夜桜というのは、別世界のように美しい。
街灯に当たり照らされる桃色の花弁は、紫色、白色に色を変え、暗い夜の街を彩っている。
そのひとつひとつはまるで、この世界に生きている人間のようだ。
しかし、私は違う。私には街灯に照らされる資格はなかった。
私は、街灯の当たらない夜桜。誰にも知られず静かに散っていく。
それが「私」。与咲 桜の人生だ。
光なんてない。希望なんてない。
いっそ、死ねば楽になるのかな。
そう考え、何度も自殺しようとした。だけど、左手首に増える傷の数が増えれば増えるほどあの痛みが鮮明に思い出され、新しく作る傷を浅くする。
まったく、吐き気がする。
この世界にも、決断を曖昧にする自分にも。
私は、この世界の街灯に当てられることなく死んでいく。
そう、思っていた。
「……っ!」
カッターで自分の左手首に線を描く。直後、赤黒い液体が指先を通り滴り落ちていく。
このまま目を瞑れば――。
「……い、たい」
その考えは、目の前の恐怖にかき消された。
死に近づくにつれ強くなっていく痛み、体の中にある暖かいものが外に流れて失われていく感覚。
その全てが、怖かった。
「……」
結局、自由になることは叶わなかった。
いつものパターンだ。また失敗した自分に嫌気がさし、逃げるようにベットに沈み込む。
何も変わっていない。人はそう簡単には変わらない。それは他人も同じだ。
明日になればまた、あの日々が始まる。地獄のような日々が。
(もう、嫌だ……)
そう思いながらも、抗えない眠気に身を任せ、意識を手放した。
「やったー!今年も同じクラス!!」
「やっべ……仲良い人一人もいないじゃん……」
「今年もあの先生かよー……」
学校の正門前に大きな紙が貼り出されており、人はそれを見て一喜一憂している。
新学期の始まり、クラス発表だ。
「……」
私は自分のクラスを確認して、すぐさまその場から去った。
私にはクラスなんて関係ない。何処に行っても変わらないから。そこには私を蔑む人がいて、私を馬鹿にして笑う。それだけだ。
変化なんて望んでも、何も変わらない。
「光」を無くして惰性で生きている私にはそれがお似合いなんだろう。
私は指定されている端の席に座り、ぼんやりと外を眺めた。
外には終わりかけの桜が咲いており、風が吹くと空気と共に花弁が空を舞う。
周りの人はこれを見て「綺麗」だとか「儚い」と思うのかもしれない。しかし、私はそれを見て、「嫌悪感」しか抱かなかった。
私がこんなザマになったのもちょうどこの時期だったから。
「時間だぞ〜。全員席につけー」
クラスの担任がそう呼びかけると、さっきまで後ろで輪を作って話していた人達や、机に座って話していた男子は一斉に自分の席へとついた。
「今日からこのクラスの担任をさせてもらいます。坂井です。よろしくお願いします。」
「えー、早速ですがこのクラスに転校生が来ています。」
その言葉を聞いた途端、クラス中がざわめき始めた。
「え〜、どんな子なんだろ〜!?」
「女かな?」
「女がいいよな、わかる」
そんな言葉が教室内で交差する。
でも、私には正直どうでもよかった。人が増えても私の生活が変わるわけでもない。ただ私をよく思わない人が一人増えるか増えないかくらいだ。そんなの、今の私にはもうどうでもいい。
「じゃあ、入ってきて。」
担任の声と共に、教室の前のドアが開かれる。そこから現れたのは、
――まるで、天使だった。――
「今日からこの学校に転校してきました。一ノ瀬 葵です。よろしくお願いします。」
髪は短く、背丈もかなりある。ズボンを履いているので男らしい。顔は凛々しく、俳優やモデルとくらべても何ら遜色のない顔だった。
世間では彼のような人の事を、「美男子」というのだろうか。
だけど、私はあまり気に留めていなかった。
外見はいいが、人の真髄はそこじゃない。聖人の皮を被った悪魔はいくらでもいる。これまでそんな人を嫌ほど見てきた。彼もそのうちの1人だろう。
そんなことを考えながら彼を見ていると、ふと、目が合った。
「……!」
彼は私を見て、静かに微笑んだ。
口元を緩ませて、目を細くした彼の笑った顔は、私に「よろしく」と言っているようだった。しかし、そんなことはどうでもよかった。
(…………懐かしい……?)
