何もかも失った少女が幻想郷で夢幻の幸せを見つける話 [完結] 作:抹茶だった
……怠い。
でも起きなきゃ。魔理沙様の研究を手伝……。
「ひ……」
指を食われ皮膚を剥がされ腕を千切られた――惨事を思い出した。
呼吸が荒くなり、鼓動と耳鳴りしか聞こえなくなる。
考えるだけで鮮明に痛みが蘇る。目に焼きついた光景が消えてくれない。
「ゔぅ……おぇぇぇ」
喉から吐き気が迫り上がってきた。咄嗟に口を押さえた手に胃液がつく。
――手?
恐る恐る見ると、右手があった。汚れてるけど、それ以外は何の問題もない右手が。
ここは、魔理沙様の家? 私はベッドで寝かされてたの?
窓から見える空は青く、赤い霧はどこにもない。
……あれは夢? 夢見心地最悪なんてもんじゃない。左手を指先からバリバリ食べられる苦痛も、むせ返りそうな鉄の匂いも、幼気な見た目の悪魔も何もかもリアルだった。
「――なんか痛いな」
左手が痛む。痛みをきっかけに指先から順番に、骨ごと食べられたのが頭によぎる。
痛みの発生源に視線を向けると、袖口がぺったんこだった。既視感がある。
服の上から触ると、見た目通り布の感触しかしない。肩から肘までは体が続いてる。それ以降は布。
――左手が無い。あれは夢じゃない。中身のない袖口を右手で握ると、痛みが消えた。
何が起きているの。
右手があったときは心底ホッとした。夢だと思えたから。
でも左手はないからあの夢は現実だったことになるし、喪失感で押し潰されそう。
むしろ、なんで右手があるの? 両手ともあるか両手ともないかのどっちかしかありえないんじゃないの?
心臓がドクドクと忙しく動く音が聞こえる。不安なのか恐怖なのか或いは困惑か、感情の整理がつかない。
……まずは生きていることを喜ぶべきか?
これからは生と魔理沙様に感謝を捧げることで、一日を始めよう。
「そういえば魔理沙様は……?」
全身に魔力を纏わせて浮き、ベッドから降りる。
「魔理沙様のコレクションが減ってる?」
缶やビン、巻物とか色々あったはずだけど……減ってるな。
掃除したのかな。机にもスペースができてる。
「――書き置きあるじゃん」
『異変を解決してくる!
いま外は危ないから、私が戻るまで家から出るなよ!』
異変解決? 外は危険?
あれは、夢じゃない?
あの金髪の悪魔に襲われた?
「痛――ッ」
無いはずの左手が灼けるように痛い。左手が痛いはずなのに、袖はただゆらゆら揺れるだけ、触っても空をきる。だけど、痛みが左手の存在を訴えてくる。
「幻肢痛って言うのよ。良くある話だから気にする必要はないわよ」
背後から知らない声がする。
振り返ると金髪の女性がいた。
「きんぱつ……」
魔力が乱れてバランスが崩れ、床に落ちる。
うそ、うそ嘘嘘嘘嘘――
「私の顔を見てそんなに取り乱さないでほしいわ。傷つくじゃない」
「殺さないで殺さないで殺さないで殺さないで」
立ちあがろうにも片足がない。机を支えにしようにも片腕がない。
逃げなきゃはやくたってたてないすべるいやだみのがしてやめて
「せっかく体を綺麗にしてベッドに寝かせてあげたのに、汗と涙でまたべちゃべちゃになっちゃて。藍も報われないわね。――仕方ないわ」
ぱちん――と乾いた音が鳴った。
――目の前にいる女性は、昨日の妖怪とは違う?
あら? 気持ちがなんか急に切り替わったんだけど。というかこの人だれ?
