シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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幕間Ⅳ
祈りは貴方に


「……滅茶苦茶デジャヴを感じる」

「えぇ、そうですね。本当、何回病院送りにされるんでしょうね。少しは心配する私達の事を考えていただきたいものです」

 

 トリニティ総合学園、救護騎士団本部に併設されている病棟。救護騎士団が抱える患者の中でも特に緊急性の高い患者や、ティーパーティーや部活の長など、トリニティに於いて立場のある生徒が入院するための場所。その一室、ナースステーションのすぐ近くの部屋に入院していたのは先生だった。キヴォトスに訪れてからまだ約3ヶ月だというのに入院回数は両手の指で数えられる限界を越えかけている。

 月に1回以上のペースでぶっ倒れて、或いはぶっ飛ばされて病院送りになっている困った大人の傍で溜息を吐いてジト目で見つめている生徒はユウカだった。

 

「言葉が私を全方位から突き刺すハリネズミになってる」

「私をハリネズミにしたのは先生です。甘んじて突き刺されてください」

「はーい……」

「不貞腐れていないで反省してください」

 

 言葉のナイフで容赦なく滅多刺しにされた先生は苦笑いして窓の外に視線を送る。青くて、高い空。最高気温は32℃。本格的な夏日だ。本当に季節の移ろいは早い。気にしていないとあっという間に取り残されてしまいそうだ。

 白いレースのカーテンに透ける強い日差し。その奥にある人の営みを優しい表情で眺める先生に毒気を抜かれたユウカはキーボードの上で走らせていた手を止める。そのままスリープモードにして鞄の中に仕舞い、椅子ごと体を先生に近づけた。

 

「ユウカは何で此処に?」

「……居ては駄目ですか?」

「いや、そうじゃなくて。私としても久しぶりにユウカの顔を見れて嬉しいんだけど……」

「そうでしょうね、エリドゥの一件が落ち着いたら殆ど此方にいらっしゃいませんでしたからね。ノアやトキとは会っていたようですけど」

「おっと、今日のユウカは手強そうだ……あぁ、また話が脱線した。えぇと、何の話を……そうだ。ユウカが何で此処にって話だね。ほら、今ってトリニティの構内って殆ど立ち入り禁止で、この病棟もその対象だからさ。救護騎士団自体はトリニティの内政に深く関わっていないけど、ミネはヨハネ分派の首長だからね。ミネが許可しても、他の人があまりいい顔しないだろうって思って」

 

 窓から丁度見えるトリニティの中庭に生徒の姿はない。エデン条約の準備期間となったため、離れや分校舎を除いてトリニティの構内のほぼ全域に立ち入り禁止の令が敷かれている。ティーパーティー、正義実現委員会、救護騎士団、シスターフッド、このいずれかの団体に所属していない限り、余程の事情が無ければトリニティの内側へ足を踏み入れる事は出来ない。

 一般のトリニティ生徒ですらこうなのだ。トリニティと関係ない生徒は全ての例外なく立ち入り禁止、とされていてもおかしくはないのだが……今ここにユウカが居るという事はそうではないのだろう。

 

「お見舞いをしたいと言ったら快く通してくれましたよ。『誰かの快復を祈る心に貴賎は無く、学園を理由に妨げられるなんてあってはなりません』と熱弁されていました」

 

 何となく誰がユウカを通したのかその熱弁で分かった。独断とは言え彼女が通したのならあまり文句は言われないだろうし、仮に言われたとしても真っ向から戦ってくれるだろう。

 先生は『お礼を言わないと』と思い、少しだけ背中の力を抜くとユウカが持つトートバッグが眼に入った。中には先ほど仕舞ったタブレットPCと……何かの資料と思われる紙束。

 

「会議終わりかい?」

「会議、と言うよりは謝罪ですね。トリニティの中でハブ……いえ、今はホドですね。兎に角、ホドがトリニティの中にピラーを飛ばしたり、眷属を召喚したりで色々と迷惑をかけたので、ミレニアムを代表して謝罪しに来ていました。ハッキングを受けて変質しているとはいえ元々ミレニアムで作っていたものですし、それが迷惑を掛けたとなれば謝罪しない訳にはいきませんから」

