シャーレ活動備忘録 作:遊園市街
エデン条約後半戦、スタートです。
────また、瞼の裏に夢を見る。
夢というものは脳の記憶の再生処理として再現されるものだ、と唱えた学者がいた。深い睡眠にいるとき、脳の海馬と大脳皮質に蓄えられた記憶の数々をリフレインして、エディティングして、確固たるものとして固定化する作業……らしいが、夢の内容、固定化される記憶が一致していると謂う臨床データはどこにもない。
逆に、夢は不要な記憶を削除するために見る、と謂う仮説もある。睡眠中に不要な記憶を削除し、神経回路を整理する。必要な記憶のみを選別し、健やかな人間としての体裁を整える。脳のストレージに空きを作り、大事な部分のみ脳のシナプスを繋げる。記憶の定着・固定に関して、睡眠には過剰なシナプス結合を減少させる働きがあるとするシナプス恒常性仮説だ。
しかし、シナプス恒常性仮説では、シナプス結合の減少をレム睡眠ではなくノンレム睡眠中の徐波によるものだとしており、またシナプス結合の減少も特定の結合ではなく、一様に結合を減少させるとしており、夢の内容との関係性は定まっていない。
夢の研究は古今東西、遥か過去から多くの研究が行われてきた。先の2つの説もその一環で唱えられたものであり、人間の叡智はついに脳の最奥、精神の深淵すら白日の下に曝そうとしている。
そのような研究とは離れている私であるが、個人的には夢に意味がないと思っている。どうやら、そのように夢を考える学説もあるようで、それによると夢とはレム睡眠中に生じるランダムな脳内の皮質活動の副産物であるらしい。他にも生存に必要な行動プログラムの作成とシミュレーションがレム睡眠中に行われるせいで夢が発生するという説もあるが、やはり私は夢には何の生物学的意味はないと思う。活性化合成仮説と呼ばれるものだ。
故に、私は自身が見る全ての夢に意味がないと断じている。悪夢も、あの子と会う夢も、須らく無意味だ。単なる脳の活動に付随する副産物に過ぎない。継ぎ接ぎだらけの不格好なリフレイン。
だからこの夢もきっと意味がないものだ。目が覚めた時に忘れてしまう程度の。
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────赤い、赤い空。サンクトゥムタワーとシャーレのオフィスビルがあったはずの場所には巨大な光の柱。その光の柱から走る燐光は丁寧とも呼べるような執拗さで以て、一つ一つの命を串刺しにして光に変換していく。生徒も、住民も、動物も、虫さえ等しく。
全ての生命は死に絶えた。全ての文明は根絶された。この世界の上に築き上げられた全ての痕跡は無に帰した。ただ、一人の神の失望によって。
世界全てを呑み込むような威容を持つ、サンクトゥムタワー跡地に聳える光の柱────その正面。そこにはシャーレの指定服を纏う男が居た。温和そうな顔は冷徹に染め上げられ、神威を示す黄金の眼は無感動に世界を見下す。
姿形は先生と同一だ。だが、それだけ。姿は同じだが中身は全く異なる。先生と呼ばれた人格など、あの場所の彼に欠片も残っていない。それを示すように、頭上には
先生の人格を消し去り、先生の肉体を乗っ取って地上に顕現した唯一神。彼────性別など無いが、便宜上彼と呼称する────が一番最初に行った事が、現行生命の虐殺だった。
顕現したその瞬間、シャーレのオフィスビルが世界を縫い留める光の柱に作り替えられた。その侵食速度はマイナス5.7秒。顕現した時点で既に『在った』ものとして時空すら捻じ曲げながら世界を書き換えた。その後は単なる殺害のための手段としてサンクトゥムタワーを光の柱へと変換し……数多の神話を殺戮した世界最大の信仰の神威が解き放たれた。
