序幕
午前零時に差し掛りつつある満月が天頂で輝いている。
おそらくは明日も同じように輝き続けるだろうが、照らされる世界が同じであるとは限らない。
終わりの時はすぐにそこまで近づいており、この暗い川面にも似た虚無が着々と足元で拡がりつつあるのがわかる。
4年近く、境界線上を漂ってきたこの国家がついに裁きを迎えようという日に、おまえはいったい何をしているのだ?
悲嘆もなければ諦念もなく、ただ内なる反応にしたがって黙々と動き続けるお前は何者だ?
急き立てられるように考えかけた途端、呂名哲郎は倉庫群の前で歩を止めた。
この倉庫の広さは長距離トラックが4台分入るほどの広さだと思えばよい。倉庫内には、トラックのなかの荷物を運ぶフォークリフトが何台かあるだけであるだけで、ほかはなにも無い
今、中型の中型トラックがやってきて、停まった。分乗する部下たちが堰を切ったように動き出し、次々と運転席から飛び出していくや、それぞれ3人ずつの小集団に分かれて、2人はトラックの後部ドアへ、1人はフォークリフトへととびついていく。
薄汚れたシャツに作業服を着た者。
頭にタオルを巻いて、ニッカズボンを履いた者……。
一見、港湾労働者の集団としか見えないが、その目の運び、足の運びには独特の匂いがあり、全体でひとつの空気を醸し出してしまっている。呂名は彼らに次いで荷台から降り立った長瀬を見た。見てくれは労務士になりきった部下に伴われ、ひとりだけ場違いな、詰襟服がおぼつかない足取りで歩いてくる。その背後には、トラックのそばから動こうとしない別の人影があり、呂名はしばしそちらに吸い寄せられた。
合わせた視線を動かさず、人影はにやと唇の端を吊り上げて見せた。中村という名前といい、軍服でもない場違いなワイシャツ姿といい、その男には部下たち以上に目を引くところがない。
人ごみに放ったら、10秒で見分けがつかなくなる風来があがらなさは、彼のような仕事をする者には最大の武器だっただろう。今はもう装う必要もないと割り切っているのか、傲慢までに異質な光を宿らせる目と目を合わせた呂名は、無意識に腰の装具に手をかけた。胴締めに入れられたそれがかたっと音を立て、風音に微かな波紋を投げかけた。
そんな不穏な視線のやりとりに気づく素振りもなく、汗染みでよれよれになった長瀬の詰襟服が外灯の倉庫入口に暗い影を落とす。昨日まで国民の期待と尊敬を集めてきた詰襟服が亡霊のごとく萎れ、明日からは亡霊のごとく生きてきた中村の天下がやってくる。
なるほど、世界が終わるのはこういうことか。
自分は確かに潮の変わり目に立っているらしいと思い、半ば亡霊になりかけた我が身も顧みた呂名は、「中型のトラックが5……6台か」と間近に発した部下の声に顔をあげた。傍らに立ち、「よくも集めたものだ」と続けた部下の視線は、岸壁に沿って並ぶ船舶に注がれる。長瀬は略帽の下の目をぎろと動かし、「あれは重いんだ」と独りごちるように呟いていた。
「無理に乗せたら、底が抜けてしまう。これでも積載量いっぱいなんだそうだ」
虜囚も同然の身であっても、素性のわからぬ者にへりくだるつもりはないという声。こちらを見ず、部下に対してだけ言った長瀬は、ひとり素性が明らかな服装の呂名にちらと横目を流し、どう接したものかと惑う表情を浮かべた。
重たい"あれ〟を、どうやって、誰の命令でここに運び込んだ?
