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ヒナが風紀委員達を連れてアビドスを去っていくのを見送っていた先生は、彼女達の影が見えなくなってから初めて安堵から生まれる息を吐いた。
「……はぁ……っ」
深く、息を吐く。先ほどまで張り詰めていた緊張の糸が切れたみたいに体に力が入らなくなり肩を貸して貰っていたワカモに撓垂れ掛った。
「貴方様ッ」
「ごめん。情けない姿を、見せちゃったね……」
預けられた体重に愛しさと悲しみを覚えながら、ワカモは即座に先生の体勢を楽なものへと変えさせる。ずっと前から……それこそ、風紀委員と小競り合いをしていた時には既に限界を迎えていたのだ。絶えず襲い掛かる激痛と意識の暗転を理屈もクソもない単なる根性論で耐えつつ、他人との会話を成立させていた。凄まじい精神強度だろう。しかも、その拮抗をワカモやヒナ以外……彼を旧くから知る生徒以外に悟らせなかったのだ。
だが、何事にも限界はある。彼の心よりも先に、体の方が絶叫を上げた。元より、ヘイローも神秘も持たない脆弱な肉体だ。此処まで保っただけでも上出来だろう。
「先生、大丈夫?」
「体調に変化はありませんか? 頭痛や吐き気はありませんか?」
ワカモに肩を貸された先生のすぐ傍に集まる便利屋とアビドスの面々。皆、一様に同じ表情をしていた。彼への心配、不安。泣きそうな誰かの顔。それを見て彼はボロボロの体に喝を入れて────微笑んだ。
「あぁ、大丈夫だよ……少し、疲れただけさ……」
彼は「けほ」と弱々しい咳を1つしてから、皆に云う。だが、誰もがその言葉を信じなかった。死人の様な顔色で『大丈夫』と言われても何一つ安心できない。明らかな強がり、唯のやせ我慢。それは誰の目から見ても明らかだった。
ホシノは血濡れで笑う先生を見て、爪で皮膚を破らんばかりに拳を固く握り締めた。胸に抱くのは後悔と怒り、憎悪。その対象は彼をこんな目に遭わせた誰かと、遅れた己。何だか無性に嫌な予感がして、黒服との対談を途中で切り上げてまで走ってきたのに……それでも足りなかった。
彼女は他の皆と異なり、彼と共に戦う事すらできなかったのだ。来た時には全て終わっていて、残されたのは流血で彩られた彼だけ。
また、間に合わなかった。今回、先生は運良く生きていたが、次もそうだとは限らない。いや、死んでしまう可能性の方が高いだろう。だって、彼は自分達と違うのだから。弾丸1発だけでも死んでしまう。そうならない為に、盾を持っていたはずなのに。
────大事な人に危機が訪れるとき、私はいつも傍にいない。
「ごめん、先生……遅く、なって」
無論、昼寝をしていたのは嘘だ。ホシノは誰も知らない場所で、アビドスを悪意から守るために戦っていた。だが、それが言い訳に過ぎないというのは誰よりも彼女自身が強く分かっていた。アビドスが、彼が必死になって……自壊すら厭わず戦っていた時に、その場にいなかったのは……他ならぬ彼女だったから。
言葉にできない数多の感情がホシノの胸の中で渦巻く。俯いて、唇を噛み締めて、必死に後悔を堪える。こうすればよかった、なんて全て後の祭りだ。そんな意味のないifに救いなんてない。どうしようもない事、変えようがない事だけが現実だ。彼の傷は現実だった。
彼女が彼女自身に課す重責と後悔。それを感じ取った先生は血の味がする声帯を震わせる。此処で気合を入れなければ、何処で気合をいれるのだと自身を奮い立たせて。
「……ホシノは悪くないよ。だから、どうか謝らないで。君が君を責める必要はないんだ。あぁ、だからどうか────」
────笑って。
清廉さを感じさせるほどの笑みを浮べた先生は、ホシノが握り締めた拳にそっと自身の手を重ねる。彼女の手を覆う様に被せられた手袋越しの彼の手は血が足りないのか少し冷たかったが、それよりも……涙が出てしまいそうなほど、暖かかった。彼はそのまま、ホシノが固く結んでいる五指を解く様に自身の指を走らせて拳を開かせる。そんな事をする必要はないのだと、優しく諭すように。
