……いずれにせよ、黒須はこの時、2つの致命的なミスを犯した。
ひとつは、隠し撮りするなりなんなり、社長の言葉を音声記録に残しておかなかったこと。黒須は小田社長とのやりとりを詳細にメモしており、それは後に事件が表ざたになった際、週刊紙に掲載されて話題を呼んだが、すべて模造と言われればそれまでのことでしかなかった。
そしてもうひとつのミスは……その場で、この唯一無二の解決策を突っぱねてしまったことだ。
〝財団〟側が受け取る融資手数料は、いわば公金に等しいものであるから、融資と引き換えでなれば、支払われないという話はわかる。しかし自分が受け取るべき斡旋料は、それとは、性格が異なるものだ。
自分は関係者の依頼に応じて義務を遂行したのだから、融資の実行如何にかかわらず、礼金を請求する権利がある。40億の請求権を保証する念書を、3,000万のはした金で取り上げようとは、馬鹿にするのもほどがある。あなたも天下の陸天サービスの社長であるなら、約束を守るべきだ――。
その場の勢いが半分、陸天を事態から抜け出させないためのはったりが半分があっても、こうなると水かけ論であった。融資が実行されていないのに手数料が払えるか、そんなことは知ったことではない。両者の話し合いは平行線をたどり、小田社長は黒須を避け、黒須は小田社長に食らいつくようになった。
取り次がれないのを承知で社長室の電話を鳴らし、日に何度もファックスを流し、夜討ち朝駆けで張り込んでは自宅のチャイムを鳴らす。借金取り立ての常とう手段ではあるし、事情が事情だけに通報されることはあるまいと見越していたのだろうが、度を付きまとい方は、傍目にも取り付かれた者の異常さであった。
黒須のとっつぁん、ありゃプッツンだな。
ネットブローカーの仲間内でもそんな風評が出回るようになり、金家も何度となく諫める言葉を投げかけてみたものの、俺には俺の考えがある、と一蹴されては続ける言葉もなかった。ほとんど店にも寄りつかず、たまに会うと目を血走らせ、携帯電話にむかって怒鳴っている黒須の背中を眺めつづけて、一週間過ぎた頃だったろうか?
黒須のとっつぁんがパクられたらしい、と仲間の誰かが口にして、金家は黒須が警察に拘留されたことを知った。
罪状は、住居侵入罪だとか脅迫罪だとかいろいろな憶測が、飛び交ったが、正式な罪状はわかっていない。ストーカー行為で逮捕されると、最大20日の身体拘束がある。最初は、これくらいで済むことだろうと思っていた。だが、結局、黒須は、1か月近くに渡って警察に拘留され続けた。
陸天サービスが告訴に踏み切り、本格的な取り調べが始まったからだと知ったのは、勾留3日目、黒須が雇った弁護士から店に電話があった時だった。
〝8,000億円融資でっちあげ、陸天サービスへ斡旋したという大詐偽劇、専務の念書など偽造〟
大手新聞が社会面にでかでかと記事を載せたのは、その数日後のことだ。架空の特別融資話をでっち上げ、陸天サービスから40億円の手数料をだまし取ろうとした事件があり、警視庁は一味のひとりを詐欺未遂容疑で逮捕するとともに、中心人物との疑いがある男性の行方を追っている。
一味は政府巨大銀行、財務省などの名前を勝手に使い、これらトップレベルと支援交渉があったかのような怪文書を作成。支援実態のないにも関わらず、「斡旋料をよこせ」という趣旨の内容証明を社長宅に郵送したり、自宅に訪問して嫌がらせを繰り返すなど、壮大な詐偽劇を演じていたことがわかった。
被害者の陸天サービスCEОは、「存在はまったくなかったが、非常識にきわまる話」と財界裏面にうごめく一味に手口に苦り切っている――。
