シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
「────おや」
静寂が満ちる空間で、黒服は驚いたような声を上げる。地図にも載っておらず、通常の視界では認識すら不可能な……キヴォトスに在りながらも異界に属するこのオフィスに、1人の来客が訪れた。過去に来客を招き入れた時のように窓口を開けておいたわけではない。此処に訪れた来客は自身の眼でこの異界を見抜き、足を踏み入れたのだ。その時点でこの来客はキヴォトスの常識を持ち合わせていない存在であると断定できる。
来客の正体は同胞たるゲマトリアではない。ゲマトリアであれば何らかのアポは取るであろうし、そもそも用があるなら会合の時に済ませられる。故に一瞬、無名の司祭の様な敵対存在かと思ったが……この気配は違う。来客に心当たりを見つけた黒服はパキ、と笑みを深めて……エレベーターホールから歩いてきた人影ににこやかに声を掛けた。
「本日は貴方をお招きしていないはずでしたが……私の記憶違いでしょうか」
「いいや、合っているよ、黒服。私は別に招かれたから来た訳じゃない。私の意志で、私の願いの為に、貴方に会いに来た」
「そうですか、そうですか。それはまた……何とも珍しい」
「もしかして取り込み中だったかな。暇じゃないなら出直すけど」
「いいえ、その必要には及びません。ただ、お茶とお茶菓子の一つも出せていない状態で貴方をお迎えすることが惜しかっただけですよ」
「それこそ必要ないさ。お茶とお茶菓子はもう間に合っているからね」
「ククッ……こうして、此処で言葉を交わすのは2回目ですね。本日はどの様なご用件でお越しでしょうか────先生」
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先生と黒服はオフィスデスクを挟んで対峙する。黒服は好意と敬意、興味と好奇心で以て先生を見る。あの時と同じシチュエーション。しかし、彼にはあの時と違って敵意が無かった。感情は凪いでいて、声は静か。悪意ある大人と対峙する時の様な激情も、市民と接する時の様な暖かさも、生徒と触れ合う時の様な愛も……何もない。フラット、と称するのが最も彼の今の心情を正しく表現できるだろう。
「風の噂によると、ベアトリーチェの半身を吹き飛ばし、撤退に追い込んだようですね」
「単なる初見殺しさ。二度目は通じないだろうね。あの時、撤退を選ばれた時点で私の敗北だよ」
「ご冗談を。対応されるのは天命による攻撃でしょう。察するに、貴方はまだ同等の手札を複数持っている。天命が対応されたなら別の手段を取ればいい。貴方にはまだ彼女を殺害する手段がある」
彼の手札があれだけのはずがない。彼の殺戮技巧……殺すための最適解を構築する手腕は常識を逸している。モノを殺害することに於いては他の追随を許していないのだ。それは単純な強弱、生命としての強度の話ではない。正々堂々と真正面から戦えば彼はどの生命にも負ける。紛れもなく彼は最弱であり、キヴォトスでは最下層だ。生徒には勝てない、
だが、彼は無名の司祭とベアトリーチェにのみ、勝負の土俵に上がる事ができる。彼に対して慢心、油断、嘲りを抱いているから。無意識下で誰もが抱く相手を見下す感情と、生まれる隙。それを見抜き、突く能力が優れているが故に彼は勝利を収める事ができている。
もし仮に無名の司祭やベアトリーチェが彼に付け入れられる隙を捨てる事ができたのであれば、彼は成す術なく純然たるスペック差の暴力で磨り潰されるのみだ。
「さあ、どうだろうね。ただ、次見えた時は必ず殺すだけだよ」
「その次が無い事を祈っていますよ」
「ベアトリーチェの心配かい? 彼女に対して仲間意識があるなんて驚いたよ」
「いいえ、彼女の心配はしていません。私が案じているのは……貴方ですよ」
