シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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日常に帰る御茶会議(ティーパーティー)

 補習授業部の一件が終わり、ナギサが目覚めた翌日。ナギサはミカの邸宅に招かれていた。話したい事がある、と。ミカらしくない固いお誘い。悩んで悩んで悩み抜いて送ったであろう短文。口数の多い彼女とは結び付かないメッセージ。それを受け取ったナギサは何ら臆する事も緊張する事も無く、軽やかな足取りで向かっている。ただ、友人の家に遊びに行くだけのように。

 

「ミカさん」

「……いらっしゃい、ナギちゃん」

 

 数年ぶりに訪れる幼馴染の邸宅の内装は記憶に残っていた姿から変わっていた。可愛いものや綺麗なもの……少女趣味は以前より数を減らし、代わりに大人っぽい落ち着いたものや実用品が増えている。オーダーメイドのソファ、アンティークな化粧台、ロボット掃除機、食洗器。

 聞けば、ミカは自身の生活を自身だけで完結させているらしい。ティーパーティーのホスト、一つの分派の長ともなれば付き人など幾らでもいるのに、彼女は誰かの手を借りず、自分で自分の生活を営み、守っていた。誰かに世話をされる事が嫌という訳ではなく、ただ『その方がきっと将来的に良いから』と謂う理由で。

 知らない間に夢が『お姫様』から『良妻賢母』に変わったのだろうか。或いは、その二つが両立しているのか。それは分からないが、一つだけ言えるのは……彼女は変わっている。変化を恐れず、より善い自分になろうとしている。自分(ナギサ)の事を棚に上げるようだが、あのお転婆で我儘なミカがこのように変わりつつあるなんて、数年前の自身に言っても信じてもらえないだろう。

 

 だが、大切なものや好きなものは変わっていない。お気に入りのリップは同じ、味の好みも変わっていない。シェルフに飾る写真立ては3つ。ミカとナギサの幼年期の一枚、ミカとナギサとセイアの3人で撮った写真、ミカと先生のツーショット。更に、その隣には今まで撮った写真のスライドショーが流れている。それを横目で見たナギサは再び視線を真正面に固定した。

 

「話したい事があると聞いて来ました」

「うん、話したい事、話さなきゃいけない事。沢山あるんだ」

「……そうですか」

「さ、座って、ナギちゃん。ナギちゃんの為に少し良い茶葉買ってきたんだ。あと、合うお茶菓子も。昔みたいに楽しくお喋りしながら────」

「ミカさん」

 

 そう言い、何処か恐れと焦りを滲ませたかのような表情で椅子を引くミカの言葉をナギサはぴしゃりと遮った。頭に疑問符を浮べながら振り返るミカはナギサのよく知る彼女ではなかった。だが、彼女の胸中に渦巻く思念くらいは簡単に予想できる。

 

「ミカさんの事ですから、『これを話したらもう二度とお茶会なんて出来なくなるから、最後の思い出作りに』とか考えているのでしょうけれど」

「ぎくっ……」

 

 ナギサがそう言うとミカは分かりやすい図星の声を上げる。恐らく、彼女なりのけじめなのだろう。騙し続けてきた自分には友達の資格はないからこれでお別れする。だが、その前にせめて楽しい思い出を作っておこう……なんて考えが見え透いている。極端に走った幼馴染に盛大な溜息を吐いたナギサはずっと前から決まっていた言葉を言う。

 

「別にどのような驚愕の真実を告げられようと、私はミカさんとの交友関係は続けますよ」

 

 どの様な事実を言われようが、どの様な裏切りを告げられようが、友達を辞めるつもりはない。世界がひっくり返ってもナギサは不器用でお転婆で我儘で、でもどうしようもなく大切な幼馴染の……ミカの友人であり続けると誓っていた。それがどれだけ愚かで滑稽だとしても、もう二度と友人を切り捨てない。

 

「お話を始める前にこれだけは言っておきたかったので……さ、続けてください。今日はミカさんのペースに合わせます」

「ちょ、ちょっと待ってよナギちゃん!」

 

 言いたい事を言えてスッキリしたナギサはにこりと微笑んで椅子に腰かけるが、ミカが猛烈な勢いで『待った』をかける。あまりにもあっけらかんとミカの胸中の不安を鼻で笑って吹き飛ばし、その上で何食わぬ顔で話を本筋に戻したのだ。ミカの困惑も当然だろう。

 

「だって、私、ナギちゃんに隠して……」

「たかが『隠し事』でしょう? 私もミカさんも互いに隠している事がある。それが今回、偶々噛み合わなかった。それだけの話ではありませんか。大袈裟に、深刻に考え過ぎなのですよ、ミカさんは」

 

 ナギサは「そもそも」と、言葉を続けて。

 

「隠し事一つで揺らぐ程度の関係を築いてきたとは思いません。私達は何年日々を共にしてきたのですか。そのような血も涙もない人だとミカさんに思われていたのなら少し心外です」

 

 嘘や隠し事一つで揺らぐ信頼関係ではない────ナギサが言えなかった言葉、言いたかった言葉。それを漸く、幼馴染に言う事ができた。きっと遅かっただろう。もっと早くこれを誰かに言えていれば、何度もそう思った。だが、それでも……言えたことが少しだけ誇らしかった。