疑惑の中心人物、呂名正彦の名を実名で報道した新聞はなく、追跡記事もほとんど見かけられなかった不自然さはさておき、最大の異常は逮捕から1か月半後、黒須が処分保留であっさり釈放された一事につきた。
未遂とはいえ、陸天サービスから正規の告訴状があり、報道時点で少なくとも私文書偽造と恐喝の容疑は固いと思える。かかる状況下で処分保留など、常識では考えられず、金家はラッキーだったと胸をなでおろしたものだったが、ネットカフェの情報通には別の観測があった。
新聞報道は、〝火消し〟の一種であり、黒須はあらかじめ保留措置が決まっていたなかで逮捕された。これ以上騒げば、次は噛む――警察さえ、意のままに動かす〝財団〟からのメッセージを、骨身に染みさせるために。
勾留中に、そのような脅しがあったのか否か。釈放された黒須はなにも語らず、常連客も同業の機微でなにも聞き出そうとはしなかったので、実際の所はよくわからない。が、すでに切れかけていた通信回線が完全に断ち切れ、黒須がいよいよ遠くに行こうとしている気配は感じ取れたことだったし、以後の行動を見ればその感触は間違ったものではなかった。
釈放されて間もなく、黒須は知古のジャーナリストに事件を売り込み、ゴシップ誌を皮切りにマスコミの取材を受け始めた。『A金貨』事件史に残る、陸天事件は、マスコミ側の取材合戦からではなく、関係者当人の働きかけによって燃え広がっていったのだった。
一度は四大新聞が報じ、広く世間が報じられる事件になっていただけに、マスコミの食いつきはすこぶるよかった。最初は名もないゴシップ紙からスタートした事件記事は、ほどなく、有名週刊誌の紙面も飾るようになり、疑惑の中心人物が某議員の秘書であるとのスクープが掲載されるに至って、テレビのワイドショー番組までが黒須のインタビューを放送する事態になった。
『これは詐欺なんかじゃない。私は依頼された業務をこなしただけだし、依頼元が詐欺グループであったとも思っていない。誰が何と言おうが、それは実在するんです。今回の事件は上層部の行き違いから起こったことで、私は今でも疑惑のA氏の言うことを信じているし、彼の言うことを信じているし、彼の行方を探してもいる。
実名報道は控えられているけど、皆さんもうA氏の素性はもうご存じなのでしょう? あぁいう公的な仕事をしている人が詐欺なんてするわけないし、第一これだけ騒がれているのにいまだに行方不明なんて、どう考えてもおかしいじゃないですか。出ようにも出てこられない状態に追い込まれているんだとしたら、そっちの方こそ追及すべきだ。私だって決してまともな人間じゃないかもしれないが、こんな無法を許していいことはない……』
顔にはモザイク、声も加工された黒須が叫ぶ一方で、念書を公開された陸天の小田社長もインタビューに応じて曰く、
〝どうしても断れない筋からの紹介があったので、黒須氏と会社で会った。融資話についてはとりあえず榊原専務に一任した〟
〝榊原専務は海外で重要な案件に取り組んでいて、いつ帰国できるかわからない。取材はご遠慮いただきたい。紹介者の名前についても、先方に迷惑がかかることだからここでは言えない。〟
〝『A金貨』の話はもちろん知っている。しかし、あれは詐欺師の口上だ。8,000億も借りて、たとえ低利でもどう運用するのか。有価証券報告書にどう書けというのか。向こうは財務省がどうのと言っているようだが、私は財務省とも常に連絡があるのだから、そんなことはあり得ないことは重々承知している。黒須氏は、詐欺がうまくいかなかった腹いせに嫌がらせをしてきただけのことであって、当方としては迷惑千万の話である〟……。
