してます!
それから5分と走らず、エレナは大修道院の駐車場に車を停めた。
アレクサンドル・ネフスキー大修道院を模したこの修道院は、11の教会と神学校、墓地を擁している一大聖地で、大通りの東の起点であり、ここのディメンションを象徴する場所として知られる。
現実世界のロシア同様、河川の支流に沿って神学校のレンガ造りの建物、聖堂を始めとする教会の建物の数々は、この地方独特の粒立った自然光――理由はわからないが、とにかく日本で見るより色彩が際立って見える――と相まって美しく、緑豊かな地勢も観光名所として呼ぶにふさわしい。
赴任したばかりの頃、サトシも現地社員の案内で足を運んだことがあったが、以来、少なくともプライベートでは訪れたためしがなかった。いや、〝財団〟理事が視察に訪れた時ですら案内を人に任せ、自分は寄りつこうとしなかったのだから、むしろ積極的に避けている場所と言ってよかった。
どれほど、文化的な価値のある場所を再現したところであろうと、墓場は墓場。死んだ顧客のビルドコインでも出てこない限り、システム屋が喜んで出かけていく場所でもないし、ロシア正教伝来なところもサトシの苦手なところとする所だった。
墓の作りは西洋的なのに、それらが集まった時に醸し出す空気、芝生と一体になった土の香りが極めて東洋的というか、いっそ日本的なのだ。
かの有名な小説家や音楽家が眠る、このチフヴィン墓地を再現したこの墓地の空気は特にそれは顕著で、片流れの屋根を配した堀の風情、木立に覆われ昼なお薄暗く湿った空気は、祖父の田舎にある先祖の墓を彷彿とさせる。
子供のころ、盆が来るたびに連れていかれたその墓場の空気がサトシは嫌いだった。
まとわりついて離れない羽虫も、
精進料理の不味さも、思い出すと今でも鳥肌が立つほどだ。
子供なりに、逃れられないものの重みを感じ取っていたからかもしれない。
家系。
伝統。
儀式。
そして、死という終焉。いかように生きたところで人は結局、この湿った土の底に引き込まれ――。
そんな感慨は、キノシタとこのELダイバーの女には無縁のことに違いない。
勝手知ったるという形で、2人はこの教会エリアの中心を歩いていく。サトシもそれに倣ってついていった。
今は平日の昼下がり。
デジカメを手にした観光客のダイバーたちがそこここに見受けられ、礼拝に訪れているダイバーたちも少なくない。商談、それも密談を要する商談に向く場所とは思えなかったが、訪ねて答えが得られる状況でないことはわかっていた。この場に似つかわしいとも言えない死神の背中を追い、サトシはしばし地上でもっとも死に近い大修道院の空気に身を浸した。
バロック様式の造りは荘厳でも、ロシアの教会の印象はやはり泥臭い。前を横切った時にちらりと中をうかがうと、薄暗い聖堂の奥で司祭のNPDが祝詞を行っている。鎖付きの香炉を地面すれすれに漂わせ、歌うように祝詞を唱える司祭の前では、外国人の女性のダイバーがひとり跪いており、香炉からたなびく白い煙がその背中を包み込んでゆく。
普段ならエキゾチックの一語で片付く光景が、この時は妙な空恐ろしさを伴って胸に迫り、サトシは我知らず立ち止まっていた。香炉独特の匂いがふと鼻先をかすめ、この身から漂う現実を紛らわす香り……となんの抵抗もなく思いついた刹那、先を行くエレナに呼ばれて我に返った。
鉄面皮を崩さないエレナの向こうで、キノシタが不審げな目でこちらに注いでいる。サトシはあわてて足を動かし、2人に追いついた。
教会や神学校の建物が後方に過ぎ、敷地の外れに位置する森林の入り口が目前に迫ってくる。
ニコリストライエ森林の文字が門に掲げられたそこは、歴史的偉人が眠るチフヴィン墓地とは異なり、小規模な一般人の墓地がある。キノシタは門をくぐってゆき、サトシも門の文字に躊躇したのも一瞬、息を詰めてあとに続いた。
森林の中は、一般人の姿はなく、向こうに見える墓地は見渡す限り無人だった。偉人たちの墓と違って、装飾もなく、銅像の類いもないので、日中だというのにひどく暗く感じられる。森林の一方が車道に面し、車の音がひっきりなしに聞こえてくるのも、そう感じる一因だろう。にも関わらず、一歩踏みいれた途端に湿った冷気が舞い戻り、周囲の湿度が1、2度下がったような気がしたのは感じすぎか?
