音を消したテレビに映っているのは、エリア11で起こった玉突き事故の直後の映像だった。通行人の誰かがウインドウのカメラ機能で撮影した動画だろう。折り重なる人垣の向こうに、交差点の真ん中で立ち往生した数台の車が映っており、画面の左下には撮影者の名前がテロップで表示されている。
と、手前のワゴン車がいきなり動き出し、追突したトラックとの隙間から黒い何かが飛び出してきて、画面が激しくぶれた。画面に移りこんでいた人垣が一斉に後退を始め、あわせて押し戻されたカメラの映像がノイズに包まれる。
『爆弾! 爆弾!』
『退がって!』
そう、テロップが入る。
ノイズ混じりの映像に逃げ出す人々の顔が断片的に映り、必死に後退を呼びかける男の顔が一瞬だけ映る。
追突事故を起こしたドライバーのひとりだろう。またはっきりと顔が映ってしまったものだな……と思う間に、画面は交差点の防犯カメラが捉えた俯瞰映像に切り替わり、交差路のど真ん中でひと塊になった5、6台の車が映し出された。
先刻の映像と同様、そのうちの一台であるワゴン車が急にバックするや、それまで追突車の陰に隠れて見えなかった何かが飛び出してくる。それが画面の外に走り出す直前、映像は静止し、丸囲みで強調された何かが画面いっぱいに拡大された。
2人乗りのバイク、とどうにか判別できる粗い映像に、
『20代前半、黒のポンチョ170センチくらい』
『30代 グレーの背広 175センチくらい』
そうテロップがインサートする。灰色のパーカーの方がハンドルを握っているようだが、荒い画像の上に顔を伏せ気味にしているので、人相の判別はできない。その後ろにまたがる背広姿にいたっては、フルフェイスのヘルメットのせいで何もわからないありさまだった。
『爆弾を持っていると偽り現場から逃走』
『上野公園でオートバイを乗り捨て消息を絶つ』
とテロップが続き、今度は公園内に乗り捨てられたオートバイの映像。横転したバイク、周囲を行き来する捜査員を捉えたあと、画面は現場に居合わせた通行人のインタビューを挟み、モノレールの地下ホームへと切り替わった。
『中継』のテロップごしにホーム上を歩き、白線の手前でトンネルの方を指さしたアナウンサーは、その隣に問題のモノレール線路、博物館駅があると説明しているに違いない。それを合図に画面は薄暗いモノレール駅に転換し、『資料映像』の表示のもと、閉鎖された博物館動物園駅の様子を映し出す。
『昨日夕方 廃モノレール線路にモビルスーツが機動』
『大幅なダイヤの乱れ今日も続く』
『安全点検のため西エリア-東エリアで単線運転』
と、テロップが重ねられた資料映像は、インターネット機能内蔵のハイビジョンでない所を見るとかなり前に撮影されたらしい。いまや報道でさえ足を踏み入れられないような廃線に、彼らはどうやって入り込んだものか。感心半分、呆れ半分で眺めるうち、再び一般人が撮影した映像が画面を埋め、電車の窓越しに撮ったらしい2機のモビルスーツの光景が流れ始めた。
緊急停止した車両の乗客が撮影したのだろう動画では、向かいの線路上を走る2機のモビルスーツが映っている。
暗く、不安定な映像ではあるが、ひとりはグレー系の背広を羽織り、もうひとりは、灰か白のパーカーをはためかせているとわかる。映像は2人がトンネルの中へ走り去ったところで途切れ、スローモーションでリプレイされる一方、丸囲みで強調された2人の姿に新たなテロップが重ねられた。
『オートバイの2人組と同一人物か』
『情報提供先 GBN捜査部……』
続いて、このところまた世情を騒がせている国際玩具ネットワーク問題。ロシア大統領が3度の詰問を強行した件について、国会が野党勢が首相に噛みつく一幕があったそうだが、知古の議員が関わっていなければ興味の持てる話ではなかった。
画面端の表示に午前7時11時の時刻を確かめつつ、呂名信人は壁際に置かれたテレビから目を離した。ガウンの袖口についた糸くずを払い、
「で、ひと晩かかって、いまだに足取りひとつつかめないんだって?」
と、先刻から耳に当てている受話器に吹き込む。〝対策室〟の地下本部の一画で、同じ民放ニュースを眼前にしているだろう電話の相手が(はい)と喉にひっかかる声で応じていた。