『君達は選択を間違え過ぎた。あぁ、君達がそれを悔いる必要は無い。君達は完成された命ではなかったというだけだ。故にやり直そう。完全なる生命は満ち足りた楽園から生まれ落ちる。人よ、再び我が楽園へ────』
────無名の司祭達は人々に裁きを下す『神』の姿を仰ぎ、自らの主の到来に歓喜した。彼等は神の手足になろうと接触したが、神は司祭達を一瞥する事も無く、他の生命と同様に光で串刺しにしてリソースへと変換した。
────ゲマトリアは顕現した神に何らかの対策を打とうとしたが、それをする間もなく逆探知されて成す術なく殺害された。今まで裏で暗躍していたゲマトリアの壊滅はあまりにも呆気なかった。
────戦う手段すら持たない、恐怖で逃げ惑う市民はせめてもの慈悲なのか恐怖も無く終了させた。
────生徒達は……生徒達は。
『人よ、再び我が楽園へ』
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微睡みから先生は突き放される。うっすらと目を開ける。オフィスの電気は自動消灯していた。シッテムの箱はスリーブ状態で、アロナも寝ている。時刻は丑三つ時を過ぎた頃だった。
────酷い夢だった。そう形容するしかないほどに酷い夢だった。己の愚かさを突きつけられるような夢。お前が生き続けたらこうなるぞ、こうなる前に死んでおけ。言われなくても分かっているつもりだったが、改めて映像として見せられると……少々心にくるものがある。
先生は椅子に座ったまま背筋をぐっと伸ばす。動体検知センサーが反応し、消灯していた明かりが一斉に点灯した。机の上に鎮座する書類の束にげんなりしながら、『あと少しだ』と気合を入れる。この書類の束だって『生徒が先生を頼っている証』なのだ。ならば、頼りない姿を見せるわけにはいかない。これからも生徒達が気兼ねなく頼れるように頑張らないと。
先生は憂いを帯びたような耽美な表情で一つ溜め息を吐いて、キャビネットに指先を走らせる。4段構成のそれは基本的に仕事道具が格納されていて、4段目はよく使う書類が纏められたファイル類、3段目は予備の事務用品、2段目は文房具や電池などが入っている。この3つの段は先生は勿論、生徒も自由に開閉することができて、必要であれば好きに使っていいという扱いになっていた。
しかし、1段目……最上段は別だ。この引き出しのみ静脈認証のロックがある。
生徒達も最初こそ開かずの引き出しを不思議に思っていた。しかし、開かないからと謂って不便さを覚えたこともなく、シャーレの業務とは関係ないものが入っていると考えて……今は気にすることもなくなっていた。
「……」
この引き出しを開けれるのは先生しかいない。シャーレにおいて先生に次ぐ権限、クラフトチェンバーすら使用可能なリンでさえ、この引き出しを開けることはできなかった。リンも中に何があるのか気になっていたようだが、深く詮索はせず、最終的には『先生に任せる』という判断に落ちついた……と謂うのが、先生がシャーレに赴任した日から数えて4日目のこと。
────この引き出しは先生も今まで開けたことがない。だが、その中に何があるのかは知っていた。先生には必要ないものが入っている。開けてもどうしようもないものがある。あの子の、祈りが入っている。
先生は人差し指を翳す。小さな電子音が響いてロックが外れた。シャーレのロゴが施された青い箱。それをまた静脈認証でロックを解除し、そっと開ける。入っていたのはこのキヴォトスでは当たり前に流通しているものだった。
「────」
ベレッタM9A3。口径9mmの自動拳銃。生徒が持つ銃のようにデコレーションはされていない、ガンメタの武骨な殺害道具。市販の流通品と異なる点はグリップ部分にシャーレと連邦生徒会のロゴが入っている事だけ。
先生はそれをそっと持ち上げる。掌から伝わる重さは命の重さか、或いは祈りの重さか。
