シャーレ活動備忘録   作:遊園市街

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或る記憶

 

「──────ぇ」

 

 その知らせにミレニアムサイエンススクールのセミナー書記、生塩ノアは吐息とも悲鳴とも取れる声を漏らした。トレードマークのペンとメモ帳を地面に落として、震える足で数歩後ずさって……それから、糸が切れたように力無く地面に座り込んだ。

 

「ノ、ノア!? 大丈夫!?」

 

 いつも揶揄っている可愛い自慢の親友の声、それが酷く遠い世界のように思えた。呼吸が上手くできない。酸素を取り込めない。視界が滲む。これは涙だ。体の震えが止まらない。寒い。寒い? 分からない。でも、震えている。

 

 彼が傷ついた。彼が血を流した。痛みを訴えた。あの、陽だまりのような彼が。戦いなんて全く似合わない彼が。なんで? 

 知っている、誰かのために。日常の陽だまりの彼が戦うのは生徒の為だ。その善意に、優しさに何度も救われた。差し伸べてくれた手に光を見た。

 

 そして、その善意と優しさと光に磔にされる彼も。

 

「落ち着いて、ノア! 大丈夫だから……ッ!」

 

 倒れ込みそうなノアを支えるユウカ。彼女を安心させる為の言葉を発するユウカも何が『大丈夫』なのかは全く分からなかったが、それでも口にしなければならなかった。青褪めた顔で震える彼女はまるで親を失った幼子のようで……酷く、痛ましかった。それは直視できないほどに。

 

「嫌……嫌……先生……嫌、です……」

 

 半狂乱。正気ではない。泣きながら譫言のように「先生」と「嫌」を繰り返している。その様子を見てただ事ではないと悟ったコユキも慌てて何かを探しに飛び出した。

 

 そう────ノアは記憶を持っていた。或る記憶を。無数にある並行世界、横並びの歴史……その一つ。先生と笑い合い、絆を深めた大切な思い出。だが、それと同じくらい痛くて、受け入れられなくて、悲しい思い出。

 

 世界を救ったお話。

 帰らぬ人となった救世主。

 滅びに打ち勝ち、生徒を守り抜いた先生。

 

 そうだ、あの光景を生塩ノアは生涯忘れることはないだろう。

 

 ────違う、私が上手くやれていないだけだ……! 出し渋るなッ! 霊の一片まで振り絞れッ! この期に及んでまだ帰りたいだなんて甘えた事を考えるな……! 

 

 光の中、己を鼓舞する言葉と共に立ち上がる彼を。帰りたい、まだ生きたい、怖い、死にたくない。そんな当たり前の感情を怒号と共に薙ぎ払って。

 

 ────もう、充分過ぎるくらいだ。あと少しを、私は沢山貰った。だから……! 

 

 だから、貴方が死ぬんですか? 私達の為にその身を捧げるんですか? 

 

 ……いいや、口にしたいのはそんな言葉じゃない。彼の行いを問いただすような疑問じゃない。思ったのは、心が叫んだのはもっとシンプルな感情。

 

「……行かないで」

 

 貴方は心臓を抉り出した。

 

 

 ▼

 

 

 先生の声が静謐を切り裂いた数秒後、コツコツとヒールがリノリウムを叩く音が聞こえた。

 真夜中の月光に照らされる白を基調とした姿。流麗な白髪と、特徴的なヘッドギア。まるでアメジストのような瞳。その姿を認めた先生は、もう一度彼女の名前を呼んだ。大切な、彼女の名前を。

 

「────ノア」

「はい……貴方のノアです」

 

 鈴の名を転がしたような、だが癒えぬ傷と痛みを抱えた声。彼女は緩く微笑みながら、その瞳は眼前の彼を捉えて離さない。

 

 ────そう。彼女は徹頭徹尾、先生を見ていた。自身と同じように月光に照らされる青年を。浮世離れした、まるで蜃気楼のように霞んでしまう彼を。少し伸びた彼の髪、代謝、生きている証拠。2人の呼吸音だけが世界にあるかのような感覚はノアに甘い痺れを齎した。

 

「ごめんなさい、不法侵入のような真似をしてしまって……」

「気にしないで。それに、ここはシャーレ、凡ゆる生徒に門を開く場所。だから、良いんだよ」

「私が、貴方の生徒だから」

「あぁ、その通り」

 

 言って、彼は微笑んだ。その微笑みは誰もが安心感を覚えてしまうものであったが……ノアはその笑顔があまり好きではなかった。彼に『安心感』という重荷を背負わせてしまっているようで。

