ガンダムビルドダイバーズ 〝A〟   作:ジ ュ ン

2 / 91
第一話

 わたしの名前は冴島紗理奈。

 故郷の伊豆に戻り、呂名って家の別荘に住み込みの仕事……家政婦? を始めてから、じきに3年になる。

 ガンプラバトル・ネクサスなんちゃらとかいう、プラモデルを戦わせるゲームのやりすぎでクレジットカードにまで手出して、その破産で自殺した兄さんの葬儀で、実家に顔を出した時、地元で暮らしている友達に紹介されたのがきっかけだった。

 曰く、

「私の親戚の叔母が住み込みで働いているお宅があるのだけれど、先日腰をいためてからどうにも動けなくなって。ここ10年は呂名哲郎さんっていう旦那様が住んでらしているのだけれど、誰かに信頼できる人に任せようかな」

 と。

「その点、沙理ちゃんなら信用できるし、こっちに戻る気があるのならどう? 大変な資産家で、ほとんど表に出ない方らしいけど、別に偏屈ってこともないわ。私が友達の代わりにお手伝いに行った時も、ずっと奥に引っ込んだきりで、ありあわせのご飯も文句に言わずに食べて。お歳は、50近いと思うけどね。背筋はぴんとしてて、まるで若い人見たいよ。背丈はあって、若いころはさぞかしいい男だったんだじゃないかしらね……」

 東京にある家を捨てて、このところ別宅でひとり暮らしを続けている旦那さんが、昔はどうだろうがわたしには関係なかった。口やかましくもなく、わがままも言わないのであれば、十分に理想的な働き口といえた。

 高校を卒業し、アルバイトをふらふらしながら、わたしは20を迎えた。なにかと折り合いの悪い両親の元を何度か飛び出してきた彼女にとっては、知らない空気で働いた方が何かと都合がよかったのだ。

 そんな考えで、冴島紗理奈は呂名家の別荘に住み込みの職を得た。食べることと寝ることが保証されたうえに支払われる給料は、どんなアルバイトを経験したものよりも大金なものだった。

 呂名邸がある伊豆高原は、19××年代に伊豆急行が八幡野地区に開発した別荘地だ。インターネット、光ファイバー導入のあおりを受けて、近代化に移行しつつある、みたい。ほかの別荘地とは違い、今でも昔懐かしの自然が広がっている。伊豆半島の東側、相模灘に面する丘陵地には、未だなお昔、購入した別荘地が無数に立ち並んでいる。近くには城ケ崎海岸があり、少し足を延ばせば大室山が望めるという地勢で、今もなお観光地としての要件はそれなりに満たしている。

 ……とパンフレットに書いてあった。

 だが、高原というのはいささか誇大広告ともいえる、らしい。

 海岸線まで含む伊豆高原の標高は、国内で高原と名付けられたなかで一番低い。別荘地でいえば軽井沢、軽井沢と言えば高原という論法で命名されただけのことで、古くから住む者には釈然としないものであった。

 とはいえ、19××年代後半になってもなお、緑の木立ちに覆われた山は涼しげな風情を見せ、近代化となった都市圏の人間からは、人気が高い。かつては企業が保有する保養施設もひとつならずあり、夏休み時にはにぎやかにすることもあったらしいのだが、呂名家の別荘には無縁の話だった。

 広大な敷地内に3階建ての屋敷を擁する呂名の家は、伊豆高原の中でも最初期に開発された区画にあり、古くからの資産家宅が多いため、転売されることは少ない。建設が絶えてばかり一帯は、時に忘れられたかのような静けさで、一年通してもあまり人の出入りがなかった。

 中でも呂名邸は、その大きさと言い、武骨な作りといい、古色な一帯の空気を取り入れたような、時代に取り残されたモダニウム? を体現しているように見えた。

 インターネットやら近代改修された昨今の住宅が、コンパクトなファミリー向けのオートマ自動車なら、今時、無線のインターネットもひいていない古風な邸宅は、こちらはが金持ちの証とでもいいたげな往年のマニュアル車。