黒服はベアトリーチェの心配などしない。仲間意識など皆無だ。彼女とのつながりなど同じゲマトリアというだけ。それ以外に特筆すべき接点はないし、今後関わろうとも思っていない。
1つの自治区を掌握した手腕は賞賛しよう。貪欲に力を求める姿勢には敬意を表そう。行っている研究には興味がある。だが、別にそれだけだ。同じ悪性の輩としての感情以上の何らかを抱いた事はない。寧ろ、黒服は将来的に彼女は世界を食らう存在となると見ており、その牙が世界の基盤に向く前に消してしまおうとすら思っている。故に心配などしていない。死んだなら手向けを一つだけ送り、次の瞬間には彼女を忘れている。
だから黒服が心配し、その身を案じているのは────今、眼の前に居る先生だった。
「文字通り、貴方には『次』がない。
彼の裡に秘めた神性の気配は更に濃くなっている。巧妙に隠し、認識阻害も行っているため、生徒や一般市民が気付く事はないだろう。だが、黒服には分かる。彼は既にその体の数割を唯一神に侵食されていた。数値にしては……凡そ27%程度。この数値まで上昇してしまえば、本当にいつ彼の自我が崩壊してもおかしくない。些細な切欠があれば……否、切欠さえなくても彼は塗り潰されてしまう。
「貴方は二度、特権を使用して神秘を扱う禁忌を犯した。第一は、エリドゥに侵入した無名の司祭を排除する時。第二は、マダムを屠らんとした時。第三は無かった事になりましたが……貴方を終了させるには二度でも充分すぎるほどです」
彼がよく使う例外使用……因果への干渉では此処まで症状は進行しなかった。正規使用の悪用も因果への干渉よりは進行するが、一気には進まない。だが、神秘の行使は症状を加速度的に進行させる。それを2度も行えばこうなるのも全く不思議ではなかった。
「元より貴方には唯一神との
身体の主導権を懸けた綱引き。彼方側に引っ張られそうになるそれを、彼とシッテムの箱が何とか抑え込んでいる事で、彼は先生として存在していた。規格外のシッテムの箱をもってしても症状を抑え込み、彼の意識を繋ぎ止める事で精一杯。それだけ彼と唯一神を繋ぐラインが強力であり、唯一神の神性が強大無比なのだ。
「ですが、それも長くは続きません。貴方の侵食率はまだ上昇します。リミットの5割を迎えるまで……長く見積もって半年、といった所でしょうか。無論、これは一度も特権を使用しなかった場合です。一度でも使用すれば加速度的に時間は短くなるでしょう……ご自愛を、先生。その力は貴方にも周囲にも不幸しか与えません」
「言われなくても分かっているつもりだよ。私は結局、呪いと悲劇と不幸をばら撒く事しかできないんだ」
彼はそう言って、生徒には決して見せない諦観に溢れた嘲笑を浮かべる。自分は碌でもない存在、マイナスをばら撒くしかできない。皆がどう思っているかは知らないが、彼の自己評価はいつだってこれに帰結する。本来は存在すらしてはいけないはずなのに、本来は生きていてはいけないはずなのに。
「……本来は戦場に居てならない方が、戦場にしか存在できなくなってしまった結果です。貴方だけの責任ではありません。貴方は貴方が思っているほど邪悪な方ではないのです」
「だとしても、選んだのは私だよ。自分が愛した在り方から遠ざかり、自分が最も憎んだ存在になる。それは分かっていたんだ。私は碌な死に方はしないってね。だから後は目的を果たして死ぬか、道半ばで死ぬか。悲しみを残して死ぬか、残さずに死ぬか。それだけだ」
「……先生はご自身の命についてどうお考えで?」
「どうでもいい。興味が無い。大切だと思えるように努力はしたけど、結局変えられなかった。私は自分の命に興味も無ければ重みも感じていない。死ぬなら、死ぬんだろうね」
「……そうですか」