先生は銃を持ったまま、再び目を閉じた。
▼
『お仕事が終わったらシャーレの屋上に来てください。待っています』
そんなモモトークのメッセージが来たのは今から3時間ほど前の事だった。送り主は連邦生徒会長。いつもなら無駄にスタンプやら絵文字やらでデコレーションしているのに、今回は唯の文章のみの簡素なメッセージ。それに少しだけ驚きながらも、理由については心当たりがあるため茶化したり、深入りはしない。
滞りなく仕事を終えた先生はエレベーターに乗り込み、最上階をタップ。微弱な振動と、気圧変化で少し遠くなる耳。ドアが開けば、そこはエレベーターで辿り着ける最上階。先生は非常階段の扉のロックを解除し、残りの階層を上がっていく。5分もすれば本当の最上階……屋上に着いた。がちゃり、とドアを開ける。光輪の浮かぶ藍色の夜空、煌めく星明かりが近い。吹き抜ける風は少しだけ冷たくて、暖かい飲み物を持ってきてよかったと内心で思う。
「お待たせ、連邦生徒会長。待たせたかな?」
「いいえ、私も今来たばかりですよ、先生」
シャーレの屋上。フェンスで取り囲まれた空の箱庭。そこには白い少女、連邦生徒会長が居た。彼女は先生の来訪にふわりと笑う。何時もよりも影がある表情。彼女はもっと、大輪の花のように笑う子だったのに。
彼女はひらり、と手を振り……それから、先生の手元にある2つのペットボトルを見てくすりと笑った。彼女の手にも彼と同様に2本のペットボトルがあった。
「考える事は一緒ですね」
「……そうだね」
2人しか居ないのに4本もペットボトルがある現状に2人は苦笑いする。確かに少し肌寒いが、1人につき2本も必要ない。1本で充分だ。2人はそれぞれ相手の為に買ったボトルを差し出し、自分の為に買ったものは持ち帰る事にした。この日の事を思い出せるように。
「────」
互いに無言の空間。超人然としていて、感情や空気感の読めない姿は皆が浮べる連邦生徒会長のイメージと合致しているように思えるが、先生はそれを似合わないと思った。彼の知る彼女はもっと溌溂としていて、元気で、表情を見れば直ぐに思っている事が分かるくらいに素直で、沈黙なんて1秒も似合わないほどに騒がしくて、年相応の少女だった。故に、そんな彼女がこの沈黙に身を委ねていることは異常そのものであり……だからこそ、先生もその沈黙を守っている。
急かす事はしない。そもそも、話す事を強いるつもりはない。話したくない事は話さなくて良いのだ。それが、話しても自分の傷を抉るだけなら猶更。冷たい言い方になってしまうが、こうなった以上、彼女の懺悔に意味はないのだ。でも、そんなのは唯の理屈。それで割り切れるほど人は……連邦生徒会長は強い女の子ではなかった。
────あぁ、そうだ。連邦生徒会長は誰かに痛みを押し付けて耐えられるほど、自分の裡に秘めて前を向けるほど強い生徒ではない事は私が一番知っている。連邦生徒会長は優しい子だ。私なんかとは違う。
「……先生」
「なんだい?」
「後悔は、ないのですか?」
連邦生徒会長は彼に背中を預け、空を見ながらそう問いかける。
元々、キヴォトスとは何の関係も無い唯の一般人だった。本当に、何処にでもいるような人。それがキヴォトスに『先生』として招かれて、様々な事件に巻き込まれて、生徒達との絆を深めて、人々に受け入れられた。
その果てに知ったキヴォトスの真実と、キヴォトス来訪時に繋がれた唯一神の神秘。その真実がある限り、キヴォトスは永遠に箱庭だと知った。この神秘がある限り、キヴォトスに明日はないと知った。
────覆す。この閉ざされた箱庭を解き放つために。キヴォトスに明日を齎すために。その為にこの道を選んだ。その為に生きると誓った。だから後悔など抱くものか。
「うん、ないよ。この選択で救われる何かがあるなら私は喜んで身を差し出すさ」