 様々な感情でぐちゃぐちゃになったノアの内心を露知らず、先生はいつもの調子で背中を向けて。

 

「さあ、座って。お茶を出すよ。誰もいない時間に来たんだ。何か聞きたいこと、聞いてほしいことがあるんだろう? 私でよければ幾らでも付き合うからさ」

 

 先生は手を引いてノアをソファに座らせ、落ち着いた色の明かりをローテーブルに灯し、彼はキッチンの方に消えていく。その背中をノアは見つめていた。

 

 ────記憶と一切違わない姿だった。声だった。そうだ、彼はああいう風に名前を呼んでくれた。大切なものにそっと触れるような優しい声音で。抱きしめてくれるときも、頭を撫でてくれるときもそうだった。一挙一動に溢れんばかりの愛と暖かさが込められている。

 

 その後ろ姿を見ながら、彼女は思い返す。

 先生を犠牲にして救われた世界。

 そこで生きた────ある少女の手記。

 

 

 ▼

 

 

 7/31

 

 去年の今頃、皆で海に行きましたよね。覚えていますか、先生。いえ、きっと覚えているでしょう。貴方は私達との思い出を何より大切にしていましたから。あの夏、私は沢山の思い出を貰いました。今思い返すだけでも口元が綻ぶような、優しい記憶。そして、貴方の横顔。波打ち際を歩く貴方の足は砂に塗れていました。

 貴方にとって、あのお出かけは最後の思い出作りだったんですか。

 

 

 8/1

 

 貴方の居ない夏が来る。

 

 

 8/10

 

 祭囃子が聞こえてきました。百鬼夜行の夏祭りでしょうか。一度でいいから、貴方と行ってみたかったです。我儘ですよね、ごめんなさい。

 

 

 8/15

 

 貴方の微笑みはまるで線香花火だった。貴方の笑顔はまるで早咲きの向日葵だった。

 儚くて、愛おしくて。胸が締め付けられてしまいそう。

 私だけが止まったままなんです。あの時から、私の時間は動いてくれない。貴方の終わりが焼き付いたまま離れない。皆、喪失感に折り合いをつけて進んでいるのに私だけが前に進めない。

 貴方の居ない先が怖くて仕方がない。貴方が過去になる事が怖い。貴方を忘れるのが、どうしようもないほど怖いんです。

 

 

 8/22

 

 久し振りにシャーレに訪れました。あの時から変わらないままのオフィス。コルクボードの写真の色とりどりの笑顔は貴方が作って、守ったものなんですよ。

 オフィスのカレンダーは去年のクリスマスイブで止まったまま。あの時からこの場所は動いていない。私と一緒です。先生の持ち物は何もかもそのまま。貴方の居た温度が冷却されている。貴方の残滓を搔き集めて私は夜を超える。

 

 

 9/30

 

 少し前、貴方の持ち物を皆で分け合ったんです。皆、泣いていました。もう先生が何処にもいない事を改めて突き付けられたような気分で。先生が気に掛けていたアリウススクワッドの秤アツコさん、その場で崩れ落ちていましたよ。貴方に送ったはずの花を抱えながら。

 ユウカちゃんはペンを、私は本を頂きました。ユウカちゃん、ずっと使っているんです。貴方の形見を。

 

 

 10/6

 

 最近寒くなってきましたね。先生もそろそろ衣替えを始める時期でしょうか。

 先生、一つ謝罪をさせて下さい。ユウカちゃんに『最近ノアが目を合わせてくれない。嫌われているのかな』と相談しましたよね。偶然聞いてしまいました。

 違うんです。嫌っているわけではないのです。ただ、癒えない傷を負ってしまった貴方を見るのが怖いんです。優しく頭を撫でてくれた貴方の右腕がない現実を直視できないんです。

 ごめんなさい。ごめんなさい。真っ直ぐ貴方を見れなくて、ごめんなさい。

 

 ……なんて。去年の同日の日記です。貴方はこの時から人生の終わりを悟っていたような顔をしていましたね。終わりへ近づく貴方に、私は何も言えなかった。

 

 

 10/21

 

 先生の読みかけの本を全て読み終えてしまいました。ですが、貴方が挟んだ栞はそのままです。私が送った栞、大切に使ってくださって嬉しいです。貴方によく似合う一輪草。追憶の華。でも、私は貴方を思い出にしたくないです。

 

 

 11/9

 