「落ち着いたようね。うまくいってよかったわね?」
うまくいった? また情報が増えた。
魔理沙様の知り合いかな。泥棒ではない気がする。
「誰、ですか?」
「あら、人に名前を聞くときは自分から名乗るものよ」
「……アイです」
「アイちゃんね。私は八雲紫。どうぞお見知りおきを」
魔理沙様は変な知り合いが多いな。
「何しにきたんですか?」
「お友達の家に理由もなく訪ねることを、咎めないでほしいわ」
この人めんどくさいな。
「そんなに睨まないで。貴女とは仲良くしたいの。でなきゃ血塗れで倒れているところをベッドに運んだりしないわ」
さっきの取り消し。この人が治療してくれたのか。
「八雲さん、治療ありがとうございます」
八雲さんは微笑んだ。
「アイちゃん、貴女は外から来た人なのよね。元の世界に戻りたいとは思わないの?」
「思わない。記憶がないから未練もないし」
記憶のことなんか建前で、本当は魔理沙様に恩返しをしたいだけ。その後も役に立ちたい、尽くしたい。
「どうやら、この幻想郷を楽しんでくれているようね。幻想郷の管理者として鼻が高いですわ」
八雲さんは扇子を開き、口元を隠した。
「ただ、貴女は幻想郷の美しさ故の残酷さを知ってしまった――管理者として償いをさせていただこうかしら」
八雲さんは私のベッドに腰掛け、隣に座るよう促してきた。
なんだか緊張するな。
「貴女が失った記憶を思い出させてあげるわ」
八雲さんは私の側頭部に手をあて、集中し始めた。
その直後、記憶に違和感が生じる。
錆びついた、重たい扉がこじ開けられるような感覚だ。
これが開くと、私は記憶が戻る――不思議とそれが解る。
記憶が戻ればなんで幻想郷に来たのかもわかるのかな。異世界転移といえばトラックみたいなとこあるよね。
事故のこと思い出したら、右脚が痛くなったりしないよね?
この痛みがもう一箇所増えるのは嫌だな。
……うーん。
せっかくの厚意だけど。
「記憶のことはいいですっ」
八雲さんから慌てて離れると、怪訝な顔を向けられた。
「本当にそれでいいの? 私はきまぐれだから、これを拒めばもう2度と記憶を思い出せないかもしれないわ」
さっきまでの笑みが嘘のように、八雲さんは能面の様な顔で言葉を紡ぎ出した。
「暖かな家庭や大切な友達、何にも変え難い恋人……何もかも忘れて彼ら彼女らに行方を心配させたまま、ずっとこの幻想郷で貴女は暮らし続けるの? 貴女にも事情があるでしょうから記憶が戻り次第去れとは言わないわ。でも思い出すくらいはしてもいいんじゃないかしら。心配してくれるような間柄の人間がいるから元の世界に戻る、特にいないならこっちに残り続けるという判断なら私も尊重してあげましょう。だけど、そんな妙な勘で私の善意を無碍にするのはどうかと思うわ。さぁ――」
有無を言わせぬ力でベッドに押し倒された。
「考え直して? 穏便に済ませたいでしょう?」
あんな風に捲し立てられたら、記憶を思い出さないと八雲さんに何か不都合なことがあるってバカでもわかる。あと私には何も良いことがないっていうのも感じる。
でも
「離れてください……」
怖い。
この人は、私の精神状態を一瞬で変えた。
息継ぎもせずにあれだけ話したのに、呼吸が何一つ乱れていない。
窓もドアも開いてないのに、なぜか急に部屋に現れた。
不気味すぎる。得体が知れない。底が見えない。
「離れてほしいの? 分かりましたわ」
あんなに言ってきたのに、意外にもあっさりと八雲さんは私から数歩離れ、口を開く。
「今日はいいわ。記憶を取り戻したくなったらまた呼ぶといいわ」
彼女は笑顔を浮かべ――突然床にできた裂け目へと吸い込まれていった。
「えっ」
私の声が室内に響く。気配があっという間に消えた。
床の中に消えた? これも魔法なの?
「なんだったの。……疲れた」
なぜかどうしようもなく怠い。
体が鉛のように重い。動きたくない。
八雲さんがいなくなった途端暗い気持ちが胸を支配してる。
自分一人では何もできない無力が憎い。
足が一本無いことが不安でたまらない。歩けない不便や、魔理沙様に借りたズボンを引き摺ることへの負い目、姿見に映るシルエットの歪さが心にのしかかる。
そっか、左腕もなくしたか。じゃあこれからは2倍辛いんだ。
いや腕の役割はもっと多いから2倍じゃきかない。
ボタンを掛けるのも食事をするのも体を洗うのも本を捲るのも何をとっても不自由になる。
記憶もない。人のものも壊した。そもそも自分が人間かどうかすら分からない。
命の恩人に未だに何も返さず厄介になり続け、満足に留守番もできない。
腕も足も記憶も知能も足りない私が、魔理沙様に迷惑をかけている。
「……死にたい」
死ぬのはダメ。せめて恩返ししないと。
でもこんなにも足りない私がどうやって魔理沙様の役に立つの。
やっぱり死ぬ?