初めて会ったはずなのに、私はこの笑い方を頭のどこかで覚えているような気がした。
いや、そんなはずない。私の周りにこんな人はいなかった。一ノ瀬なんて名前の人、私は初めて見たし、そもそもこんな私を覚えているはずがない。
なのに、なぜ懐かしいと感じるんだ?
私はその疑問の答えを自分の頭に問うが、その答えは返ってこなかった。
さっきまで騒がしかったクラスが、一種にして静まり返る。
周りを見ると、クラス全員の視線が私に向けられていた。
(まずい……!)
私は慌てて視線を逸らし、窓のほうを向いた。
クラスでいじめられている私と目を合わせて、あの人も私みたいになったら大変だ。
受けるなら私1人でいい。
こんなことに他人を巻き込むな。
私は風と共に飛んでいく桃色の花弁を睨みながらそう思った。
新学期に入って10日が経過した。一ノ瀬くんは、すっかりクラスの人気者になっているようで、いつも会話の中心にいる。
クールで優しい性格が、人を惹きつけているのだろう。
しかし、それをよく思わない人もいる。
私はいつものようにクラスに入り、席に座ろうとした。しかし、
(またこれか……)
机に大きな落書きがされていることに気づいた。黒い油性マーカーでぐちゃぐちゃに書かれていてほとんどは読めないが、ひとつだけ読める字があった。
(死ね……か)
「ぷっ、あはは」
後ろで聞き覚えのある笑い声が聞こえた。振り向くとそこには岩崎 真奈美が立っていた。
「あれ〜?どうしたの桜ちゃん〜?」
「……」
「もしかして〜、その机のこと〜?」
ああ、いつものが始まった。
「いいでしょそれ、かわいくしてあげたの!」
「……」
私は無言で下を向き、椅子に座った。
慣れているからなのか、何も感じない。最初の頃は悲しかったりしたはずだけど、今はもう何も思わない。
真奈美は中学から一緒の子で、どうやら私のことが嫌いらしい。"こういうこと"はもう長いこと続いており、最近は自分がクラスの中心にいないのが気に食わないのか、前よりも激しさを増している。
私は特に考えることもせず、周りを見た。ほとんど人は、私と目が合うと慌てて視線を逸らす。
みんな、自分を守ることで精一杯なんだ。
自分が標的にされないように、狙われないようにと必死で他人に手を差し伸べる暇なんてない。
一ノ瀬 葵も、例外ではなかった。私を見て笑いかけてくれた彼はあの後、私を見ても特に気にする素振りを見せなくなった。
私はそれを見て、少しだけ悲しくなったらしい。
彼なら私を助けてくれる。そう心のどこかで思っていたのだろう。そんな虫のいい話があるわけがないのに。
期待すればするほど裏切られた時の傷は大きくなる。そうわかっているのに、私は何を期待していたんだ。
こんな奴に手を差し伸べる奴なんてそうそういない。いたとしても今度はその人が狙われる。だから私はこのままでいい。ずっとこのままで。
気づけば今日の授業は終わっており、放課後の時間へと突入していた。私は自分の鞄を手にして帰ろうとすると、
「つっかまーえた!!」
と言いながら両腕を縛られた。声の主はおそらく岩崎の取り巻きである葛西だろう。
葛西が特別力があるわけでないが、痩せていて性別も違う私に成す術はなかった。
「一名様ご案内〜!!」
葛西は私の腕を乱暴に引っ張りながら、人通りの少ない4階のトイレへと連れ去った。そこには、見るからに不機嫌な真奈美が立っていた。
「ねえ、あんた最近調子乗ってんの?」
この状況で何を言っても火に油だ。私はそう判断し、沈黙を貫くことを決めた。
「……」
「私のことを無視してただで済むと思ってるわけ?」
私は無言で真奈美を見つめる。
「その目だよその目!何か言いたいならはっきり言えよ!!」
「……」
変わらず真奈美を見つめ続ける。彼女は少し怖気付いているようだった。
「っ!……てめぇ!!」
真奈美は足元に置いてあったバケツを私に向けてひっくり返した。中には水が大量に入っていたらしく、私は頭から足の先までずぶ濡れになった。
「ははっ!いい気味!!」
真奈美とその取り巻きたちが私を見て笑う。
どうやら満足したのか、真奈美は私に背を向け立ち去ろうとした。
「学校に来てまでこんなのされるなら、生きてる価値ないかもね〜♪」