反射的に聞こうとして、呂名は口を閉じた。
あらかた推測はついていることであるし、まずは現物をあらためねばという思いが先に立ったからだが、それだけではない。岸壁に停車した2台のトラックを認めたのか、背後に並び立つ建物からひとりの男が飛び出してくるのが見えたからだった。
門衛の報告を受けて、確かめに来たのだろう。部下の目を見交わしたのもつかの間、呂名は無言で前に進み出て、相手に自分の姿が見えやすいようにした。
長瀬と同じ若草色の詰襟服に、アルマイト製の隊長章、袖章、胴締に帯びたスライド式拳銃。今次の制服は、襟章が大きくなっているから、一尉の階級は遠目にも確認出来よう。密行を常とする職務にある身が、今日に限って軍服を着用してきたのは、こういう時のためだった。
案の定、こちらに近付きかけていた男は途中で足を止め、前かがみになってじっと目を凝らしたかと思うと、バネ仕掛けの人形さながらの挙手敬礼をしてみせた。
答礼しつつ、呂名は軽く首を横に振り、来るなという一念を目に込めた。
来るな。
来れば後悔する。
これから何が行われるか、兵員用の糧食を扱う食料棟に勤務していれば察しがつくだろう。この2、3日の間に、すでに同様の行為がここでも行われているはずだ。明日、世界が消滅するかもしれないという時に、人がやることは限られている。おとなしく引き返して、貴様も明日からの変動に備えろ――。
男が近眼でなかったのは幸いだった。20メートルほどの距離を置いて、相対した一尉は、少し怯えた様子であとずさり、なにも言わずに踵を返した。彼の行く手には4階建ての事務棟があり、他にも2、3人の男が窓から顔を出す姿があったが、一尉が追い返されたのを見ると三々五々奥に引っ込んでいっていった。
最上階から不審げな視線を注いでいた司令付の将校。
2階の窓から野次馬根性丸出しの顔で覗いていた下士官。
明日以降、貴重な証言者となる彼らの顔を網膜に焼きつけ、目撃者<イ>、目撃者<ロ>と名前を振り割ってから、呂名は最寄りの船舶に足を向けた。
部下に促されて歩き出した長瀬とともに、倉庫の中に入る。発泡スチロールに入れた大型魚をにのせ、港まで運び、保管するはずの倉庫は、今は別の用途に使われている。これは、それ以外の何者でもない鋼鉄の棺桶であり、倉庫の空間の大部分はぬののほろで占められている。今、その倉庫にかけられたほろが取り払われた。
目の前には、ひと抱えもある直方体の木箱がぎっしりと詰め込まれ、わずかな隙間に降り立った部下たちが検分に取りかかる姿がある。木箱の表面に『榴弾』の文字を読み取った呂名は、段々に詰まれた木箱にそって歩いた。
外灯がかけられているにも関わらず、倉庫内は泥臭く、気のせいか薄暗い感じがした。ちょうど木箱のひとつが2人がかりで、蓋にバールを差し挟まれたところで、呂名は一瞬、間違いであってはくれまいかと祈る思いに駆られながら、蓋がこじ開けられるのを待った。
すでに時の猶予はない。
これで見当違いであったなら、本物を探し出す間もなく世界は終わる。自分に課せられた責務は果たせなくなるが、同時に生涯にわたって背負わねばならない呪縛からは解放される。
間違いであってくれれば。
この木箱の中にあるものが、表示通りの弾薬であってくれたら……
蓋の外れる乾いた音が、無為な思考を終わりにした。小さく息を呑んだ部下の気配を感じ取った呂名は、微かな失望を抱いて箱の中を覗き込んだ。
初めて目にした時と同様、それ自体が発光していると思える金色の光沢が目に張りつき、周囲がしんと静まり返る感覚があった。
世に金色の装飾品のはいくらでもあるが、これは違う。
光と一緒に不可知の波動を放ち、見る者の心身をざわつかせるような、他のいっさいの波長を相殺してしまうような、魔的なまでの存在感を滲ませる物体が箱の中に4つ。そのうちの1本を取り出そうとして、予想外の重さに手を滑らせた部下が、今度は腰を入れて金色の塊を持ち上げる。呂名は、眼前に差し出されたそれを両手で受け止めた。
レンガを2つ繋げた程度の大きさであるにも関わらず、骨身に軋ませるほど重い。金属の質感を持ちながら冷たくなく、すぐに体温に馴染む独特の手触りは、間違いなかった。
金の延べ棒……。1本400トロイオンス、純度99.99パーセントのラージパー。
すべての貨幣経済の源、金の重みを満身に受け止めた刹那、微かな失望は速やかに流れ去り、ようやく取り戻せたか……という感慨が呂名の胸を埋めた。