ホシノの自罰を表す拳を解き終えた先生は、そのまま彼女の頭を優しく撫でる。自由に動く左手が汚れてなくて良かった、と彼は思いながら────深層で、己を嘲笑した。
────何が『笑って』だ。畢竟、自己満足に過ぎない。自分の都合を、願いを彼女に押し付けているだけ。あぁ、なんと傲慢なんだろう。あまりに、罪深い。
「アル達も、色々と厄介ごとに巻き込んでごめんね……」
「これ位、どうって事ないわ。未来の経営顧問の為だもの」
アルが自信満々に、自慢げに胸を張りながらそう云うのを見て先生は面食らったような顔をして────それから、微笑を浮べる。本当に、頼もしい限りだ。
────今回の戦闘で、取り返しのつかない傷を負った者は今のところいない。柴関は崩れてしまったが、大将は無事だ。大将の入院費と復興の資金は全額シャーレ負担にし、諸々の事も考えなければならない。
全て、数日後の己に課す宿題だ。
そんな事を考えている先生の傍にシロコが歩み寄り、垂れ下がった右腕を手に取った。
「ん、今は先生を病院に連れて行くのが優先。他の事は後回し」
「……あぁ、そっか」
シロコの言葉に彼は短く肯定した。
活動限界時間はもう過ぎた。体に莫大な負荷を掛ける薬物、そこまで効果が長持ちするわけではない。あとはいつ副反応が現れるか。それだけ、気を付けなければ。
「ん、先生は私が病院まで連れて行く。背負えば早い。任せて」
「いや~、そこはおじさんに任せてほしいな~?」
「私もやりますよ~☆」
「ま、まぁ、どうしてもって言うなら私が背負うわよ?」
「あ、あの……私でも……」
先生本人の与り知らぬ所で勃発した争い、ワカモはそれを完全に無視しながら彼の手当てを行っていた。傷が開き始めているのだ。赤く染まる包帯を解き、新品へと交換するが……血は止まらない。何処にも向けられない焦りと苛立ちを覚えながら、彼女は応急処置を行った。
「あぁ……」
抜けていく血。輸血パックで補った分が無に帰りつつあった。それを、先生は正しく認識する。
先ほど撃ち込んだ劇薬の副作用が現れ始めたのだ。もう長くない事を確認した彼は、弱々しく声を上げて。
「あー、悪いけど、今日は此処で解散にしよう。病院に関しては大丈夫。風紀委員の子達が救急医学部を呼んでくれたみたいだから、さ。それを使わせてもらうよ」
折角の善意を受け取れない事に申し訳なさを感じつつ、彼は提案する。恐らく、救急医学部はあと5分も経たずに到着するだろう。そして、車両に乗っているのは氷室セナ。彼女ならば大丈夫なはずだ。
そう口にする彼に、ワカモ以外の生徒達は顔を見合わせて少し考えてから。
「そうですか……確かに、その方が先生に掛かる負荷は少ないですね。私は賛成です」
全員を代表して、アヤネが彼の提案に乗ることを示してくれた。こんな状態の彼をおんぶという不安定な体勢で運ぶのは悪手と考えたのだろう。専門設備が揃っている車両を使えるのならばそれに越したことはない。
彼は皆の同意に安堵したような表情を浮かべて。
「じゃあ────」
「ですが!」
先生の言葉を遮るように、アヤネは力強い口調で告げる。
「先生の引き渡しをするまでは此処にいます」
決して曲げられない意志を感じさせるアヤネの言葉。後ろを見れば、全員が同じ意志を持っていることが感じられた。無茶に無茶を重ねた彼を間近で見ていた彼女達だ。きっと、心配なのだろう。引き渡しが終わった後も病院まで走ってついてきそうな勢いがあった。それ自体は彼としても嬉しい。
だが、余計な心配は掛けたくないのだ。皆で危機を乗り越え、致命的な戦闘も回避できてめでたしめでたし────そんな終わりに泥を塗りたくはない。
「皆、疲れているだろう? 私は大丈夫だよ。それに、ワカモが居てくれるからね」
「いや~、どの口で言うのさ。さっき倒れかけたの、おじさん達は見逃してないからね~?」
「あぁ……全く、手厳しい……なぁ……」
霞む意識の中、先生は困ったような声音で呟く。