去り際にそう言い残し、真奈美たちはトイレから去った。
ぽた、ぽたと水が落ちる音だけが聞こえる。虚しく響き渡る音に、私は孤独を感じていた。
ふと、横にある鏡を見る。そこには目に輝きがない、まるで人形のような顔が映っていた。
これが、私の顔。
生きる希望を無くし、かと言ってこの地獄から抜け出せない哀れな人形。
さっきの言葉が頭の中で反響する。
「生きる……価値……」
私は知らない間に屋上へ上がっており、誰もいないところで小さくそう呟いた。
隅に座り込み、私はポケットからカッターを取り出した。
(お願い……私をここから出して……)
そう願い、私はカッターの刃を自分の皮膚に当て、勢いよく切り裂いた。
夕暮れの空に、赤黒い液体が溶けていく。手首からはドクドクと液体が漏れ出ている。
痛い。痛い。でも私にはもうどうしようもない。
いつもは怖がって浅くしか切れないけど、今日は深く入った。
体が冷えているからか、冷たくなっていく感覚がない。
やっと、死ねる――。
私は安らかに目を閉じ、その時が来るのをじっくりと待った。
少しずつ眠気が襲ってくる。
私はようやく、この世界から解放されるんだ。
どうしようもないくらい不平等で、汚いこの世界から。
(やっ……た……)
痛いという感覚も、次第に薄れてきた。
意識が朦朧としてきて、私は考えることすらままならなくなっていく。
さようなら。理不尽な世界。
私は最後にそう告げて、意識を手放した。
はずだった。
「何してるの」
その声で私の意識は引き戻され、ほぼ感じなくなっていた痛みがまた姿を表す。
瞼を開けて上を見上げた先には、一ノ瀬 葵が立っていた。
濃い青の髪を風で靡かせている姿は、この世とのものとは思えないくらいに美しかった。
彼は私のことをしばらく見つめて、
「手、触るよ」
と言って一ノ瀬は私の前にしゃがみ込み、ポケットから取り出したハンカチで私の腕の傷を押さえた。
ハンカチはあっという間に赤く染まり、それを見て彼はハンカチをきつく縛り、私の腕に巻き付けた。
はぁ、と大きな息を吐き、彼は言った。
「何があってもこんなことしちゃダメだよ」
その言葉を聞いた瞬間、私ははらわたが煮えくり返る感覚に包まれた。
こいつに何が分かる。
誰にも助けてもらえず、ただ死ぬのを待つだけ惨めな人の気持ちが。
全ての人から目を背けられ、いないもの扱いされる気持ちが。
人以下に扱われ、痛みで服従させられる気持ちが。
人気者で優しいオマエは、さぞ人生が楽しいんだろうな。
なんでこんな差があるんだ。同じ人間なのに。
くそ。くそ。くそ。
「人気者のあなたに何が分かる!?私の辛さなんてひとつも知らないくせに!!」
私は彼の手を振り解き、自分でも驚くぐらいの大声でそう叫んだ。
しかし彼は私の声に驚くこともなく、ただ静かに私を見つめていた。
「……そうだね。俺には君の辛さを知らないし、それは君も同じだ」
「だけど、」
「その傷を癒したりすることは、俺にもできる」
そう言われると同時に、私の視界はシャツの白色に包まれた。
...暖かい。私より体温が高くて、私より背の高い体で、私は抱きしめられていた。
「離し....っ」
私は葵の体を引き剥がそうと腕に力を入れるが、葵の抱きしめる力はまるで私を守るようにして力を入れた。
「大丈夫、大丈夫」
葵が私の背中をぽんぽんと叩く。彼の腕の中で私の抵抗する力はどんどんと弱まっていった。
人に抱きしめられるのは久しぶりかもしれない。なんだろう、この懐かしさは。不思議な感覚だ。
私の古い記憶の中で、何かが呼び起こされようとしていた。
「でも、自殺だけは絶対にダメ」
葵はそう言って私から手を離し、そっと頭を撫でてから、
「一人の時間、邪魔してごめんね」
とだけ言い残し、屋上から去っていった。
...なんだったんだろう。あの人は。
そう考えながら屋上でぼんやり考えていると、ぽた、ぽたと雫が下に落ちる音が聞こえた。
空は晴れているのに、なぜ水が?
その疑問の答えはすぐに分かった。
「泣いてる....」
私は涙を流していた。
悲しくなんかない、何かに怯えてるわけでもないのに。
訳もわからず、ぽつぽつと。
私はこの感情の表現の仕方が分からず、ただ静かに泣く事しかできなかった。