 まだ公害もいろいろな問題も深刻な問題ではなく、ひたすら上だけ見て走り続けていればよかった時代の遺物というかなんというか、畳の上にカーペットとテーブルセットを置き、これがモダンだと悦に入っていたころの日本人が見た夢の具現というか。

 吹き抜けの玄関に広々としたリビング、来客用の寝室が10をくだらない屋敷は、わたしの世代からは考えられない豪奢さを感じさせるとはいえ、いざ清掃管理を任された身には無論のこと別の感想がある。

 当初はその広さに圧倒され、務まるものだろうかと不安になったが、清掃は1週間単位で屋敷を1巡すればよく、庭の手入れは通いの植木屋に任せられるので、ひとりでもなんとか切り回すことはできた。どだい、時間だけは売るほどある。

 わたしが勤めて以来、屋敷を訪れた客といえば、植木屋さんやもろもろの御用聞きを除くと、「家の写真を撮らせてほしい」と言ってきた設計会社の人間くらい。その際、丁寧にお断りしたのがわたしの唯一の接客業務で、あとはほとんど訪れる者もなく、主の孤独を引き移したかのような影に覆われているのが呂名家の別荘なのだった。

 昔から出入りしている植木屋さんの話によると、かつてはお盆のたびに一族中の人間が集い、その間はちょっとしたホテル並みの活況をみせるのが呂名邸の常であったという。近在の仕出し屋から酒屋、魚市場からの直送便がひっきりなしに出入りし、特別に用意された大テーブルに並ぶごちそうの数々。

 庭の池には鯉が泳ぎ、子供らが歓声をあげて駆け回り、大人たちはそれを横目にしながらテラスでグラス片手に談笑する――そんな19××年代の夢のような光景が、この屋敷を彩っていたものだ、と。

 不思議なのは、それほどのお大尽であったにもかかわらず、呂名家の実態を正確に知る者がひとりもいない点で、ある者は政治家一族であると言い、またある者は旧財閥の流れを汲む家系であると言い、そうかと思えば昔に事業を起こして成功を起こした成金一家との風評も聞こえてくる。

 わたしが了承しているのは、雇用の際に事務を担当した男が『トライスター・ホールディングス』という会社の社員であったこと、緊急時の連絡先が同社の代表取締役・呂名信彦の自宅になっていることぐらいで、その呂名氏が旦那さんの身内、おそらくはご子息だろうと推測できたが、確かめたことはついぞなかった。別に訊くのがためらわせる空気があったわけではなく、なんとなく聞きそびれているうちに、いつしかどうでもなくなってしまったのだ。

 旦那さんという人物は、本当に手のかからない人物で、同じ屋根の下で暮らしていても生活の気配が感じられず、時々いるのかいないのかわからなくことさえある。

 その気さえあれば女を囲うなり、年の離れた自分にセクハラを行うなりなんなり、金も権力もあるらしいのだが、これといった趣味もなく、食事時以外はなにをしているのかよくわからない。傍目には、楽隠居の見本ということになるのだろうが、隠れ住むという意味通りの隠居であっても〝楽〟の字はうかがえず――いっそ楽しむことを禁じているように見えるのは、姿勢の良い着物姿に張りついた薄暗さのせいなのかな?

