GBN テキサス・コロニー再現ディメンション。
『お前もだいぶ、このGBNに慣れてきたな。今日の働きもよかったし、あとは良いアバターパーツが手に入ったら、大スターに見えないこともない。俺がいいアバターパーツを手に入れてやるからな』
五分おきに突風がふきぬけ、片膝で座っている<ガンダム>クロウ機を微震させるテキサス・コロニーの荒野は、時間帯によって景色ががらりと変わる。
昼間は、Dランクを初めとする初心者フォースの連中や、ソロと呼ばれる独りで活動するダイバーが無人機を相手にして射撃訓練にいそしみ、夜は小規模ながら、露店が開かれ、焚火をたいて、キャンプ遊びにいそしむフォースや、酒盛りにいそしむ成人ダイバーたち、ネットカジノでひと山あてたギャンブラーたちによる空騒ぎが夜空にこだまする。
いまは、午後8時をまわろうとする頃合いで、道交法などお構いなしに軒先に並べられたテーブルには、雑多な恰好をしたダイバーの姿が陣取っていたが、昼間からの先走り組と思わしき、男たちが何人か見受けられる。もはや用なしとなったカジノ新聞を尻ポケットに突っ込み、コップ酒を相手に独演会をしているDランクダイバーの若者もそのひとりだ。
『第二次有志連合』との戦いがどうの、『ビルドダイバーズ』がどうのと筋道が立たない呪詛を垂れ流しながら、時折思い出したように威嚇の声を張り上げ、奇妙に動かない目で行き過ぎるダイバーを睨み据える。
もはや、ガンプラの操作も困難と思える病んだ頭は、しかし、おそらくは生まれついたものではあるまい。
噛み合うべきところで、噛み合わなくなった歯車、逸脱に逸脱を重ねた人生の負荷が彼の正気を蝕んでいったのに違いなく、その眼に誰が落ちてもおかしくない深い影がある。そう、今は見る影もなく落ちぶれているが、彼がかつては、やり手のダイバーであった可能性だっではないのだ。
臭いもなにもないGBNではあるが、数多くのダイバーが集まるテキサス・コロニーエリアは、ダイバーも物も流れ続けて、とどまるということをしらない。この露店たちも、歴史書で見た戦後の闇市のような混沌さ、すべてが仮づくりのまま、根をおろしてしまった図々しさと、寄る辺の無い詐欺師たちにとっては似合いの仮住まいではあるが、ふと気がつけば、そこから出られなくなっている。
ここから始めるつもりが、得体のしれない磁力に搦め取られ、吹き溜まりの塵ひとつになっている己を自覚する時が誰にも来る。そうなったら、おしまいだ、と告げられた言葉が不意に実感を放ち、エイジはあらためて、クロウの顏を見つめた。
自身、もうやり直しがきかない歳だと認めているようにも、待ちに待ったチャンスをしっかと抱え込み、静かに英気を養っているようにも見える顔――そこにもうひとりの自分を重ね合わせるがごとく、縁もゆかりもない若造に手をだし、なにかを報いようとしている男の顏。
思えば、最初に会った時から、クロウはこんな顔をしていた。一度もみていないが、オヤジの顏というのは、こういうものなのかもしれない。
その始まりは弟子入りとはいえない、丁稚奉公でクロウのそばに身を置くようになってから、あまり景気の良い話はついぞ聞いたことがない。
いったいどうしたんだよ、と問うたエイジに、クロウは酒のジョッキを手にしたまま、にやりと笑い、テーブルに身を乗り出して曰く、
『見つけたんだよ、ついに。ありゃ間違いなく本筋だ。今仕事してる企業に8000
憶入れて、利息利用料と手数料さまざまが合わせて五分。そのうちの1割が俺の取り分になる』
マジかよ、と出したはずの声が口の中で溶けた。
8000億に0.05をかけて、そのさらに0.1をかけて40憶。
昔からそれだけは得意だった暗算で弾き出してから、エイジはあらためてクロウの顔を見た。今、取引している企業は日本では知らない者はない、大手電機メーカーだ。スケールがでかすぎてなにひとつ実感がわかない……というより、本当の話に聞こえない。
なんだよ、それ。典型的な与太じゃん。オヤっさん、それ本当に信じてるの?