押さえてもあふれ出す不穏な想像に絡みつかれつつ、延々と並ぶ針葉樹林を歩き続けて一分とすこし。ほとんど敷地の端まで歩き、車道に面した塀の前で立ち止まったキノシタの視線の遠くに、鎮座している巨大な人型の姿があった。
GAT-S02R。正式名称<NダガーN>。
ニンジャダガー、シノビマフィアの別名を持ち、スパイなど諜報活動に貢献した者にあてがわれる隠密用の機体だ。
GBN日本では、ミラージュコロイドといったステルスシステムを再現するラッカー式の塗料の当たり前になりつつあるが、一方では個人の技術と贅を尽くし、ステルス技術を再現した一芸特化させた機体が存在する。隠密用の機体でここまで自然に溶け込ませたガンプラも珍しくも侘びしい。こんな湿った世界とはいえ、適応という言葉を痛切に実感させる光景ではあった。
「彼だ」
<NダガーN>を指さして、キノシタが言う。胸部の装甲の一部がスライドし、コクピットが開いて男が降り立った。
サトシがあらためて注視すると、気づいたらしい男がのそりと立ち上がり、熊のような体躯がこちらを向けた。
ダイバーの人相からしてまず間違いなくロシア人。歳の頃は50代前半か。禿げあがった頭に強そうな髭が野暮ったいが、靴とコートは安物ではなく、灰色の瞳はひやりとするほど鋭い。
「エフゲニー。FSОの長官だ」
そう言い、背中を押したキノシタに促されて、サトシは息を呑む間もなく男の方に踏み出した。
FSО。
ロシア連邦警護庁と言えば、旧ソ連国家保安委員会第9局を前身とするロシアの保障機関。大統領を始め、政府の重要人物の警護、および政府庁舎の警護が主任務で、諜報活動や捜査権限も一部与えられている。
そのFSОから来た男が、しかも長官レベルの相手が取引相手。
木っ端官僚どころの騒ぎではないとわかり、サトシは震える手のひらを握りしめてエフゲニーの傍らに立った。差し出された手を握り、思ったより柔らかい感触に虚を突かれながら、促されるまま並んでベンチに腰を下ろす。
エフゲニーはコートのポケットからタバコを取り出し、口にくわえた。その目は眼前の<NダガーN>を見上げて動かず、サトシの目もおのずと黒い機体に注がれた。
「あのガンプラは、死んだわたしの弟が遺したものだ」
タバコに火をつけ、エフゲニーは最初の一声を発した。詳細はうかがえないものの、右肩のあたりに亡くなったであろう日付が刻まれているのは何とか読み取ることはできた。
「もう5年以上前になる。GPデュエルで、チームのために歯車となって戦ったのに、弟は賞賛の言葉をもらえず、仲間の策略による事故で死んだ。血と涙を流して作り上げたこの機体を操り、そのチームのために歯車となったのに、だ。遺品はこれだけしかもらえなかった。今、成金の新ロシア人が造型師に金を飽かせて作らせた玩具で遊ぶ一方で、真のロシア人の魂は小さくなってしまっている」
紫煙と一緒に、低いロシア語が淡々と吐き出される。
寒い土地柄で培われた言語だけに、あまりに開口を必要としないロシア語だが、その陰のこもった音はこの男の醸し出す空気に相応しい。どう応対していいのかわからず、サトシはただ頷いた。話が聞こえるぎりぎりの位置で、キノシタもエレナも黙然と立ち尽くしている。
「いや、GPDは関係ない。わたしがいまだにこの機体にへばりついているのは、弟と同じような生き方をしてみたかったからだ。媚びず、目立たず、影となり、歯車となる生き方を。実直に与えられる仕事はしてきたと思う。そういう人間は、今のロシアには少ない。わたしの上司は、だから政界に進出する時、わたしを長官に推薦した。自分と同じ大学でのインテリではなく、軍人上がりのわたしをだ」
言いざま、エフゲニーは初めてこちらを注視した。
「あとでわかったのは、推薦したのは我が君だということがわかった。なにか催事があった時、我が君はわたしに連絡する。わたしは問題を精査し、最適だとわかった時、彼を護る盾となる。それで私はこの20年間、うまくやってきた。そう、私は……」
広い空に目を向け、往時を思い出すかのように目を細めたあと、わかるね? というふうにエフゲニーはこちらを見た。