 いずれ、なにを聞いても十中八九「適当にやんなさい」と返ってくる始末で、日に3度の食事の献立も任せっきり、味付けで文句を言われたことも1度もなかった。出されたものを黙々と食べ、いつの間にか自分の部屋に帰っている。

 その気になれば色も欲も抜け落ちようとはいえ、足音ひとつろくに立てない植物ぶりは、働き始めた頃はおっかないを通り越して不気味ですらあったが、旦那さんがそうする理由は追々察せられるようになった。

 ある時、納戸の整理をしていると、長持の中から30センチ大の小箱が出てきた。角のついた2つ目の白い古いロボットの絵が描いた箱で、確かわたしの兄も好きだった〝ガンプラ〟というものだろう。日付がマジックで書いてあり、8月と書いてある。この屋敷に呂名家の面々が参集していた頃、遊びにきていた子供のひとりが忘れていったのだろう。

 当時、10歳かそこらであったのなら、この日記の持ち主は今頃30歳前後。旦那さんに見せたところ、「あぁ、こりゃ正彦のだな」と言い、老眼鏡越しにしみじみと眺めたあと、「燃やしといてくれ」と突き返された。

 お子さんですか? と思いきって訪ねた紗理奈に答えて曰く、

「いや、孫だ」

「だったら、喜ぶかもしれないですよ」

 おせっかいを承知で重ねるや、旦那さんは初めて人と話していたことに気づいたという顔でわたしを見返し、

「もう、この世にはおらんのでな」

 そう答えて、視線を逸らした。余計なことを言ったかな、とわたしは恥ずかしく思ったけど、旦那さんは特にどうという感情の振れ幅も見せず、いつもの植物の面持ちで背を向けるのだった。

 なまじ50年ほど生きれば、両親に先立たれる不幸を味わうこともあるのが人生なのかもしれないが、この齢で孫に先立たせるとは神様も残酷なことをすると思う。

 数日後、植木屋との応対まじりにその話を持ち出すと、息子もかなり前に亡くなっていると聞かされ、わたしは2度驚いた。あの緊急連絡先に記された名前はおそらく長男のもので、次男は10年以上も前に亡くなっている。

 若手の政治家、それも事故死となれば幼い時分の時、世間を騒がせた議員自殺事件との関係を疑う声も少なくなく、そういえば、その頃から別荘に人が集まらなくなったのだ……と植木屋は言っていた。わたしは、旦那さんの背中に張りついた陰の正体を垣間見た、そんな気がした。

 次男を死に至らしめた原因がなんであれ、以来、呂名一族の年中行事が途絶えてしまったのは、突然の不幸に水を差されてしまったからだけではないだろう。わたしが知る限り、長男を始めとする呂名家の人々はまったく別荘に寄り付かず、旦那さんに電話の1本もかけとこない。

 疎遠という言葉では説明もつかない徹底的な断絶は、隠居というより世捨て人に対するそれに近く、あとに続いた孫の死にも含め、そうさせるなにかが旦那さんの身にあったということなのかもしれない。そう思えば、あの姿勢のよい背中に張りついた陰の薄暗さも理解できるというものだったけれど、その後、思わぬところで旦那さんにまつわる風説を耳にするのであった。

「姉さんが住み込みしている家、呂名っていうんだろ? うちの銀行にも少し預金してくれないかなと思って。本社にいる同期にちょっと調べてもらったんだけど、なんだかすごい人らしいぜ。昔はどっかの、大企業の社長やっててさ、しかも政府与党に太いパイプももってる。右翼の親玉ともツーカーなんかで、あの鈴木なんちゃら、歴代総理も頭があがらないと来てる。今、ジービーなんとかっていう、でっかいオンラインゲーム流行ってるだろ? それ開発する時も、親会社を通じて資金協力をしたとかなんとか……。いや、冗談じゃなくて、俺のとこに財務省の幹部から連絡があったんだよ。『呂名さんのことを調べているのは、あなたですか』って。

 びびったよ。こっちはしがない地銀だぜ? どこから耳に入ったんだか……。それで、姉さんが住み込みでお世話になってましてって言ったら、『今はどのような暮らしぶりなのでしょう』って聞くんで、俺も知っている限りの話をして。そしたら少し黙り込んじゃって、『ふぅん、あの人がね……』なんて言うもんだから、こっちも本来の目的を思い出してさ。『うちの銀行に介入の余地はありますかね』と聞いてみたら、笑って、あなたの手に負えるような人じゃありませんよ』だって」