こいつとの付き合いは長い。
数千里の海路を共にしてこの国へとやってきた。
そして、とある日本政府の銀行本店の地下金庫に運び込まれ、時が来るまで眠り続けるはずだった。
数日前、ある一団に"折よく〟盗み出されるまでは。
自分にとっては、以後の生き方を変えさせられた唯一無二の金であり、これからは世界にとって唯一無二の価値を持つ金となる。この地に囚われた魂たちを解放し、約束の血へと誘う契約の金―-その道は遠く、あまりにも険しい。
警笛の音がひとつ、ふたつと鳴り響き、他の場所が金塊が発見されたらしいことを確認した呂名は、つかのま伏せていた目を上げていた。金の延べ棒を部下に手渡し、所定の行動にかかるよう目前で告げてから、背後に立つ長瀬の方に向き直る。「よく教えてくれた」と声をかけると、汗染みを作った詰襟服の肩がぴくりと震えたようだった。
「これで世界は救われる。先に逝った者たちも、安心して成仏できるだろう」
国ではなく、あえて世界という言葉に、眉をひそめた長瀬の顔は見なかった。
せーの、という掛け声が聞こえるや、遠くに詰まれた木箱が2人がかりで持ち上げられ、倉庫の外へ運び出されてゆく。
ひと箱につき4本、計1600トロイオンスの金塊が入っている計算だから、ひと箱の重さは約50キログラム。ここに今、2000箱が積まれているということは総量は100トンということになる。
倉庫は各地に6庫点在しており、同じく金塊が搬入されている。2000に掛けること、6庫掛ける事で、合計12000、総重量600トンの金塊。一点に集めようとすれば、巨大な拠点が必要になるが、あえて散開させてわけさせることで、負担を軽減できた。
政府直営の銀行には、警備を装っていけば楽に侵入することができる。ひとりが日に20箱運んだとして、全てを映し終えるのに、延べ600人。近在の反政府運動組織を動員すれば、日に200人、3日に渡って人手は困らない。実際、盗人たちが昨晩騒ぎを起こすまで、政府高官は金塊が持ち去られた事実さえ把握していなかったのだ。
自衛隊の上層部はもちろん、政府高官まで味方につけて事を起こした彼らに対して、こちらはせいぜい20人の手勢。ここにおいていけるのは30箱がせいぜいだなと思い、呂名はにわかに騒がしくなった周囲の音に耳を澄ました。
倉庫の奥にいては、外の様子はうかがい知る術がない。箱のひとつを持ち去った部下たちを見送り、
「どこに運ばれるのですか……?」
問うた長瀬の顔には戸惑いの色がありありと浮かんでいた。
「いくつかはここに沈める。ここに"彼ら〟の財宝があったと証明する"見せ金〟としてな。幸い、目撃者ならひとりならずいる」
窓から顔を出していた複数の顔を思い出しつつ、呂名は言った。
「彼らの、財宝……?」
おうむ返しにした長瀬の目が左右に泳ぎ、より深くなった困惑の色がこけた頬に滲む。
無理もない。
そう思い、呂名は入口まで歩き、夜空を照らす満月を見上げた。
この男は何も知らない。
数日中に世界が終わると知らされた時、熱情に浮かされるまま行動を起こし、迎えるべき帰結を迎えた青年将校のひとり。同じく決起に参加した者たちとともに自決するはずが、ひとり出遅れたところを捕らえられただけで、この金塊の出自など端から知る由がない。自衛隊が押し寄せる前に、どこかに隠して自衛隊再起の機会を繋がねばならない――そう騙った呂名に促され、抜け殻の体でここまで案内してきただけの男だ。
まったくの嘘ではない。が、全部が本当のことでもない。それを知る権利は……いや、知るに値する人間であるか否かを証明する権利は、この男にもある。
予定外の寄り道になることは承知の上で、呂名は長瀬の顔を捉えなおした。よく見れば少年の面差しを残す2つの眼を見据え、「ひとつ、聞きたい」と慎重に切り出す。
「昨晩、君たちは行動を起こした。師団長を刃にかけての反逆。武力による基地の占拠。許されない大罪だが、国を思っての行為であったと了解している」
薄汚れていても、陸自士官の三尉の襟章をつけた長瀬の顔に微かな生気が宿る。同じく陸自士官の制服姿を面前に立たせ、呂名は言葉を継いだ。
「今、世界はテロにまみれどこの国も力を失っている。これからの戦争はガンプラファイターによる代理戦争へと移行しようとしている。日本も例外ではない。陸海空の軍縮を呑んだ政府の弱腰を打ち、各地の自衛隊に決起をはかり、再び日本の自衛隊の必要性を図る……。そのための後ろ盾が君たちには必要だった。だから、政治家と結託し、銀行の地下金庫で眠っていたこいつを盗み出した」