と、先刻から耳に当てている受話器に吹き込む。〝対策室〟の地下本部の一画で、同じ民放ニュースを眼前にしているだろう電話の相手が(はい)と喉にひっかかる声で応じていた。
("対策室〟の介入は痛し痒しでして……。捜索の目が増えるのは結構なんですが、警らの増員は我々の動きも阻害します。エリア11での初動にしても、警備の展開があと5分遅れてくれていたら、違う結果が得られたものかと)
「ネットワーク防衛部に話は通っているのだろう?」
(無論です。が、こちらはこちらで通報を受けているから、の1点張りでして)
今更呆れる類いの話ではなかった。相手がネットワーク保安部であり、存在を秘匿された非公開情報機関であれ、GBNは自らに近しい権限を持つ組織を無条件に嫌う。しかも、今回の件については、〝対策室〟の動きに前後して匿名の通報が警察になされ、両者が同じ目線を追って入り乱れた経緯がある。
自分たちが陽動に利用されたとわかれば、GBN警備幹部らの心中が穏やかであろうはずはない。〝財団〟絡みの特例案件であることは承知しつつも、警備が通報を受けた事実は事実だとして、今後もあらん限りの横槍を入れてくるだろうことは間違いなかった。
逆に言うなら、警備は通報をうけていながら手配犯を取り逃がしてのであり、そのことに関しては報道にも口をつぐんでいる引け目がある。そこらへんをつつけば、現場間調整を相手を黙らせる方法をありそうなものだが、電話の相手には荷が勝ちすぎる問題には違いなかった。
どだい、GPデュエル時代に培ったインターネット職員幹部とのコネを見込まれ、政権交代の混乱期に押し上げられただけの男だ。
「進歩がないね、君たちは」
と言うのに留めて、呂名はすっかり冷めてしまった紅茶に口をつけた。
高級茶葉の馥郁たる渋みが口中に広がり、ささくれ立った神経を多少はなだめてくれる。
GPデュエル選手時代はコーヒー党で鳴らしたものだが、自分で会社を経営し始めてから、徐々に紅茶に傾き、今となっては値の張る紅茶茶葉しか飲めなくなってしまった。
GBNコンサルタント会社、トライスター・インベストメントの経営者の顔と、〝財団〟を取り仕切る理事長の顔。
表裏2つの顔を使い分けるうち、消耗しきった心身が刺激物を遠ざけるようになった結果だが、70過ぎの年齢に鑑みれば特に異なことではあるまい。
フランス窓から刺しこむ朝陽を背に、この書斎に目覚めの紅茶を飲むひと時は、呂名には出勤前の貴重な充電期間だった。昨夜来の騒ぎがいかなる不首尾に終わったか、〝対策室〟の責任者から報告を受けるようなことがなければ……の話ではあるが。
「わかった。警備のことは長官に話しておく。それで、その金山……エイジとかいう男だけど」
(架空融資、それも『A金貨』詐欺を専門にしている詐欺師のダイバーです。6年前、日本エリア内で、身柄確保に動いたものの、拘束にはいたらず、広域手配されています)
「『A金貨』関連だ。君らもマークしていたのだろう?」
(は……。しかし監視要度は低く、我々も政権交代のごたごたで身動きがとりにくくなっていたため、積極的な追跡措置を取ることはなく……)
歯切れの悪い口調だった。なにか隠しているな、と頭のメモにつけつつ、
「その詐欺師を今になって、拘束しようとした理由は?」
と呂名は押しかぶせた。
(一昨日、防衛庁舎内にて、公安と共有しているミカヅキなるELダイバー……のデータにアクセスした者がおりました。我々が独自に調査した結果、複数の情報屋を介した先に金山栄治の名が浮かび上がり、身柄拘束に踏み切った次第です)
「ミカヅキ……逃亡の手引きをしたのも彼女か」
バイクに乗っていたポンチョの若い少女のELダイバー。テレビで見た映像に、〝対策室〟から送られてきた資料映像の顔を重ね合わせながら、呂名は独りごちた。(はい)と一段低くなった電話の声が応じる。
(警察に匿名の通報を入れたのもミカヅキでしょう。我々の動きを読んで、妨害行動の準備をしていた……ということは、エイジ、いえ金家栄治とミカヅキは以前から接点があり、金家はあらかじめ〝A〟の監視下にあったものと思われます)
「〝A〟、ね……」
