シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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式日を背に歩く

 遠く聞こえる鳥の鳴き声に導かれるように、ワカモは薄っすらと眼を開けた。数回の瞬きを経て起床したワカモは閨を見渡す。自分の下敷きになっている寝具、乱雑に床に置かれた制服。転がった薬莢、切先が赤黒く汚れた短刀。畳に残る焦げた痕と血痕。全て、全て徒労に終わった。ワカモは自身の首にそっと指を這わす。傷も痕も、瘡蓋すらなかった。

 

 床に散らかした制服をハンガーに引っ掛けて、湯浴みに向かう。襦袢を脱ぎ、ランドリーバスケットに放り込み、頭上から滴るお湯に身を委ねた。10分以上そのままで過ごしたワカモは徐にお湯を止め、浴室から外に出た。

 

 ドライヤーで髪と尻尾を乾かす。髪は長く、尻尾は毛量が多いため、乾かすのには時間が掛かるが、うら若き乙女として妥協はしない。丹念に櫛を入れ、何時も通りの手順で髪と尻尾を整える。こうしていないと、心の中の何かが暴れ回ってしまいそうだった。

 

 湯浴みを終えた下着のままワカモは閨に向かい、制服に袖を通す。多数の花があしらわれた黒色の制服。聞慣れたはずのそれなのに、何故か覚束なかった。上手く帯を結べない。体が震えている。視界が霞んだ。急に身体が重くなって膝から崩れ落ちてしまいそうになったが、それをぐっと堪える。今、此処で膝を折ったら……きっと二度と立ち上がれなくなるという確信があったから。

 

 支えにしていた壁から手を放し、ふらふらとした足取りでドレッサーに向かう。鏡に映る見慣れた顔。眼は充血して赤くなっていて、隈が出来ていて、血色も当たり前のように悪い。映画に出てくる死人よりも少しだけマシなだけの姿に溜息が零れた。折角会いに行けるというのに、このような身なりでは合わせる顔が無い。

 

 メイク用品を幾つか手に取り、肌のトーンアップと隈隠しをする。それだけで顔の調子は多少良くなった。リップを口に塗り、何時も通りの……最愛の人に会いに行くための自分になった。

 

 スマホを眺める。待ち受けの写真が心を抉る。時間だ、とワカモは扉を開けた。見上げた空は突き抜けるような青色。雲一つない快晴はまるで宇宙を映した水晶のよう。心地の良い風がふわりと通り抜けた。全てが悪意に満ちた嫌味に感じた。

 

 ドアを開けると、室内の視線が一斉にワカモを見た。その視線は煙たげで歓迎されていないのは丸分かり。だが、別に歓迎されたくて来た訳ではないのだ。既に部屋に居る人物に目もくれず、ワカモは部屋の角に陣取り、じっと時間を待った。その最中にも人は次々と訪れた。見知った顔、見知らぬ顔。全員眼中にないし、心底どうでもいい。中にはワカモの見知った者達も居たが、言葉を交わしたりなどしない。最低限軽い会釈だけして、ただその時を待った。

 

 その時が近づくに連れて、声は小さく、数が少なくなる。時刻の5分前には全ての声が止んでいて沈黙が場を包んだ。布の擦れる音、呼吸音だけが満ちる永遠にも思える時間。それに終わりを告げたのは襖を開けた人だった。奥に立つ係の人はただ一言、「奥でお待ちになっています」とだけ。

 

 その言葉に導かれ、ワカモと数名の生徒が奥へ向かう。大人数が入れるような部屋でないため、順番に入る。予め決めていた事だった。

 

 畳みと、檜の香り。奥に居た最愛の人は生前と変わらない。その表情は柔らかくて、まるで眠っているかのようだった。今にも目を覚まして笑いかけてくれそうだった。優しく頭を撫でてくれそうだった。手を握ってくれそうだった。名前を呼んでくれそうだった。

 

 でも、湯灌で触れた肌は硬くて、冷たかった。見えた時に浮かんだ妄想が絵空事と切り捨てられ、現実が嘲笑った。

 

 ────そっと頬を撫でる。不可逆的な21gを失くして空っぽになってしまった、彼の体を。

 

 夜が明けて、また制服に袖を通す。昨日よりは上手く着付ける事ができた。いってきます、と言っても返答はない。ワカモ以外、誰も居ないのだから。空は相変わらず憎たらしいほどの快晴。会場まで歩こうと思ったが、この場所に満ちる思い出が辛くて駄目だった。

 