命は大切だと、彼は自分ではなく生徒に向けて言い続けてきた。大事にしてほしい、粗末にしないでほしい……生きてほしい。でも、そう言っている先生本人は自分の命をどうしても大切なものだと思えなかった。変えようと思って、大切にしようと努力して……結局、変えられなかった。
命に対する諦観はいつも冷たく心の奥に横たわっていた。命に興味も無い、重みも感じていない。
「ちょっと前、とある子に看取ってもらうようお願いしたんだ。でも、多分それも叶わない。分かるんだ。私は惨めに独りぼっちで死ぬ。自分の命に価値を感じていない非人間に、願い通りの最期が与えられるものか」
ケイには申し訳ない事をしてしまった。死ぬときは傍に居てと言ったのに。せめて、何度も泣いたあの子が泣かない最後にしたかったのに。でも、その願いは叶えられない。他ならぬ彼自身が、『ケイにそんな事をして貰う価値なんて無い』と、自分の命を無価値と断じているから。だから彼は惨めに一人で死ぬ。多くの傷を残し、多くの悼みを残し、多くの悲しみを残して。
そんな彼の諦観を感じ取った黒服は彼を偲ぶように亀裂を細めた。こうなったのは彼だけの所為ではない。だが、彼は己を責め続ける。己を罰し続ける。その選択を続けた自分自身を憎み、怒り、自死した方が余程楽な道を進む。
その在り方に余人は哀れみを感じるだろう。悲しみを、憤りを感じるだろう。だが、黒服は違う。黒服は先生に対して敬意を抱いた。その在り方を続ける鋼鉄の決意に、どれほど遠く穢れても歩き続ける意志に感服したのだ。
「……これは?」
故に、黒服が彼に差し出したものは彼がその在り方をより長く、より強く続けられるようにするための手段だった。
「抑制剤です。強力な神秘を持つ場合、成熟する前の幼少期の肉体ではその出力に耐えられない事があります。そのような時に、悪戯に自身の体を傷つけないよう神秘を抑制するために使用されていました。ですが、神秘を非活性化するという都合上、どうしても命の危険が隣り合わせとなり、更には身体機能や成長に悪影響を及ぼす可能性が発表当初から指摘されていたのです」
「当然だ。神秘は強く心と身体に結びついている。それを抑制するなんて……今の常識では考えられない」
「えぇ、そうでしょう。しかし、神秘の発露に苦しむ子どもを救うにはこれしかないと謂う事もあり、この薬剤は実際に使用されていました。ですが、子どもにこのような劇薬を投与する事は度々倫理の問題として議論の種になっていたのですが……医療の進歩により良い対処法が見つかった事で、この薬剤は過去の産物となりました。今から数世紀以上前の話です」
神秘に苦しむ子どもにより良い治療を、対処を。痛みで苦しまないように、成長に苦しまないように。この抑制剤はきっとそのような善意で生まれた物であり、黒服の言った『より良い対処法』も根底の願いは同じだ。医学の進歩が、知識の積み重ねが子どもの苦痛を和らげ、寄り添えるようになった。
それは、とても美しい人類の発展。苦しむ子どもを善しとせず、何とかしてあげたいと苦心する人達が作り上げた数世紀前の希望。黒服はそれを彼に差し出た。
「と、これは過去の劇薬なのですが、今の貴方には必要なものでしょう。元より貴方は神秘を持たない身です。抑制して調子が良くなる事はあっても、悪くなる事……ましてや死ぬなんて事はあり得ません」
先生は黒服から受け取った薬剤をシッテムの箱で解析し、ついでにスキャンする。今更黒服が姑息な手を使ってくるとは思っていないが、周りがそうではない。ただでさえ先生は敵を作りやすい立場だ。できる対処はしておいた方が良い。
キヴォトスの医療。神秘の治療。神秘を持つ子を対象に発達した知識。それが果たして自分に効果があるのやら────そんな疑念と共に先生は薬剤をコートの内ポケットに仕舞うと、黒服は見計らったかのように口を開いた。
「ククッ……では、歓談はこの程度にしましょう。して、先生。貴方は何を求めて私を訪ねたのですか?」
