シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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(きみ)を離さない

 全面ガラス張りのエントランス。床の材質は大理石。人影一つない無人のロビーを素通りして、ホシノはエレベーターホールに足を踏み入れた。ボタンに手を翳すと、1階に駐留していた機体のドアが開いた。まるで怪物の口。トンネルを異界の入り口と見做した人の気持ちが分かる気がする。

 

 息を1つ吐いて、ホシノはエレベーターに乗り込む。そして最上階のフロアを指定すると、僅かな振動すら無く上昇を開始した。ガラスになっている背面から見えるキヴォトスの朝焼けは酷く美しい。暁に呑まれる地平線、生命の息吹たる光に照らされる世界。あぁ、自分がこんな風になっても世界は変わらないんだね────と思って、自嘲する。

 

 そうだ。世界は残酷なほど変わらない。誰が死んでも、誰が生きても陽は昇るし夜は来る。ユメ先輩が居なくなった後も、それは変わらなかった。だから、ホシノが居なくなっても……きっと、今日も明日も、世界はちゃんと廻っていく。

 

 それが────今はちょっとだけ嬉しかった。

 

 

 ▼

 

 

「くくっ……お待ちしておりましたよ、ホシノさん」

「……」

 

 フロアが丸々1つの部屋として使われている場所、そこにポツンと置いてあるデスクからは男の声が聞こえた。黒いスーツを纏う異形のヒトガタ────ゲマトリアが一角、黒服。

 彼はいつも通り、デスクに両肘を突きながらホシノを見ていた。亀裂の入ったフェイス、発光箇所のような右目。後頭部から立ち昇る黒い靄のような何か。相変わらず、不気味だった。

 

「どうやら、契約についてご一考を頂けた様子で……えぇ、嬉しいですよ、ホシノさん」

 

 このフロアに入ってから一回も口を開いていないのにも関わらずホシノの内心を見透かしたような言葉を口にする黒服に、彼女は苛立ちを隠そうともせずに舌打ちをした。だが、そんな事では黒服の余裕は崩せず、伽藍洞の瞳を細めながら愉快そうに喉を鳴らしている。

 

「貴女が何を理由にこの選択をしたのか気になる所ですが……義務感でしょうか? 後悔でしょうか? それとも────」

「御託はいい。早く契約書を出して。私の気が変わる前に」

「クックックッ……そう慌てずとも」

 

 何がそんなに楽しいのか、とホシノは笑い声を漏らす黒服に嫌悪の視線を向ける。だが、その視線を意にも介さず、黒服はゆったりとした所作でデスクの引き出しを開けて……バインダーを1つ取り出した。

 

「どうやら貴女は大きな後悔を抱えているようですね。彼に関して」

「……だったら、何」

「えぇ、貴女の後悔は無用です。彼もきっと望んでいないでしょう」

「ッ! お前に何が────」

「では、貴女に何が分かるのですか?」

 

 沸騰しそうだった脳が、冷水を浴びせられたみたいに一瞬で冷えた。目の前には、空っぽの瞳を向ける異形。キヴォトスに存在しなかったはずの者。

 

「勿論、私も彼について多くを知りません。何度もコンタクトを試みていますが、全て袖にされていますからね。ですが、それは貴女も同じでしょう。ホシノさんは、彼について何を知っているのですか?」

「……ッ」

 

 その問いに、ホシノは即答できなかった。何を知っている? 彼の本質を、彼の心を。どんなに大切に思っていても、所詮は他人同士。多くの時間を重ねたわけではない。それなのに、何が分かるんだ? 

 

神の知識(ザフキエル)に関しては私の不手際でした。我々のメンバーが細工をしていた事に気付かなかった私の無能を責める権利を、彼は保有しています。勿論、彼だけではありません。あの場にいた全ての方々もです。ですが、ホシノさんはあの場にいなかった」

 

 内心でずっと思っていた事だった。ずっと責め続けてきた事だった。大事な時に居なかった役立たずと、何度この身を呪った事か。

 その呪いを、ホシノの癒えない傷口を切開される────それだけで、吐きそうだった。泣きそうだった。過呼吸になって、目の焦点が合わなくなって。

 

「遠い世界の話には関われません。何処かで誰かに不幸があっても、貴女はそれに対して心を痛めてはいけないのです。意味のない感傷は貴女の世界を否定する事に繋がります」

 

 お前は部外者なのだと、お前には関係ない話だと突き付けられる。感傷では救えない。涙で人の傷は癒えない。悲しみで死は覆らない。そんな後悔を抱くなら最初から事を起こしておくべきだった。その場にいなかったなら、そんな感情を抱くことすら許されない。

 