それにしても、最初に自宅を訪れた黒須を追い返しもせず、応接間に招き入れて長時間話したのはなぜか。
実害はなかったとはいえ、黒須が逮捕されるや、あっさり告訴を取り下げたのはなぜか。
渦中の専務がほとぼり冷ましのように海外に飛ばされた経緯も、偶然とするにはあまりにも不自然だ。なにかもっと込み入った事情があるのではないか――。
マスコミの取材合戦は熱を帯び、ついには黒須の交遊録からネットカフェが割り出され、店に取材陣が押しかける事態にまで発展した。
目先の金に釣られて、顔出し無しの取材に応じた者もいる。が、大半はテレビカメラはおろか、普通の写真に写るのさえ躊躇する裏街道の人間たちだ。それまでネットカフェを根城にしていたブローカーたちは、店に寄り付かなくなり、マスターは営業妨害だと怒るわ、居場所をなくしたブローカーには嫌みを言われるわで、その間は金家も居たたまれない気分を味わう羽目になった。
おまえんとこのオヤジ、ありゃいったいなんだ。テレビに顔売って、自伝でも出版しようって魂胆か? そう言われても反論できないほど、黒須は次から次へと取材を受け、詐欺疑惑を否定する一方で『A金貨』の実在を説いて回った。
日頃は『A金貨』に夢中のブローカーたちもすっかり呆れた様子で、いくらなんでもあれはない、黒須のとっつぁんは完全にイカれちまったと、嘆息混じりに噂することしきりだった。昨日までの自分を棚にあげて……というより、もはや笑いものも同然の黒須に我が身の明日を重ね合わせ、一気に冷めてしまったというのが正確なところかもしれない。
当の黒須は店にも自宅のマンションにも姿を見せず、都内のホテルを転々と泊まり歩いていた。常連らの伝を頼って、金家がその宿泊先を突きとめたのは8月も半ば――いや、ホテルのテレビに『GBNに現れた電子生命体、ELダイバーと名付けられる』のニュースが映っていたから、下旬のことか。
セキュリティ完備で知られる高級テレビの一室で、サシで向き合った黒須はひと月前とは別人のように頬がこけ、空調の音の変化にもいちいち反応する神経質なありさまだった。金家を部屋にいれる時も、尾けられてないだろうな? と廊下の左右を見渡す念の入れようで、これは本当にイカれてしまったかと不安になったが――今にして思えば、当然の対応だった。
……なにしろこの時、黒須は〝警察さえ意のままに動かす〟勢力に目をつけられ、その一挙一投足にいたるまで監視下に置かれていたのだから。
見られたもんじゃねぇな。
当時はそんな事情を知る由もなく、金家は開口一番そう言った。
なんなんだよ、あのザマは。笑ってるぜ、店の連中は。あぁはなりたくねぇ、あれこそミイラ取りがミイラの見本だって。みんな、わかってんだよ。『A金貨』なんて、宝くじみたいなもんだって。そりゃ、どっかで当たりはあるかもしれない。でも、そいつを引き当てるには途方もない運が必要で、そんな運があったら、最初からこんなところでくすぶっていやしない。夢を見られりゃそれでいいんだ。他人も自分も騙して、ここから抜け出す夢を見ていられりゃ、それでよかったんだ。
手堅く賭けるついでに、万馬券に1万2万つぎこむのはいいさ。でも全財産かけるヤツはバカだ。オヤっさん、もうやめようぜ、こんなこと。あんただって、もう陸天からはもう1銭も引っ張ってこれないってわかってんだろう? これ以上ごねたってどうにもならないよ。こないだはああ言ったけど、俺、カタギの仕事にあんま興味ないしさ。また地道に稼ごうぜ。40億なんて、俺らみたいな人間には手に余る金だよ。