 大輪の花の様な笑顔を浮べたミカと笑い合い、久しぶりに飾らない言葉を交わす。取り留めのない日常も、ミカが隠し続けた事も。それはまるで子供の時分に戻ったかのような時間だった。

 

 そうしてミカの事情を大方把握したナギサは神妙な顔をして呟く。

 

「……アリウス分校の解放、ですか」

「うん。今のアリウスを支配してるのは生徒じゃない。アリウスの生徒達を自分の目的の為に利用する……絶対に許しちゃいけない奴なの」

「だから打倒し、アリウス分校を解放する、と……ふむ、色々と合点がいきました。アズサさんはモデルケースという訳ですね。解放後に居場所を失うかもしれないアリウスの生徒をトリニティに招き入れる、その際に前例がないと頷いてもらえない可能性が高い。故に前例を作った、と」

「そう。勿論、アリウスの復興は頑張るよ? でも、アリウスに辛い思い出しかない子達が居るなら、きっと戻りたくないと思うからさ……そういう子達を受け入れる下地はあった方が良いと思ったの」

 

 どれだけ朽ち果て荒れ果てても故郷は故郷と思う人が居るだろう。それと同じように、忌まわしい記憶しかない呪いの場所と思う人も居るだろう。そのどちらにも合わせる事が出来るように道を複数用意する、と謂うのは理屈として納得がいくものだ。

 

「この件、セイアさんは何と?」

「協力してくれるって……」

「であればセイアさんを説得する必要はないのですね。私も協力しますよ、ミカさん」

「ナギちゃん……」

「友人が頑張っているのです。私も頑張るのは当然でしょう……あぁ、この事を先生には────」

「先生だけは駄目」

 

 いつになく強い口調でそう断じるミカ。てっきりそこまで話していたと思っていたが、どうやらそうではないようだ。ナギサは『何故』という思念を視線に乗せてミカを見ると、彼女は思考を纏めるように口を開く。

 

「先生だけは駄目なの。先生が知っちゃえばきっとこのプランに反対する。私達のリスクが大きいって。協力はしてくれるだろうけど、代わりに先生のリスクばっかり大きいプランになっちゃう。アイツがもし先生の真相にきづいちゃうと、絶対先生を狙う。先生とアイツが接触すれば本当に何が起きるか分からないの。今回は先生もギリギリで帰ってきてくれたけど……次はきっと違う。だからお願い、先生にだけは話さないで」

 

 その言葉には嫌な信憑性があった。セイアに告げられた言葉、病室で見た彼の姿。それらがミカの言葉を真実だと裏付けてしまっている。否定したいのに、否定してほしいのに、否定できる材料が無い。だから……ミカの言葉は真実なのだろう。

 隠し事が一つ減ったと思えば、また増えてしまった。そんな現状の苦さを紅茶と共に飲み干し、ナギサはミカの眼を見た。

 

「……ミカさんがそう仰るのであれば、私から話す事はしません。代わりに、事が済んだら全て先生に話してください」

「うん、そのつもりだよ。協力してくれた子達と皆で先生に説明して、お説教される」

「なら、私から言う事はありません。エデン条約が本番なのでしょう? 頑張ってください、私も私の仕事を頑張りますから……危ないと思ったら何時でも戻ってきてください。私はミカさんが大切ですから」

 

 帰ってきていい、戻ってきていい。そう言ってくれる人が居る。心配してくれる人が居る。それだけでミカは心の底から嬉しかった。この場所に胸を張って戻ってくるために、出来る事を全霊でやろうと思えた。

 

「そういえば、先生のお見舞いは行かれましたか?」

「え、えっと、ナギちゃんが来てくれるまでずっと邸宅(ここ)に居たから……行ってない、かな……」

「はぁ……お見舞い程度、行けばいいじゃないですか」

「だ、だって! こんなあっさりと許してもらえるなんて思ってなくて……! それに変に動いちゃうとまたナギちゃんに迷惑を……」

「だからと言って自主的に軟禁する程の事ではないでしょう。全くミカさんは……どうしてこう、変な所で思い切りが良くて、変な所で不器用なのですか」

 

 そう言い、お互いくすりと笑い合って。

 

「この御茶会が終わったら2人で行きましょう。きっと先生も喜んでくださいますよ」

「……うん!」

 

 

 ▼

 

 

 ────と、少し前にあったミカとのお茶会を思い出す。あの時は聞く側、許す側だった。だが、今回は逆の立場だ。話す側、許しを請う側。彼女達は許してくれるだろうか、それとも許さないだろうか。何方でも構わない。どの様な罰でも甘んじて受け入れるつもりだ。

 

 そう思い、一つ決意を固めると、扉の警備をしている生徒が入室した。

 

「ナギサ様、お客様がお見えです」

「分かりました、ありがとうございます。此方にお通しください」

 

 がちゃり、と広く扉が開かれる。久しぶりの客人達。ティーパーティーではない人物が此処に足を踏み入れるのは……先生以来だ。

 

「し、失礼します……」

「邪魔をするぞ」

「ふふっ、こんにちわ、ナギサさん♡」

「お、お邪魔します……」

「ようこそお越しくださいました、皆さん。お掛けください」

 

