(私たちを隔てる壁は、2つあります。ひとつは、時間。もうひとつは、変化に対する怖れです。
時間については、多くの説明はいらないでしょう。居住エリアの政治体制の改善、ELダイバーひとりひとりに対する教育レベルの向上と意識改革。それらすべてが為し遂げられ、支援が実を結ぶまでには長い時間がかかります。回収するのに10年単位の時間が必要とされる案件は、現代の市場には馴染みません。特にここ20年間の潮流、市場原理主義を合言葉にした合理化と効率化の進捗は、企業や国家支部による長期開発支援を事実上不可能にしてしまいました。多くの実業家は、自分の資金で実を結ばない案件に興味を示すことはない。常に運営の顔色をうかがわざるを得ない彼らには、10年後の100万ドルよりも年度内の1ドルの方が価値がある。効率化を追い求めたすぎた結果、時間が檻になって実業家の自由を奪い、わたしたちを隔てる壁になっているのです。
その壁は、しかしもうひとつの壁を乗り越えることで自動的に消滅します。『アファーマティブ・システム』の施策が功を奏し、ヲチカタ・コロニーへの支援が大きな実を結んだ仮定の10年後を想像してみてください。そこでは、多くの企業やダイバーたちがGBNへの支援に乗り出し、現在の市場は価値観の変革を迎えています。短期的には費用対効果が低い事業であっても、正当な理由があれば支援は為されるべきであるという変革。国でも企業でもなく、ELダイバーひとりひとりに対する支援が巨大な市場を育み、この世界全体を豊かにするという変革です。
目先の利益を追求するより、短期的には施しにも等しい支援、奪うより分け与える方が利益になる。格差の縮小と成長の両立は可能であると証明され、この20年あまりのグローバリズムの台頭……否、貨幣が発明されて以降の集約型経済システムは、必然的に変更を余儀なくされる。それを当たり前にして育った新世代の人々には、先進支部か後発支部かという区別はなく、貧困は疫病のように敵視され、撲滅されることになるでしょう。真のワン・ワールド、グローバリズムを実践した彼らにとって、貧困は全体の豊かさを阻害する害悪になるからです。
旧来の〝システム〟は更新され、新しい〝システム〟が走り出す。先進支部と後発支部、勝者と敗者、支配者と被支配者。相対する価値観はことごとく意味をなくし、全体を基盤とする新たな秩序の壊乱と取るか。受け取る側の立ち位置によって生じるその違いこそ、いまヲチカタ・コロニーを取り巻く状況の正体だと言えます)
慌ただしい無線のやりとりに混じって、耳慣れた声がぼろぼろの<ジェガン>のコクピット無線から流れてくる。まるで呂名英一が乗り移ったかのような……と思い、すぐにそれを打ち消したミーユは、膝上に置いた手のひらをそっと握りしめた。
そうではない。これはミカヅキちゃんの言葉だ。
廃棄されたコロニーの現実を身に染み込ませ、自力で這い上がってきた者のみが出せる声だ。彼の口から『アファーマティブ・システム』の理念が語られるのは、必然だったのかもしれない。
1か月には想像もつかなかった心境を抱きしめ、ミーユは硬いコクピット・シートから立ち上がった。
開いたコクピットの向こうの風景を見てから、アンカーを胸部装甲にひっかけ、そろそろと地面に降りた。
そろそろ灯り始めた街灯やネオンの光が筋を引いて流れてゆき、「えらく過激なこと言ってるな」と呆れた調子の声が無線の音に混ざった。
「今頃、〝対策室〟は大騒ぎなんじゃないか? 特に君のいる部署は」
しゃらしゃらと歩いてきたツカモトが、眼鏡越しに探る目を向けてくる。周囲の手前、これまで英語で通してきたが、ここでは日本語を使うのが正しい。
かつてはGBN外事課に所属し、いまはシンガポールに拠点を置く国際機関の専属職員を務めるツカモトは〝対策室〟の存在と内実を知る数少ないダイバーのひとりだ。