 電話越しに一方的にしゃべる弟は、昔は選挙のたびに党幹部が日参していただの、ひと頃は〝伊豆の主〟と呼ばれていただの、小説めいた話を地で行くような話をひとしきり並べ立て、わたしはその間、旦那さんとの姿との落差に戸惑う時間を漂い続けた。

 経済界の黒幕であったらしい呂名哲郎氏と、現在の枯れ切った植物のような旦那さん。

 つなげて考えるのも困難だが、もしかしたら……うーん、ととっさに考えている自分もおり、そう考えさせる何かが旦那さんを隠居たらしめていることも事実だと思う。

 これが本当の話なら、過去と現在の断絶はあまりにも深い。あるいはその断絶の裂け目に数々の悲哀が降り積もり、押し固められた砂になって旦那さんを〝楽〟から遠ざけているのではないかと、柄にもなく考えてみたことだった。

 あの役人さんは、旦那さんの身元を調べているのが箸にも棒にもかからぬ銀行員とわかって、安心したのだろう。電話を切り際、『私どもも大変お世話になった方です。お母さまにもよろしく伝えてください』と言伝したそうだが、弟には届かぬ誠意だった。

「ねぇ、姉ちゃんは結構そのおっさんに気に入られてんだろ? 俺のこと、紹介してくれないかな。あとどこの銀行が出入りしてるか教えてくれると助かるんだけど――」

 と続いた弟の猫なで声に、はいはい、そのうちね、と返してわたしは電話を切った。

 この歳で、住み込みの家政婦をやっている姉の身を案じるでもなく、久しぶりにかかってきたのがこの電話。

 孤独なのは、旦那さんだけではない。わたしも、一緒だ。

 そう思った途端、寄る辺ない心身を包む屋敷の空気が奇妙に暖かく感じられ、この歳にしてここで死ぬのかな、これが終の棲家……という思いがけない一語が脳裏をよぎった。いるのかいないのかわからない、しかし間違いなく同じ屋敷にいる旦那さんの足音までが愛おしく、その晩は手の込んだ料理で主の食卓を飾ったものだった。

 そうして、瞬く間に20××年代となり、数年が過ぎ、それまで無縁だった〝ヴァーチャル・リアリティ〟というシステムが伊豆高原に浸透つつあったころ、わたしは20代後半を迎えた。旦那さんも60を半ばに迎えたはずだったが、老いてなお、頑健な体は特に弱った素振りを見せず、気配もない異様も初めて会った時から変わるところはなかった。大きな動物か何かと一緒に住んでいるのだと思えば馴染めぬものでもなく、足の運びに注意していればその日も体調もだいたい推し量れる。

 のっそりと重い気配の時は、胃の調子が悪いだろうから軽めのもの。

 逆にすっと滑るように歩く日には、ここぞとばかりにスタミナのある食事を用意する。

 ある日、『いっしょに食べませんか』とかしこまった口調で言われてからは、台所の一画で食卓を囲むようになった。

 使用人の身で、食堂を使わせていただくわけにはいきません、とあくまでわたしは断った結果が、家の主が台所で食事をとる珍妙な光景が定着してしまった。

 向き合ったのだからといって、なにを話すというわけではない。

 互いに黙々と箸を動かし、気が付けば当たり障りのない話をするだけのことだが、旦那さんにはそれだけでも十分だろうし、独りきりの侘しさから救われたのはわたしも同じだった。

 歳の離れた夫婦のような、親子のような面持ちで食卓を囲むうち、〝家庭〟という忘れかけていた空気が朧に漂うようになり、呂名家の別荘は行き場のない壮年の男と年若い女2人の〝家〟になった。

 来客もなく、

 電話もならず、

 たまに迷い込んでくる猫だけが微かに外の風を感じさせる生活のなか、滞ることを知らない時の砂がさらさらと流れ落ち、〝熱〟という名の瓶に降り積もっていった。

 