 此方に向かって歩いてくる4人は補習授業部の生徒達だ。このような場に慣れていないヒフミとコハルは恐る恐る椅子に座り、アズサはいつもの調子を保ちながら椅子に座り、ハナコは堂々と椅子に座った。いつになく人数が多いテーブル。これだけの人数を客人として招いたのはいつ振りだろうか、なんて意味のない思考をナギサは追い出し、心を切り替える。この場は、この御茶会は、謝罪のためのものなのだから。

 

「まさか私まで呼んでくださるなんて、明日は槍でも降るのでしょうか?」

「セイアさんから『謝罪は不要』と伺っていますが、他のお三方をお呼びしてハナコさんだけ呼ばないのも不自然ですのでお呼びしたまでです。特に深い理由はございません」

「ふふっ……ナギサさん、先に謝らせてもらいますね。ごめんなさい、私はヒフミちゃんを使って、ナギサさんを傷つけました。ヒフミちゃんは何も知らなかったのです。責めるのは私だけにしてください」

「……いえ、私に貴女を糾弾する資格はありません。元より、身から出た錆です」

「そうですか……では、私もナギサさんを責める事はしません」

 

 ────元々、責めるつもりはありませんでしたが。その呟きをハナコは心の中に留める。謝罪しなければならない相手しかいない状況というのもきっと辛いだろうから、一人くらいは自分(ハナコ)みたいに互いに同族嫌悪できる人がいてもいいはずだ。

 

 要領がいいはずなのに不器用なナギサに内心で苦笑し、本題とも呼べる事項をナギサに伝えるべく口を開く。

 

「それからもう一つ、お伝えしたい事が。先生の件に関してですが……」

「ッ!」

 

 ナギサが固まる。きゅっと心臓が跳ねて、一瞬で過呼吸を起こしそうになった。何度愚かさを呪っただろう。何度悔やんだだろう。

 だが、補習授業部の生徒達の方が何倍もそう思っているはずだ。守り切れなかった愚かさ、無力さを悔い……元凶である自分(ナギサ)を憎んでいる。

 

「言いたい事も聞きたい事も山ほどあります。正直に言えば、私はナギサさんが先生に行った仕打ちを許していません。それがナギサさんだけの所為でないとしても……あの人が傷つく必要なんてなかったはずです」

「……えぇ。先生が傷つく必要なんてありませんでした。それなのに、それなのに……私は────」

「先生はあの時、ナギサさんを責めませんでした。ナギサさんを案じていました。その意志を、私達は尊重したいのです。此方に来る前、補習授業部の皆と話し合って決めました。私達は先生の件に関して、何も言いません。ですからその懺悔は、まだ仕舞っておいてください」

 

 それはつまり、その後悔を聞くつもりはないという事。あの時の彼の決断を、ナギサを責めない事を選んだ彼の意志を見送る────それが補習授業部の決定だった。

 補習授業部から与えられた罪。ナギサはそれを噛み締めていると、アズサが徐に立ち上がり、深々と頭を下げた。

 

「その……済まなかった」

「事情はミカさんから聞いています。アズサさんも大変な使命を背負って此処に居るのですね……月並みな言葉ですが、頑張ってください。心より応援しています。全てが上手く行った時は私とセイアさんにお任せを」

「……そうか。感謝する。これで憂いが一つなくなった」

 

 そう言い、ふわりと笑うアズサを見たナギサは……胸がちくりと痛んだ。彼女の背負った使命、彼女のすべきこと。困難に満ちた道だろうが、どうか光があってほしい。そう願わずにはいられない。

 

 その祈りを内に秘めつつも、今すべきことはそれではなかった。全員分の紅茶を淹れたナギサは徐に立ち上がり……そして、頭を深く下げた。

 

「ヒフミさん、アズサさん、コハルさん……ハナコさん。誠に申し訳ございませんでした。ティーパーティーの一員として、桐藤ナギサ個人として、皆さんへ行った全ての事に対して謝罪させていただきます」

「あ、頭を上げてください、ナギサ様!」

「あぁ、ナギサが謝る事ではない。ナギサに伝えていない事情があったんだ。あの決断は為政者として至極当然と言える」

「知らないから仕方がない、では済まないのです。私の無知、盲目を理由に皆さんは学籍を奪われる寸前でした。皆さんが補習授業部の卒業を勝ち取ってくださったおかげで、結果としてそうなりませんでしたが……それは唯の結果論です。終わり良ければ総て良しなど、何の免罪符にもなりません」

 

 今回は偶々良い結末を迎える事ができた。補習授業部は誰一人退学することなく、円満な終わりを迎える事ができた。だが、偶々そうだっただけで、次もそうとは限らない。補習授業部のメンバーが、先生が勝ち取ったからこの結末を迎える事ができただけで、何らかの遺恨を残す終わりになる確率の方が高かったのだ。それを考えれば結果論など意味がない。

 

「学園で最も優れた才女たるハナコさんの成績不振を怪しみました。何かを企んでいる、と」

「ふふっ、妥当な判断だと思いますよ。私がナギサさんの立場だったら必ず怪しんでいます」

「アズサさんの経歴に違和感を感じ、学園を乱す危険因子と断定してしまいました」

「書類はある程度偽造してある。違和感を感じるのは当然だし、それについては私達の咎だ」

「成績不振気味であったとはいえ、何の罪もないコハルさんを正義実現委員会との取引材料に使ってしまいました」

「やっぱり、そうだったんだ……だからハスミ先輩はあんなにも……」

 