 タクシーから降りて、会場の建物に入る。襖を開けると、昨日と同じ顔ぶれ。ゆらゆらと揺れる心、何処にあるか分からない心のまま、時を待つ。棺の周りはまるで聖域のようで、誰一人としてそこに近づかなかった。近づいて、覗き込んでしまえば、その現実を覆せないものとして認めてしまいそうだった。その恐怖があるから誰一人として近寄らなかった。

 

 なんて愚かな話だろう。それが覆せない現実と謂うのは知らせを受け取った時から知っていただろうに。そもそも、昨日の湯灌でその現実に触れているはずだろう。でも、認めてしまえば……本当に今度こそ、何かが壊れてしまいそうで。全員が上の空のまま、時間だけが過ぎていく。

 

 そうして、また時が来る。棺の中に納まった最愛の人は溢れんばかりの花に包まれ、埋まっていく。花が降る、とはこの事を言うのだろう。大切に、一つずつ、送るための花を棺の中に入れていく。瞼を閉じたら冷たい現実が頬を伝って床に滑り落ちた。

 

 そうして、訣別の時が来た。考えに考えた別れの言葉は何一つ言えなかった。零れたのは嗚咽混じりの短くて小さい悲鳴だけ。棺が吸い込まれていく。扉が閉じられる。鍵が掛けられる。この扉が再び開けられるときは、きっと。止められないほど溢れたものは汗なのか、それとも涙なのか分からない。過ぎ去った夏の残響、蝉の声が耳鳴りのように聞こえた。

 

 待合室の自販機で買ったペットボトルの水は開封に手間取った。手に力が入らなくて、くるりと空回りばかり。漸く開けれたそれは生温くなっていた。喉を液体が通り抜けた感覚だけが残り、得体の知れない不快感が体に纏わりつく。時が経つに連れて不快感は寒気に変わり、全身を貫いた。係の人が呼んでいる。

 

「────あぁ」

 

 何かに酩酊したような足取りで向かった先にあった光景に、ワカモは1つだけ声を漏らした。

 

 肌は果て、肉は失せ、白い欠片だけになった最愛の人。なくなってしまった人がちゃんと生きた証を箸で渡して、壺に収めていく。その途中、許可を得て軸椎に触れた。焼骨に触れた指は火傷して、少しだけヒリヒリしたが、その痛みを最期の贈り物と考え、一生大事にすると誓った。

 

 軽くなった最愛の人を抱えて歩く。火傷が痛みだした。この痛みが現実に繋ぎ止める。現実が水を差す。空想が嘲笑う。夕焼け空は泣いているかのよう。今の心の中と比べて、ずっと色鮮やかだった。憎らしいほどに。

 

 手に収まる壺を愛しげに見て────ポツリと呟く。

 

「すっかり、小さくなってしまわれましたね……愛しい、貴方様」

 

 汗も涙も冷えていた。

 

 

 ▼

 

 

「ッ!」

 

 空に伸ばされた手。それは何も掴んでいなかった。灰のように脆くなった骨片なんて無い。だが、指先には焦げ付くような痛みがあった。幻肢痛のようなものだ。既に失くした過去の痛みを脳がレコーダーのように再生し、身体に出力する。実際には亡い痛みを感じる。しかし、その痛みは一度現実として味わったものだから、リアリティに満ち足りている。脳は痛みを虚構と断じているのに痛覚は真偽を考えないから、与えられた信号を寸分違わず再現していた。

 

 シャーレの居住区、よく使うワカモに割り当てられた部屋。寝静まった街は音が失せていて、自分の心臓の音だけが五月蠅かった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 握り締めたシーツが皺になる。耳鳴りが酷い。寝汗が滑り落ちる。指先が痛い。心臓が痛い。全部が痛い。叫び声すら上げられないほどに痛い。視界が滲む。ぽたぽたと雫が零れ落ちる。嗚咽は漏れない。ただ、涙腺が壊れたように涙だけが流れていく。

 

「あなた、さま……」

 

 譫言のように呟く。寒くて仕方なくて、両手で体をぎゅっと抱きしめて倒れ込んだ。シーツに包まっても震えは止まらなくて、心が痛くて。涙は流れているのに泣いている感覚なんて皆無だった。心があの光景を拒絶している。直視するなと絶叫している。全ての感情を押し殺せとワカモ自身の何かがワカモを糾弾していた。

 