 とても、当たり前の話。口にするまでもない世の摂理だ。関係のない人間、反対をしない人間はそれだけであらゆる不幸を肯定しているのだから。

 

「────と、無駄話が過ぎましたね。では、此方が契約書です。良く内容を吟味した上で、サインをお願いします」

 

 その言葉を聞いて、ホシノは滲む視界とふらつく足取りでデスクまで向かう。黒服から差し出された紙とペンを受け取り、紙面に視線を送る。

 

 何度も勧誘はされたが、基本は突っ撥ねるばかりで、こうして契約内容の詳細を知るのは今回が初めてだった。紙面に綴られていた文言は彼が口にしていた内容と相違はなく、紙というインターフェースに合わせた角ばった、一読しただけでは理解しにくい文面になっているだけ。

 

「……生徒としての全権利を譲渡、ね」

「えぇ。ホシノさんが保有している肉体、精神、神秘……その全てを私に譲渡していただきます」

「つまり、奴隷って事ね」

「その認識で相違ありません。この書面にサインをした瞬間、ホシノさんの全ては私のモノになります」

「ふーん……」

 

 ホシノは一瞥すらせず、紙面に視線を走らせる。

 

「私は契約を決して偽りません。例え、守る価値の無い口約束であろうとも、一度結んだ契約は決して反故にしません。そして、契約内容に関して偽装も隠蔽もしません。疑問には真摯に答えます」

「……そう。律儀なんだね」

 

 酷く平坦な声で答えたホシノは、既に紙面に綴られた契約内容を読み終えていた。

 聞かされていた内容と相違はない。ホシノに関する全てを引き渡す代わりに、アビドスが背負う借金の9割を黒服が負担する。その金額は約9億。

 こんな未熟な女の肉にそこまでの金額が付けられた事が不思議でならなかった。戦闘能力を買われたのか。神秘に目を付けたのか。それとも、子どもでも孕ませるつもりだろうか。

 

 もしこれらの理由だとしたら……いや、どんな理由でも己にそんな価値は無い。黒服の目は節穴だ。だが、高く買ってくれるのならばそれに越した事はない。クーリングオフなんて受け付けないから、精々高い買い物だったと後悔してくれればいいだろう。

 

 ホシノは手渡されたペンを握る。この先、己の意志は無い。碌な未来は訪れないだろう。文字通りの奴隷だ。自由も安息もなく、唯命令に従うだけの機構に成り下がる。殺し殺され、その果てで凄惨な死体になるだろう。

 

 でも、それでも────。

 

「……最終確認だ。これにサインをすれば────」

「えぇ。記載されている金額分、私がアビドスの借金を負担しましょう」

 

 ホシノの昏く沈んだ瞳と、黒服の目が交錯する。

 

 そして、その果てで。

 

「……分かった。その契約を結ぶよ」

 

 ホシノは、己の全てを差し出した。己の全てを対価に、アビドスを守ろう。彼女達の先を守ろう。

 

 深呼吸を数度して、ペンを今一度握り締める。訪れる先が怖くて指先が震えるが、それを何とか抑え込んで己の名前を綴っていく。

 

 あと、5文字。

 

 この選択を最期に、小鳥遊ホシノという昼行灯で、怠け者で……でも、誰よりもアビドスを愛し、後輩を愛した少女は消える。

 

 あと、4文字。

 

 これでアビドスは守られる。これ以上後輩が苦しまなくて済む。借金はまだ残っているが、かなり楽になるだろう。今までバイトに充てていた時間を他の事に使えるようになる。

 

 あと、3文字。

 

 色々と心配なことはある。でも、きっと大丈夫だ。世界は残酷でも、そこに住まう人の善性はまだ信じていられる。

 

 あと、2文字。

 

 思い浮かぶのはアビドスの仲間達。ノノミ、シロコ、セリカ、アヤネ。こんな先輩に付いて来てくれたことに感謝しかない。確かに駆け抜けた日々は苦しかったけど、やらない方が良かったなんて一度も思わなかった。辛すぎて笑っていた、楽しくて泣いていた日々────その全てに、終止符を。

 

 あと、1文字。

 

 最期に思い浮かんだのは先生だった。大嫌いだったはずの、信頼できる不思議な人。暖かくて、優しくて、魅力に溢れた大人。彼と関われた時間は決して長くないけど、それでも正しく夢の様な日々だった。その日々の続き、自分が居ない事に思う所はあるが……後悔はしない。これこそが、小鳥遊ホシノの最大の成果だ。

 

 これで、終わり────。

 

「────そこまでだ」

 

 声が、響いた。暁を切り裂く真昼の太陽。夜明けを告げる静かな足音。あまねく悲劇を、涙を浄化する意志。

 