初めてその名を聞いたのは、〝財団〟の完全閉鎖型ネットワークが初のサイバー攻撃を受け、上を下への騒動になった直後のことだったか。以後もたびたび報告書で目にしてきた〝EL〟の文字を脳裏に思い浮かべ、呂名はしばし続ける言葉を呑み込んだ。
一般回線に乗り入れていない閉鎖型ネットワークに、サイバー攻撃を仕掛ける手段は限られている。
最初の手口は、〝財団〟保有の閉鎖型ネットワークにウィルス入りのノンプレイヤー・ダイバーのデータをつかませるというものだった。ちょうど、ネットワーク用の防衛ブログラムだと信じ込まされた幹部社員が、ダウンロードしたところ、データ内に潜んでいたコンピュータウィルスが覚醒。作業用無人機に擬態し、メインサーバーにとりつくというものだった。
監査プログラムが即座に発見、削除措置を取ったために実害はなかったものの、同様の不正アクセスは以後も何度となく繰り返されている。〝財団〟はネットワークのセキュリティを強化し、〝対策室〟は総力を挙げて犯人の解明に乗り出しているが、現在までイタチごっこ以上の成果はあがっていない。
唯一、判明したことと言えば、問題のデータの出元を手繰る中で見出された〝A〟という黒幕の符牒のみ。その仲介役として暗躍するミカヅキの女の顔写真は入手できたが、〝A〟に関しては男女の別はおろか、そもそもひとりの人間であるのかわかっていない。ウィルスも発見されると同時に自己消滅してしまう始末で、未だにその目的の検証も敵わずにいるのが実情だった。
その〝A〟が、今回の事件に絡んでいる。
一報で聞かされていたこととはいえ、自分の言葉で再確認した感触は苦く、呂名は紅茶で口をすすぎたい衝動に駆られた。
人を食った名前からして、〝財団〟への敵意を隠そうとしない〝A〟。
過去にもGBNを脅かす危機は何度かあったが、〝A〟の周到さと執拗さにはかつてないなにかを感じる。少なくとも、自分が理事長に就任して以降、こうも露骨に組織の基盤を揺さぶられることはなかった。ブレイク・デカール騒動は別にして――いや、あれも人為的な操作によって引き起こされたとする説を信じるなら、あるいは……。
「最初に報告を受けてから、もう5年になる。いまだに素性もつかめんというのは解せないね。いまの担当は?」
妄想の域に入りかけた物思いを打ち消し、詰問の声音を吹き込む。
(木城一尉が務めております)
と、相手の声が即座に反応して、呂名はちょっと虚を突かれた。
「木城? 深雪くんか」
(はい。〝A〟関連は彼女が集約しております。今回の初動でも現場で指揮をとっておりました)
「初耳だな、それは……」
振り下ろした拳が見つからなくなった気分だった。
ICT関連事業に確固たる地盤を築いている商社、木城コーポレーションの社主にして、〝財団〟の理事でもあった父親をもちながら、進んで政府の番犬の役に身を投じていった木城深雪。
入局後も顔を合わせているはずだが、記憶にあるのはこの手に抱き上げた幼子であり、この家に来るたびに庭を駆け回っていた子犬のような印象だった。
「あの子が指揮官ねぇ……」
と我知らず呟き、呂名は本革張りの椅子をわずかにめぐらせた。
背後のフランス窓ごしに、そろそろ秋の気配を漂わせ始めた庭の木々を見渡す。もうとっくに片付けられてしまったが、かつてはここから見える場所に子供用のブランコがあった。そこに戯れる2つの小さな影を幻視した途端、
(優秀な局員です。〝対策室〟に限って、縁故による採用や昇進はありません)
と電話の声が発して、鼻白むという気分のまま幻は消え去った。
制服上がりの悪い癖だ。
その場の責任を果たそうとする本能が先に立ち、何事にも四角四面に応答して機微を読むことを知らない。
「それは結構だが、今回の不手際は不手際だ」
と苛立った声ではねつけた呂名は、庭の緑を視界の外にした。
「君らが無用の小物と断じた詐欺師に〝A〟が接触、逃亡の段取りまでつけて隠しおおせた。GBNのシステムに不正アクセスを繰り返し、〝財団〟のサーバーに攻撃を繰り返していたあの〝A〟が、だ。今後、資質を問われる可能性もある〝対策室〟の国内事案責任者として、迅速明瞭に答えてもらいたい。今、判明していることは?」