 

 1度、その均衡に崩れかけたのは、屋敷に若い男が訪ねてきたとき。

 

 

 地味でかっちりとした背広は勤め人風にでも、どこか垢ぬけた風情が東京の匂いを感じさせる男で、旦那さんとは旧知の間柄であるらしい。長男が経営する会社、トライスターなんとかの社員だろうか。親類にしては強張った態度に、そんな当たりをつけたわたしに語ることはなく、旦那さんは書斎に通した男と長い時間話し込んでいた。

 茶を運ばせたあとはドアを閉め切り、夕飯時になっても出てこなかったのだが、様子伺いの声をかけたら怒鳴られそうな、張り詰めた空気であったことは間違いなかった。

 そしてその時から、乾いた空気がぴしりと音を立てるような、息を潜めていたものが身じろぎするような、この屋敷のなかでなにかの位相が切り替わった気配が感じるようになったのだが、気のせいだと言われればそれまでのことだったのかもしれない。

 男はその日のうちに帰り、旦那さんにも特に変わった様子は見られなかった。ただ数日後、急に廊下にやってきたご隠居に「パソコンのモニターと、ダイバーギア、というものを買ってきてくれ」と頼まれ、わたしは持っていたモップを落としそうになったのだった。

 ファミコンだのプレイステーションだのそういう類しかわからなかったわたしにとって、てっきりそういう類というものだと考えていたが、それとは違い、なんと今、流行りのジービーなんとかというオンラインゲームで遊ぶためのものだとかいう機材だったみたいで、正直驚いた。

 替えの電球くらいしか置いていない近在の電気屋ではらちが明かず、車で1時間近くある大型電気店へ。1から10まで店員の世話になって、ようやくインターネットとそのオンラインゲームだかの回線がつながるようになった。

 最初は扱いになかなか難儀しているように見えたが、ひと月も経つ頃には要領もわかってきたようで、目を赤くして起きてくることもままあった。

「おもしろいものです?」

 と聞いたら、

「まぁ、まずまずだ」

 と鈍い返事。

 ある時、書斎を掃除する際に1度だけ覗き込んでみたパソコン画面には、無数のロボットたちが縦横無尽に飛び回っている状況が移っていた。

 たしか、いつか前にだいぶ昔に納戸にしまっていたガンプラ? とかいうロボットの人形と似ているな、と思いつつも、そういえばまだ処分していなかったな……という思いを片隅に残したまま、それ以上の興味も感想もないのがせいぜいだった。

 それからまた、数年が経ち、世間では大物投資家の逮捕が云々と騒がれていた頃、あの男が再び屋敷に訪れた。今度はなぜか、タッパーを持参しての来訪だったが、すぐには同一人物と気づかなかったほど、男の印象は先に会った時とは一変していた。

 垢ぬけた印象はそのままでも、頬の肉が削げ、精悍さを増した顔つきは、東京の勤め人と判じられた以前の男のものではなかった。体格もたくましくなり、全体にひと回り大きくなったように感じられたが、なにより変わったのは目だった。さして人当たりがいいとも思えなかった目が、この時はまっすぐに内側に入り込んでくる強かな光に宿し、なんとも魅力的な笑顔とともにわたしの中を突き抜けていった。

 さながら、季節の変わり目を告げる突風のような笑み――。

 外界から遠ざかった身には刺激が強すぎ、わたしは狼狽したものだったが、迎えに出た旦那さんはいつもの凛とした表情を崩さなかった。

 微かに笑った目を男のそれと見交わした瞬間、また屋敷内の空気が音を立てて引き締まり、見えない何かがざわざわとうごめく何かがあったものの、傍目には和服姿の壮年の男と、孫にしても若すぎる男が向き合って立っているだけのことだった。