 ナギサは一人一人、補習授業部に選んだ理由を告げる。才女の成績不振、不自然な転校と経歴、正義実現委員会との取引材料。疑って当然のもの、疑ってすらいないもの。

 

「……ヒフミさん」

「は、はい……」

「実は、私はヒフミさんも疑っていたのです。ブラックマーケットを牛耳る覆面水着団と謂う凶悪な犯罪者組織、そのリーダーであるという根も葉もない噂を嘘と断じれなかったのです。貴女を、信じ切れなかったのです」

「あ、あはは……」

 

 これに関しては根も葉もある本当の事だが、流石にそれを今言う事はできずヒフミは苦笑いで誤魔化す。その度にヒフミの良心がゴリゴリと音を立てて削れていった。いつか本当の事を言おうと誓いつつ、ヒフミはナギサの言葉に真剣に耳を傾ける。

 

「皆さんの怪しい部分、信じられる部分。それらを測る私の天秤は歪んでいました。1つでも怪しい部分があれば裏切り者と見做してしまうほどに。そのような歪んだ天秤を持っていた事は間違いなく罪でしょう。ですが、きっと……私の本当の罪は天秤が歪だったことではないのです」

 

 歪でない、完全に公正な天秤を持つ事など誰にだって不可能だ。どれだけ公正であろうと努めても感情がある以上は優劣、愛憎、好き嫌いが生まれる。知性体である以上、主観は切り離せない。公平、公正、平等など、人間からは最も遠い言葉だ。人間の天秤はいつだって何方かに偏っている。故に、ナギサの天秤が歪だったことなど罪になり得ない。もしそれを罪と糾弾するのであれば、全人類が等しく罪人だ。だから、彼女の罪はその先にこそある。

 

「私の罪は、天秤が歪である事を直視しなかったこと。公正であると妄信してしまったこと。その上で、皆さんに苦痛を強いてしまったこと」

 

 ナギサに罪があるとするならば、きっとそこだろう。どれだけ公平、公正、平等であろうとしても偏りが生じてしまうのは人間の性だ。これはもう、どうしようもない。だからこそ、人間は自身の天秤が歪んでいる事を自覚しなければならない。自覚した上で、何らかの決定をする必要がある。

 ナギサはそれを怠った。立ち止まり、振り返る事が出来なかった。『容疑者を集めた補習授業部の中に裏切り者が居るはずだ』という最初の判断にナギサが縋ってしまっていた。そうでなくてはならない、そうであってほしい。その思い込みは天秤を更に歪め、歪んだ天秤で補習授業部の罪を測り、歪んだ罪の大きさに相応しい苦痛を強いた。

 

 確かにナギサには伏せられていた情報がある。ミカとアズサの繋がり、アリウス分校、ゲマトリア、先生。それ以外にも大なり小なり、ナギサの把握していない事柄はあった。それを考えれば余人には『仕方のない事』と思われるかもしれないが、ナギサはそれすらも甘えと断じる。そもそも、人間は全てを知る事などできない。常に情報不足なのだ。だからこそ限られた情報を駆使して何が真で何が偽なのかを見極める必要がある。

 

 今回の件で最も情報が少なく、厳しい立場にいた補習授業部は見極める眼を持っていた。疑問を捨てず、思考を止めず────その上で、彼女達は自分自身を疑わなかった。

 

 自分(ナギサ)はそれができていない。最初に信じた事を揺ぎ無い真実と思い込んで疑問を捨て、退学させる事が唯一の道だと思考を止めて、最後の最後で自分自身すら信じてあげる事が出来なかった。

 

「皆さんの内の誰かが裏切り者であってほしいと願っていたのです。本来なら、誰も裏切っていないと真っ先に私が信じるべきでしたのに」

「ナギサ様……」

「私の処罰は皆さんに預けます。どのような罰であろうと受け入れましょう。それが、せめてもの贖いです」

「……ナギサさん、あまりその様な事を軽々しく言ってはいけませんよ。例えば私が『ナギサさんにも私達と同じ立場に立ってもらう』と言い出したらどうするつもりなのです?」

「全て覚悟の上です。真実を聞いたあの時から、こうすると決めていました」

 

 その言葉は固く、何を以ても揺るがす事は不可能だ。言い訳は言わない。逃げも隠れもしない。望むのであればあらゆる罰を受け、罪を贖おう。ナギサは本気で、補習授業部の私刑で断罪されようとしている。その意固地さにハナコは溜息を吐いた。

 

「頑固ですねえ……ヒフミちゃん、どうしますか?」

「わ、私ですか!?」

「ナギサさんと一番親しいのはヒフミちゃんですし、補習授業部のリーダーでもありますから」

「え、えっと、その……」

「ヒフミちゃんの決定ならきっと誰も反論しないと思いますよ。少なくとも、私は異を唱えません」

「あぁ、ヒフミの決定なら私も全面的に同意する。そもそも、私にナギサを罰する権利など無いからな」

「わ、私も……」

 

 こうしてすべての決定権が委ねられたヒフミは「あ、あうぅ……」と呟きながら視線を右往左往。補習授業部の仲間達を見て、ナギサを見て、その反復動作を繰り返し。そうして脳裏に浮かんだ言葉達を繋いで、ヒフミは断罪を待つナギサに言葉を掛ける。