FSОにいるこの男が口にする我が君とは、おそらく世界でもっとも有名なロシア人。子飼いの現首相と2頭体制を敷き、今なお、この国の頂点に立つ現職の大統領――。なんとかうなずいてみせたサトシは、「フトコロガタナ」と、エフゲニーは唐突に拙い日本語を投げかけた。
「わたしのような立場の人間のことを、日本語ではそういうんだろう。我が君が教えてくれた。そう、わたしは我が君と何度か日本に訪れたこともある。彼はこれらの兵器が出てくるアニメーションが好きだからね。彼に言わせれば、あのアニメーションは優れた政治シミュレーションであるとともに、哲学なのだそうだ」
眼光はそのまま、口元にだけ微かな笑みを浮かべ、エフゲニーは続けた。
「わたしにはわからない話だ。彼の考えをすべて理解することはできないし、その必要もないと思っている。ただ、彼の身を、彼の行いの障害となるものからひたすら護る。わたしはそのためにここにいる。国は関係ない。体制も関係ない。ここロシアにGBNなどという新世界が広まってから5年余り。しかし悠久なるロシアの歴史に比べれば、刹那の出来事にすぎない。いうなれば、ユーラシア大陸に築かれたロシア帝国の上にかかった一時の雲だろう」
はっきりと言い切った口を閉じ、エフゲニーは同意を求める目をこちらに向けた。容易にうなずける話ではなかったが、新世界という言葉には奇妙な説得力があり、サトシはゆっくり頷いて足もとの地面に視線を落とした。
現実そのままに再現されたサンクトペテルブルクの街の構造しかり、新築という概念が希薄な現実主義者であるかと思えば、天命を信じて受け入れることに抵抗のないロシア人の歓声しかり。GBNを新世界と規定しているのだとしたら、そのへんの感覚の違いも受け入れる。
戦争を境に価値観のリセットが行われた日本と違い、ロシアでは革命も旧ソ連の崩壊も地続きの歴史。長い歴史のなかで侵略と革命に耐えてきた強固な歴史感覚が、刹那主義を培ったのだろうと、柄にも考えてみたことだった。
「自己紹介が長くなった」
ふと気づくと、こちらを直視する灰色の瞳がすぐに目の前にあった。「初めてだ。こんなことは」と続け、エフゲニーは吐き出した紫煙と一緒に正面に目を戻した。
「取引を進める前提として、わたしの立場を理解してもらう必要があるとキノシタに言われた。だから、こういう話し方をした。わかりにくかったのかもしれないが、これでもわたしは最大限のリスクは冒している」
他言すれば命はない、と灰色の目が告げていた。これも死神の目だと思いながら、サトシは後ろに立つもうひとりの死神を見やった。少しは状況が呑みこめたか、と薄く笑ったキノシタに見返され、もはや引き返せない我が身を十分に確認させられてから、
「それで取引、とは?」
と、先を促す声を出した。
「いくつかのロシア企業に資金支援をしていただきたい。数は合計23社、支援総額はニホンエンで500億。どれもロシア全土で手広くビジネスを行っている〝コングロマリット〟の企業だが、他にも共通点がある。すべての企業が、なんらかの形で……サイバーインテリジェンスの開拓に関わっていること」
「サイバーインテリジェンス……」
地雷。
それと同義の剣呑の響きに聞こえた。「単刀直入に言おう」と続け、エフゲニーはタバコを携帯灰皿に押しつけた。
「『A金貨』を投入できれば、大統領はGBNの一切の関する経営権を買収し、ロシアの国営事業にするつもりだ」
「買、収……」
「何も、ロシアばかり良い思いをさせようという考えでない。成功した暁には、日本企業を優先的に受け入れる。シベリアの油田開発が日本と共同で進んでいるが、ロシアへの経済効果はそれの比ではないだろう。現地での日本人の自由な活動を保証し、データ通信の行き来に関しても、極力フリーにする。最終的には国交友好の足掛かりへとし、北方領土返還へとつなげていけると思ってもらって問題ない」
「そんな……」
「〝コングロマリット〟……ロシアで成り上がってきた事業家たちが、ICT事業の権利を独占できれば、難しいことではない」
そうこともなげに言い、エフゲニーは2本目のタバコを手にした。