あるいは彼には自覚がないことかもしれない。
この物資欠乏の折にトラックを6台も徴発し、燃料を食わせて、大量の金塊を運び出す作業はれっきとした輸送作戦だ。陸自の上層部の指示の下、おそらくは正規の命令を装った文書が出回り、長瀬たちはそれに従っただけなのだろう。
そして昨晩、明日以降はないとの判断に基づき、ついに反乱が実行された。
あくまで反対する一佐を銃殺し、偽の命令書を作成して師団全軍に出動を下令。基地に立てこもり、放送協会を占拠して、全国民に決起を促そうとした。事が成ったあとは、密かに持ち出した総理の秘密資金を戦費に充てるつもりで。
盗み出した、という言葉に長瀬の顔色が変わり、心外と言わんばかりに口を開きかける。その直情に虚しい結末を予測した呂名は、「つまり、君たちはこの金塊で未来を買おうとした」と問を置かず重ねた。
「自衛隊が拡大した先にある未来。日本が無様をさらさず、絶対的な軍備で守りを固める未来……。それもいい。すでにある状況のなかでは、それも選択肢のうちのひとつだ。だがな、長瀬三尉。さらなる未来のためには、こいつは必要になる」
「は……?」
目をしばたたいた長瀬の顔はろくに見なかった。
「今、代理戦争に新たな『可能性』が芽生えようとしている」
海の向こうを見つめ、こちらに視線を戻した長瀬の色が困惑の色で覆われてゆく。
「だが、今はそれを知っている国はほとんどない。だが、陸海空の軍縮が進み、ファイターによる代理戦争を重視させているからな。だがネットワークが進めば、インターネット技術が進めばこの可能性はもっと具体的なものになっていくだろう。それは人類にとっての新たな一歩であり、進化でもある」
どんより湿った空気が頬をなで、呂名は拳をにぎる。長瀬は思わずと言う風に頭を引いた。
「それが新たな世界の"システム〟となる。この先、果てしなく『可能性』が膨らんでいったら、どうなるんだろうな? その時は」
遠い虫の声が間断なく震わせる。
こんな終末の日にも響く生命の声を――否、世界の終焉を告げる無機質な警報にも響く生命の声を―-否、世界の終焉を告げる無機質な警報にも聞こえる音を耳にしながら、呂名は長瀬の反応を待った。2人がかりで金塊入りの木箱を持ちあげた部下たちが、こちらを気にする余裕もなく傍らをすぎてゆく。「あなたはなんなのです……?」と長瀬が口を開いたのは、部下たちが木箱を入口から出した後だった。
「士官ではないのですか? 我々が持ち出したこの金塊を、政府が気づく前にどこかに隠すと……。だから自分は、あなたを信じてここに……」
「国を想う君たちの気持ちを裏切るつもりはない。この金塊は戦費に使わせてもらう。だが、それは反乱のためのものではない」
毛穴からも噴き出しそうだった怒気が萎み、再び浮き上がった困惑の色が長瀬の瞳を覆う。呂名は1歩前に進み出て、その瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「まずはこうなるに至った状況、我々を間違わせた原因そのものを討ち、膨大な戦死者の御霊に報いる。そのための代理戦争……こいつと生き残りをかけた戦いだ」
半歩あとずさり、
「間違わせた、とは……」
問うた長瀬の瞳に、困惑より強い畏怖の色が滲み出していた。
「"システム〟だよ。ガンプラという偶像を使い、力を奪いあえと命じる古い"システム〟。なんにでも、自由を売り買いしてもいい"システム〟。この100年で世界中に浸透した"システム〟が、日本を誤らせた」
さらにあとずさった長瀬の体が、木箱の山に背を当てて動かなくなる。その瞬間には相手の心境をおもんばかることも忘れ、呂名は一気に残りの言葉を叩きつけた。
「外国に進出すれば資源が手に入る。欧米列強と張り合える力も手に入る。なにより、ガンプラバトルをすれば経済が動く。そうなれば、輸送のための橋や道路を作り、新型ウイルス以降爆増した失業者だって減らすことができる……。そんな力もないのに、相手の"システム〟に乗って同じ土俵に上がり、数百万の国民を死に至らしめた。これが誤りでなくてなんだ?」
畏怖を通り越し、もう何を聞いているのかもわからない思考の窒息が長瀬の瞳を震わせる。
だめだ、こんな言い方では伝わらない。
同じ目線に立っていないことを知りながら、埋め合わせようともしていない。
しかし、"神〟とはそういうものではなかったか?