(は、申し訳ありません。加納が使用していたダイバーギアを押収、調べましたところ、一時フォルダにいくつか画像データが残っていました。イタリアに実在する企業の経理書類と、アメリカ、ロシア、中国、フランス、ドバイ各国の国内と思しき風景写真です)
これも制服上がりの習い性で、電話の声は取り繕いもせずに必要事項を列挙する。
「すべて〝財団〟の管理窓口がある国だな」
と応じながら、呂名はテレビに視線を移した。ネットワーク関連のニュースはとうに終わり、どこだかのディメンションで戦後の初の祭りが開催されたとのレポートが流れていた。
〝財団〟ゆかりの特別ICT部門は世界各国にまたがるが、その5カ国に緊急保護などの特別権限をもつ企業が存在する。そういえば、その部門のひとりと何日か前に顔を合わせたなと呂名は思い出した。すれ違いざまに会釈を交わしただけだが、それは父の法要の時だったか――。
(画像はのちほど転送します。いくつかは情報かく乱のためのダミーでしょう。このデータそのものは囮であるとも考えられますが、彼らが海外でなんらかの事を起こす可能性は否定できません。つきましては……)
軽い咳払いを挟み、声の主が威儀を正す気配が電話越しに感じとれた。続く言葉を予測して、呂名は先にため息をついておいた。
(ご存じの通り、特資は海外での海外権限を持ちません。外事部や、現地のGBNの伝を頼る手はありますが、保守秘密の観点からすると次善の策です。ですから、その……この件につきましては、〝向こう〟の協力を仰ぐのが得策かと)
案の定だった。
〝対策室〟にあって、『A金貨』関連の保守を専任する特資――特別資産管理室は、確かに国外で活動する権限を持たない。日本GBN国外で起こった事案は〝向こう〟の管轄になるからだが、唯々諾々と規定に従うだけならバカにもできる。
仮にも〝対策室〟の幹部にはバカ以上の能力を期待したいものだが、これも調整能力を買われて内事本部長になった男の面目躍如に違いなく、呂名は少し暗い気分を味わった。
ブレイクデカール問題と宇宙人対応でケチをつけたとはいえ、こと防衛対策に関しては新しくなった派閥の仕切りは悪くなかった。
旧派閥の体質とも言えるネットワーク部門びいき、票田として兵員の数を維持する慣習が一掃された結果、以前からの課題であったネットワーク部門戦力の整備に弾みがつき、陸自の削減分をガンプラバトル対戦費やネットワーク関係の装備拡充に充てられたからだ。
〝対策室〟にしても、政権交代直後に幹部の総入れ替えを行い、新政権のネットワーク事業に歩調を合わせる態勢を整えたのだったが、当時の迅速にすぎる転身が今になって彼らの立場を危うくしている。新与党政権の凋落とともに、なにもかもが再びひっくり返り、目下の防衛省はいつ誰の首が飛ばされてもおかしくない状況にあった。
ネットワーク中心とした政策を行った新与党になびいた官僚・幕僚を残らず排斥……というところまでは行っていないが、揺り戻しの波は確実に押し寄せており、〝対策室〟に至っては大規模な組織改編の噂がある。意趣返しの因果も含まされた『仕分け』をいかに生き延び、現体制を維持するか。
新与党政権とのコネが足かせになっている内事本部長にはそれが最大の懸案事項であり、いまや傍流となった特資の仕事で足をすくわれたくないというのが本音だろう。〝対策室〟こそ特資の派生物――『A金貨』に存在を担保された副産物であるにも関わらず。
「日本の特務機関の幹部の言葉とは思えんね」
嘆息交じりに呟いて、呂名は丸投げを決め込んだ内事本部長への返答とした。電話の声は応じる言葉もなく、沈黙をもってそれを受けた。
「心配いらん。海外事案は、どのみち〝向こう〟の懸案になる」
(は。では、連絡将校を介しまして、さっそく事態の説明を――)
「必要ないだろう。彼らはとっくに知っているよ」
電話の声が何か言ったようだが、もう聞く気はなかった。
呂名は一方的に電話を切り、執務椅子の背もたれに寄りかかった。壁一面を埋める本棚、仮眠用のソファ、読みさしのニュースウィークが置かれたガラス製のテーブル。パソコンが載った執務机ごしに書斎の光景を眺めてから、テレビの時刻表示に目をやる。
午前7時16分。