「最終的には、我が君個人と日本との合併会社を設立してもらい、あがりは折半ということになるが、当面は〝コングロマリット〟への投資が急務だ。ロシア全土のICT利権をめぐっては、大統領に敵対する金持ちたちものろうと画策している。貴国には知らせていないが、インターネット回線の普及は民間ではそこまで高くないのでね。大統領権限で情報を伏せていても、どこからか嗅ぎつけた連中がたかり始めている。ここいらで支援をしなければ、〝コングロマリット〟の独占体制を維持するのは難しい」
「そ、そうでしょうけど、でも、これは、まるっきり大統領の利得行為だ」
急激な乾きに喉を塞がれながらも、サトシは必死で言葉を紡ぎ出し、
「世界にはどう説明するんです。大統領が日本の資金で、しかも裏献金みたいな方法で世界的事業を独占して、利益を日本と折半するって知られたら……! こんなことしたら、政治生命だって――」
「今期限りで、大統領は政界から身を退く」
ばっさりと断ち切る声音がエフゲニーの口から飛び出し、サトシは絶句した。
「3度目の大統領就任の際、アメリカの主導で世界を動かすのはもう古いと発言した我が君のサインを忘れるべきではない」
と重ね、エフゲニーはくわえたタバコにライターの火をつけた。
「軍事拠点、発電所、空港……我が国の投資が続いているが、決定的なものが欠けていた。そう、インターネットだ。アメリカで造られたインターネットが、ロシアにとって必要だったのだ。世界がインターネットで繋がっているなか、広大なロシアは未だレコードが現役で働いているのも珍しくない。つまり、GBNの買収が新たなロシアの発展につながる。新たなロシアを造るのだ」
「GBNを買収して、新たなロシアを造るって、そんな〝財団〟も黙っていませんよ。目をつけられたら、大統領だって危険です。感情的にどんなものになるかどうか……」
「サラ」
「え?」
「電子生命体サラ……ELダイバーと目されるものは、感情というもので誕生すると聞いている。感情というものはどこまでも大きくなる。命を脅かすほどに」
嗤った。
深々と紫煙を吐き出し、かすかに唇をつりあげたと思える顔をこちらに振り向けた。
「しかしELダイバーはともかく、企業を動かす人自体はどうかな。多数の前では歯車となって働く人間の感情など、無視されるもの。人格もだ。その名も通り、部品を取り換え、頭を挿げ替えればあっという間に買収の完了だ。うまく立ち回ったとしても、競争に負けたものは勝者に従順しなくてはならない。これが政治というものだ」
反論のしようもなかった。得も言われぬ無力感を覚えつつ、サトシは強い髭に覆われたエフゲニーの横顔を見つめた。
「敗ける、というのはそういうことだ。敗者に発言権はなく、人権も事実上ない。どうも、日本人はその所に理解していない節が見えるな。まるで戦争の歴史を忘れてしまったかのような……、いやこの、『A金貨』によって造られたGBNがある意味、戦後の戦争なのかもしれないが」
『A金貨』の一語に別種の緊張が呼び覚まされ、サトシは我知らず身をこわばらせた。
「月の女王が、自然へと回帰するため地球へと降り立った」
と続けると、エフゲニーは不意にタバコを一気にすいあげた。
「あなたがダイバーによくするたとえ話だろう。しかし、現代社会では故郷の記憶など一週間で塗り替えられる。日頃は田舎など気にしたことのない兄弟が、親が死んだ途端、遺産めぐりで血みどろの争いに早変わりするありさまだ。ちらついた目の前の金に目がくらみ、死んだ親の事情など知らず我の主張を叫ぶありさまだ。となれば、逆の操作もまた可能ではないかな。GBNをロシア主導にし、日本優遇の待遇にするのは、長い目で見れば日本とロシアの友好の証という意味において、現実的かつ有益な選択である。そんな論調が大勢を占めたら、〝財団〟の感情も落ち着くのではないかな?」
<NダガーN>に歩み寄り、頭部をじっと見上げる。その背中から、世の道理をすみ分けた者の諦念と停滞がにじみ出ていた。相槌を打つ気力すら持てず、サトシはただ立ち続けた。