「……恨んでいないのですか? この世界を、この世界に住まう住民を、貴方の
「全く恨んでいないよ。そもそも、生きている以上、ミスは付き物だ。失敗しないものはない、不出来じゃないものはない。私達は常に進化する生き物だ。だから、私達は常に未来よりも失敗していて、不出来なんだ。そのミスすらも私は人の歩いた道として尊ぶべきものだと思っているよ。
彼らしい言葉。この世界の善性を、優しさを信じ切っている。確かに醜い部分もあるかもしれないが、それでもそれと同じだけ美しいものが在ったはずだ。失敗も綻びも、何も恥じる事はない。だって、君達の道の全ては祝福に満ちているのだ。だから恐れず、迷わず、誠実に。であれば、きっと大丈夫。その果てに君達は必ず正解を選び取れる。必ず誇らしい気持ちになれる。
────でも、それでも、首肯できない。彼の言う通りかもしれないが、それでも世界が犯し続けた失敗を一人に押し付けるなんて正気の沙汰じゃない。彼自身がそれを選んだとしても、彼の傍に居た人として、彼の理解者として異を唱えよう。そんなものは間違っている。あんなに優しくて、お人好しで、人が大好きなあの人を。世界が犯した罪を清算するための巡礼へと送り出すなんてできる訳がない。贖罪の鐘を鳴らすために、いつか身を捧げて死ぬために、彼が彼自身を失っていくなんて耐えられない。貴方が、最愛の貴方が永遠に失われるなんて嫌だ。だから行かないと言って。置いて行かないと言って。こんな事は止めると言って。私と一緒にいるって、言ってよ。
そんな内心を見透かしたように、彼は「それに」と言葉を付け足して。
「私だってキヴォトスの一員なんだ。皆と同じ人類じゃないけど、それでも私はキヴォトスの一員として自分を定義した。私が愛した人たちが住まう世界を、私を『人類』として受け入れてくれた世界をより善くするためなら、私の全てを賭けていい」
「でも、それは茨の道です。その道の先に貴方はいない」
「だろうね。でも、それでいいんだ。生徒は先生の手を離れていくものだろう? 所謂、『卒業』ってものだよ。別れは別れでも、それはとても輝かしい別れだ。先生として生徒の門出は祝福しないと。それが過去に置いて行かれる身であれば猶更だ」
いつか必ず生徒達は先生を置いて行く。先生を追い越して未来に行く。先生を過去にして、成長する。確かにそれは別離であり、生徒達に別れを『悲しむな』なんて先生とて言うつもりはない。泣きたいなら、悲しいなら泣けば良いだろう。
だが、それを理由に足を止めないでほしい。人は誰だって何かを置き去りにして、何かを忘れて、何かと別れて進む生き物なのだ。今回は偶々、それが先生だったというだけ。そして、先生は生徒をより善い未来に送り出すために過去へ置き去りにされることを選んだのだ。だから、その別離の涙は此処で枯らしておいて。気が済むまで泣いたら二度と振り返らないで。その眼は過去を、置き去りにしたモノを見るために在るのではないから。
「見てみたいんだよ。私の傍に居た生徒が、私を追い抜いて遠い所まで走っていく『卒業』を。私の最期の我儘だと思って笑って見逃してくれると助かるよ」
「私は、貴方を置いて行きたくなんてないです……ッ」
二度と見る事は叶わない、最初で最後の卒業。その光景はきっと輝かしくて、可憐な色彩に溢れていて、どんな花束よりも綺麗なものだろう。先生として、それを見てみたい。生徒が一つのステージを超えるその瞬間を、『もう追いつけないな』と笑って見送りたかった。
だが、その願いを連邦生徒会長は拒絶する。置いて行きたくなんてない。置き去りにしたくなんてない。二度と会えないなんて耐えられない。だから、だから────。
「だから、『星』の側に立ったのかい?」