少し遅れたが、許容範囲か。内診に呟きつつテレビを消し、椅子から立ち上がった時だった。受話器を置いたばかりの電話が騒ぎ出し、軽やかな電子音を書斎に鳴り響かせた。
無視しようと思ったが、予感があった。
呂名はひとつ鼻息をつき、受話器をとりあげた。
(ご無沙汰しております)
外国独特のイントネーションが耳に絡みつき、予感が間違っていなかったことを否応なく証明した。
(日出国はもう夜が明けていますよね。マイケル・プログマンです)
「呂名です。ニューヨークは夕食時ですかな?」
長年の海外生活で培った英語脳で応えながら、摩天楼で下界を見下ろしているのだろう電話の相手を想像してみる。
ジョンブレイズ銀行ニューヨーク支店の若き役員、マイケル・ブログマン。
40を過ぎて未だ青年の張りを残す顔に、抜け目ない眼光を宿す〝向こう〟の代表者。最後に顔を合わせたのは2年前、常任理事を伴って現地の会議に出席した時だが、その頃と好みが変わっていなければ高級ブランドの靴を履き、これまたオーダーメイドの背広で身を固めている。
〝対策室〟との通話の直後に電話がかかってきたのは偶然か、極東の津々浦々にまで情報網を張り巡らせている者の必然か。思う間に、
(そうですか、のんびりディナーというわけにはまいりませんか)
と東部訛りの英語が応じて、呂名は後者であることを確信した。
(そちらはなかなか騒がしいことになっているようで)
「ネズミです。ご心配に及ばないかと」
(ネズミは油断のならない生き物です。どこからともなくやってきて、電線やネットケーブルを食いちぎったりしますからね。ネズミが感電死するのは自業自得ですが、我々のビジネスに支障をきたされるのは困る)
「同感です。……ちょっと失礼」
長い話になることは間違いなかった。マイケルとの回線を保留にした呂名は、内線ボタンを押して相手がでるのを待った。おはようございます、と発せられた声に、
「おはよう。家内はもう起きているかな」
と尋ねながら、アンティークの置時計に目をやる。
「あと10分待ってわたしが行かなかったら、朝食の配膳を頼みます。あとで行くと伝えておいてください。よろしく」
内線を切り、保留を解除する。
「すみません」
というと、
「いえいえ」
とこちらの事情を知り抜いている声が英語で帰ってきて、呂名はまた鼻白む気分を味わわねばならなくなった。
「で、そちらの対応策は?」
(ネズミは海外旅行に興味があるらしいと聞きました。写真に写っている5カ国には、いずれも〝財団〟の管理窓口が置かれている。新体制の要という奴です)
「こちらもいま報告を受けたところです。ダミーである可能性も捨てきれないとのことですが、用心に越したことはない。早速、各国の警備部門に注意を促しておきましょう」
(いや、それは結構です。この事は呂名理事長の胸に留めておいていただきたい。〝対策室〟にも部外秘である旨、通達の徹底を願います)
すでに決定していることと言わんばかりの口調に、こちらの2手3手先を読み、行動も起こしている男の傲慢が匂っていた。呂名は「なぜです?」ととぼけた声を返しておいた。
(GBN新体制が発足してじきに6年になりますが、『A金貨』資金全体の運用状況はいまだ好転したとは言えない。各国の運営部も青色吐息で、中には無断取引で多額の損失を出している者もいるようです。思い出されますね、新体制の是非をめぐって、やりあった日々が。あなたはあくまで〝財団〟集約型の管理体制にこだわり、わたしの提案を受け入れようとしなかった)
当時の因縁などすっかり洗い流した声で、マイケルは苦笑混じりに言う。思い出したくないことだったので、呂名は黙っていた。
(その新体制下で問題が起こっているのなら、これはわたしの責任です。無論、どこの支部も経理上の辻褄は合っていますが、損失をごまかす手はいくらでもある。ダイバーの課金額で穴埋めをしたり、〝財団〟のネットワークを利用して証拠金を用立てさせたり。ネズミが残した画像データの中に、それを裏付ける興味深い資料がありました。ヨーロッパGBNの会社が発行した書類で、相手先の名前は粉飾されていますが、これによるとどこかの運営部が週単位で億単位で莫大な額の損失分を支払っている。おそらくはディメンションを支えるために、かなりの資産を引っ張ってきているのでしょう。身内でなければいいのですが……)