 ────あれは夢だと分かっている。過去の残影が夢として再現されただけだ。守るための戦いすら起きず、花が無為に踏み潰されるかの如く彼はその生に幕を下ろされた。全てが終わった後、式日の日程と共に伝え聞いた事だ。遺体の損傷が酷く、全てを()()する事は不可能とも言われたような。実際、彼の棺は平均的な成人男性の身長の半分程度のサイズだった。その棺を燃やし、残った骨を抱えた。あの日々と別れを告げるように歩いた。式日を背に。それから先は……何があったのだろうか? 覚えていない、思い出せない、思い出さなくていい。失った後の日々なんて下らないものだ。あの日々に縋り、心を殺しながら生きていただろう日々の事なんて覚えていなくていい。

 

 ワカモはベッドから降りて、ふらふらと歩く。行先なんて決めていなかったのに、身体は自然とエレベーターホールに向かっていた。指先だけが別の生き物のように動いてエレベーターのボタンを押すと、微弱な振動が体を包んだ。優しい色の照明で照らされた廊下を歩き……シャーレオフィスのドアで一度立ち止まった。勢い任せに部屋を飛び出して来たが、今は襦袢姿で、寝汗も酷く、きっと眼だって赤く腫れてる。

 

 そんな姿で先生と逢瀬を重ねるなど言語道断。せめて湯浴みで身を清めてから────と踵を返すが、その所作に自動ドアが反応し、小さな電子音を鳴らしながら廊下とオフィスを繋げた。

 

「あれ、ワカモ?」

 

 微かに漏れていた光からも分かっていたが、こんな夜中だと謂うのに先生は起きていた。書類を片手に、もう片方の手はキーボードに置きながら仕事を行う彼の姿は昼間と全く同じで、発した声にも眠気は感じられない。自動ドアの向こう側に居るワカモの名前を呼び、はにかんだ彼は小さく手を振る。

 

 ────その姿を見て、先ほど考えていた全ての事が頭の中から転げ落ちた。

 

「貴方様ッ!」

「おっと……」

 

 足が縺れそうなほどの勢いで先生に飛び込んだワカモは思いっ切り抱きしめる。その衝撃で彼の座っていた椅子が1mほど後方に動き、軽く壁にぶつかった。二度と離さないと言わんばかりの抱擁に彼は面食らったような表情を浮べるが、直ぐに慈しむような表情に変わり、慣れた手つきでワカモの後頭部と背中に手を添えた。

 

「今日は随分甘えん坊だね。どうしたの?」

「……夢を見ました。とても……とても、怖い夢を」

「そっか」

 

 ワカモが『怖い夢』と称したその内容について、先生は大方の察しがついていた。彼女もまた、彼女だけの地獄に苛まれているのだ。決して逃れられない光景、焼け付いて染み付いて離れないもの。脳に刻み込まれた原風景は安息を与えない。忘れるな、思い出せ、呼び覚ませ、と痛みを以て訴えかける。

 

 無力を憎み、無知を憎み、自分を憎み、世界を憎むのは、掌から零れ落ちた愛のため。失ったのものが、大切なものが確かに存在していたと証明するのは欠落から生まれる痛みと記憶だけだ。

 

 ────彼女にそんなものを背負わせてしまった自分が憎くて仕方がない。

 

「どんな夢を見たのか聞くつもりはないけどさ……」

 

 先生はまるで幼子をあやすようにワカモの背中を一定のリズムで優しく擦りながら、酷く優しい声音でそっと言葉を紡ぐ。

 

「どうか心を押し殺さないで。怖いものは怖い、辛いものは辛い、悲しいものは悲しんでいい、泣きたいなら泣いていいんだよ。それは心がちゃんと動いている証拠だ。それを悪いものと思って、仕舞わないで。迷惑だなんて絶対思わない。大丈夫、全部私が受け止めてあげるからね」

「はい……」

 

 そう言い、先生はワカモを抱きしめる力を少しだけ強くする。より強く、より確かに、彼女が彼の存在を感じ取れるように。

 かちかちと鳴る時計、2人の呼吸音。それだけが響く静寂。先生は手元のリモコンでオフィスの照明を落とし、ワカモが眠りやすい環境を整える。そうして10分ほど経てば、ワカモはまた一定のリズムで小さな寝息を零し始めた。

 

 瞳から流れた一筋の涙痕を指先で拭い、先生はワカモをお姫様抱っこで寝室に運んでベッドに寝かせる。メイクをしていないという事もあり、眠るワカモは普段よりも幼く見えた。先生は頭を一回撫で、「お休み、ワカモ」と小さく呟いて部屋を後にする。

 

 そうして再びオフィスに戻り、誰も居ない事を確認して……先生は自分の胸にそっと触れた。

 

「……危なかったな。ばれてないといいけど」

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