黒服の罅割れ白く光る眼窩がすっと細められる。値踏みの視線は眼前の先生を射貫いた。彼が何の目的もなく、世間話をしに此処に訪れたとは思わない。彼には何らかの目的があり、それを果たすために黒服と接触しに来たのだ。宿敵である筈の黒服に態々会いに来たのには相応の理由がある。黒服はそれに大きな関心、疑問を示した。一体、彼は何を求めて、何を願って此処に来たのか。
その問いに答えるように先生もまた口を開いた。
「私は────黒服、貴方と契約をしに来た」
先生の目的は黒服との契約、唯一つ。それを交わすために態々足を運んだのだ。正直に言えば黒服と契約するのは御免であるし、力を借りずに済むならばそれに越した事はない。だが、今回は好き嫌いをしている余裕はなかった。もし未来が『そう』なるのであれば、此処で布石を打っておかないと詰む可能性がある────そう思ったからこそ、先生は契約を結ぼうとした。他ならない生徒達の為に。
「……ほう」
黒服は短く、その言葉だけを漏らす。先生が契約を申し出る事を予想していなかった、と言えば嘘になるが、こうして実際に口にされるとやはり驚愕が勝る。黒服との契約、それが意味する事を先生が知らないはずがない。ホシノの件で、アビドスの件で嫌と言うほど分かっているはずだ。しかし、それでも彼は契約を申し出た。
「……一つ、質問をしても?」
「良いよ」
「何故、私を選んだのですか? マエストロ、ゴルコンダ、デカルコマニー。ゲマトリアは私以外にもいます。貴方が結びたい契約は恐らくマダムへの対処でしょう。であれば、私よりも他の3名の方が適任です。それを知らぬ貴方ではないでしょう」
「そうだね。まあ、厳密に言えばベアトリーチェの対処って訳でもないけど、広義的に見ればそれになるだろうし、何方にせよ貴方以上の適任者はいる」
「にも拘らず、貴方は契約相手として私を選んだ────何故ですか?」
「貴方を信用も信頼もしていないが、結んだ契約は絶対に反故にしない事を私は知っている。契約に対して貴方は誰よりも真摯だ。その在り方を見込んで、私は貴方に契約を申し出ている」
ゲマトリアなど全員信用できないが、己の威信にかかわる部分にだけは誰よりも真摯という特徴を持つ。故にマエストロは芸術に対して嘘は吐かないし、ゴルコンダとデカルコマニーも自己の存在に対して真剣に向き合っている。
黒服もそうだ。彼が司るものは契約であるからこそ、結んだ契約を絶対に反故にしない。だからこそ、彼は黒服とならば契約を結んでも良いと思っている。
先生が贈れる評価としては最上級のそれに黒服の笑みが深くなった。己の誇りに対する最大の賛辞を嬉しく思わないはずがない。それが、どこまでも対等であると信じている先生からであれば猶更だ。
「……そうですか。えぇ、貴方からそのような評価を受けているとは嬉しい限りですよ、先生。願わくば信用もしてくださると喜ばしいですが」
「それは無理だね。一応言っておくが、ホシノを泣かせた事、私は絶対に許さないからな」
「これは手厳しい」
それはそれ、これはこれと謂うものだ。別に先生は黒服がアビドスに対して行った所業を許した訳ではない。寧ろ、誰が許しても彼だけは許さないだろう。同じ大人として、子どもを苦しめた罪を糾弾し続ける。それがアビドスに対して、ホシノに対して彼ができるせめてもの贖いだ。
彼の『次生徒にちょっかいかけたら対地ミサイルでビルごと吹っ飛ばすぞ』と言わんばかりのジト目に黒服は喉を鳴らし、いつもの様に手を組んだ。
「それでは、契約の内容をお聞きしても?」
「今後、私の生徒が貴方を頼る事があるかもしれない。そうなった時は可能な限り生徒達に助力してほしい」
「可能な限り、と謂うのは?」
「ゲマトリアの規約に抵触しない範囲で、だ」
「ふむ……つまり、私に貴方の真似事をやってほしい、と」