 

「えっと、わ、私は……誰かを罰したり、酷い事をするのは嫌です。毎日『普通の楽しい日』を送れたらいいなって思っています。補習授業部になった時はどうしようって思いましたが……大切なお友達もできて、そんなお友達と過ごす日々は本当に楽しかったんです」

 

 大変ではあったし、辛い事もあった。だが、それを上回るくらいに共に過ごした日々は楽しかったのだ。生活を共にし、友情を深め、歩んでいくあの日々が。大切な友達ができた。綺羅星の様な思い出が残った。

 

 だから────。

 

「ナギサ様にとって補習授業部はそうじゃなかったとしても、私は補習授業部の事を大切な思い出って考えています。ですので、その……ナギサ様もそんなに悲しい顔をしないでほしいです。罰とか罪とか贖いとか、苦しくて辛い事は言わないでほしいです。大切なお友達が悲しそうな顔をしていると……私も悲しい、です」

 

 友達の悲しみに、近しい人の苦しみに寄り添う事ができる善性をヒフミは持っている。故に、ナギサのそのような顔を見るとどうしても胸が苦しくなってしまうのだ。だからどうか、悲しそうな顔をしないでほしい。罰を当たり前のようなものと思わないでほしい。そのような難しくて複雑な話ではなく、もっと簡単な道があるはずだから。

 

「大切な、お友達……」

「ご、ごめんなさい! お友達なんて恐れ多い事を言ってしまって! わ、忘れていただければ……あ、ですが、先ほど言ったことは嘘ではありませんので!」

 

 譫言のように呟くナギサに、ヒフミは『とんでもない事を言ってしまった』と、全力で前言撤回をする。冷静に考えて、ティーパーティーのホストを対等な友人扱いは心臓に毛が生えていないと無理だ。ヒフミはそこまで図太くないと自身では思っている。

 

 しかし、例え友達ではないとしても……言った言葉に嘘はない。それだけは分かってほしかった。

 

「……ヒフミさんは」

 

 その想いが分かったのか定かではないが、ナギサはポツリと呟いて。

 

「貴女にこのような仕打ちをした私を、それでも友人と呼んでくださるのですか?」

「は、はい……その、ナギサ様にとっては違うと思いますが、私は────」

「いいえ。私もヒフミさんの事は本当に大切な友人と思っています」

 

 互いに友人だと思えた事を嬉しく思ったのは束の間、ナギサは血が滲みそうなほど固く掌を握り締めた。

 

「だからこそ、一層許せないのです。大切な友人であるヒフミさんを……私を友人と呼んでくださるヒフミさんを苦しめてた私自身を」

「ナギサ様……」

 

 その苦しみに、その痛みに、その悲しみに。どの様な言葉を掛けていいか分からずにヒフミは口を閉ざす。ヒフミが許しても、ナギサが自分自身を許せるかはまた別の話。相応しい断罪が無ければきっと彼女は許しと安らぎを得られないだろう。

 それを分かってしまったからこそ、ヒフミも安易に何かを言う事ができなくて。これはナギサの心の問題なのだ。ナギサが納得しない限り、ナギサは自分自身を許せない。許したい、許されたいのに、当の本人が許しを拒絶するその姿。それがあまりにも不器用過ぎたから、ハナコは本日何度目かの溜息を吐いた。

 

「ヒフミちゃん、ナギサさん、右手を出してください」

 

 このまま二人に任せていたらきっといつまでも話が進まない。そもそも、許し許されているなら話はそれで終わりだろうに、何故そこで最後の決着を渋るのか。

 故に、強制的に話を進行させる。ここまで来たのなら必要なの切欠、或いは証。そして、友人同士で仲直りするなら……相応しいのは1つだけだろう。

 

 唐突な発言に疑問符を浮べつつも、素直に差し出した2人の手を────ハナコは半強制的にぎゅっと結ばせる。

 

「はい、仲直りの握手です。これで先の話は終わりにしましょう……やっと、知ることができた仲直りの方法です。友達同士ならこれが一番でしょう?」

「あぁ、ヒフミは許した。であれば、ナギサも自分自身を許してほしい。ナギサもやるべきと信じた事をやっただけだ。恥ずべき事など何もない」

「その……む、難しい話は分からないけど……ナギサ様だけの所為じゃないと思います。確かに補習授業部は大変だったけど、ヒフミの言う通り楽しかったので……仲直りしてほしい、です」

 

 その言葉達に背中を押されたナギサは、胸の奥に痞えていた言葉を漸く外に出す事ができた。浅ましい、言うべきではない、と封じていた言葉を。

 

「ヒフミさん、ハナコさん、アズサさん、コハルさん。皆さんは私を許してくださるのですか?」

「勿論です!」

 

 満面の笑みで首肯した少女達に見守られ。

 

「あはは……これで仲直りですね、ナギサ様」

「……はい」

 

 ヒフミとナギサは互いに笑い合い、許し合い、仲直りすることができた。

 

 ▼

 

 