『ドレルさんに頼んで、裏をとってもらった。間違いねぇ、勘でわかるんだ。俺だって、何年も本筋を追いかけてきたんだからな』
ドレルさんが言うなら、そりゃ……。で、その本筋ってのは?
『今はまだ言えねぇ。だが身元はしっかりしてる。真面目に新聞読んでりゃ、誰でも名前に聞き覚えがある人のところで働いている男だ。明日また会って細かい話を詰めてくる』
俺も行くよ。
『バカ言え。おめぇみてぇなガキを連れてったら、なる話もならなくなっちまうよ』
だけど、それ絶対おかしいよ。そんなデカい話に、なんでオヤっさんみたいなよそ者をかませるわけ?
『いろいろと事情があんのさ。"財団〟ゆかりのダイバーは使えねぇ事情が』
どういうこと?
『いいから、おめえは心配すんな。ほれ、注げ。おめえも呑め、未成年。金が入ったら、もうオヤジとは呼ばせねぇからな』
へぇ、じゃあなんてお呼びすればいいんだよ。
『決まってんだろ。社長さま、だ。会社起こして、自社ビル建てて、高級エリアに家買って……それでもまだお釣りがくるってもんだ。おめえにも家のひとつも買ってやるから、そしたら、おめぇ、ダイバーのてっぺんめざせ』
ええ、やだよ。
『うちは雑魚は雇わねぇんだ。それともお前、一生低ランクのままで、上の奴らのおこぼれをあずかるつもりか?』
そうじゃないけど……。
『だったら、てっぺんめざせ。おめえ、最初に出会った時、チンケなプラモ屋でGPDの闇試合やってたろ。金銭かけて、パーツかけて、しまいにゃそこの店の用心棒だ。まぁ、あんまりやりすぎて、怖いやつらに目つけられたのはお粗末だったか』
わかってるよ。オヤっさんが間に入ってくれなかったら、今頃……。
『そうじゃねぇ。そんなことはどうでもいい。俺が言いてぇのは、おめえはそこらのGPDプレイヤーより上等な頭もってるってことだ。てっきり師匠がいるのかと思ったらら、全部自分で這い上がってきたっていうじゃねぇか。正直、たまげたよ。見てた立ち回りは全部、ガンプラバトル技術の古典だぞ? それを自分で考えて、闇試合にまで、大暴れするってことは、相当の腕前だったことだ』
そのあげくがさんざんだったけどね。
『そりゃタイミングが悪かっただけだ。今は違う。おめえ、俺と一緒になってからは、暇があれば戦技技術の本読んでるだろ』
なんにも知らなかったからさ。オヤっさんみたいなベテランについていくために……。
『ほれ見ろ。お前はできのいいオツムはガンプラバトルしたがってんのよ。今じゃおめえ、そこいらのダイバーよりも立ち回りをわかっているはずだ。……でもな、俺たちについていくのはよしとけ。詐欺師っていうのは、なろうとおもってなれるもんじゃねぇんだ。今度の仕事がうまくいったら、俺も足を洗う。手伝う気があるっていうんなら、おめえもまっとうにガンプラと向き合っとけ』
未成年に酒勧めといて、よく言うよ。
『……英治。あとで落ち着いたらでいいから、おめえ、そろそろお袋さんとのところに顔だしてやれ』
少し、低く離れた声音で本名を呼ばれたことに疑問を感じ、エイジはいぶかしんだ。クロウは、自嘲気味に、とビールのジョッキをあおり、『そんな顔をするもんじゃない』と続けた。
『家に戻れって話ではない。お前も子供ではないのだから、親には親の人生があるのはわかるだろう? つまらない男と一緒になって、子供に愛想つかされるのも母の人生だ。無理に折り合いつける必要はないが……無事に生きてるってことだけは教えといたほうがいい。それだけで、お互いに救われるんだから』
ビールをあおった仕草で一瞬見えた、寂しげな顔。
以前、ちらりと昔の仕事をしていた時と同じ種類のものに見えた。
コンピューター、人工知能、そういったものの開発に勤しんでいて、置き去りにしてしまった妻。風に聞いた娘の死。門前で、出入り拒否を命じられた自分。笑うしかない、と言い、金を募金に突っ込んでいった背中が脳裏によぎり、そのあまりの湿っぽさにエイジは当惑した。
――どうしちまったんだよ、今日は。なんかいいひとと話しているみたいだよ。