先生を失わないで済むように、連邦生徒会長は『星』の立場に肩入れすることを選んだ。その側に立って、この問題を解決する事にした。それが間違いだと知っていながら、『彼を失うくらいなら間違っていていい』と容認した。
連邦生徒会長の、『星』の解答では根本的な解決にはならない。何度でも同じ問題が再発するだろうし、その度に解決を先送りにしていたら、いずれは本当に解決しなければならない問題が避けられない試練となってキヴォトスに立ち塞がるだろう。
でも、それで良かった。その場凌ぎで良い。継ぎ接ぎだらけの不格好な回答で良い。どうせこの問題が再び問題として現れるのは数百年後や千年後。先の問題は先の人類達に任せればいい。連邦生徒会長にとって大事なのは『今』のキヴォトス、自分の大切な人が笑って生きているキヴォトスであり、先生だ。未来のキヴォトスの繁栄よりも自分の大切な人を優先したいというエゴイズムがこの解答を選択した。
────この選択こそ、連邦生徒会長が生涯に於いて唯一『間違い』だと知りながら選んだものだった。
「……失望しますか?」
「いいや、しないよ。それも選択の一つで、正解だからね。この世界を背負い続けた君の選択を、私は尊重する。誰にも否定させないよ」
その弱音を先生は肯定する。教え子が苦心の果てに選び取った選択に失望などするものか。連邦生徒会長と先生、その解決策のどちらもが正解だ。連邦生徒会長はを神秘と共存する道……キヴォトスの法則に則って生きる『星』の側に立った。先生は神秘を根絶する道……神秘の呪縛から生徒達を解放し、箱庭を開くことを選んだ。彼は『生徒』、ひいてはキヴォトスの知性体に肩入れする事にした。キヴォトスの知性体以外のすべての敵になる事を選んだ。
『星』の解決策、神秘との共存はこのままの世界運用を続ける事。世界を滅ぼすほどの問題……色彩や実態を持つ神などは退けつつ、根本解決できる『いつか』を待つ。
対して、先生の解決策……神秘の根絶は文字通り神秘を失くす事。神秘を失くせば神秘に付随する問題は全て無くなる……という、この世界の根底を揺るがすものだ。
そして、神秘の根絶には『救世主』が必要だ。救世主の死による原罪の救済、その再現をしなければ神秘の根絶は成し得ない。
先生は自身を犠牲にする事を受け入れて、連邦生徒会長は受け入れられなかった。だから袂を別った。これはそれだけの話だった。
「だから後は勝負だ。私と君、どちらがシナリオを完成させるか。どっちが早くこの世界に一泡を吹かせられるか」
「先生は完成させてからが本番でしょう?」
「それもそうか」
彼はそう言ってくすりと笑う。確かに自分のプランはそこからが地獄だ、と。既存のキヴォトスを否定するプランのため、どう足掻いても彼はキヴォトスの敵になる。実態ある神、色彩は彼を抹殺するだろう。それ以外にも真実を知った者は彼を殺そうとするはずだ。兎にも角にも、生存率が低すぎる。だが、生徒に肩入れすると決めた以上、押し通るだけだ。義務感ではない。責務ではない。責任でもない。生徒を愛した者として、生徒に救われた者として────彼女達を脅かす全てを排除してみせる。
その決意が分かってしまった連邦生徒会長は彼に預けていた背を離し、少し歩いて彼の前に立つ。顔は俯いたまま、表情は見えないように、或いは見ないように。先生は連邦生徒会長の傍に寄ろうとして……足が動かなくなった。果して、自分にそんな資格があるのか。彼女が悲しむと知っていながら選んだ自分なんかが、彼女に対して慰めの言葉を吐くなど許されるのか。
少し歩けば両手いっぱいに抱きしめられる距離、手を伸ばせば触れられる距離。1mにも満たない距離が、先生には何よりも遠く見えた。
「私だって、私だって分かってます。私のプランは楽観的が過ぎます。退けられない問題が訪れた瞬間、このプランは崩壊してしまいます。でも、それでも、先生を犠牲にするなんて嫌なんです。先生が居なくなるのは嫌なんです」