先生が求めたのは黒服の協力そのもの。生徒が黒服を頼った場合に限り、ゲマトリアの約定に触れない範囲内で助力してほしい────力ではなく、知識面でのサポートを彼は黒服に求めた。確かに幾分かキヴォトスの仕組みに詳しいという自負が黒服にはある。だから黒服に知識面でのサポートを求める事は理に適っているし、力でのサポートよりもやり易いのだが……どうしても、解せない。
「えぇ、一層解せなくなりました。生徒達が私を訪ねるシチュエーションが想定できません。私を頼るのも不可解です。私に頼らずとも先生がいれば……あぁ、そういう事ですか」
そこまで口にして黒服も気付く。先生に頼らず、黒服に頼るシチュエーション。それはつまり、先生が頼れない状態にあった場合。そうなった時のみ、黒服を頼る理由が発生する。黒服はホシノに姿を見せているし、恐らくアビドス対策委員会内でゲマトリアの事を共有しているだろう。コネクションとしては然程強くないが、関わりが皆無の他のゲマトリアよりはアクセスしやすい。
「近い将来、私は死ぬか口を利けない状態……兎に角、生徒が私に頼りたくても頼れない状態に陥ると思う。だから、そうなった時の備えが欲しいんだ」
「可能性はどの程度ですか?」
「100%ではないけど、相応に高いはず。未来視や現在視のできる生徒が態々過去視であの時の私を視ていたからね」
「視られていた未来を、貴方は逆探知したと……」
「この程度はできるさ」
さらりと言っているが、未来視の逆探知など聞いたことも無い芸当だ。現在進行形で向けられている視線を察知するのとは訳が違う。未来で視られている事を察知するなんて神業に近しいだろう。彼も未来視の少女と同じく、規格外の視界を持っているのかもしれない。それは、未来と過去と現在を等しく扱い世界そのものを見渡す眼。一体、隔絶した彼の視界には何が映っているのだろうか────彼に対して別の興味を抱いたところで、今は探求する時ではないと黒服は襟を正す。
「兎に角、私がそうなった時、恐らくベアトリーチェは健在だ。仮に健在じゃなくても、キヴォトスには解決しなければならない問題が無数にある。私が死んで終わっても、生徒達は続いていくんだ。だから可能な限り対抗手段は残して起きたい」
「これもその一つ、と」
「……受け入れてくれるかい、黒服」
「普段の私であれば受けなかったでしょう。リスクが大きすぎる。私とてゲマトリア、可能な限り同胞との間に荒波は立てたくない。契約不成立、と謂う事で本来ならお帰り願うのですが……」
普通なら断る話だ。ベアトリーチェとの間に荒波を立てるリスクが高すぎる。彼女は意志を持つ厄災に等しい。無論、負けるとは思わない。彼女に対する策は幾つも用意してあり、それを用いれば殺害ないし撃退は可能だ。しかし、そうなれば黒服側もかなりの消耗を強いられる事になる。
無視できないデメリット。ゲマトリアとしての規約。天秤は傾かない。
だが────契約を結ぶ相手が先生であるならば、話は別だ。
「貴方との契約であれば無理難題も結ぶ価値があります。いいでしょう、契約成立です。これより、貴方の生徒が私を訪ねた場合は、ゲマトリアの規約に反しない限り協力しましょう」
「助かるよ……ありがとう」
「礼は不要です。これは契約、私にもメリットがあると踏んだまでですから」
「それでも、だよ」
仮に契約上のドライな関係だとしても、それは感謝しない理由にはならない。人間的な好感に関わらず、やってもらった事に対しての感謝は述べよう。それを不要と思えるほど彼は冷たくない。兎も角、これにて契約成立だ。何とか此処まで上手く事を運べた彼はあと一息と気合を入れて、対価の話へと移る。
「それで、対価はどうする? 私個人が差し出せるものなら、可能な限り用意するよ」
「……そうですね、では」
そう言って黒服は徐に椅子から立ち上がる。デスクを迂回し、先生との間を遮るものが何もなくなった場所で……黒服はその手を先生の左胸にそっと当てた。