金網の向こうで聞き耳を立てる白人の兵士を見やってから、ミーユは小さくすくめた肩を返事にした。日本人職員の派遣は織り込み済みにしても、よりにもよって顔見知りのツカモトが送られてくる。
もう驚きはすまい。たぶん、これも『アファーマティブ・システム』が呼び込んだ必然なのだ。
すべては予定通り。エイジが最後の保険を仕掛けたことも、こうしてその手伝いをしているわたし自身の行為も。その理解が肩から全身にのしかかり、疼痛になって胸を走り抜けた。
「この件と、関係があるんじゃないだろうね?」
顔色を読み取ったのか、ひたと据えられたツカモトの視線が鋭さを増す。ミーユは窓を向いたまま、なにも答えなかった。
「おいおい、勘弁してくれよ。こっちはしがない調整役で、現地の守備隊にご協力願ってる立場があるんだからさ」
「ご迷惑をおかけするようなことは、決して。私はただ、一ダイバーとしての通報の義務を果たしただけですから」
「〝対策室〟の職員がたまたまニューヨークに来て、GBNにダイブして、たまたま犯人を見かけたって? 信じられるか、そんな話。しかも誰と会ってるかってことまで――」
「本部は乗り気なんでしょう?」
皆まで言わせず、ミーユはちらと振り向けた視線とともに言った。この際、経緯は問題ではない。本部が注目する〝人物〟を確保できれば、それはそのままツカモトの手柄になるはずだ。街の灯を薄い眼鏡に反射させつつ、「そりゃあな」とツカモトは決まり悪げに目を逸らした。
「告訴内容が内容なんで、アメリカGBNは目の色変えてる。相手が外国人でなかったら、取って食っちまおうって勢いだ。でなきゃ、わざわざ俺が派遣されたりはせんさ。運営から現地の事務局に一報すれば済む話だ」
付け加えるなら、アメリカ方面守備隊がこれほど迅速に対応してくれることもなかった。内心に呟き、ミーユはひび割れている<ジェガン>のバイザーを見上げた。
装甲車が赤い光を定間隔に投げかけてくる。動員された兵士は、ミーユたちが乗るこの装甲車の人員を含めて14名。5台もの装甲車両が列をなして街を走り抜けるさまは、傍目にはさぞ物々しい光景だろう。モビルスーツによる強襲事件に、永琳組との戦い。騒動も冷めやらぬうちに、守備隊がこれだけの戦力を割いたのは異例のことだと言える。アメリカGBNも注目する〝人物〟の確保が、守備隊にとってどれほどの重大事かを物語る数だ。ミーユの視線を追い、後続を振り返ったツカモトは「ちょっと大げさだが、相手が相手だ。ひと悶着は避けられんだろうからな」と続けて背もたれに寄りかかった。
「それに、身柄を確保してもすんなり送還ってわけにもいかん。引き渡し条約を主張しても、こっちの当局が調べ尽くしてからってことになる」
「でしょうね……」
「何度も言うが、俺に期待せんでくれよ。〝対策室〟の方で身柄を押さえたいのなら、運営経由で――」
「そういうつもりはありません。私はただのダイバーですから。何度も言うように」
「なら、なんで俺を呼び出した」
ため息混じりでもその声は渋い一瞥とともに突き刺さってきた。ミーユはツカモトから視線を外し、虚空に目のやり場を求めた。
軍本部を発した車列は街を抜け、4番街に入りつつある。現場に到着するまで、あと10分とかからないだろう。いつもながら、エイジのしつらえは見事に機能した。
じきに英一に会える――が、それと引き換えに私は大きなものを失う。
その思いは重く、苦しく、喚起されるべき機体と不安を押し退けて胸の底に沈殿しており、ミーユはひとり唇を嚙み締めた。
目論見通り、ミカヅキの声は世界に届いた。もう会話記録を提示する必要すらない。誰もがヲチカタに目を向け、そこに芽吹いた新しい可能性を見出すだろう。
これから何もかもが変わっていくのに、あなたは。
新たな1歩の踏み出し方も判然としない私たちを残して、あなたはたったひとりで――。
無線の向こうで、ミカヅキの声が続いていた。
まったく、なんて意地悪な展開だろう。
本当に、本当に、むかつく奴。
胸中にくり返し罵り、ミーユは声を出さずに泣いた。