「……そっか」
「先生が苦しい思いをするのは嫌です。先生が痛い思いをするのは嫌です。先生と会えなくなるのはもっと嫌です……先生、今からでも『もう止める』って言ってくれませんか? そうしたら私も、生徒達も……」
「……私、は────」
先生は言葉を詰まらせる。どんな言葉も言ってはならないような気がした。何を言っても、何を言わなくても、彼女を傷つけるだけだと悟った。
皆と会えなくなる事は確かに悲しい。しかし、それを言った所で何も変わる事はない。先生は自身の選んだ道を進む。止める事はない。生徒の為に先生は進み続ける。気持ちは同じだね、と意味の無い慰めを増やすだけだ。その慰めすら傷つけるためのナイフになるかもしれないのに。
彼が何かを言う前に連邦生徒会長は顔を上げた。何かを言えなかった後悔を一つ、先生に残して。
「ごめんなさい、そんな事言っても困らせてしまうだけですよね。分かっています、先生は……誰かの為に頑張れる人ですから。だから、さっきの話は可愛い生徒のちょっとした悪戯だと思ってください」
そう言って笑った連邦生徒会長の笑顔は、今まで見てきたどんな表情よりも不格好で、痛々しくて、見ていられなかった。しかし、眼を背ける事は許されない。これこそが彼の罪だ。彼女を、生徒を泣かせるかもしれないと分かっていながら、それでも先生は自身の全てを捧げる事を選んだ。なら、その選択に付随する全ては彼のものであり、責任となる。大輪の花の様な笑顔が良く似合う連邦生徒会長に、あんな顔をさせた。その痛みを、その罪を、その悲しみを、その後悔を永遠に抱えながら────先生は歩き続ける。死ぬために。
でも、それでも、選んだ道を歩き続けるよ────と言うように彼はふわりと笑った。上手く笑えているだろうか、と思って連邦生徒会長を見ると、彼女の表情はより一層酷い、泣く寸前のものになっている。傷つけてばかりで、泣かせてばかりで。本当はこんな顔をさせたくないのにと思うのは……きっと許されない事。その感情を仕舞って彼は憂いを浮べた。
連邦生徒会長は下唇を噛んで、込み上げてくるものを必死に堪える。彼の前でそれは許されない。彼の前でだけは駄目だ。だって、彼はこの先苦しみ続ける。戦い続け、傷つき続け、自分の居場所にすら背を向けなければならくて、安堵も得られないまま、全ての時間を世界の破滅を防ぐために費やさなければならない。そうして最後は世界の害にならないように、自身と繋がる神秘と心中する。そんな暗闇を歩く彼が誰かを安心させるために笑ったなら────泣いてしまう訳にはいかなかった。
「先生……これを」
だから、涙の代わりに────夜を歩く貴方にほんの細やかな祈りを。
「……銃、だよね? 君の……」
「はい、私が使っていた銃です。種別はベレッタM9A3。他の生徒の方みたいにカスタマイズしていないので、可愛くなくてごめんなさい」
連邦生徒会長が彼に差し出したのはごく一般的なハンドガンだった。メインウェポンとして使っている人もサブアームとして使っている人も多い、癖が無く信頼性も高い自動拳銃。優美なデザインからオシャレ目的での需要もあり、どんな小さなガンショップやコンビニでも取り扱っている、ある意味キヴォトスの社会を代表するような銃だった。
生徒達が使用する銃はそれぞれ自分専用にカスタマイズしたり、デコレーションしているのだが、この銃はそういった装飾が一切無い。グリップ部にあるシャーレと連連邦生徒会のロゴのみが、この銃の持ち主……連邦生徒会長を表している。
「いや、それはいいんだけど……私は銃を使わないよ。誰かを傷つける事なんてしたくない」
己が半身である銃を差し出す行為、それが何を示すか分からないほど彼も鈍感ではない。文字通り、この銃は彼女だ。それを差し出す事はつまり、彼女の全てを彼に与えると謂う事。