「そっか。そういえば、ホドをどうするか結論は出たかい? 以前の議会ではミレニアムの機密もあるから可能な限り奪還したい、外部にハブの情報を漏らしたくない、みたいな意見が上がっていたと聞いたけど」

「今回の件を受けて各部活、各団体と再び協議した結果、『ハブを取り戻す事は不可能』という判断が下ったので、この後にホドとして『キヴォトスの脅威』に連邦生徒会経由で登録する事になりました。反対意見もあるにはあったのですが、自治区外で騒動があった事が決め手ですね」

 

 ハブは取り戻したい、ミレニアムの機密は守りたい。だが、トリニティで騒動を起こしてしまった今、そう言っていられる状況ではなくなった。端的に、もう手に負えなくなったのだ。あれはもうミレニアムの知っている『ハブ』ではなく、デカグラマトンが一柱のホドであり、キヴォトスの脅威である────数日前に緊急で開かれた議会でそのような結論が下された。

 

「賢明だね。神聖十文字(デカグラマトン)に書き換えられたものは基本的に戻らない。神からの天啓(オーダー)と自己が神たる証明をするために動作する機神体になるからね。本体は内部のシステム側だから破壊も困難。倒すには文字通り、神を否定しなければならない……となると、後は私の仕事か。任せてよ」

「……何かあったらいつでも呼んでください。先生の為ならいつでもどこでも駆け付けますから」

「ありがとう、心強いよ」

 

 そう言って、彼は笑う。ユウカの眼から見てもその言葉に嘘偽りが無い事はちゃんと分かる。彼は本心からユウカを信頼し、信用していた。彼が何か困りごとに直面した時、ユウカはきっと頼りにされるだろう。だが、それは未来の話。今、ユウカの心を苛んでいるのは過去の話だった。

 

「……なんでノアとトキは頼って、私は頼ってくれなかったんですか? 私、そんなに頼りないですか?」

「そうじゃないよ。ユウカの事は頼りにしてる、本音だよ。でも、今回は2人じゃなきゃ駄目な理由があったんだ」

 

 そう言って、彼はいつかの日のように指を立てて。

 

「トキに関してはフットワークが軽い点、戦闘能力が高い点、何より顔が割れていないって理由で頼ったんだ。トキに依頼したのは補習授業部をゲヘナ自治区から脱出させるための手伝い。当時の補習授業部は明確にティーパーティーと対立していたから、名前や顔が知られている生徒に頼ると、その生徒が所属している学校とトリニティの間で無用な摩擦を生みかねなかった。ほら、ユウカって有名人じゃん?」

「……そうですね、不本意ながら。巷では冷酷な算術使いとか言われていますし」

「私としてはこんなに可愛いユウカの何処に冷酷って要素があるのか心底疑問だけどね」

 

 彼はそっとユウカの頭を撫でる。子ども扱いされている気分だし、彼から見れば実際に子どもだろう。でも、子ども扱いの延長線だとしても……彼に触れられたり、可愛いと言われるのは嬉しかった。

 

「ミレニアムの生徒会に当たるセミナーに所属している会計兼会長代行のユウカが、ティーパーティーと対立している補習授業部を助けた。これはミレニアムからトリニティへの宣戦布告だ……なんて言われたらそれこそ大問題。だから直近までリオの補佐をしていて顔と名前が割れていないトキを頼ったんだよ」

「じゃあ、ノアは?」

「ノアは……ま、ノアの件は見てもらった方が早いかな」

 

 シッテムの箱に保存されているデータをユウカに見せる。画面に映るのは彼が『終末悪の落胤』と呼ぶ、トリニティの地下で産み落とされた人工生命だった。外道によって生み出された生命には呪いが宿る。その理屈は『そのようにあれ』と生み出されたコレも同じであり、その呪いの性質はこの世界の声明を最も効率的に殺戮する能力に長けていた。

 

「攻撃全部が生命を否定する呪詛。撒き散らされる液体も、触れた場所も全てが毒。対神秘に特化した呪い。神秘が強ければ強いほど、それを否定するこの呪いも強くなる。そんな厄介な特性を持っていた。1つのミスが危険に繋がる相手だから長期戦は避けて速攻を仕掛けたい。だから防御と回避じゃなくて攻撃力や弱点を突く能力に秀でている生徒が適任だった。単純な戦闘スタイルの話だよ」