 補習授業部との仲直りを兼ねたお茶会が終わり、陽も落ちて辺りが藍色に染められた頃。細々とした日常の業務を終えたナギサはいつもと同じようにティーカップを傾けつつ、一日の終わりを感じていた。エデン条約の締結が目前となっている現在、ナギサの主たる業務は対人調整にある。フィリウス分派として、或いはティーパーティーとして、この手の業務は慣れたもの。彼女は涼しい顔をして恙なく終わらせ、テラスを眺めながら紅茶を飲んでいる。

 

 花壇に咲いた色鮮やかな花、木々の瑞々しい緑、調和のとれたレンガ作りの道、それらを照らす淡い明かり。いつもなら目に入ってくるそれらはすっかり壊されて、今はブルーシートの下。本当なら夏休みが開ける前までに補修を終わらせたかったのだが、厳戒態勢が敷かれている今の状態で外部の業者を構内に入れられない。補修の完了は10月になる、という見込みだった。

 

 エデン条約が終わってもやる事は山積みだ、なんて思っていると、ふと扉からノック音が聞こえた。この時間の来客に心当たりはない。専属の行政官は離席中で、付き人も同じく。ミカやセイアならノックしてから直ぐにドアを開けるはずだし、これも除外。では侵入者か、と思うが侵入者がそのような律儀な事をするとは思えない。誰だろうかと疑問を覚えつつ、敵意や悪意の様なものは一切感じなかったため、ナギサは「どうぞ」と入室を促した。

 

「失礼するね。今日はもう居ないかなって駄目元で来たんだけど……あぁ、良かった」

 

 ドアを開け、ナギサを見てふわりと微笑んだ人は先生。黒の細身のスラックス、第一ボタンが空いたシャツ。全身の様々な場所に包帯が巻かれている姿はナギサが何度も病室で見たものだった。眼を閉じ、小さな呼吸をしていた病室の彼は、本当にいつ消えてしまっても不思議ではないほどの儚さがあって……だからこそ、ナギサは目の前の光景を疲れが生んだ幻覚と思った。

 

「……いけませんね、疲れているのでしょうか」

「疲れているだろうし、休んでほしいのは山々だけど、私は幻覚とかじゃないよ」

 

 彼は苦笑いし、ドアを閉めてナギサの元へ歩いてくる。柔軟剤と薄っすらとした薬品の香り。最近の幻覚と幻聴は嗅覚にも影響を及ぼすのか……とは、流石にならない。

 

「こんばんわ、ナギサ」

「こ、こんばんわではありません! 何故此処に居るのですか!?」

「ナギサに会いに来たんだけど……」

「そういう事を聞いているのではありません! 先生は病室に居るはずでは……!?」

「うん、さっき目が覚めたからこっそり抜け出して来たんだ。対策されてたけど、一回きりならイズナ流忍法で誤魔化せるからね」

 

 病院を脱出した前科が2、3回ほどある先生だ。当然の如く脱出対策はされていた。だが、その手の事が無駄に経験豊富な彼は対策の対策も持っている。脱出、脱走はお手の物。生半可な対策では彼を止められないのだ……普通に最低である。救護騎士団は怒った方が良いだろう。

 尤も、今回彼が使ったイズナ流忍法は切り札に値するものだ。何せ、再現性が無い。文字通りの一回きりの手品。これを伝授したイズナほどの技量があれば何度も再現できたのだが、彼には不可能だ。故に使いどころは確りと考えなければならないのだが……彼は使った。ただ、ナギサに会うために。

 

「こっそり!? 忍法!? い、いけません先生! 今すぐ病室に────!」

「あ、救護騎士団に突き出すのはもう少し待って。ナギサに会いたくて来たからさ」

 

 病室を脱走した怪我人に対して極めて正常な反応を返したナギサはスマホを取り出し、急いでミネに電話をかけようとしたのだが、しかし彼は待ったをかける。ここで連れ戻されてしまっては元も子もないのだ。

 

「私に会いたくて……い、いえ、騙されません!」

「騙すつもりはないんだけど……本当に少しでいいんだ。だからお願い、ね?」

 

 ほんの少しでいいから時間が欲しい────そう言い、彼は微笑む。ナギサの独占欲を的確に刺激する表情は正しく生徒(おんな)の敵であり、狙っていない分より悪質である。そんな彼の毒牙に引っ掛かってしまったナギサは暫く考える素振りを見せて……盛大な溜息を吐いた。

 

「……5分です。5分過ぎたら私手ずから病室にお送りします。それでいいですね?」

「うん、充分だよ。我儘、聞いてくれてありがとう」

 

 ナギサは先生の紅茶を淹れつつ、『ミカさんは先生のこのような部分に惹かれたのでしょうね』とまるで他人事のように考える。先ほどまんまと引っかかってしまった自分の事を棚に上げて。でも、あれはずるだろう。あの顔をされたら断れない。

 

「その、お身体の方は……?」

「ん~……まあ、大丈夫だよ。心配されるほどのものじゃないさ。あと、お見舞い来てくれてありがとう。碌におもてなしできなくてごめんね」

 

 来客履歴か入室履歴でも見たのだろう。もてなしができない事を謝るが、そもそも彼はあの時昏睡していたのだ。できない方が普通であるし、こうして目覚めてくれただけで胸がいっぱいだ。本当に、目覚めてくれて良かった。