「現在のロシアに帝王学はない。万人を共有するモラルもない。そんなものは、ソ連崩壊後の最初の10年でとうに朽ち果てた。続く10年でロシアを復活できたのは我が君だが、民衆はそれさえ忘れかけている。ロシア国民には稲妻が必要なのだ。それがGBN……。その買収はそんな彼がロシアにできるささやかな餞別だ。手に入れて当然のものだ」
汗ばんだ拳を握りしめ、サトシは口を岩のように閉じるしかなかった。無言の重圧にのしかかれ、結局は自分が頭を抱える羽目となったサトシは、
「陰謀だ、こんなの」
と呻いて、両膝に肘をついた。
「ぼくなんかが独断で進めていいことじゃない。ロシアの案件なら、他のICT企業にも権利はあるし……いや、目的がGBNの買収なら、東部を管轄するあっちのほうにも連絡がいく。話を通さずに進めたら、大変なことに……。バレたら、間違いなく〝財団〟に殺される」
「君はとっくに処刑リストにあがっているよ」
唐突になげかけられた日本語に、サトシは顔をあげて背後を振り返った。晴れ渡った空の下、キノシタのグレーのトレンチコートが逆光を背負ってこちらを見下ろしていった。
「ようするに大統領への裏献金だが、企業投資の形をとるから露見はしない。〝財団〟に突かれたら、素直に事情を話せばいい。その時はエフゲニーも説明に赴く」
落ち着いた声音で言い、キノシタはエフゲニーを見た。日本語で話されることが不快なのか、エフゲニーはちらと鋭い一瞥をくれただけですぐに顔を背けた。
「大統領が太鼓判を押す投資で、でかい利権が転がり込んでくるんだ。特別措置の発動に十分な案件だろう。日露の実質的友好となれば、『A金貨』本来の国富目的にも適う。理事のクソじじいどもも文句は言えない」
「でも、独断で進めることは――」
「結果よければすべてよしだ。ちょっとは冷静に相場を読んでみろ。プロだろ」
頭を少し小突かれた思いで、サトシはこちらを見下ろすキノシタの顔を凝視した。木下はゆっくり回り込み、「いまの〝財団〟はガタガタだ」と吐息混じりに続けた。
「終わりのない経済危機で冷え込みきって、理事の結束も固められずにいる。アメリカ主導の新体制に身売りしたはいいが、それもうまくいっていない。どいつもこいつも、既得権益の確保に必死で、10年後のことなんか誰も考えられない状況だ。そんな時に、ロシアが国ごと協力してくれるっていうんだぞ。準備段階から食い込んでおきゃ、〝財団〟が現地の企業活動を裁量するのも不可能じゃない。この先、10年、20年でも続く、恒久的な資金源だ。それを動かすのは誰だ? 老い先短い理事のじじいどもか?」
詰め寄る視線が、正面から突き刺さってくる。そう、いったん回りはじめれば誰も口出しできない。胸中に繰り返したのもつかの間、でも……寄せ返す逡巡の波に足を取られたサトシを見つめ、
「ただ損失を埋めるだけなら、わたしもこんなリスクは冒さない」
とキノシタは押しかぶせた。
「これですべてが変わる。君はもう裏切り者じゃない。〝財団〟に新たな発展をもたらす救世主になれる。なにもできない年寄りの理事たちに代わって、君とわたしが〝財団〟を動かすんだ。『A金貨』を使って、現代日本にGBNをもたらした宗主……呂名哲郎がそうしたように」
先日の7回忌で見上げた宗主の遺影が脳裏をよぎり、寺の荘厳な光景までが思い出されて、〝財団〟という言葉が含む重みがずんとのしかかってくるのが感じられた。ここまでの歴史と同義の重みに圧倒され、ゆるゆると視線を地に落としながら、「途方もない……本当なら」とサトシは蚊のなく声でつぶやいた。
キノシタは何も言わない。
エフゲニーに翻訳するエレナの声が、ひどく遠くに聞こえる。
「どうしたら、信じられる?」
信じたい。
信じさせてほしい。
その念を視線に込め、サトシはすがる思いでキノシタを見上げた。しばし見返した後、キノシタはふと視線を逸らし、
「そういえば、もうじき君の誕生日だな」
と言った。
「え……」
「きっと、神様がプレゼントをくれるよ。とびっきりのやつを」
<NダガーN>の向こうに見える聖堂の十字架を見上げ、その口元をにやりと歪める。計ったように鐘が鳴り始め、現実とうり二つに再現された重い音色を修道院全体を押し広げていった。