嘘ではなかった。金なんていらない――これまでの生涯を通じて、心からそう思えたのはこの時をおいて他にない。ここから抜け出せなくなってもいい。ずっと、ネットカフェの住み込みだっていい。あんたが元の黒須修二に戻ってくれるならば、それで。
それだけで……。若造なりに、いや、まだその重みを知らない若造だからこそ、己の人生ひとつを投げ出して訴えた金家の言葉を、黒須はどんな思いで聞いていたものか。ベッドに腰かけ、逸らした視線をテレビに向けた横顔からはなにも窺えず、ただ鼻をすする音が聞こえたような気がしたが、テレビの向こうの喧騒に紛れる微弱な揺らぎでしかなかった。
有象無象の、さまざまな機種のモビルスーツたちが集まり、巨大な建造物に近い、巨大なモビルアーマーと雌雄をかけて戦っている。
テレビの中の光景にたとえようのない断絶感を覚えながら、金家は黒須が口を開くのを待った。見てもいないテレビを見つめ、しばらく押し黙り続けた黒須は、やがて『そうだな』と呟いて目を伏せた。
『生きていくうえで必要な金の量なんざ、たかがしれてる。必要以上手にしたって、腐らせちまうのがオチだ。でも、あいつは違う。あいつは金の活かし方を知っていた。儲けはしても、使い方は知らねぇヤツらの中で、たったひとり……』
微かに震える拳を握りしめ、ゆっくり開いた目をテレビの方をむける。
その再生を破壊する――不意に流れたアニメのキャッチコピーを暗い目に宿し、その横顔にはやはり深い断絶が宿っているように見えた。
本筋の野郎、呂名とかって秘書のことか? と金家は問い返した。オヤっさんがこんなに騒いでいるのに、ずっと雲隠れしているなんて……と続けた声をしまいまで聞かず、『あいつはもう助からねぇ』と遮った黒須の目が再び伏せられていった。
『あいつは〝システム〟に触れた。あの一族の人間であっても、許しちゃもらえねぇ。あいつの叔父もそうして殺されたんだ。いくら俺が騒いだところで、今頃はもう……。わかってるんだよ、そんなことは』
強ばった両手でぼさぼさの頭を抱え込み、黒須は苦渋を呑んだ顔をうつむけた。〝システム〟という一語が胸に突き立ち、冷たい感触を押しひろげるのを知覚した金家は、小刻みに震える黒須の背中をただ見つめるよりなかった。
『俺だって逃げ出してぇさ。長いモノには巻かれろ? 言われるまでもねぇ、そいつは俺の人生哲学だよ。でもよ、悔しいじゃねぇか。政治家とヤクザが手を結んで、裏で操ってるなんて次元の話じゃねぇんだ。顔もねぇ、正体もわからねぇモノが世界中を支配していて、俺たちの知らねぇところで世の中を動かしてる。自分で決めたと思ってることも、みんなそいつらの手のひらのなかだ。
あいつはそれを変えようとした。ガキじゃねぇんだ、結果がどうなるか、覚悟してのことだろう。俺にとっちゃ、なんの義理もねぇ、どうなろうと知ったこっちゃねぇ他人の話だろうけどよ……。俺はあいつの話を、聞いちまった。この世の秘密を明かした時の、あいつの目を見ちまった、知らんぷりは出来ねぇんだ。無駄とわかっていても、やるしかねぇんだ。騒いで騒いで騒ぎまくりゃ、連中も簡単にあいつを始末できなくなる。そう信じてやり通す以外、自分を収める方法がねぇんだ。
おめぇにも迷惑かけてるってわかってるけどよ。でもこれは、これからおめえが生きてく世の中の話だ。もっと先……俺の孫や、その子供らが生きてく世の中に関わる話なんだ。もう金の問題じゃねぇ。だいたい、金ってなんなんだ?』