 夢の中で先生に会った。先生は海を見ていた。全ての命の母たる海を。あの人にも母はいるのだろうか。思えば、先生ではない『彼』の話を私は全く知らない。先生になる前の彼がキヴォトスの外でどの様な生活を送っていたのか、私達は知らない。聞いても貴方は「どんな人だったのだろうね」と悼むように微笑んでいたから。これ以上は聞けなかった。彼の思い出に土足で踏み込む様な真似だと思ったから。

 私達は彼の多くを知らない。知る事を許されていない。

 

 

 11/22

 

 一人で夜を超える貴方の横顔が寂しそうで、その孤独に寄り添いたかったのです。だって、一人で進むには、その道はあまりにも寒いでしょう。でも、私はできなかった。貴方の背に手を伸ばしても、届かなかった。

 貴方の苦しみや痛みを私に分けてほしかった。今すぐにでも代わってあげたかった。私は貴方にそんな顔をしてほしくない。いつまでも笑っていて欲しいんです。貴方にはあの陽だまりのような笑顔が良く似合うから。

 私は貴方の何かになれましたか。貴方の痛みを和らげる何かになれましたか。もしそうであれば、それに勝る幸福はありません。

 

 

 12/23

 

 貴方は何も教えてくれない。貴方はずっと透明なままで、消えてしまいそう。消えないで、消えないで。私は貴方に居てほしい。でも、時間の流れはいつだって残酷なんですね。私も漸く、現実を受け入れる決意をしました。遅すぎますか? でも、貴方はきっと優しく頭を撫でてくれると思うんです。これは私の我儘な思い込みですか? 

 

 

 12/24

 

 先生が死んだ。私は貴方が居ない事を、漸く受け入れる事が出来ました。もう会えないんですね。遠くに行ってしまったんですね。私達は此処に残るんですね。貴方が守った世界で、日常を歩むんですね。果ての無い終わり有る旅を行かなければならないんですよね。いつか貴方に胸を張って会えるように。

 そうなんですよね、先生。

 

 

 ▼

 

 

 陶器が僅かに音を鳴らす。静かなシャーレに響くその音色はまるで朝の訪れ。C&Cとティーパーティー仕込みの何処に出しても恥ずかしくない優雅な所作で紅茶を淹れながら、先生はノアの方を流し目で見る。

 彼女は綺麗な姿勢でソファに座っていた。まるで一枚の絵のよう。

 

 彼がソーサーとティーカップ、ティーポットを持ちながらソファの方へ向かうと、彼女は長いまつ毛に彩られた宝石を開眼した。吸い込まれそうな蠱惑的な色。

 

「ありがとうございます、先生」

「いえいえ」

 

 カップにノンカフェインの紅茶を注ぎノアの前に置くと、彼女は流麗にカップを口元に運んだ。色素の薄い唇が軽いリップ音を鳴す。彼もノアの隣に座り、極めて穏やかな口調で言葉を紡いでいく。

 

「こうして、ノアと落ち着いて話すのは初めてだね」

「……えぇ、そうですね。初めてお会いした時は色々と大変でしたから……お体の方は……?」

「大丈夫だよ。心配させて────」

 

 とん、と先生の体を軽い衝撃が襲った。次いで、ソファのクッションが背中に触れた。空気の流れに乗る、頭が痺れるような甘い香り。はらり、と頬に掛かる白髪。押し倒された、と理解するのに時間は掛からなかった。

 

「ノア……?」

 

 先生が困惑の色を浮べても、ノアは動かなかった。彼女の表情はよく見えない。青褪めた月明かり、その逆光。

 彼女の手は彼の手首を握っている。まるで縋るように、祈るように。彼女の手は震えていた。

 

「嘘、ですよね」

「……何が」

「────大丈夫という言葉です」

 

 その言葉に、先生は否定も肯定も返さなかった。先ほどまで浮べていた困惑は苦笑いに変質している。申し訳なさそうな笑み。悪戯がばれたような、と呼称するには質が悪過ぎる。何せ、この程度の衝撃でさえ傷が開いてしまっているのだから。

 

 ノアはじっと彼を見つめる。感情の読み取れない瞳。手を通して伝わる彼の脈拍。吐息。生きている証拠。それが泣きそうなくらい嬉しくて、彼女は彼の心臓へ耳を当てた。

 

 とくん、とくん、と命の鼓動。暖かい。血が通っている。細やかな、だが何者にも汚せない今を生きる人間の祈り。見知った見知らぬ先生の存在証明。

 