ガラン、ガラン、と響く音色が空気を震わせ、恐怖と教学で消耗しきった心身を包み込んでいく。プレゼントとは何かという問いは声にならず、サトシは何も見えていない目を再び地に落とした。
蜘蛛の糸を手繰った先から聞こえるこの音は、光あふれる天上界に響き渡る鐘の音か。
はたまた地獄の底から聞こえる終末の鐘か。
どちらとも判断がつかず、また頭を抱え直しかけた瞬間、ざっと土を蹴る音がサトシの耳朶を打った。
思わず顔をあげ、音のした方を見る。
先刻までエフゲニーと話していたエレナが、緊張で強張った顔をどこか一点に向けているのが見えた。1歩踏み出した足に軽く重心をかけ、ここではないどこかに神経をめぐらす姿は、さながら閉まった玄関の向こうに異変を察知した番犬だった。その全身から発散するトゲのような空気に肌を刺され、サトシは慌てて周囲を見渡してみた。
見える範囲に人の姿はなく、遠くの教会のステンドグラスから伸びる粒だった光が樹木に降り注ぎ、地面の草花が揺らしている。ほかは動くものなどなにもない森林の静寂さだった。
突然の変化に、エフゲニーも周囲を見渡し、困惑した目をエレナに向け直す。キノシタの口元の笑みを消し、緊張した目をエレナに注いだが、彼女は1点に意識を凝らしたまま微動だにしなかった。
ほんの数秒でその張り詰めた気配は消え去り、エレナは我に返った面持ちでキノシタと視線を交わらせたが、トゲのような空気はしばらくその場に滞留し続けた。それはサトシの肌にまとわりつき、名状しがたい不安と違和感を結実させて、揺さぶられ通しの胸奥に深く沈殿していった。
何かの影を凝縮したと思える、黒いモビルスーツが目立たないように鎮座していたが、アローンの興味を引くものではなかった。ダイバーにとって、巨大な機動兵器は脅威と言える存在とはいえ、しょせんはデータの塊。日本だろうとロシアだろうと、自分の行動の障害となる存在ではない。
むしろ脅威は、自分の気配を察知したあの若い女――。その瞬間の感情のさざ波を呼び起こし、アローンは背後に心持ち首をめぐらせた。
監視対象者の一団は、黒いモビルスーツと木に隠れて見えない。見つからなかった自信はあるが、問題はそういうことではなかった。GBN保全サーバーを経って、2週間と少し、グランプラスを張り続けた末にようやく補足した対象者2名。そのうちのひとりは50メートルも離れた場所にいる自分の気配を感知した。
――ここなら、命令次第で全員を処理できる。
アローンが意識の片隅で考えた途端、まるで感知したように身構えたのだ。
初めての経験だった。
いつもそうする通り、対象を凝視することはせず、視界全体に意識を散らすようにしていたのに、あの女は思考のわずかな揺らぎを捉え、迅速に対応した。すかさず身構え、他者を気圧されるほどの殺気をまき散らして……こちらが反応しようものなら、はっきり位置を気取られていたのかもしれない。
いったい何者。
興味や恐怖というのとは違う、ぴっちり気密された無菌室に雑菌が入り込んだような煩わしさを覚えつつ、アローンはウインドウの通信機能の声に意識を戻した。
(当たりのようだな)
と発せられた声がイヤホンを震わせるまでに、森林の光景は流れ去り、聖堂の前に集まる観光客の群れが視界に入るようになった。
(泳がせておけ。奴らは利用できる)
マイケル・プログマンの指示は簡素明瞭だった。対象を泳がせ、グランプラスの不正を暴く手伝いをさせる腹づもりがあるらしいが、アローンには関わりのある話ではない。一瞬、こちらの監視を気取られかけたことを報告すべきかと思い、必要ないと判断したアローンは頭上の青空を見上げた。
この空は作り物だ。作り物というだけで、人間もELダイバーも、ここGBNにとって変わるところはない。自分というELダイバーにしてもそうだろう。場所がどこであれ、相手がなんであれ、為せと命じられたことを為す。
今すぐに片づけた方がよいと騒ぐ思いは胸中に収め、命令の完全履行だけを心掛けていれば良い。
そう思い、いささかも揺るがない己を確認したアローンは、応じるべきたったひとつの言葉を口にした。
「あなたの〝システム〟のままに」