ズボンのポケットをまさぐり、しわくちゃの万札を取り出す。畏怖とも悔恨ともつかない視線をこげ茶色の紙幣に注ぎ、『いったい、なんなんだ?』と金家はうめくようにつぶやいた。
『こんな紙っ切れに価値があるって〝システム〟を作って、俺たちを煙にまいている野郎は……』
常軌を逸した目だった。あの酒場で独演会をしていたダイバーの若者と同じ、逸脱に逸脱を重ねて正気を失ってしまった者の目。それまでの価値観、人生を覆すようななにかがそこに映っているのだろうと想像はしても、具体はいっさい見えてこず、また見えたとしても受け入れられる話ではなかった。
これはもう俺の知っている黒須修二ではない。いま、目の前にいるのは妄想に取り付かれているのは、妄想に取り付かれている哀れな負け犬だ。戸惑い、恐れ、しまいには怒りに突き動かされた金家は、無言で踵を返した。
『英治……』
とかすれた声が背中にかけられたが、無視してドアを閉めた。じんじんと脈動し、いまにも爆発しそうな胸を押し隠して、金家は早足でホテルを出た。
立ち止まったら、流される。
信じ切ったら、馬鹿を見る。
そう人に教えてきた男のあのザマはなんだ。
それでも俺は手を差し出した。
振り払ったのは向こうだ。
見捨てられたのは俺の方だ。
抑えるほど湧き出してくるほどの罪悪感をなだめながら、昼の余熱をくすぶらせる夜の街を闇雲に歩き続けた。
当時の資料を調べると、この前後から陸天事件の報道が急速に鳴りを潜めている事実に気づかされる。少女監禁殺人事件の犯人が逮捕され、その異常性に日本中の目が釘付けになっていたあの夏の日。移り気な世間が、陸天事件のことを忘れ去ったとしても不自然なところはない。が、主要週刊誌が残らず追及記事を引っ込め、著名なジャーナリストの連載企画まで立ち消えになった不自然さからは、幕引きを企画した何者かの作為が臭い立ってくる。
好ましからざる寄稿者――そのジャーナリストが後に書いた著作には、そんな言葉が記されていた。
〝ペンの力が元総理の金脈を暴き、監禁事件で逮捕にまで追い込んだ故事がある以上、国家がマスコミを自由に操作しているという話はない。しかしその一方、マスコミは広告収入によって成り立っており、企業犯罪の追及については広告主の顔色を勘案せざるを得ない時もある〟、と。
無論、露骨に広告を引き揚げては威しになってしまうし、それこそ世間体を悪くすることにもなりかねないから、そこには政治家やら大株主やら『断れない筋』を介して相手が『察する』ように仕向ける。好ましからざる寄稿者とは、そうした人々が膝詰めで話し合う酒の席で、半ば冗談を装って繰り出される実力者の『意向』だ。
この間のあの記事、よくないね。
あのなんとかというライターさん、ああいうのに書かせていると、お宅の品位を疑われているんじゃないの?
軽く言葉に聞こえても、それはその者が代表する組織、利権からの正式が『通達』にほかならず、これを察せられない者、もしくは無視した者には、相応のペナルティが科せられる。
黒須は、悪あがきもできないほどにがんじがらめにされ、当然の帰結を迎えていったのだが、当時の金家には想像もない、事後に組み上げた推測でしかなかった。
見れば気になってしまうから、陸天関連の記事が載ってそうな雑誌は読まないし、ワイドショーもネットニュースもいっさい見ない。それからしばらくは目も耳も塞ぎ、バカみたいなGBNにダイブしてレベル上げとしてソロプレイヤーとして徹していた。常連の噂話にも加わろうとしなかったので、事件の幕引きがなされている気配すら知らなかった。
呂名正彦とは何なのか?
金家はなにを知ってしまったのか?
いったい、〝システム〟とは、なんなのか?