突然、胸の奥底にそんな言葉が滲み出し、呂名は眼前の眼に映る自分の顔を凝視した。
そう、"神〟はいつでも唐突だ。思いも寄らぬところで意想外の啓示を投げかけ、波長があった者とのみ契約を交わす。1年前、自分がアメリカの地であった"神〟もそうだった。
「彼らは勝った。"システム〟はより深く世界に浸透する。日本も呑み込まれるだろう。そのツケは10年後、20年後の世代たちが支払うことになる。俺はそれを阻止したい。例え俺自身が古い"システム〟の中に入り込む、古い"システム〟そのものになったとしても」
そうせよ、と命じられたわけではない。"神〟は行く道を示したのみで、歩き方までは教えてくれなかった。
かまいはしない、やり方は心得ている。
目的達成のためには一時の利敵行為もためらわず、あらゆる事物の利用を心掛けよ――これまでそうしてきたように、必要なことを推し進めるまでだ。
自らに言い聞かせ、のしかかる重責を振り払った勢いで、呂名は長瀬の肩に両手をかけた。制服に滲んだ汗がてのひらを湿らせ、長瀬の頬をまたひとつ汗の筋が伝う。
「俺と世界を救ってみないか? この金塊……『A金貨』とともに」
「A……金貨?」
「ある人と約束したんだ。この金塊は、正しく未来のために――」
いきなり動いた長瀬の手に手を払われ、呂名は先の言葉をなくした。
「お尋ねします! それは、司令部の見解でありましょうか? それとも、呂名一尉個人の見解でありましょうか?」
我慢も限界というふうに吹き出した言葉が、拒絶の針になって全身を貫く。同時に踵が踵を打つ硬い音が響き、直立不動になった長瀬の眼が異様な輝きを放って、呂名ではない、彼の"神〟に向かって見開かれるのがはっきり感じ取れた。
「くしくも、今次は、自衛隊の存亡をかけた聖戦であり、軍備縮小に反抗するための戦いでありました。それを間違った、謝ったとする物言いは自分には容認できません。司令部がそのような見解を示したとも信じられません。一尉はいったい何を根拠にそのような話をされるのか。政府の発覚前にこの金塊を隠匿せよとの命令は、いずれの部署から発せられたものであるのか。説明をお願いいたします!」
抜け殻の面持ちから一転、憑かれたように声を張り上げた長瀬の様子に、船内に戻ってきた部下たちが警戒の視線を注ぐ。かまうな、と目で追い払う一方、敗北感に包まれた体がじんと痺れ、呂名は口をきつく閉ざした。
最初から分かっていたことだ。長瀬の中に存在する"神〟に成り代わるだけの言葉を、自分などが持ち得よう道理はない。自分が新たな"神〟を受けいれられたのは、所属した特殊な教育があったればこそだった。自衛隊の教育を受けた者として、この者の反応はまったく正しい。
「お教えください。大尉は、この金塊をどうされるおつもりですか? 自分は、政府に報いるために――」
正しい。だが、それではまったく救えない。報えるものもない。
呂名は腰のホルスターに手を添えた。
「一尉……!」
悲鳴に近い声音が背中を打つ。
瞬間、振り向きざまにホルスターから拳銃を抜き放った。それはまっすぐ長瀬の左胸に突き立てられ、次いで引き金をひいた衝撃が全身を揺らすのを知覚した。
弾丸が肉を引き裂き、絶たれた骨が鈍い音を立てる。命そのもの力がサイレンサー越しに伝わった。
今日、この場で起こったことで証言する目撃者は要る。が、その実行者の名前と顔を知る者は要らない――いや、いてはならない。同じ"神〟を共有する同志でない限り。
驚愕に目を見開き、長瀬は呂名に押されるまま木箱の山に背中をついた。その瞳はなにかを問うているようだったが、訪ねる相手はもはや呂名ではなかった。ただ虚空を凝視し、薄く開いた唇を震わせて、この死に何か意味はあったのかと必死に問うている顔―-理不尽な死に痙攣する肉体がひとつ、そこにあった。
「赦せ」
遠い鈴虫の声がゆっくりと舞い戻ってくる。
すぐに黙とうする気にもなれず、呂名は拳銃を片手にその場に立ち尽くした。じわじわと拡がる血だまりがコンクリートを汚し、横に倒れた長瀬の体を濡らしてゆく。知り合う時間も持てなかった青年の横顔を見下ろし、この先、自分はどれだけの血を流すだろうとぼんやり考えた。