 

 彼は「だから」と言ってユウカの眼を真っ直ぐ見る。その眼の奥にある色にはやはり、嘘や偽りはなかった。

 

「ユウカを信頼していない訳でもないし、頼りたくない訳でもないんだ。今回の件が偶々そうだっただけで、他の事なら真っ先に頼りたいくらいだよ」

「……なら次は頼ってくださいね? 私の居ない所で先生が傷つくのは……もう嫌ですから」

「あぁ、約束するよ」

 

 1回目はケイの暴走、2回目が今回。ユウカは二度、手の届かない場所で傷ついた彼を見ている。全てが終わった後で。その度に無力感を噛み締めて、無念が胸を貫いた。結局何も出来ていない。守る事に長けているはずなのに、大切な人ひとりすら守れない。だから今度は、今度こそは────でも、その誓いに意味はあるのか。そもそも、その『今度』すら与えられないことだってあるかもしれないのに。

 

 ユウカの胸の奥に生まれた黒い恐怖、それを見透かしたように彼はそっと頭を撫でて溶かしていく。心配しなくていい、怖がらなくていい、大丈夫。そんな言葉すら浮かんでくるような、優しい手。それに身を任せていると彼は「そういえば」と話題を変えて。

 

「あれからミレニアムはどう?」

「ホドの件を抜きにすれば平和ですよ。ケイちゃんも馴染んでいますし。ただ、先生がトリニティでまた無茶をしたって話が回ってからは皆心配していました。今度、ちゃんと元気な顔を見せに来てください」

「勿論。退院したら会いに行くよ」

「特にノアとミドリとアリスちゃん、ケイちゃんはケアしてあげてくださいね……本当に心配していましたから」

「そっか……トキから何処まで聞いてる?」

「先生が何者かの攻撃で重傷を負った事しか。誰がやったとか、何でやったとか、そういった情報はトキも『確定していない情報をお伝えして悪戯に混乱させたくはありませんので』と……」

 

 トキなりに色々と考えてくれた結果だろう。

 荒事があっても多少は誤魔化しが利くゲヘナという土地、ティーパーティーが指定した試験会場、トキが撃退した推定ティーパーティーと思われる工作部隊。これだけ状況証拠が揃っていれば、先生を吹っ飛ばした攻撃はティーパーティーによるものと断言してもよかったはずだ。

 しかし、トキはその繋がりがあくまでも『トキの想定』でしかない事を客観的に見つめ、不明なものは不明であると断定を避けた。加えて、先生を攻撃した場合のリスクはティーパーティーとて把握している。故に、攻撃そのものはティーパーティーによるものではない可能性があると考えてくれたのだろう。

 

 その配慮は非常にありがたかった。先生とて自身がある種の非武装地帯(DMZ)になっているのは把握している。それが破られた時、どうなるかは過去の経験で嫌と言うほど分かっていた。ルールや秩序というものは自身と相手にかける枷のようなものだ。つまり『私も守るからあなたも守ってね』と自身の相手の行動を制限し、一線を越えないようにするためにある。それが一方的に破られれば互いに遠慮が無くなり、簡単に超えてはならない一線を越えてしまうかもしれないのだ。先生の件を皮切りにルールや秩序が瓦解する事、それだけは避けたかった。

 

 トキにはお礼を言わないと、と思っているとユウカが「先生」と声を掛ける。

 

「……誰が先生にこんな事をしたんですか」

「私の敵だよ。生徒じゃないさ」

「先生の、敵……」

「そう、私の敵。少し前に漸く姿を見せたからその場で始末しようとしたんだけど、色々あって取り逃してね。その時の無理が祟って、今こんな感じになってるんだ」

 

 敵を取り逃して、彼がこうなった。彼と敵の間にどんなやり取り、どんな攻防があったのかは知らない。だけど、それが穏やかでないのは明白だ。ボロボロで、傷だらけで、今も痛みで叫びだしそうなのを抑えているだろう。彼にそんな事をした敵を許す事などユウカにはできない。

 

 ────彼がこんな風になるくらいなら、(ユウカ)がその『敵』を……。

 