ふとした拍子に考えている自分に気づき、関係ないと断じてはますます不機嫌になるような、出口のない悶々とした日々を過ごしていた8月の末。閑古鳥のなくネットカフェで、いつものようにGBNをダイブし終えた時、ポケットの携帯電話がけたたましくなり始めた。
夜中の電話は珍しくないが、この時は奇妙な胸騒ぎがした。慌てて、通話ボタンを押して耳に当てると、案の定、『英治か?』と黒須の声が流れ出し、金家の唇を噛み締めたのだったが、それも続く声を聞くまでのことだった。
『時間がないから、よく聞け。俺のマンションの部屋、靴箱の奥の壁が二重になっていて、そこに通帳と現金があわせて300万ある。あれはおまえのものだ。カードの暗証番号を言うから――』
――ちょっと、なんだよ、急に。いまどこにいるんだよ。
思わず出した声を遮り、『いいからメモしろ!』と怒鳴りつけた黒須は、切羽詰まった声で一連の暗証番号を告げた。言われるまま書き取りながら、金家は電話の向こうの声に神経を凝らした。公衆電話の割れた音に、聞き覚え女の甲高い声が入り混じる。店頭でリピートされ続けるアナウンス……どこで聞いたのだったか。
『頃合いを見て取りに行け。俺はもう部屋には帰らんから、入り用の物があったらなんでも持って行っていい』
――どういうことだよ。いま、なにしてんだよ。
『……限界だよ、もう』
どうにか聞き取れるほどの声で、黒須はぽつりと漏らした。
『独りで世界と戦えるほど、俺は強い人間じゃねぇ。すまなかったな、いままで迷惑かけて。マスターや、他のみんなにも謝っといてくれ』
――何言ってんだよ。とにかく会おうよ、いまどこに……。
『いいか、英治。なにがあっても、『A金貨』には関わるな。その300万で部屋借りて、ネカフェ出ろ。それから良い会社に入って、ランクあげて有名になれ。お前はまだ若い。いくらでもやり直しが効く』
――オヤっさん!
『もう来やがった……。じゃあな』
電話は一方的に切れた。誰からだ、とのどかに聞くマスターの声に振り向きもせず、金家は携帯電話をポケットに突っ込んで、店の外に転がり出ていた。
背後でリピートされていたアナウンスは、歓楽街のラブホテル街にあるテレホンクラブのもの。ほかのチェーン店かもしれないが、この東京都から2駅しか離れていないウグイス谷に黒須が来ている、
店まで来ようとしてためらったのだという想像に疑いはなく、中央通りでタクシーをつかまえて、深夜の歓楽街に向かった。ねっとりとした暑さが肌に絡みつく熱帯夜だったが、氷を押し当てられたように腹が冷たく、震えが止まらなかったのを覚えている。
その間、黒須がどのような経緯で上野桜木へ向かい、東京芸大脇の路上でひき逃げされるに至ったのか?
警察の発表によると、黒須の血中アルコール濃度は泥酔レベルだったという。
現場は芸大と寺霊園、上野公園の挟まれた間道で、深夜になれば交通量はゼロに近く、人目と言ったら上野公園を根城にするホームレスくらいでしかない。そんな場所にふらふらと足をむけたことといい、黒須が当時置かれていた状況といい、事故というより衝動的な……というのが警察の出した結論だったが、冗談ではない。黒須は、その時シラフだったのだ。
それから1時間たらずの間に泥酔し、街灯もろくにない上野桜木の間道に向かい、たまたま通りがかった車に飛び込んだなんて考えられない。
歓楽街と桜木の間にはJRの線路が横たわっており、移動するには階段と坂道が連続する橋を渡らねばならないが、千鳥足の人間が短時間にこれを渡り切り、衝動的に自殺したと断定するに足る根拠を、警察は最後まで示そうとしなかった。
結局、検挙されることなく終わったひき逃げ犯の追求を含めて、〝意のままに操られる〟側にはあらかじめ幕引きのシナリオだったかもしれない。
身を持ち崩すだけ持ち崩し、ホームレスと見分けがつかなくなった男の死体など、上野界隈では特にめずらしくもない。木を隠すには森の中――まして、そこが死者にとっては地元といっていい場所であるなら、なおさら……。