 旦那さんは無言で男を招き入れ、男はタッパーをもって、書斎にこもってその日も長いこと話し込んでいた。ずっと、男が家を出たのは日付が変わってからのことではなかっただろうか。

 さしずめ、どこかの証券マンが新しい投資口でも勤めにきたのだろうが、旦那さんに例によって何も語らず、次の日からはいつも通りの平穏な時間が流れ始めた。

 あの笑顔で迫れれば断るものの断れまいと思い、またなにかを買うと言い出すのでは……としばらく様子をうかがってもみたが、わたしが見る限り、旦那さんの生活に変化はなかった。ただ、それまでも静かだった気配がいっそう強まり、その目が遠くを見るようになった、そんな些細な変化が感じられはしたことだった。

 なにを打っても響くものがない、身の内深くに生じた穴。わたしの中にも生じつつあるそれは、歳を重ねるごとに着々と虚無の淵を拡げ、存在の芯を少しずつ溶かし込んでいく。

 思えばここに勤めてから、10年が経った。

 時間は確実に流れており、旦那さんも自分も歳をとっている。わずかな肉と皮と骨だけとなった旦那さんは、行く先を見据えて最後の息を吸い込む感じ――。

 

 それ以上は考えず、言葉にもせずに退けた穴の正体がその朝、唐突に姿を現した。

 

(……『俺、ガンプラが、ガンプラバトルが大好きです。あなたに憧れて始めたGBNが大好きです。ガンプラが、ガンプラバトルが大好きだという気持ちで、沢山の人と繋がりあえる。色んな人達が、色んな目標を持って、自分の歩幅で前に進んでいける。そんなGBNが大好きでそこで出会ったのがサラなんです。サラにいっぱい教えてもらった。一緒に経験した。皆との絆。ガンプラとの繋がり。楽しむ気持ち。諦めないこと。前を向いて進むこと。ガンプラを大好きだってこと。いっぱい感謝している。だから諦めたくない。サラにいっぱい笑顔にしてもらった。大好きって気持ちを教えてもらった。俺達の好きが生んだ命がサラなら俺達の手でサラを消したりしちゃいけない。自分達の好きを自分達で否定したくないから。だから……俺達は、俺達の好きを諦めない!!』……)

 

 

 パソコンのスピーカーから少年のよく通る声音が、夏の残り香が漂う夕暮れ時の空気をかき乱した時だった。

 突然、天を突くような笑い声が吹き上がり、わたしはぎょっとして掃除の手を止めた。

 慌てて書斎に走り出し、中を覗き込む。簡素なテーブルで、いつもの紺の紬を着た旦那さんが天井を仰いで笑っていた。

 破顔。

 その言葉そのものといった表情が初めてなら、笑い声をきいたのも初めてで、わたしは茫然と主の奇態を見つめた。ハハハ、と満面で笑う声は、常軌を逸したようでありながらどっしりとして野太い。

 ひたすらに痛快だという笑いがさんざめき、屋敷全体を揺らすかのようだった。

 大昔の武将が戦場であげた笑いは、こんなふうだったのかもしれない。ふと思いついてから、わたしは旦那さんの視線の先を追った。

 長方形に近いパソコンのモニターの画面に、洋風の大きな建物のバルコニーらしき場所が映し出されていた。有象無象のロボットたちが、押し合いへし合い、なにかの勝負をしているように見えるが、その差は違いすぎるように見える。

 なにか可笑しいことでも? と尋ねる勇気がもてぬうちに、

「あいつめ、本当にやりおった……!」

 と笑いの余韻を引きずった声が言い、わたしは粟だった肌をさするのをやめた。不意にこちらをむいた旦那さんの、子供のようにまっすぐな瞳がすぐに目の前にあった。

「紗理奈さん、あとで寿司でもとろう。今日は内祝いだ」

 言いざま、ぽんと膝を叩いてモニターに視線を戻す。その前には、ほとんど手つかずの朝食があった。はあ、と応じた声が喉に詰まり、わたしもパソコンのモニターを凝視し続けた。