照れ隠しともつかない憎まれ口に、クロウはまたビールをあおり、
『たまには……な』と自嘲気味に返したものだった。
『ケチなネットブローカーが、何千億っていう金を動かす手伝いをするんだ。張りが必要なんだよ。自分のためにもうひとつ、誰かの人生を背負っているっていう張りがな。やったるぜ、俺は。この日のために今日まで生きてきたんだ。クロウ――いや、黒須修三、一世一代の大勝負よ』
それで何かを手に入れるというより、失ったものを取り戻す、あるいは埋め合わせるための仕事。長らく追い求めてきた『A金貨』の本筋との仕事を、クロウはそのように捉えていたのかもしれない。金のためにやることではあるが、それだけではない。
それだけで生きられるほど、人は強くない、と暗に認めたも同然のクロウは、自分同様、詐欺師としては中途半端な何者かに違いなかったが、この時はそこまで考える頭は働かなかった。
浮かれているのというのとは違う、むしろいつもよりどっしりとした気配を漂わせるクロウに圧倒され、ただただ聞き入るよりなかったというのが正直なところで、店のネットテレビが流行の何十人かで構成されたアイドルグルーブを流していたのを奇妙に鮮明に覚えている。少し前には、有名漫画家も亡くなり、10代の若造にもひとつの終焉を意識させた200X年。
その翌日から、GBNをログアウトし、クロウは一張羅の背広を羽織り、短髪をたっぷりと時間をかけてセットして、大企業の重役然とした面持ちで仕事に出かけたのだった。
いつ、どこで誰と会い、どんな話をしているのか。
訪ねても返事はなく、話の裏をとったというドレルも決して語らない。一度、思い切って尾行してみたものの、あっさりバレた上に、『今度やったら殺す』と本気の目で凄まれては、それ以上の追求はできる空気ではなかった。
その時の立ち寄り先と、盗み聞きした電話の内容からわかったことと言えば、黒須の接触相手が政治家の秘書であるらしいという一事のみ。呂名正彦という名前を知ったのは、黒須が陸天・サービスに出入りするようになって、1か月も過ぎた頃――ことが事件になり、ワイドショーや週刊誌までが黒須のあとを追い回すようになってからだった。
――呂名正彦。
東大卒、アメリカ留学を経て、24歳で衆議院議員の私設秘書に採用される。国家公務員試験Ⅰ種試験にも合格した逸材でありながら、気さくで人当たりもいい。勤続3年を通じて、事務所内での評判も良好。都内の地元後援会でも可愛がられており、事件発覚の際は、『信じられない』とすべての知人に言わしめた呂名正彦だが、『A金貨』というフィルターを通してみると、いくつかの隠蔽な側面が浮かびあがってくる。
まず父親。
政府巨大銀行の元役員で、現在は自身が興した投資顧問会社トライスター・ホールディングスの代表取締役を務める呂名信彦。
彼はその当時、インターネット事業の有志が集う財団法人、日本インターネット投資政策研究所の常任理事でもあった。日本発展銀行、いわゆる日銀といえば、『A金貨』業界で知らない者はいない。前身たる復興金融公庫の時代から、〝ヤミのネットバンキング〟の受け入れ口と囁かれ、これまで『A金貨』事件で何度も取り沙汰されてきた銀行だ。
〝アメリカの電子マネー150億ドルが日本に流れ込んだ。フェアチャイルド銀行の東京支店から、政巨を始めとする日本の四大銀行を通じて国内の大企業に流される。期間は30年で、金利は驚くほど安いらしい。〟
……といった具合に。
無論、詐欺師の口上が半分以上はあろうが、どのケースにおいても同工異曲に日銀の名が持ち出され、それを管理運営する〝財団〟の存在が喧伝されるからには、元になった本筋の話がそれに近い構造を持っていたとも考えられる。元日銀の役員で、活動内容の判然としない会社の幹部を務める呂名信彦は、見る人が見れば、限りなくクロに近い灰色の〝関係者〟だ。
次、その弟である呂名博司。