暗殺犯にひとつ手落ちがあったとするなら、黒須を即死させられなかったことだろう。おそらくは歓楽街で拉致され、移動する車中で血管にアルコールを流し込まれた挙句、芸大脇の路上に放り出されて轢殺された黒須。内臓破裂に頭蓋骨折と、ほぼ即死に近い状態でありながら、黒須にはしばらく、まだ息があった。
金家がその末期に立ち会えた偶然は、僥倖とか虫の知らせという言葉ではまだ足りない。
もっと強い、予感という以外にないなにかに支配されていなければ、何の当てもなく公園に向かいはしなかっただろうし、路上に倒れ伏していた黒須を発見することもなかったと思う。
今、会えなければ、2度と会えないとわかっているような――いや、この夜を境に自分自身の人生も変わり、もうあと戻りできなくなるのだと了解している重苦しい予感。
あるいは、桜木から谷中一帯にかけて広がる霊園の静けさに、黒須を呑みこむ不穏な気配を重ね合わせたのかもしれなかったが、とにかく歓楽街で黒須を見つけられなかった時、金家はほとんど迷うことなく橋を渡り、霊園脇の暗い間道でその変わり果てた姿を間にしたのだった。
敷地からはみ出した上野公園の樹木が頭上に覆いかぶさり、都内とは思えぬほどの闇を立ち込めさせる路上で、黒須はまるで一塊の生ごみのように黒い血だまりに沈んでいた。
すぐに人と判別するのもおぼつかないありさまだったにも関わらず、見つけるなり夢中で駆け寄っていたのは、やはり喪失の予感に衝き動かされたがゆえのことであったろう。
オヤっさん、どうした。誰にやられた。
耳元で叫んだ声が届いたものか、黒須は半ば塞がりかけた目をうっすらと開け、金家の顏を見返した。
しっかりしろよ、今、救急車を呼んでくるから。
今にも消えてしまいそうな瞳の光に呼びかけ、公衆電話を探そうと立ち上がりかけたところで、不意に動いた黒須の手に先の動きを封じられた。
『ああ……俺はひとりじゃ、なかったんだな』
冷たい手で金家の手首を握りしめ、血で汚れた黒須の頬が微かに緩んでいた。その声が耳を貫き、胸を締め付け、腹の底に沈みこむのを感じながら、何言ってんだよ、いまさら、と金家は怒鳴り返した。
その手は食わねぇぞ。一芝居打って、フケようって魂胆だろ? やりすぎてんじゃねぇよ。俺まで騙すことないじゃんか。俺まで、俺までさ……。
独りにした。
一番必要な時に力になれずに――なろうともせずに、この俺までが黒須を独りにしてしまった。
後悔という言葉の重みを満身に受け止め、無様に肩を震わせるしかない金家を、黒須はどんな思いで見上げていたろう。憶えているのは、ふっと細められた黒須の目が乏しい街灯の光を映して笑うように輝いていたこと。それはすぐに瞼の下に隠され、『独りじゃ、ダメだ……』という苦し気な呻き声が耳朶を打ったこと。
『独りじゃ、なにもできねぇ。こんなに人がいっぱいいるのに、みんな、独りだ。人も、国も……。〝システム〟は人を独りにする。あいつも、独りだった。でも、俺は……』
刻々と冷えゆく手のひらにわずかな力がこもり、握りしめられたままの手首に幾ばくかの熱を与えた。金家は思わずその手を握り返そうとしたが、黒須は次の一瞬には金家の手を突き放し、『これを……託す』とかすれた声を絞り出し、懐から何かを取り出し、押しつけられた。
RX-78-2、ガンダム。黒須が愛用しているガンプラだった
『行け。ここにいちゃ、いけねぇ……』
なにを……と言う間もなく、一度だけ押し開いた瞼の下で、黒い瞳がまっすぐにこちらを見据える。
ここにいてはいけない。
あの夜、GBNの『テキサス・コロニー』で、向かい合った時から……いや、もしかして、初めて会った時から、黒須はそう言い続けてきた気がする。冗談よせよ、と金家は怒鳴った。
――寝るなよ、目ぇ開けろって。オヤっさん!