入口から出ると、先刻となにひとつ変わらない静止した空気が身を押し包んだ。隣の倉庫では木箱の搬入作業が続き、部下たちが作業員よろしくトラックとの間を行き来しているというのに、その喧噪は不思議に耳に響いてこない。
騒げば騒ぐほど静寂が深まる鈴虫の声と、ぼうぼうと唸る大気の音。まるで夢のごとく、すべてが白々とした光の中で現実感が失っている。
サプレッサーについた血と脂を懐紙で拭い、呂名はホルスターに銃を収めた。赤く染まった懐紙が風に飛ばされ、川面に吸い込まれてゆく。その向こう、300メートル先の対岸の小島は、相変わらず人の気配ひとつしない賽の河原だった。
誰も彼もが世界の終焉を予感し、じっと息を潜めている時に、ひとり他人の血を拭う俺は何者だ? 彼岸という他ない川向こうを見つめ、また急ぎたてられるように自問した呂名は、自答を得ることなく出口に戻る足を踏み出した。
「飾りじゃなかったんだな」
歩いてきた中村が、拳銃に目を注いで言う。ひとりで戻ってきたこちらの様子を見れば、なにが起こったのかは推測するまでもない。そう、この男もいたなと思いつつ、呂名は入口の壁に背中を預けた。同じ"神〟を共有するどころか、己より高次なに存在を端から認めていない男。合理的な現実主義者と言えば聞こえはいいが、その頭の中にあるのは保身と役得、己と生存のためには共食いも辞さない昆虫のような本能だ。
日が変わろうとしている満月は午前零時の境目にあっていよいよ、闇を深まり、地上を暗く染め上げている。
間もなく日は変わる……終わりの時は近い。
「何が見える?」
傍らに立った中村が、嗤うように言う。呂名は天に向けた顔を動かさなかった。
「国家予算の上前をハネた、無名の将校……だが、捜索命令を出した政治屋たちはあんたの名前を知っている。締め上げるやつが締め上げたら、喋ってしまうかもしれんぜ」
「彼らは何も喋らん。この金塊が日本再興の礎になると信じて、墓場まで秘密をもっていくさ」
そのはずだった。
反乱部隊による秘密資金の持ち出しが発覚した直後、呂名に奪還を命じた司令官は、実直な自衛官以外の何者でもなかった。発見後、速やかに返還すべしとの達しが内閣から出ていれば、このまま自分が消えても追跡調査はしまいし、どのような立場に置かれても口を割ったりしない。それこそ"神〟にかけても秘密を守り抜くだろうが、「真実を知ることなく、か」と応じた中村の声は冷笑半分だった。
特に腹も立たなかった。敵地に潜り込み、敵国人になりすまして情報を送り続けるスパイは、おおかた皮肉な体質を養う。彼の祖国が国ぐるみで信仰する"神〟の教えなど、この男―-ドレル・中村の中では、意味を持ったことさえないのだろう。自由と移民の国を謳いながら、根強い人種差別が残るのが彼の祖国だ。
呂名は略帽に手をやり、わざと月光を視界の外にした。ほどなく、目前のトラックのエンジンが唸りをあげて始動し、独特な臭気を周囲に振りまいていった。
鈴虫の声が遠のき、何も響くものがなかった空気がわずかに響く。倉庫内に2台ほど引き込まれ、後部ドアが開く。準備完了、目で告げた部下に頷き、出発を促した呂名は、足早に去った彼の靴跡が点々とコンクリートに残るのをを見た。長瀬の血か……と思いついた途端、骨身に共振させた肉の痙攣が生々しくよみがえり、震えが走った両の手のひらを握りしめずにいられなくなった。
「サービス開始はいつになる?」
「早くて3年後。ネットワークに宣伝を徹底させるだけでも、それぐらいはかかるだろう」
「ベータテストは、それ以後か」
「そうなるな。それまでは、こちらも動きようがない」
国家という巨体が動きを止め、別の国家の下に組み敷かれるには相応の時間がかかる。当然と思う反面、待つしかない身のもどかしさが喉元までこみ上げ、呂名は不意に身震いするほどの苛立ちに駆られた。「そう急くな」と中村が苦笑交じりに言う。
「あんたが冗談でやってるんじゃないってことは、よくわかった。せいぜい協力させてもらうさ。俺もGBN開始の失敗を取り替えさなきゃいけないからな」