────そこで、限界が訪れた。
「ゴホッ、ゴホッ……ぇ、ぁ……」
掠れたような音。まるで喘息の発作のような咳の音だった。ぞくり、と背筋が震えるような嫌な音。それを聞いて、ワカモは血相を変える。彼女は彼が負担なく吐き出せるように楽な体勢へと移そうとするが────それよりも早く、彼が倒れた。
「ァ、が……ァ……」
呼吸が上手くできないのか、苦しそうに胸を手を当てながら地面に蹲る彼を見て全員の背筋が凍り付いた。自分の首を絞めようする動作、胸を掻き毟る動作、頭を抱えて荒い呼吸を繰り替えす。酸素が回っていない。極限状態だ。
「貴方様ッ!」
「ゲホッ……ゲホッ……あ、ぁ……ガハッ」
湿っぽい咳に変わったかと思えば、彼の口から血が吐き出される。本日何度目かの吐血。だが、その量も症状も比べ物にならない程重い。赤黒い血に交じって体の中の一部だったはずの肉片や破れた肺胞、ゲル状の血が外気に晒された。
そして、口だけではない。演算での負荷も現れたのか、目からも流血が始まった。唯でさえ霞んでいた視界が赤く染まり、更に視認性が低下する。吐血に比べると量自体は少ないが、それでも無視できる損傷ではない。
その他薬物で誤魔化していた傷口が次々と開き、辺りを血に染めた。先ほど輸血パックを使用していなければこの時点で間違いなく失血死していただろう。それ程までに血を流した。
「ハァ……ハァ……ゲホッ、ゴホッ」
「せ、先生ッ! 大丈────」
「近寄らないでくださいッ! 邪魔ですッ!」
ワカモはそう言い放ち、開いた傷口の処置をしながら副反応の対処を行っていく。鎮静剤を首筋に注入し、持ち込んだ点滴を打つ。その間に輸血パックを再度展開し、抜けた分の血液を補充させる。
手慣れている動き。彼とワカモの間に割り込む余地なんて、ホシノにはなかった。彼女は彼によって解かれた拳を再び握り締める。
────彼女は、あまりにも無力だ。何も出来る事がない。彼を苦しみから助けることも、痛みを和らげることも……出来る事なんて、何一つなかった。
青褪めた顔で血と肉を吐き出す先生を見るホシノ。足元には彼が先ほど打ち込んだ薬物の残骸……注射器が転がっており、カランとガラスの音を立てた。震える指先で拾い上げてラベルを見ると、そこにはびっしりと化学物質が綴られており────その下には効能と持続時間、副作用が記されている。
────あの時、黒服の誘いを無視して先生と共にいればこんな事にならなかったのではないか。いや、あの話は重要だった。少なくとも、無視するという選択肢は取れそうにない。じゃあ、どうすれば良かったのか。どうすれば、彼が傷を負わずに済んだのか。
いや、そうではない。もう済んでしまった話だ。過去は変えられない。目の前で起きている事は現実だ。変えられるのは未来だけ。でも、どうやって変えればいいのか。ホシノには優れた医療の知識はない。彼の元に行ってもワカモのように応急処置を行えず、邪魔と罵られて終わるだろう。
外敵を排除するための銃。後ろにいる後輩を守る盾。何がキヴォトス最高の神秘だ、笑わせる。銃を持っていても彼と共に戦えなかった。そんなものでは何一つ守れなかった。傷つく彼の助けにすらなれなかった。邪魔にならない場所で、ただ事の成り行きを見守る事しかできない。彼の痛み止めにすらなれない。
────小さなこの手が、この体が恨めしくてたまらない。悔しくて、悲しくて、情けなくて。不安でたまらなくて小さな嗚咽と涙が零れ落ちる。彼を失いたくない、そう思っているはずなのに体は震えて動かない。まるで、先輩のときの焼き直しのように。
万が一、彼が死んでしまったら。そう思うだけで怖くて仕方がなかった。
分かっていた気でいた。彼の苦しみも、彼の痛みも。彼が抱えている、沢山の重荷も。でも、実際は何一つ解っちゃいなかった。
優しくて、暖かくて、陽だまりのような人。何故、貴方ばっかり苦しむのだろうか。貴方ばかり傷つくのだろうか。
──────真昼の太陽の下、ホシノは己の無力を噛み締めた。