 胸の奥にあった唯一の不安が消えたナギサは安堵の息を吐くと、彼は真剣な表情を浮べて「それよりも」と呟き……頭を下げた。

 

「本当に、ごめん」

 

 ナギサに会うために此処に来た。目覚めたあの時から、ナギサに会うこと以外の全てが優先事項から滑り落ちた。ただ、彼女に謝りたくて。彼女を傷つけてしまったことを、謝りたくて。

 

「私は君を傷つけた」

 

 苦しむナギサを助ける事が出来なかった。ナギサと対立する事を選んでしまった。補習授業部を助けるために、ナギサの願いを切り捨ててしまった。それはきっと────先生として許されない事だ。

 

「そ、そんな……頭を上げてください。貴方に謝っていただく資格など、私には……」

「私はミカがアリウスに通じている事を知っていた。アズサがアリウス出身である事を知っていた。知った上で、君に黙っていた。許されない事だ」

 

 先生はナギサよりも多くの情報を持ち、ナギサよりも広い視座で補習授業部とそれを発端とした騒動の真実を見抜いていた。しかし、彼はそれを誰にも言わなかった。彼女達から『他言無用』と言われたから、と謂うのも理由の一つであるが、結局その約束を守り通したのは彼本人の意志だ。

 もし仮にこれらの情報をあの時点でのナギサに伝えても混乱させるだけだっただろう。だが、それは口を閉ざした咎への免罪符にはなり得ない。言うべき事を言えないのであれば、伝えるべき事を伝えられないのであれば沈黙も裏切りや嘘と同義だ。先生はナギサを裏切った。裏切る道しか分からなかった。

 

 こうならないための道はきっとあっただろう。無意味なIFだとしても、そう夢想せずにはいられない。必ず誰かが傷つかなければならない、苦しむ他ないなど、先生がこの世で最も忌避するものだ。ナギサの苦しみは決して『必要』なものではなかった。ナギサが苦しんでしまったのは偏に先生の力不足故。

 

「だから、本当にごめん」

 

 そう言い、深く頭を下げる彼。その姿に面食らったのは他でもないナギサだ。そもそも彼女は先生に謝罪をされる事が全く以て想定外。謝罪の理由もあの時の状況であれば仕方のなかったものばかりだ。しかし、彼はそう思っていない。もっと善い道があったはずだと自身の首を絞めて糾弾し、苦しめてしまったナギサに誠心誠意謝っている。

 清廉潔白と謂うべきか、自身に課す理想像が高すぎると謂うべきか。生き方が、在り方が、あまりにも自分自身に厳しい。これではきっと、生きているだけで血を吐くような苦しみが伴うだろう。

 

 ナギサはその謝罪を真摯に受け止め、「頭をお上げください」と言って、彼女もまた頭を下げた。

 

「……私の方こそ、申し訳ございませんでした。許されない事を沢山してしまいました。先生を巻き込み、利用し、傷つけました。私の罪こそ、許されざるものでしょう」

「そんな事ないよ。ナギサの所為じゃない。仮にナギサの罪だったとしても私は全部許しているよ」

「であれば私も同じことを言いましょう。私も許していますよ、先生」

 

 そう言い微笑むと、先生はまるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。想定外、と言わんばかりに。

 

「……何をそこまで驚かれているのですか?」

「いや、許してもらえるとは思わなくてさ……それだけの事をしたつもりだったから」

「それこそ私の台詞です。私は先生を巻き込み、危険に晒し、お怪我をさせてしまったのです……これでは先の繰り返しになっていますね。お互い許し合っていると謂うのに」

 

 苦笑するナギサに釣られて、彼も同様の表情を浮べる。確かに繰り返しだ、と思いつつ彼は「でも」と言葉を続ける。

 

「許してもらえるとは思っていなかったのは本当さ……こんな、私を。何一つナギサにしてあげられなかった、私なんかを」

「それは仕方が無かった事でしょう。先生には罪なき補習授業部を守る使命がありましたから」

「でも、それはナギサを何一つ顧みなかった事に対する免罪符にはなり得ないんだよ」

「いいえ、それは違います。私の事を顧みなかった事実など何処にもありません。先生は確かに私にも愛を下さいました」

 

 彼の自嘲をナギサは強い口調で否と断じる。何一つナギサにしていないなど嘘だ。何一つ顧みなかった事実など何処にもない。彼はナギサの事を考えていた。ナギサに何度も寄り添おうとした。それだけは否定させない。否定してほしくない。

 

「第二次特別学力試験にあった砲撃の件、私を庇ってくださったと聞きました」

「ナギサの所為ではないからね。庇うのは当然だよ」

「先生達の監視を行う手筈だったフィリウス分派のメンバーの傷の手当てをして、メンタルケアをし、何の見返りも無く此方に戻していただきました」

「私だけがやった訳じゃないよ。それに、あの子だって被害者だ。心身の傷の手当は必要だし、ナギサの元に戻すのだって当然だ」

 

 実際、砲撃はナギサの所為ではなかった。アレはフィリウスのネットワークに入り込んでいたベアトリーチェの仕業であるため、ナギサを庇うのは当然の事。巻き込まれたフィリウス分派のメンバーのケアも先生として当然の仕事をしたまでであるし、ナギサの元に送り出したのも当然と言える。

 