呂名正彦にとっては叔父に当たる彼の名は、過去の新聞記事のなかに幾度か見出すことができる。90年代末、戦後最大の事件と呼ばれる〝ジーグル事件〟において、不審死を遂げた数人の関係者のなかのひとりだ。生前は主犯格と目される元総理の派閥に属する若手議員で、事件の引き金となった、日本エフシートゥー社長の解任劇―『A金貨』の名を一躍世に知らしめた架空融資詐欺事件―でも関与が噂された。呂名信彦が灰色なら、こちらは正真正銘のクロといったところか。
議員も元総理の施しを受けた男で、呂名博司とは同期の間柄とある。不遇をかこった同期を悼んでのことか。甥っ子にも引き継がれているであろうヤミの力を欲してのことか。どちらにせよ、呂名事務所に呂名正彦が雇われた背景には、単なる縁故というだけでは説明できないなにかがある。黒須は、その呂名正彦と組み、陸天サービスに『A金貨』を注入する仲介業に従事していたのだが、その頃のエイジには知る由もないことだった。
黒須がカモられていることはあるまい。そう自分に言い聞かせ、ネットカフェで連絡係をする傍ら、GBNにインしてはダイバーたちの話を横聞きして、噛める〝ヤマ〟があったら、噛ませてもらう。仕事があったら、傭兵の仕事をするといった、『ここから抜け出す』といった黒須の頭の一部に引っ張られたまま、どこか身が入らなくなったダイバー修行を続けるモラトリアムな日々は、ある日、1本の電話を境に終わりを告げた。
『俺に連絡はなかったか?』
電話越しにも焦燥をにじませた黒須の声は、以後、1時間とおかずに同じ問いを繰り返し、夜になるころには10分間隔で、金家の携帯電話を鳴らし続けた。仲間内では、こうした異変はすぐに漏れ伝わる。なにかあったなと思いはしても、連絡待ちの相手の名前も知らされないでは動きようはなく、着信音がなるたびにひやりとして真夜中。セットした髪を振り乱し、幽鬼さながらの形相でネットカフェに戻ってきた黒須が椅子に座り込んで曰く、『本筋が消えやがった』だった。
その時に聞いた断片的な話と、事件後に調べ上げた情報を統合すると、こういうことになる。
呂名正彦の指示通り、黒須は陸天サービスの代表取締役、小田義男と接触。小田と呂名は従前からの知古らしく、融資斡旋の話はことのほか進んだ。最初の会合以降、陸天側は融資担当として榊原専務を指名し、融資条件の細部の確認、融資依頼書及び念書への署名・捺印はすべて榊原専務の手によってなされた。
金額=8,000億円。
期間=10年切り替え30年。
金利=年3分5厘
取締銀行=日本八島発展銀行
依頼者=陸天サービスCEО 代行者=同社専務。
にもコピーはある。その他、手数料や斡旋料の支払いを約した念書も5通作成され、融資の実行と同時に所定の口座に振り込まれることとされた。
予定日は200X年、7月3日。当日、黒須は喜び勇んで銀行にむかったが、振り込みはされておらず、営業時間が終わる午後3時まで粘っても振り込み通知は届かなかった。榊原専務に連絡をとったところ、融資期日を延期させてもらいたいとの連絡が呂名正彦よりあり、したがって手数料の支払いも延期されるとの返事。
黒須にしてみれば、寝耳に水の話であり、いったいどういうことかと呂名にねじ込もうとしたものの、議員事務所の話では、呂名はもう1週間も休みをとっているのだという。一応、病欠の連絡はあったらしいが、それ以来ぷっつりと音信が途絶え、1人暮らしのマンションにも帰っている様子がない。こんなことは初めてで、事務所でも心配している――。
やられた、そりゃ。開口一番でそう言ったのは、カウンターの向こうで聞くともなく話を聞いていたネットカフェのマスター―自分もバーチャルMMОを渡り歩くネットブローカーで、この店もだまし取ったようなもの―だった。この手はつかみ金ありきが常識だろ? 融資実行と手数料の支払いが同時だなんて良心的な話、聞いたことがない。あんたが知っているものの他にも念書があって、その自称本筋はもう陸天から金を引っ張ってんのさ。