 その黒い思考を読んだかのように、彼は膝の上で固く握られたユウカの手に自身の手を重ねた。

 

「ユウカ、それは駄目だよ。相手がどんな外道であれ、どんな害悪であれ、それを排除するために君達が手を汚すなんてことはあってはならないんだ。そういった存在の相手をするのは私の役目。君達にそんな事をさせる訳にいかない」

「でも、だからって……!」

「分かってくれとは言わないよ。だけど、その役割を譲る気もない。私にとって生徒は何よりも大切だからね。大切な最愛に、そんな事をさせる訳にはいかないのさ」

「でも、そんな事を言っても、先生のほうが私達よりもずっと弱いじゃないですか。人には向き不向きがある、そういったのは先生です。先生は戦いに向いていない、だから私達に任せて────!」

「強弱、優劣、向き不向きの話じゃないんだよ。君達は子どもで、私は大人。君達は庇護されるべきで、私は君達を命を懸けてでも庇護しなければならない。君達の純真さを利用しようとほくそ笑む大人の悪意からね。自分の身は自分で守れって教育用のBDは言ってるかもしれないけど、個人で出来る事には限度がある。そういった個人で手に負える範疇を超える問題は私を含む大人や社会のシステムで対処しなきゃいけない」

 

 子どもは守られるべきもの、大人は子どもを守る義務がある。何を犠牲にしてでも果たさなければならない責務の話なのだ。子どもたちが何の憂い無なく青い春を過ごし、幼年期を終えて、学び舎を飛び立っていく。それこそが先生にとっての最大の報酬であり、報いだ。

 

「だから、あと少しだけ守られてほしいな。弱いくせに前に立って、心配ばかりかけちゃってごめんね」

 

 くしゃり、と彼は笑う。寂しそうで、悲しそうで、申し訳なさそうで。初めて見る彼の表情にユウカの胸がきゅっと痛んだ。

 

「ち、違ッ、私は先生にそんな顔をしてほしくて言った訳じゃ……!」

 

 そんな顔をしてほしかったわけではない。そんな事を言ってほしかったわけではない。ただ、彼にもっと自分を大事にしてほしかっただけなのに。でも、彼は申し訳なさそうに笑うばかり。君が大人になるまでもう少し守らせてほしい、と。

 きゅっと胸が痛む。遠い、こんなにも遠い。近くに居るのに手が届かない。傍に居る事ができない。銃で撃たれた時よりずっと痛む心。それに寄り添うように彼はそっとユウカを抱きしめた。

 

「分かってるよ、大丈夫。ユウカが心配してくれてることは知ってるから」

「……知ってるのに心配させるんですね」

「そう、知ってるのに私はやるんだ。本当、酷い人間でしょ?」

「はい、本当に酷い人です。最低です」

「うん、だから私なんか気にしないでユウカは────」

「でも、私は先生の傍にいたいです。気にしないなんて出来ません。私にとって先生は日常なんです」

 

 いつのまにかユウカの日常には彼が居た。いつの間にか彼が人生の一部になった。だから失いたくない。心配しないなんて無理だ。初めて彼に歩み寄った理由は確かに事務的な、シャーレとの効率的な業務提携が目的だった。だが、今は違う。先生が先生でなくなっても、シャーレの先生でなくても傍に居たかった。

 その意志を先生は「そっか」と小さく笑って受けとる。ユウカの日常になれたなら、ユウカが安らぎを得られる何かになれたなら、これ以上の幸福はない。それは偽りなく本当に嬉しい。嬉しい、のだが……彼はちらり、と部屋の入り口を見た。小さく開けられたドアと、そこから覗く白い髪とアメジストの眼。知っている生徒ではあるものの、絵面は軽くホラーだった。

 

「……ノア、別に入っていいんだよ?」

「いえ、お構いなく。このまま存分にお二人だけの世界に入っていただいて大丈夫ですよ? 私は余すところなく記録し、記憶するだけですから」

 

 ドアを開けてにっこりと……非常に良い笑顔で微笑む少女はノアだった。手元にはいつもの手帳とペン。先の会話を記録していた事が丸分かりだった。

 2人きりだから、と普段は言えないような事を言ったのに、それを聞かれていた。しかも、一番の親友にして一度見聞きしたものを忘れない絶対記憶の持ち主に。ユウカの顔がまるで熟れたトマトのように朱に染まった。