魔理沙様に死ぬなって言われているのを破るの?
でも役にもたてないやつが生きててもしょうがないよね。
約束も破れないやつに成り下がるつもり?
「う、うぅ……」
無能な自分が恨めしい。
烏滸がましくも涙が出る。
情けない。記憶をなくした分だけ精神年齢まで後退したのか。
自分のことをいくら詰っても、どれだけ目元を拭っても、視界は濁ったまま変わらない。
「痛っ」
涙が染みて右手が痛む。
見てみると、棘が手に刺さっていた。ここに染みたんだ。
ズボンをたくし上げ、棘を太ももに刺す。抜く。太ももに刺す。抜く。
繰り返すたびに小さな痛みが走る。
これは自分への罰。
恩返しができないなら、最初から罰を受けることで償えばよかったんだ。
――こんな小さな痛みじゃ償いに何万年もかかるな。
魔理沙様のコレクション――というかガラクタ置き場に、割れたガラス片があった。
捨てるなとは言われてたけど、使っていいとも言われてたっけ。
ガラス片を太ももに当て、横に滑らせる。
皮膚が裂けるのと同時に痺れるような痛みがきた。血の珠が浮かび、太ももを赤く濡らしていく。
痛いけど、不思議と耐えられる。これが罰だと思うと、体が傷つくほど、許されるような錯覚さえする。
布団が汚れないようにタオルを敷いて。
切る。
切る。
切る。
切る。
タオルが赤くなってきた。
あんまりやるとタオル一枚じゃ足りなくなっちゃう。あんまり何枚も汚すのは流石に気が引ける。
「タオル洗おう……」
タオルを敷くのはあまり良くないかも。
汚れがなかなかとれない。血って落ちないんだね。
かなり擦らないといけない。タオルの寿命が減ってしまって勿体無い。
「今度からは工夫しないとだね……」
なんか気持ちが落ち着いてきた。いや、出血して貧血になったのかな。
頭がふわふわする。
「あ、これやば」
ゆっくりと座り込み――そのまま私は床へ倒
〇 〇 〇
「うん、本当に旨いな!」
「お粗末さまです」
この人は私の料理を、とてと美味しそうに食べてくれる。
感謝されるからまた作りたくなる。
「料理うまいし、脚も良いし、勉強まで教えてくれる――俺にとってあまりに都合が良すぎる! ありがてぇよ!」
「いいの。うちに帰るよりこっちに来た方が楽しいから」
「でもなぁ、俺としては彼女を独り占めできるのは嬉しいが――友達作らないのか? 誰かと雑談してるの見たことないぞ」
「友達とか、あんまり興味ない――というか本読む時間減るの嫌だから、いらない。じゃ、皿洗うね」
「至れり尽せりだな……俺もしかして駄目人間になっちまうんじゃ」
「だめになっちゃえー!」
「やめろーっ!」
何気ない会話が可笑しくて、本当に楽しくて。人生で一番ってくらい楽しくて。
これを続けるためなら、私はどれだけでも彼に尽くせる。
〇 〇 〇
「――アイ! 返事してくれ! 大丈夫か!」
「まり、さ……?」
背中が痛い。……床で寝てたのか。
「意識あったか、生きてて良かったぜ……」
視界が鮮明になっていく。魔理沙様の声を聞くと、とても安心する。
他の人は私を怖がらせてくるから。
命を救ってくれた彼女は、私を痛めつけたりしないから。
「寝起きのとこ悪いが、何があったんだ?」
目の前には魔理沙様がいる。魔法使いみたいな帽子を被った、白と黒の衣装に――『金髪』の少女が。
「顔色が悪いな。ベッドに連れてってやるよ」
魔理沙様が更に体を寄せてきた瞬間、心臓が高鳴る。額や背中から汗が吹き出す。涙がボロボロと溢れる。
魔理沙様は命の恩人なのに。
あの悪魔と姿が重なる。
喪いはずの左腕と、傷のない右腕に、激痛がよみがえる。
心を砕く痛みに、思わず私は
「――近づかないでッッ!!!!」
叫んでいた。