GPデュエルというガンプラを使ったゲームが世界に浸透していたにも関わらず、それと同じVR型オンラインゲームの動向をつかみ損ね、それによる暴動運動を許してしまった自衛隊の失態は、そのまま中村の失態でもある。もっとも、それは彼の能力不足に起因するものではなく、この金塊の由来にも関係する複合的な要因があったのだが、今はそれは重要ではなかった。
重要な点は、現在の中村には身の置きどころがなく、それゆえにこちらと一致する利害があるという事実だ。すでに始動している計画において、彼は貴重なパイプ役を果たす。時が時なら殺し合いになっていた相手を前に、中村が悠然と構えているのは己の価値を鑑みてのことに相違ない。呂名は視線を合わせぬまま、「その方が身のためだ」と低く応じておいた。
「行き場をなくした回し者の生死など、公安も気に留める余裕はないだろうからな」
裏切れば、スパイののしをつけて町中に放り出す。一瞥とともに伝えた呂名に、中村は肩をすくめてみせた。なまじ日本人の姿形をしているだけに、そんな仕草もいちいち異質さが際立つ。不快に感じる自分を不快に思いながら、呂名はうなるエンジン音に身を浸した。ブザーの音が鳴り響き、エンジン音がひときわ高まると、ここからはもっとも遠い先頭のトラックがゆっくりとゲートへと向かっていった。
最初のトラックが動き出し、国道へと走りはじめる。呂名は踵を合わせ、挙手敬礼をして、トラックの出発を見送った。トラックに乗り込む部下は、ほぼ東方からの輸送作戦に従事し、死線を共にした間柄だが、昨夜のうちに別離は澄ませてある。所定の行動手順に支障を来さない限り、もう2度と顔を合わせることもない同志たちを見送り、荷台に乗り込んでいく部下も右手を額にかざした。
軍人にあって軍人に非ず。
これが身の上の陸上自衛隊学校出身者たちが、雁首をならべて敬礼するのは卒業以来のことで、これが最初で最後という感慨は、呂名のみならず、全員の中にあるのは違いなかった。
答礼の警笛もならさず、6台の大型トラックが粛々とゲートの向こうに消えていく。先頭のトラックが橋に差し掛かった頃、すぐ近くで水しぶきの音があがり、跳ねた水滴が呂名の足元を濡らした。
岸壁に積んだ木箱をこじ開けた部下たちが、中の金塊を次々川に放っているのだった。
重い金の延べ棒が無造作に川面に投げ込まれ、月光に照り輝いたのも一瞬、あっという間に暗い川底に沈んでゆく。文字通りの"見せ金〟として機能する金塊は、当座の必要分を除いて7箱分。現在の金相場は1オンス34ドルだから、ひと箱1600オンスにかける事7で11200、しめて38万800ドルの金がこの川底に眠ることになる。
円に換算すると……と考えかけて、無為なことと呂名は苦笑した。黒瀬に話した通り、国家と言う担保を失った円は紙くずも同然となり、明日以降は、この国はすさまじいインフレーションに見舞われることになる。とにかく膨大な額だ。全体から見れば、それでも1000分の1以下の量ではあるが。
背中に複数の視線が刺さってくる。
定期的に巡回にやってくる警備がシャッターから顔を出し、無名の将校の奇行を疑う者たちの視線だった。日本再興の大義名分、軍需物資を隠匿する作業は彼らも経験済みだろうが、これだけの金塊を川に捨てる光景は見たことはあるまい。息を詰めて見守る警備のの中には、先刻イロハと名前を振った目撃者らも混ざっているに違いなかったが、わざわざ確認するつもりは呂名にはなかった。
沿岸の水深はせいぜい5、6メートル。泳ぎの達者な者なら、川底の金塊を拾い上げるのは難しいことではない。これからそろって職を失う兵たちの何人が、この光景を記憶に留めて行動を起こすか。いずれ、その情報は内閣の耳に入り、ここに沈んだ金塊は"見せ金〟としての役割を果たす。
延べ棒の刻印を見れば、それがただの金塊でないことはすぐにわかる。残りはいったいどこに消えたのか――『彼ら』が血眼になった時が始まりの時だ。