だが、彼は銃を受け取れない。武器でなければ喜んで受け取っただろう。剣や刃物類、爆弾などでも、かなり渋るだろうが最終的には受け取ったはずだ。
だが、銃は、銃だけは。銃はキヴォトスの仕組みを象徴するものだ。生徒と生徒の争いに持ち出されるものだ。生徒にとって最も身近な、生徒を傷つける道具だ。そんなものを先生が持ってはいけない。生徒に差し伸べた手の反対に銃を持っていては、きっと安心して手を取ってくれないだろう。傷つけられることに怯えてしまう。だから持つ事は出来ない。せめて自分だけは銃を握らずにいたい。どんな時でも誰かに手を差し伸べられるように。
だから受け取れない。受け取るわけにはいかない。銃は先生を否定するものだ。だが、そんな彼の心中を見透かした連邦生徒会長は「分かっていますよ」と笑う。彼が銃に対してどんな感情を抱いているのかは知っているし、きっと受け取らないと謂う事も分かっていた。銃なんて所詮、誰かを害する道具だ。それには連邦生徒会長も同意見であるし、使わないで済むなら使わない方が余程良い。
しかし、使わなければならない場面があるのだ。特に、彼であれば。
「挫けず、曲がらず、折れず……けれど、心を損なわず。希望を持って、模索を忘れず、疑問を捨てず、自分を疑わず、誰かを信じて。そうして歩み続ける貴方にはきっと戦う事がついて回ります。貴方が嫌う争いは、歩き続ければ歩き続けるほど貴方の心を抉る悪辣なものになっていきます。ですが、そんなものに負けないでください。貴方の心を傷つける悪意の嵐に負けないでください」
歩けば歩くだけ傷つく。全てが彼の心を折るための悪辣な仕掛けになる。だが、そのような悪意に挫けないでほしかった。この祈りはきっと呪いだろう。どんな枷よりも重い呪縛だろう。でも、そう思わずにはいられなかった。どうか、どうか、その心のままに。その心を大切にして、その心を守って、信じた道を進んでほしい。
────貴方は星を目指せる人だから。
「話を聞くとき必ず手を止めて目を見てくれる貴方が好きです。傷に、痛みに、苦しみに、悲しみに、寂しさに寄り添ってくれる貴方が好きです。誰かの為に頑張っている貴方が好きです。私達を心の底から愛してくれている貴方を愛しています。だから、そんな貴方が欠ける事の無いように
連邦生徒会長は彼の手を取り、銃の上にそっと重ねる。ぴくり、と震えるが、その震えも一緒に連邦生徒会長は両手で包み込む。その震えを、誰かを傷つける事への恐れをどうか大事に。それを持ち続ける事ができるのであれば大丈夫。どんな戦いであっても、どんな争いであっても乗り越えられるはずだ。
「貴方はずっと戦う事を嫌っていた。誰かを傷つける力を『良くないもの』と定義して遠ざけていました。貴方らしいと言えば貴方らしいですし、確かに良い悪いで言えば悪いものになるかと思いますが……人は誰もが誰かを傷つける自由と責任を持っています。貴方は誰かを傷つける自由から眼を背け、誰かを傷つけた責任ばかり背負い続けていた。だから、貴方は誰よりも傷ついた。誰も傷つけたくなかったから、自分を傷つける事を選び続けた」
傷つける事を嫌っていたから、彼は連邦生徒会長が差し出した祈りと愛も受け取れなかった。傷つける自由を縛り続け、『自分は誰も傷つけてはならない』と雁字搦めにした。だが、その上で誰かが誰かを傷つけた責任を背負い続け、向けられる悪意を只管見つめ続けた。だから誰よりもボロボロになってしまった。それは優しくてお人好しで、戦いが似合わない彼らしい姿なのかもしれない。だが、その上で。
「それは、きっと間違いなのです。自由と責任は表裏一体。自由のない責任はなく、責任のない自由はありません。生徒が選んだ自由によって生まれた責任を先生が背負うのと同じように、誰かが先生の代わりに先生の自由を背負っています」