 

「の、ノア!? い、いつから居たのよ!?」

「ユウカちゃんが『なんでノアとトキは頼って……』と発言したあたりからですね。先生はお気づきのようでしたけど」

「せ~ん~せ~い~! 気づいてたならどうして言ってくれなかったんですか!?」

「言葉を遮るのは申し訳ないなーって思って……」

「そこで変な配慮しなくていいんですよ!」

 

 先生はいつもの様子で捲し立てるユウカに「ごめんごめん」と呟いて……心底嬉しそうに言う。

 

「あぁ、でも……やっと笑ってくれた」

 

 彼があまりにも眩しそうにそう言うから、ユウカもすっかり毒気を抜かれてしまう。あんな事を言われて怒る気にはなれなかった。

 

「ノアも来ていたんだね。ユウカとは別件かな?」

「はい。ヒマリ部長がホドの件で古関さんと歌住さんにご相談したいようでしたので、代理としてこちらに。ヒマリ部長は今、ホドの解析や対策などで引っ張りだこですから。その件の話が終わったので、先生のお見舞いをしようと来たのですが……ふふっ、いつもより素直なユウカちゃんが見れました」

「ノ~ア~!」

「病院ではお静かにお願いしますね?」

 

 揶揄われたユウカは先よりも大きい声を上げるが、此処は病院の一室。病院で声を出すのはマナー的に宜しくない。いつの間にか先生の真横に居たセリナが声のボリュームを抑えるようにお願いした。相変わらずの神出鬼没、どこから来たのかさっぱりだ。だが、それを知っている先生とノアはさして驚かず、初めて見るユウカだけ愉快な百面相をしながらセリナとドアを交互に見つめていた。

 

「ごめんね、セリナ」

「申し訳ありません」

「ご、ごめんなさい……え、何処から?」

「企業秘密です」

 

 悪戯っぽく笑ったセリナはてきぱきと点滴と包帯を交換し、軽く問診をしてカルテに状態を書き込む。用事が済んだ彼女は先程ノアが閉じてから開けられた形跡の無いドアの前に立った。

 

「では、また17時にお伺いしますね。くれぐれも何処かに出歩いたりしないでくださいね? いいですか、先生は怪我人なんです。生徒の頼みだからといって、こっそり脱出するのは駄目ですよ?」

「可能な限り前向きに善処します」

「先生?」

「……はい、約束します」

 

 セリナの圧に屈した先生は頷く。無理は駄目、よくない。子どもでも分かる単純な事を胸に刻んで。

 

「退院はいつごろになりますか?」

「何事も無ければ来週くらいになるかな。なるべく早く出れるように調整してもらったんだ。週に1回の通院は必要になるけどね」

 

 そう言い、先生とユウカ、ノアはとりとめのない会話を続ける。どうかこんな日が続きますようにと、何度裏切られたか分からない祈りを抱きながら。

 

 

 ▼

 

 

「はぁ……本当に先生、何を考えているんだか。退院して落ち着いたら海に行こうなんて。しかもエデン条約前にだなんて、どれだけ無茶を言ってるのか……」

「まあまあ、良いじゃないですか。ユウカちゃんも海行きたいって言ってましたし、願ったり叶ったりでは? 私達だけではなく他の学校の生徒も居るようですが……」

「そういう問題じゃないわよ。病み上がりなら大人しくした方が良いのに……」

「ふふっ、それもそうですね。ですが、もう決まった事なので楽しまないと損ですよ? 水着、買いに行かなきゃですね♪」

「た、確かに……どうしよう、今年のトレンドとか全然知らないのに……ノア、今度買い物に付き合ってくれる?」

「はい、勿論です。コユキちゃんも誘って買いに行きましょう。この夏の楽しみが一つ増えちゃいましたね♪」

 

 ────あの時、海に誘ってくれた彼の表情。何かを知っていて、何かを諦めていて、その上で選択をしたような顔。それがノアには最後の思い出作りをしていた『あの時』の彼と重なって視えた。

 

 小さな不安を抱えたまま2人は帰路に着く。太陽はもう少しで沈みそうだった。

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