 しかし彼にとっては当たり前であっても、あの時のナギサには救いそのものであり、『愛』だったのだ。それを頑なに認めない彼に業を煮やしたナギサはとっておきの一手を伝える。あの行為は紛れもない『愛』であり、あの行為は間違いなく誰かを救ったものだった、と。

 

「……私に何度も手を差し伸べてくださいました」

「でも、私はナギサを助けられなかった。苦しむナギサを救う事ができなかった。誰かに握ってもらえなかったなら、私の手には何の価値も意味もない」

 

 そう言い、先生は右手を見下ろして嗤う。確かに差し伸べたかもしれないが、握ってもらう事は終ぞ叶わなかった。救おうとした意思はあっても救えなかったなら意味はない。握ってほしい人に握ってもらえなかったなら、それは手を差し伸べていない事と同義。

 

 ナギサを助けたかった。苦しむナギサを救いたかった。そう思い手を握ろうとした。だが、それが叶わなかったなら────先生の手は無価値で無意味だ。

 

 恐らく本心からそう言っているだろう彼にナギサは盛大に溜息を零す。どうしてこうなるまで放置してしまったのだろうか。或いは、何度伝えても変えられなかったのか。であれば、変わるまで伝えるまで。ナギサは襟を正し、彼を真っ直ぐ見据えた。

 

「確かに先生の仰る通りなのかもしれません。ですが、私はその上で感謝しています。先生がしてくださったことを『愛』と思い、大切にしています。先生がどうお考えになっているのか、何処に真実があるか、ではありません。私は私の主観で、先生の行為を愛溢れるものと考え、感謝しているのです」

 

 袂は分かたれたままだった。結果として、今日に至るまでナギサと先生は同じ方向を向く事が出来なかった。だが、先生は何度もナギサに歩み寄ろうとした。苦しむ彼女に『大丈夫?』と手を差し伸べた。結果として握れなかったとしても、その行為そのものがナギサは嬉しかった。

 

「例え先生にとって当たり前でも誰かにとっては愛そのものになります。握る事が出来なかったとしても、差し伸べてくださった事実だけで救いになるのです……私のように」

 

 ナギサが感じた愛は結果ではなく過程にある。ちゃんと見ていてくれた事、分かってくれた事が本当に嬉しかった。その上で、目線を合わせて手を差し伸べてくれた。これを愛と言わずに何と言おうか。ナギサは先生に与えられた愛を心の底から大切にしている。

 

 ナギサは「ですので、先生」と呟き、何時もより悪戯っぽい……年相応の笑みを浮かべる。

 

「それ以上先生がご自身の事を貶めるようでしたら、そのお口をロールケーキで塞いでしまいますよ?」

 

 冗談でも何でもない聞き慣れた脅しに先生は苦笑いを浮かべ、「分かったよ」と言う。本当に分かったのかは不明であるが、一旦はこれでいいだろう。あの行為を、彼自身の善性を否定しないと約束してくれたのだから。

 

「以前から疑問だったのですが、先生の自己評価の低さは何処から来ているのですか?」

「正当な評価だよ。皆こそ私の事を高く評価し過ぎなんだ。私は皆が思うほど崇高な人間じゃない。私、本当は酷い人間なんだよ?」

 

 彼は本気で自分の事をそのような人間と思っている。皆とは違う生き物、皆とは違う生き方。人間とはかけ離れた精神性は冷血な虫の反応と大差ない。

 

 だが、そんな事を知らない……そんな彼を知らないナギサは、今まで見てきた彼の事を思い返して。

 

「ふふっ、口では幾らでも言えますから」

 

 そう言って、くすりと笑った。

 

「5分、と先ほど言いましたが……もう少しだけ先生のお時間をいただいてもよろしいですか?」

「勿論だよ。ナギサの願いなら幾らでも」

「ふふっ、ありがとうございます。では今日だけ、この時間だけ、先生の前でだけ、悪い子になりますね」

 

 その声と笑顔は等身大の少女そのもので、ナギサらしい笑顔を見る事ができた先生は安堵する。沢山の事があったが、この結末に辿り着けて良かった、と。

 

「さ、お掛けください、先生。以前も何度かお茶会にご招待していましたが、あの時の私達は対立関係でしたから、真に楽しめたとは言えません」

 

 ナギサは手慣れた所作でもう一つの……先生用に調達したティーカップに紅茶を淹れる。紅茶がふわりと香り、暖かな湯気が立った。この時期に暖かい飲み物はあまり合わないかもしれないが、紅茶はホットに限るとナギサは断言する。

 紅茶を注いだティーカップを差し出したナギサは大輪の花のような笑みを浮かべた。

 

「紅茶をどうぞ、先生。先生のお話、沢山お聞かせください」

「うん、代わりにナギサの話も聞かせてね」

 

 もっと良いやり方があったのかもしれないが、その様な事は後から幾らでも言える。そんな戯言には耳を貸す必要はない。あの時、ナギサも先生も全力を尽くした。誰かの幸福の為に全力で走り抜けた。その過程で互いに傷つけ合ったとしても、今はこうして穏やかにティータイムを楽しめている。

 

 互いに互いの罪を許し、以前よりも深い関係になる。この結末はきっと、幸福な終わり(ハッピーエンド)と呼んで良いものだろう。ナギサは微笑み、ティーカップを傾けた。

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