その上で、連邦生徒会長は間違いだと断じる。その在り方では悪戯に自分を傷つけるだけで、いつかは『誰も傷つけたくないから』と自分の息すら止めてしまう。
誰かを傷つける自由と責任。責任を背負う事、自由を受け入れる事。彼は責任を選び続けた。故に次は自由に目を向けるべきだ。即ち、己がエゴイズムで誰かを傷つける自由を。
「責任を負う者、自由を負う者。それが分かれる事もあるでしょう。ですが、それも永遠ではありません。自由も責任もいずれは自分自身に帰結します。だから、いつか先生には選択する時が来ます。逃げ続けた自由を選ばなければならない時が必ず訪れます。その選択が訪れる時はきっと、先生の真実を問われる時でしょう」
「私の、真実……」
「はい。その答えを見つけ、先生が『傷つける事』を選んだ時、先生にとって最も重要な戦いが始まります。所謂、『人生の解析』です。何のために歩いてきたのか。何のために立っているのか。対峙するのは自分自身、或いは『もしも』の自分自身。先生の人生に決着を付ける戦いです。その時に戦う手段がないのはきっと不便でしょうから、私の銃をあげます」
連邦生徒会長はまるで補助輪を外すように、そっと自身の銃から手を放す。ずしりとした重み。2人で持っていた銃の重さが1人に圧し掛かる。誰かを傷つける自由の重さ。彼が眼を背け続けてきたもの。それを彼は受け入れた。いつか、その選択をするために。
「誰かを傷つけるために、戦うために────生きるために、使ってください」
彼が生死の岐路に立たされた時、生きる道を切り開くために。
自分を愛せない彼が生きる事を選べるようにするための愛だった。
「ありがとう」
「私だと思って大事にしてくださいね?」
「勿論」
そう言って、いつもの温度で笑い合って。先生が大事そうに銃を仕舞った後────連邦生徒会長は永遠にも思える逡巡を重ねた。
誰かを傷つけるため、戦うため、生きるため。それに対を成す、この銃を贈ったもう一つの理由。
聡明な彼ならきっと分かっているだろう。その上で、彼はその理由を連邦生徒会長に話させるのは悪いと思い、一度話を区切った。その優しさは本当に嬉しかった。本音を言うと話したくなんてない。言いたくない。もし言ってしまって、それが現実になった時、圧し掛かる罪悪感にきっと耐えられない謂う確信があった。
でも、『言えばよかった』と、後悔したくなかった。
「もし……もしですよ? 絶対に無いと思いますが、もし、です。もし先生が辛くて、耐えられなくて、苦しくて、痛くて、悲しくて、逃げれなくて、止めれなくて、もうどうしようもないって思った時は……」
全ての希望が消え失せてしまった、その時は。
「いつでもそれで、心臓を撃ってください」
それでもいいんです。生きる事が辛いなら、息を止めてしまっても。大丈夫です、どんな貴方でも私は許しますから。
「貴方が何を選んでも、何を選ばなくても……私は貴方を愛しています」
「────」
先生は驚いたかのような表情を浮べてから、心底嬉しそうに笑った。だが、その表情はもう一度驚きに変わる。連邦生徒会長が彼の胸に飛び込んできたのだ。彼の白いコートが皺になるほど握り締めて、肩を震わせて、嗚咽を漏らして。
彼は震える背にそっと手を回す。両手で抱き締められる小さな背中。彼女はこの背に多くのものを背負ってきた。
「先生……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……! 私が、私がもっと……!」
「君の所為じゃない。君の所為じゃないんだよ、■■■。私の方こそごめんね、君を置いて行きたくなんてないのに。君と、ずっと────」
▼
「幾千、幾万、幾億の悪意が叫んでも、全てが貴方を否定しても、私が貴方を守ります」
「私の心は、いつも貴方の傍に」