そのために、今は終わるべきを終わらさねばならない。金塊を投げ込む水飛沫の音が絶え、トラック軍団が橋の向こうに消え去ったところで、呂名は部下のひとりにラジオをつけるように命じた、今日、この時に備えて、中古メーカーの電池式受信機がトラックに積み込んである。小脇に抱える木箱の上に、ラジオが荷台に出されて間もなく、午前6時の音が唸りはじめ、呂名はわかっていても体が硬直するのを感じた。
日々の句得点でしかない日常の音、今日と言う日には特別な意味を持つ船の汽笛が、悲鳴のような音色を辺獄に押し広げてゆく。呂名はひとつ息を吸い込み、鳥の一羽も飛ばない夜空を見上げた。やがてラジオががりがりと騒ぎ立て、雑音に埋もれた人の声を切れ切れに流すようになった。
ネットワーク放送と同時に、全世界放送で一斉電波で送信しているからだろう。雑音は常以上にひどく、
(ただいまから、重大な放送が……全世界の聴衆者の皆様、お聴きください)
と発せられたアナウンサーの声はろくに聞き取れなかった。もっと音量を上げられんのか、と怒鳴りかけた時、ひどく静かな人の声が夜の闇に相乗した。
鈴虫の声も、すうすうと吹く涼風の音も急激に遠ざかり、その声ひとつが静止した世界を満たした。
思ったより、優しい声だな、というのが最初の印象だった。少なくとも、原初の生命を守った"神〟であった者にしては、体温を感じさせすぎる。
定期的に観察していた警備は、今はひとつもいない。全員、このラジオに聞き入っている。夜に発起人自らの放送があると予告された時に、この内容を予想した者たちは何人いただろう? いや、音質の極めて悪いこの演説放送から、真意をくみ取れる者は何人いるか。
不安ともつかないもどかしさに捕らわれる一方、伝わりはしようとも思い直し、呂名は部下たちとともに直立不動の姿勢を取り続けた。詳細は不明でも、今日という日にひとつの世界は終わる、その重さと悲哀は伝わろう。
"神〟の声はそれほどに哀しく、やさしい。
否、これは人の声だ。
満場一致、希望を理想にのせて掲げ、"神〟が叫ばなければならなかった人の声だ。生み出した生命―-呂名は目を閉じ、頭上に差し掛かった満月を瞼ごしに捉えた。
今日、この日。"神〟はその座に下り、かつての世界は死んだ。
代わりに貪欲な魔物が目を覚ます。それ自体には意思も感情もなく、ただ増殖の本能があるのみという点において、それはまさしく……魔物と表現するにふさわしい。
呂名は目を開け、遠く港に至る車道を見つめた。とうに国道を抜け、彼方へと旅立っていったトラック軍団は、すでにかき消えていった。
背後に立つ中山が、聞こえよがしに呟く。呂名は振り向かず、目だけ微かに動かした。
「妙な話だ。国の力が無くなって、ガンプラによる戦争が公式に決定された。こういった児戯が続いているのに、自衛隊が行ったA作戦だけは違う。だいたい、"A〟とはなんだ?」
気にも留めていなかったことだった。A作戦によって収奪された金塊であるから軍部内で通用していた暗号名が『A金貨』。それ以上でもそれ以下でもない現実と付き合い続けてきた身には、空はなぜ空なのかと問うのと同じくらい捉えどころのない質問に違いない。
呂名は心持ち顔を動かし、中山の顔を視界に入れた。
「まさか、あの作戦の名前か」
合わせた目に異質な光を宿し、中山が質問を重ねる。その傍らではラジオ放送が続いており、不意にまったく別の声が重なるのを呂名は聞いた。
―-呂名、連中にこの金塊を渡すな。おまえの責任において、正しく未来のために使え。これは、この戦争で犠牲になった者たちの血と涙の結晶……すべての者たちのために行使される……。
網膜に焼きついたあの月の夜、死臭が混じる空気とともに、今の呂名を突き動かす"神〟が語りかける。ここにある理由、生き続ける意味を教えてくれた自分だけの"神〟。その者の魂を搦めとり、死ぬまでついて回るという意味では呪縛にも等しい"神〟の声。
そう、あの時、種はまかれた。もう後戻りは許されない。「あるいは総督としてのかの地に留まっていた管財人の――」と続いた中山の声を遮り、「なんであれ、今はもう関係がない」と呂名は押しかぶせた。
「俺の知る答えはただひとつ。A金貨のAは――」