ヨーロッパGBNに実在する経理書類、と言っていた〝対策室〟の報告が思い出され、各国の運営部の顔が次々に像を結んでは消えた。
ICT時代の取引に対応すべく、ベンチャー企業や防衛企業からヘッドハンティングされたエイジニアたちはいずれも若い。中には30代の者もおり、呂名には異生物と思える能面でパソコンの前に陣取り、秒単位でプログラミングに勤しむ姿が印象的だったが、誰が怪しいと考えられるだけの個人的な感想は持ちようがなかった。
法要ですれ違った彼、谷沼にしても……と思考をめぐらせかけ、詮無いことと打ち消した呂名は、先の展開を予測してひっそり嘆息した。
マイケルは身内の不正を確信している。
ぼかしはしているが、すでにどの運営部かも特定済みかもしれない、こちらにはあずかり知らぬところで、また誰かの血が流されるというわけだ……。
(もし身内なら、その者は盗人です。盗人には、ネズミと折り合う利害もあるかもしれない)
「運営部の誰かが、〝A〟の計画に関与している可能性がある、と?」
(それを確かめたい。ハンターを放ちます。ここだけの話にとお願いしたのはそのためです)
GBNが惨劇の舞台となることは予測していても、ハンターという言葉は胸を冷やさずにおかなかった。
「その者を更迭して、調査をかければ済む話かと思いますが?」
応じた呂名の弁をしまいまで聞かず、
(盗人はひとりとは限りません)
とマイケルは押しかぶせる声で言った。
(かつての、ブレイク・デカール騒動は過去のものになった。行き過ぎたゲームがもたらした惨禍から立ち直り、GBNはより賢く、より高い水準に達した……などと喧伝していますが、実態は不採算と資金調整で、見かけの数字を稼いでいるだけのこと。ですが、ガンプラ・ビジネスはGBNの加入人数に合わせるのに比例して、売り上げが伸びております。まるでかつてのバブルを予期させるように)
バブル、という一語に自らを重ね合わせるがごとく、マイケルは達者な声音にふと薄暗い響きを織り交ぜた
(こういうご時世には、えてして盗人がはびこりやすいものです。風紀の取り締まりも我々の仕事でありましょう?)
「なるほど。ネズミを餌にして、この機に家内の点検というわけですか」
〝A〟を泳がせて、身内の背信の証拠をつかむ。目先の火事に右往左往する身には思いつきようがない、上から見下ろしている者の発想という他なかった。
「さすが、何事も効率的ですな」
と皮肉を言った呂名に、マイケルは、
(嫌わないでください)
と苦笑混じりの声を寄越した。
(祖父の功績で一族の末席にあずかってはいますが、わたしはジョンブレイズの中では外様の身です。『A金貨』の管理運営が唯一の命綱なのだから、必死にもなる。宗主の直系であるあなたにはわからぬ苦労です)
「いつも決定が伝えられるばかりで、自分で自分の行き先を決められない〝財団〟の理事長にも、人知れぬ苦労があるとは思いませんか?」
マイケルは針で突かれたような声を出し、くっくっと笑った。
(あなたのように聡明な方と知り合えるから、この仕事は面白い。そちらに伺った際には、また日本酒で一杯やりましょう)
「その時には、面倒が片付いていることを願って」
同意とも取れない含み笑いを残して、電話は切れた。
一方的な通達とはぐらかし、心にもない称揚と空虚な追従。
マイケルとの数分に〝財団〟の現実を――ひいては日米関係の神髄を観ながら、呂名は今度こそ席を立った。
時刻は午前7時20分。
まだ日課をこなす時間の余裕はある。
ネットワークに顔がきく常任理事への連絡、傘下の部門の財務諸表のチェック。懸案になっているサーバーの各セクションの詳細把握と、導入の可否を決定する役員会議の招集……こちらは自分の会社の話だから、秘書に任せても問題はない。
午前中にやるべきことを列挙し、漏れはあるまいかと鈍った頭をまさぐりつつ、呂名は書斎を出てカーペット敷きの廊下を歩いた。今朝は昨日までの残暑が嘘のように寒く、ガウンの前をしっかり閉じ合わせずにいられなかった。