 ────そうだ。彼は先生だが、ノアを知る先生ではない。だからあの時……ビナー戦後に会った時、「初めまして」と言った。それで割り切るつもりだった。割り切れるはずだった。あの記憶は己の中に留めて、色褪せないように大切に仕舞うと誓っていた。

 

 先生に『先生』の影を重ねたくはなかった。だって、それは彼にとって重荷になってしまうから。

 

 でも。

 

「ノア」

 

 この声音で、温度で名前を呼ばれてしまえば、そんな抵抗は無意味だった。全てを優しく溶かし、赦すような表情で微笑まれて冷静でいられるわけがない。一挙一動、その全てが彼だった。ノアが間違えるはずがない。彼は、在りし日の彼だ。

 

 ────貴方の胸の中で泣けるのならば、それはどれだけ幸せな事なのだろう。陽だまりのような温かさと花の香りに包まれながらずっと隠していた大切な思い出を共有する。楽しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、怒ったこと。胸に残る輝く思い出たちを、先生に救われた生徒として話したかった。

 普通の人に『前世か何かの記憶がある』と言っても鼻で笑われるだけだろうが、彼はきっと驚いた顔をしながらも信じてくれるだろう。誰かを疑う事が致命的に下手で、信じる事が上手だったから。

 

 でも、それは我慢。沢山の荷物を背負う彼に、これ以上何かを背負わせたくないから。この世界でも先生は沢山のものを背負っている。信頼だったり、愛だったり。或いは、他の何かだったり。そんな中に、己の思い出まで加えたくない。

 

 ノアは彼から距離を取る。掴んでいた手首を放し、近づけていた顔を離す。それから彼女は深々と頭を下げて。

 

「……急に乱暴しちゃってごめんなさい」

「いや、いいんだ。ノアが正しいよ。私は嘘を吐いたんだから」

「そうですね。嘘は良くないですよ、先生。先生が無茶をすればユウカちゃんも……私も、悲しみますから」

「2人にそんなに思われているなら、先生冥利に尽きるよ。うん、なら無茶はほどほどにしないと」

「そこは嘘でもしないと言い切って欲しかったですよ?」

「嘘は良くないって、ノアに言われたばかりだからね」

 

 先生がそう言うと、ノアは鈴を転がしたような声音で笑った。彼女はそのままカップの紅茶で口を潤し、立ち上がる。

 

「夜分遅くに押しかけてごめんなさい。私はこれで失礼しますね」

「? 何か用事があったんじゃなかったのかい?」

「えぇ、ありましたよ」

 

 ノアは先生の耳元に口を寄せて甘い声で囁いた。

 

「先生に会う……とっても、大事な用事が」

「……私も、ノアに会えて嬉しかったよ」

「ふふっ、先生のそういう所、私はとても好きですよ」

 

 ノアは先生から離れ、「では」と言い残しシャーレを後にしようとしたが……その手を先生が掴んだ。

 

「こんな夜遅くにノアを1人で帰らせるわけには行かないさ。居住区に泊まっていきなよ」

「ですが……」

 

 ノアは時計を見る。時刻はすでに1時を過ぎていた。確かに真夜中だ。この状況で彼が引き下がる訳がないと良く知っている彼女は嬉しそうな溜息を吐いて。

 

「では、先生の好意に甘えさせていただきますね」

「うん、部屋は────」

「ですが」

 

 するりと彼の手をすり抜ける。くるりと回って彼を見る。舞う髪の毛がまるでレースの様であった。

 

「先生も一緒に、ですよ。お部屋は休憩室を使いましょう」

「……えっと」

「数日、碌にお休みできていませんよね?」

 

 有無を言わせない圧力を前に、先生は黙って首を縦に振るしかない。コユキがノアを『怖い』と言う気持ちが若干分かった彼であった。

 

「善は急げ、ですよね。先生?」

 

 花が咲いたようなノアの笑顔を前に、先生は苦笑い混じりの笑みを浮かべて……彼女の華奢な手に引かれて行った。

 

 

 ノアは思う────今度こそは、貴方と共に生きていたい。誰かのために死ぬ貴方を、見殺しになんてしない。だから、行かないで……もうこれ以上、何処にだって。貴方がいない遠くを見つめながら、私の知らない彼方になんて歩き去ってしまわないで。私が、私達が大切なのは、他でもない貴方なのだから。

 

 これは、生塩ノアの筆跡。彼の多くを知る彼女の詩。

 響いて届け、我が心。貴方の救いになりたいから。

 

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