『……独りじゃ、なかった』
呟き、大きく息を吸い込んだのを最後に、黒須は動かなくなった。仄かに灯っていた光がかき消え、重い闇が周囲を包み込んでいく。
俺が独りになっちまうだろ。起きろよ、起きろよ、オヤっさん。
叫んだ声も粘度の高い闇に絡みとられ、親父……! と子供のように呼びかける声を聞いたとも思ったが、それも闇の底で響いた小さな振動でしかなかった。
ここにいていけない。とどまり続ければ、黒須の二の舞になる。わかっているはずの体が動かず、金家は血で濡れたアスファルトに拳を叩きつけた。
2度、3度と叩きつけるうちに、皮膚が破れ、流れた血が黒須のそれと入り混じっていく。縁もゆかりもない、他人同士の血。
助けられ、教えられてきた相手だが、同じくらい騙され、都合よく利用されてきた。
向こうが体のいい丁稚を手に入れたつもりなら、こちらもいつかは出し抜いてやろうと虎視眈々。
そんな関係を続けていただけで、心から慣れあったことなど一度もない。互いの中に父親を見、息子を見た瞬間があったとしても、それは欠落を抱えた身の一時的な気の迷いに過ぎず、この稼業に家庭の2文字が不要であることは十分に承知している。にもかかわらず、一世一代の大仕事に乗り出そうというその時、黒須が求めたのは金家という張り合いだった。
自分以外の人生を背負っているのだという張り合い、父親が子に求めるのと同質の張り合いだった。
バカげたことだとわかっている。
所詮はその場限りの思い込み、欠落を抱えた身の条件反射のようなものだ。
現に黒須は、自分の説得に耳を貸そうとしなかった。〝システム〟がどうの、あいつがこうのと逸脱を重ね、ついにはここで野垂れ死ぬ羽目になった。とばっちりを恐れこそすれ、同情する余地はどこにもない。
さっさと立ち去ればいいことなのに、ここから動けない自分がいた。この世でたったひとつの絆が失われたように感じ、身も世もなく泣いている自分がいた。
――なぁ、親父。俺はこれからどうしたらいい? あんたがやろうとしたこと、やれなかったこと。なにひとつわからないし、どうわかっていけばいいのかもわからない。誰に、なにを。どう報いていけばいい……?
物言わぬ顔に問いかけ、ほとんど途方に暮れながらも、この時の金家にはたったひとつ、自明なこととして予測できる未来があった。
『A資金』
『財団』
『その世界を支配するという、〝システム〟』
すべてのことがわからない限り、俺はここから動けない。
明日も、明後日も、はるかその先の次の日も。
この仄暗い闇に押し包まれて、ずっとこの場に留まり続ける。また歩き出せるほどの薄明りが差すか、闇に目が慣れる時がくるまで、黒須を奪ったこの世界の、本当の世界が見極められるようになる日まで。
おかしなものだ。人をペテンにかけるのは俺たちの専売特許なのに、もっと壮大な嘘で世界全部を騙している何者かがいる。
騙す奴と騙される奴。
世の中にはその2種類しかいないのなら、俺たちが騙される側であっていい道理はない。
――そうだろ、親父。せめて確かめなきゃな。その〝システム〟とやらに、あんたの犠牲に見合うだけの内実があるかどうかを。
そんな思考がゆるゆると立ち上がり、金家はいまだ体温が抜けきっていない黒須の死に顔を見つめた。
バカが、遺言も聞きゃしねぇ。
酔いつぶれた時と同じ、少し口を尖らせた顔がそう言い、心身を押し包む闇の冷たさを少しだけ和らげた。こんな場所でも、人や車が通らないとは限らない。
その前に立ち去らねば、と考えられるだけの理性も取り戻した金家は、頭上に覆いかぶさる木々越しに夜空を見上げた。
濁った都会の空、ネオン光が陰鬱な赤色を投げかけ、火事場のそれに似た色を浮きだたせる夜空に、星の明かりは期待できない。しかし、目を凝らせばひとつ、ふたつの微かな光が瞬いており、闇にも多少の綻びがあることを教えてくれる。見逃さないことだ、と内心につぶやいたのを潮に、金家はこわ張りきった体をどうにか立ちあがらせた。
行く手の闇は深く、濃く、この世の果てまで続いているのではないかと疑わせた。
そうして歩き始めて3年あまり。金家は今もここにいる。