 (だれか)が望み、焦がれた────救世主。

 

「やぁ、ホシノ」

「せ、先生……な、何で……」

 

 振り返ったホシノの心は『何故』の一念が埋め尽くしていた。何も言っていないはずだ。誰も知らないはずだ。それなのに、彼は此処にいる。白の連邦生徒会の制服に、白のロングコート、青い腕章。普段と変わらない彼だった。

 

「何でって……あぁ、そうだね」

 

 彼はホシノの疑問に答えるため、フロアの中央まで乱れなく進む。まるで散歩に向かうような軽い足取りで彼女の隣に立つと……空が晴れるような笑顔と声音で。

 

「まだ、一緒に水族館に行ってないだろう?」

 

 ────たった、それだけの理由。一緒にブラックマーケットに足を運んだあの日に結んだ口約束。精々『楽しそうだから行きたいな』程度にしか思っていなくて、今彼が口にするまで忘れていた言葉。それを大切に覚えてくれていた。

 

 ────それが、何よりも嬉しくて。

 

 そんなホシノを、先生は本当に優しい眼差しで眺めていたが……黒服に瞳を移動させた次の瞬間、陽だまりの様な視線が切り替わった。

 

 冷たい、と呼ぶことすら烏滸がましい瞳。絶対零度に等しい、熱というものを一切感じない悍ましい温度。常人なら声帯が凍てつく視線が黒服を射貫く。しかし、黒服は一層笑みを深くするばかりだった。

 

「さて……初めまして、と言った方がいいのかな────黒服」

「ククッ……今更言葉など────私と貴方の仲でしょう、先生」

 

 初対面の宿敵が、会合した。

 

 

 ▼

 

 

「とは言っても、何度もコンタクトを試みているので、初めましてではありませんね」

「あぁ、そうだね。熱烈なラブコールありがとう、しつこい男は嫌われるよ?」

「えぇ、品が無い真似という事は認めています。ですが、私は貴方にどうしても会いたかったのですよ。まるで運命の男(オム・ファタール)だ。勿論、私達にとってだけではなく、生徒にとってもですが」

「人を誑かしみたいに云うのは止めてほしいな」

 

 心底楽しそうな黒服とは対照的に、先生の口調は淡々としていた。だが、それは興味がないから自然とそうなっている訳ではない。その内に秘めた激情が大きすぎて逆に冷静になっているだけだ。

 

「さて……貴方はこの契約を破棄しに来た、という事ですか?」

「まだ結んでもない契約を破棄だなんて、巫山戯たことを囀るね。でも、概ね正解だよ。私はホシノを連れ戻しに来た」

「それはそれは……なんとも、正しい大人らしい理由で」

「当然だ。私はこの子の先生で、この子は私の大事な生徒。この子の未来を、心を、希望を守ることが、大人の責任だ」

 

 先生が『先生』たる理由を聞いた黒服は僅かに目を細めた。

 

「大人の責任……成程、それが貴方のスタンスですか。えぇ、理解しました。その考えが、私達と異なることも。ですが、それを理由に貴方をどうこうするつもりはありません。先生……私達は共に歩めます。我々は同胞に成り得る存在です」

「同胞、か……」

「えぇ、同胞です。勿論、種としての同胞ではありません。貴方は既に他の全ての命と異なります。この世界を隈なく探しても、貴方の孤独を癒す者は、貴方が同じ生き物として安堵を抱く誰かは存在しないでしょう」

 

 チェアから立ち上がった黒服は勿体ぶった動作で両手を広げた。狂気に狂喜する、黒の狂気。それを、先生は面倒そうな視線で見つめる。

 

「ですが、同じ方向を向いていれば同胞と言えるでしょう。貴方の能力、素質、才能、努力、性格、信条、理念、運命……あぁ、素晴らしい。想像以上、予想以上です。その素晴らしさに、崇高に納得はできます。ですが……理解ができない」

「────」

「貴方は崇高の器だ。救世主だ。悉くをその手で救える神の子だ。全てを抱擁する黄昏だ。世界をその手にする資格がある覇者の王冠だ。それなのに、貴方は何故先生などという役割を背負っているのですか。キヴォトスに来られた日、サンクトゥムタワーの全権限を手に入れた時もそうです。貴方はこの都市を統べる絶対者として君臨する事が出来たはずです。いえ、貴方は今でも指先一つでキヴォトスを手中に収められる。それだけの、あらゆる力を持っている」

 

 それだけの力。世界を意のままにするだけの何か。それを、持っているのに。

 

「何故……貴方はそうしない?」

 

 心底理解不能だと、黒服は目の前の純白を見つめた。

 

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