で、一銭ももらっていないあんたにドロをひっかぶせてドロン。もしそうなら、陸天の担当専務も怪しいな。消えちまった本筋の野郎と示し合わせて、あんたひとりが絵ぇ描いたみたいに見せかけてさ。あとで、自分も分け前を頂戴するって寸法だ。仮に警察の手が入っても同じような詐欺でマエがあるあんたは誰にも信用されない。念書は偽造で、自称本筋なんて野郎は最初はいなかった。全部あんたのねつ造だったってことで一件落着。体のいいスケープゴートにされたんだよ。あんたは。
もっともな見解だと思えた。今は行方をくらましている呂名正彦だが、陸天が被害届を出し、黒須が収監されたあとなら、大手を振って戻ってくることができる。警察が黒須の証言の裏を取りに来ても、知らぬ存ぜぬを押し通せばことはせぬ。名刺か何かを使って、社会的地位のある者の名を勝手に利用するのは『A金貨』詐欺の常道だ。グルである陸天の専務が口裏を合わせれば、黒須の証言を裏付ける材料は何もなくなる。
結果、黒須はもらった覚えのない金を詐取した科で別荘暮らし、トヤマと専務は陸天から引っ張った手数料を山分けしてホクホク――。だが、黒須は、『違う』といってマスターの推測を退けた。
『陸天の社長はあいつと知り合いだった。専務はともかく、社長までグルだなんて話はありえねぇ。あいつには計画があったんだ。あいつの一族は……。とにかく、これはそんなつまらねぇ化かしあいの話じゃねぇ。なにか事情が……事情があるに決まってる』
ビールの入ったジョッキを握りしめ、自らを聞かせるように言う黒須は、金家もマスターも最初から目に入ってない顔だった。マスターは口の前にもっていった手でクチバシを形作り、カモの負け惜しみだと苦笑を浮かべた。金家はその顔をにらみつけたが、マスターの見解を否定する根拠は終始持てなかった。
実際、その後の展開は、マスターの推測を裏付けるものばかりだった。翌日、黒須が榊原専務に電話すると、この問題について社内での協議があるから一両日中は動けないとの返事。そんな調子で一週間近くはぐらかされ続け、しびれを切らした黒須が専務の自宅におしかけるや、そこはすでにもぬけの殻になっていた。
突然の辞令が出たとかで、ほんの数日前に1日中で海外に引っ越していった。ご近所のへのあいさつもそこそこ、子供さんの学校の手続きも会社の方に任せきりで、こう言っちゃなんだけど、まるで夜逃げするみたいなあわだたしさで。ここぞとばかりに近隣のエリート会社員一家への妬みをぶちまけた近在の主婦は、直後、血相を変えて走り出した黒須を見て肝をつぶしたことだろう。
店じまいが行われている――呂名正彦との連絡も一向につかず、もはやカモられた我が身を否定できない立場に追い込まれたナカヤマは、思い余った勢いで陸天の小田社長のもとに押しかけた。
会社ではいくら粘っても面会が許されず、出勤前のタイミングを見計らって早朝の自宅へ。不意打ちで玄関のチャイムを鳴らした黒須を、小田は困惑しながらも応接間へ招き入れ、素直に現状を認める言葉を吐いたという。
あれから何度か呂名正彦から連絡があったが、上の方で行き違いがあった、融資が下りるまでもうしばらく待ってもらいたいと繰り返すばかりで、一向に要領を得ない。こちらも事情がわからずに困っている。
無論、融資が下りさえすれば、あなたに既定の手数料はお支払いする。しかし、これまでの感触からと言って、この話は流れたのではないかと私は見ている。サカキバラ専務を急遽海外に飛ばしたのも、〝会社〟で起こっているらしいトラブルに巻き込まれないための措置だ。
あなたもおとなしくしていた方がいい。なんならこちらが振り出した念書を買い取ろう。約束の手数料には及ばないが、我が社の信用の値段だと思って3,000は用意させる。ならない話で揉めるより、その方があなたよりも得だと思うが――。
用意してあったように繰り出された小田社長の提案は、禍根は絶てるときに絶たんとする経営者の反射神経が言わしめたことか、あるいはトラブルを見越した〝財団〟の知恵者があらかじめ吹き込んでいたことか。
……いずれにせよ、黒須はこの時、2つの致命的なミスを犯した。