 有志決戦。

 ELダイバー。

 GBN危機。

 世界的なサーバー危機。

 さまざまな言った言葉が流れ、宇宙を駆け巡る光の翼がダイジェストに流れていく。

 そして、その身を強く抱きしめあう一組の男女。

 なにをどう考えていいかわからず、これはご隠居にとってどう得になるのか、おろおろと考えをめぐらす間に、

「A――」

 と、しわぶきのような声が耳朶を打ち、わたしはわけもなく跳ね上がった心臓の音を聞いた。

「これでいい。目覚めの時だ。……紗理奈さん」

 遠くに焦点を結んでいた意識が、急に放散したと思えるやさしい声。

「朝からなんだが、ビールをくれんか?」

 と続けた旦那さんの顔色をわたしはあらためて見つめた。いつでも薄暗い影を引きずっていた顔が、清々とした笑みを浮かべてこちらを見つめ返している。身の内に沈殿した悲哀の砂が溶けて流れ出したような……いや、これまで重ねてきた歳月そのものを消し去ったかのような笑顔の、なんと穏やかなことか。

 初めて〝楽〟の意味がわかったかといわんばかりの、神々しいまでの笑みはどうしたことだろう。わたしはほとんど感動し、こんな笑顔をどこかで見たことがあると思いついたが、突き詰めて考える頭は働かなかった。

 この5年ばかり、まれにウイスキーをなめる程度で、旦那さんは酒から遠ざかっている。ビールの買い置きはあるはずだが、賞味期限はどうだったか。急かされる思いで冷蔵庫を開け、奥の方に追いやられた缶ビールに手をつけた時だった。

 がたん、とひどく大きな音が響き渡り、わたしは全身を凍り付かせた。

 椅子の引いた音だったが、それだけではないと本能が理解していた。一瞬の静寂のあと、突然の物が落ちる音がした時、喪失の予感を確実なものとした。

 振り返り、最初に目にしたのは床にころがった旦那さんだった。椅子から落ちて、動かなくなった旦那さんが天を仰いでいた。椅子の背もたれに身を預け、両足を突っ張るように投げ出して。微かに開いた口を、笑みの形にしたまま。

 旦那さま、と呼びかけようとした体から力が抜け、わたしはその場に座り込んだ。しんとしずまり返った書斎に、誰も見ていないモニターの音が流れ続け、開けっ放しの冷蔵庫が向こうからピーピーと電子音を鳴らす。

 静止した頭がゆるゆると動き出すのを待って、わたしは四つん這いの恰好で旦那さんに近づいていった。だらりと垂れ下がった手をとり、震える指先を脈に押し当てる。まだ温もりを残す手首を握りながら、やはり笑っているように見える横顔をそっと振りあおぎ、あぁ、この人は解放されたのだ……と自答を得たわたしは、なにから? と考えるより先に周囲を見回していた。

 これから医者を呼ぶにしても、こんなさまを見られるのは旦那さんの本意ではあるまい。愚痴ももらさず、暴れもせず、この歳までしっかりと生きた人なのだ。

 どうせなら、一杯飲ってから行けばいいのに、せっかちな人だ。

 電話番号しか知らない長男への連絡、これでまた路頭に迷う事になった自分の今後。諸々の思考は、考える端から泡になり、わたしは泣いた。この10年あまり、いつでも傍らにあった他人の体温が立ち消え、物に還っていく刻々を数えながら、自分は幸せだったのだろう、とぼんやり思いついた。

 これから激動を迎えることを告げる、モニターの声、押し殺した嗚咽の声に包まれながら、呂名哲郎はしんしんと眠り続けた。託すべきを託し、もう背負うものは何もないとでも言いたげな、〝伊豆の主〟と恐れられた男の静かな死に顔だった。

 

 




  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。