ヲチカタ・コロニー。
現地時間、午前5時37分。農村の朝は早い。
村の羊飼いの老人は、耳慣れない電子音を電子音を聞き、洗いざらしのズボンのポケットから携帯機器を取り出した。
ひと月前、村民全員配られたものだ。それは、表面のディスプレイに何事か文字を表示させ、手紙とわかるアイコンを点滅させていた。(ミカヅキさんからメールが届きました)という女性の合成ボイスが、老人の耳に届いた。
例の合図だ。
実はこの時、ミカヅキから電子メールが届くことは事前に知らされていた。その際、〝あるもの〟をメールに添え、返信してもらいたいしの話も同じ時に聞かされた。〝あるもの〟はすでに用意して、この携帯機器に記録してある。
音声ガイドに従い、老人はディスプレイにささくれ立った指を走らせた。
作業はすぐに終わり、老人は最後に発信ボタンを押した。
(メールが送信されました)と女性が言う。老人はほっとため息をつき、携帯機器をポケットに収めた。
そこから始めた十数キロ離れた隣の村。
朝食をすませた青年が携帯機器を手にしていた。
1カ月前までは夜の一時しか電気が使えなかった村だが、いまは太陽光パネルと電線が敷設されている。やはり事前の通達を耳にしていた青年は、迷うことなくディスプレイに指を走らせ、準備しておいた〝あるもの〟を送信した。
仕事に出かける前に、村で唯一のテレビが置いてある公民館に寄っていこうと思う。数日前、設備の保守で訪れたダイバーの話が本当なら、いま遠い異国の地で自分たちに関わる重大な出来事が起こっているはずだ。
他にもヲチカタ・コロニーの各所で同様のやりとりが為され、その朝、実に数十万のデータからGBNに流れ込んでいったのだが、国内で配布された携帯機器の総量に比すれば、これは半数を少し超える程度の返信率でしかなかった。
ミカヅキがやったことと言えば、自らの携帯機器の発信をボタンを押したに過ぎない。
スピーチ前の打ち合わせでそうするように頼まれていた議事堂の職員は、彼の合図に応じて指定されたURLにアクセスし、その画面を総会議場のスクリーンに映し出した。
結果、2面のスクリーンに画像ビューワーが投映され、カペラ国内に送信された〝あるもの〟が映し出されて――総会議場の空気をゆっくりと、しかし着実に塗り替えていった。
「あれを見ろ!」
誰が叫んだのかわからなかった。訛りのある英語が議場内に響きわたり、ミカヅキは閉じていた目を開けた。
椅子に背中を押し当て、反り返るように頭上のスクリーンを見上げるハイチ代表の背後で、マリ国代表の半ば中腰になりながら呆然とした目を上方に注いでいる。モータリア国やネパール国の代表も驚きを露にし、凍りついた面持ちで頭上を見上げる向こうでは、退出の列に加わるどこかの国の代表が足を止め、やはりあっけにとられた様子でスクリーンを見上げる姿があった。
その代表に肩を叩かれた女性のダイバーも足を止め、ぎょっとした顔でスクリーンを注視する。同様の光景がそこここで見られる中、ミカヅキはゆっくりと背後を振り仰ぎ、演壇を挟んで左右に設置された2面のスクリーンを視界に入れた。
一見でヲチカタのELダイバーと思しき、5歳くらいの少女の笑顔がそこにあった。
決して満面の笑みではない。継ぎを当てたワンピースを着て、質素な木彫りの飾りで髪を留めた少女は、はにかむ以上に緊張しているように見える。写真自体、少し逆光気味で全体に薄暗く、お世辞にもよく撮れているようには見えない。
撮る方も撮られる方も、おそらく生まれて初めての撮影だったのだろう。その緊張と興奮が写真から滲み出し、じわりと胸を締めつけている間に、少女の画像は小さくワイプしてビューワーの背景に移動し、代わりに別の写真がスクリーンに大写しになった。
人を写っていない。どこかの農家の裏庭かなにかの写真だ。ろくに焦点が合っておらず、シャッターの切り間違いでたまたま撮れた写真と思えたが、よく見れば、画面の端に鶏小屋らしきものがあり、そこから顔を出したひな鳥こそが被写体なのだと想像がつく。
どんな人が撮ったのだろう?
ひとり暮らしの老人か、あるいは子供、まだ家族持ちではない若者かもしれない。自分も子供の頃にカメラを与えられたら、きっとこんな風にわけのわからない写真をたくさん撮っていた気がする。ミカヅキが思うのを待たず、鶏小屋の写真は後方に退き、今度は夕陽に染まる平原がスクリーンに映し出された。
これはプロが撮ったと言っても遜色のない、構図も光源も完璧と思える奇跡の1枚だったが、画像ビューワーにとっては処理すべきデータのひとつでしかなく、新たな写真が次々とスクリーンに映っては消えてゆく。
木漏れ日。
不器用に笑いあう若い男女。
粗末な揺りかごに眠る赤ん坊。
人であれ風景であれ物であれ、それらは撮影した人それぞれが生まれてから出会い、慈しんできた人生の断片でしかなく、人であるなら誰にでも感じ取れる温かみにあふれていた。
それぞれが生まれてから出会い、慈しんできた人生の断片に違いなく、人であるなら誰にでも感じ取れる温かみにあふれていた。それぞれが慈しむものによって照射される、無明の底できらめく幾千幾万もの〝我〟――。
伝わった。
彼らは応えてくれた。
空白になった頭がようよう動き始め、ミカヅキは通訳のブースがある演壇脇の壁に目を向けた。
通訳も身を乗り出してスクリーンに見入る中、スクリーンの機器操作を行う職員が親指を立て、こちらに笑いかける姿がはめ殺しのガラス越しに見える。合図と同時に画面を切り替え、ばっちりだったろ。白人の職員がウィンクしてみせる間にもスクリーンの画像は刻々と切り替わり、画面の端に表示されたファイルが着実に増加してゆく。
50万を超えて、60万、70万、80万……まだ増え続けている。1万に届けば上等だと思っていたのに、なんて数だろう。〝A〟や自分がいなくても、ダイバーたちは着々と携帯機器の配付を続け、ヲチカタの国民たちはそれを無駄にはしていなかった。
胸から生じた熱が喉元にまでこみ上げるのを感じつつ、ミカヅキは背後でスクリーンを見上げるグエン事務総長らの戸惑い顔を見て、次いで議場の様子を見渡した。
退出の足音はいつの間にかやみ、ほとんどの人がその場に突っ立ったままスクリーンを仰ぎ、次々に切り替わる写真に見入っている。各々の席に収まる後発国のフォース代表たちは、すでに当初の響きから醒め、これらの写真の意味を考え始めている顔だ。
驚きと興味。
自分でも出所の知れない本能的な共感。
ある目的に沿って撮られたこれらの写真には誰にもそう感じさせる力がある。不器用で飾りがないからこそ、心に訴えかける何か。
最新の技術に支えられていても、テクニックを超えたところで呼び起こされる郷愁にも似た何か――。自身、創造した以上の力に圧倒されながら、ミカヅキは再び目を閉じた。
彼らは応えてくれた。その意味を世界に伝えるのは、自分の役目だ。ひとつ息を吸い、吐いてから、目をあけて議場と正面に向き合う。スクリーンを見上げる複数の目、複数のダイバーを見渡し、ミカヅキは世界に向けて最初の一声を放った。
「総会議長、並びに各国のみなさん、神聖な総会議場で、予告なくこのような行為に及んだことをお詫びします。しかし、こうする以外、わたしたちには自分の存在を世界に伝える方法がなかったのです……」