「……セクハラ?」
「違いますよ……そうですか、貴方は」
先生の左胸に当てた手。服の上からでも伝わるはずの心臓の鼓動。生命として当たり前の活動。しかし、黒服は彼の鼓動を感じ取れない。
────
「心臓、動いていないのですね」
「あぁ……代償でね、心臓が動かなくなったんだ」
通常、死んでいなければおかしい状態だ。だが、彼は生きている。死体を無理矢理動かしている、という訳ではない。だから彼は心臓が停止した状態でも尚、生きているのだ。一体どんな絡繰りが、と思い彼に視線を向けると苦笑いしながら手元のシッテムの箱の背面を優しく撫でた。
「色々あって、体の機能の大半はシッテムの箱に移してあるんだ。心臓の機能もシッテムの箱の中だから、別に肉体の方が動かなくなっても死にはしないよ。今なら胸に風穴を開けられても即死はしないさ」
尤も、心臓部分に風穴を開けられたらまず間違いなく出血多量で死ぬだろうから、然程意味はないだろう。だが、即死か数分後に死亡かでは与えられる猶予が違う。即死でないなら
「生きているのか、生かされているのか。死んでいるのか、死んでいないだけなのか。元々私は生死の境界が曖昧だったけど、今はもっと曖昧になった。長くこんな状態に身を置いているから、自分の命を何とも思わなくなったんだよ」
────その後悔こそが、きっと先生の本当の姿の一つなのだろう。皆と一緒に生きたい。皆と同じ時を過ごしたい。だが、もう自分は異形の生命だから願いは叶わない。自分の命に価値を感じていないから平然と使い捨てにできる。それが善くない事だと分かる極めて正常な倫理観を持ち合わせているからこそ、彼は今も尚、後悔で身を焼いているのだろう。
その後悔に救いあれ、と黒服はそっと彼の左胸から手を離した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして、でいいのかな。満足したなら対価の話に戻るけど……」
「いえ、先ほどの行為が対価です。神秘の侵食、という極めて稀有な症例のデータ……先生の体に触れる事で、それを頂きました。対価としては充分です」
「……そう」
「これにて契約は完全に成立しました」
その言葉を聞いた先生は再び「ありがとう」と声にして、黒服に背を向けた。
「おや、もう戻られるので?」
「元々、仕事の合間を縫って来ていたからね。用事は済んだし早めに戻らないと納期に間に合わない」
彼は「これ以上、生徒に怒られる訳にはいかないからね」と言い、背中を向けてエレベーターホールに歩き出した。彼が愛した世界に戻るために。
「────先生」
その前に、黒服は1つの声を彼に投げかけた。あの世界に戻れば彼は再び先生となり、自身の傷を覆い隠すだろう。誰かに心配をかけないために。そうなる前に一つだけ、言わなければならない言葉があった。
彼は振り返らない。足を止めて、耳だけ、意識だけを黒服に向けている。
「貴方よりも長く生きていますので、1つ助言を。別れはきっちり済ませておいた方が良いです。他の何をおざなりにしても、置き去りにしても、別れだけは。形に残るものであれ、残らないものであれ……正しい訣別を行わなければ、人は永遠に過去へ囚われてしまいます。貴方はいつ終わっても不思議でないのです。遺される生徒の為を想うのであれば、どれだけ残酷でも訣別は済ませた方が良いでしょう。後回しは程々に。その後がどれだけ残り少ないか、貴方は分かっているはずです」
「……忠告、感謝するよ」
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「正しい別れって何だろうね」
さよならと言えばいいのか。ありがとうと言えば良いのか。ごめんねと言えば良いのか。
「私達の別れは正しかったと思うかい、連邦生徒会長。私は……あんな別れが正しいとは思いたくないな」