにでも駆け寄りたかった。支えたかった。でも、この壁が、先生が誰かを巻き込まない為に作った壁に阻まれて歩み寄る事ができない。それが、先生と生徒の間にある溝のように思えて仕方なかった。
「……」
「如何ですか、先生」
その叫びは、その痛みは、その涙は、先生の特攻を止めるのに充分過ぎるものだった。決意が揺らぐ。歩みを止めそうになる。泣かせたくなんかない、悲しませたくなんかない。その為に走ってきたのだ。だが、彼女達を悲しませない選択はベアトリーチェを見逃してしまう事に繋がる。それは許容できない。
『────先生』
幻聴が聞こえた。懐かしい、だが決して忘れられない声。■■■。先生は声にならない声であの子の名前を呼び……それから溜め息を吐いて、殺戮の道具を握っていた掌を緩めた。
「……いいよ。その条件、呑むよ」
「懸命な判断です」
そう言って先生は礼装を格納して、大人のカードのスタンバイ状態を解除した。もう戦わない、と謂う意思表示。それを見届けたゴルコンダは優雅な足取りで先生へ歩み寄り、革手袋に包まれた指先で彼の胸の中心に触れる。そして、約束通り捧げられつつあった代償を『無かった事』にした。
「それでは、我々は失礼致します。在り来たりではありましたが、興味深いテクストを見せていただきました。次の物語はまた後ほど。今度は落ち着いて語らえる時にお会いしましょう、先生」
「この屈辱は忘れません、救世主……!」
捻じ曲がる空間と、霧に包まれる界。凡ゆる全てが虚に落ちゆく事象の中で聞こえた二つの声を無感動に受け止めて、先生は眼を閉じる。そうしてもう一度眼を開くと────ゴルコンダとデカルコマニー、ベアトリーチェ、そしてアリウスの生徒達の姿は何処にも無かった。