ガンダムビルドダイバーズ 〝A〟   作:ジ ュ ン

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現在、エイジチームの詐欺はうまくいってます。
上手くいってるので、フラグがばりばりですね。


第二十六話

「誕生日おめでとう!」

 

 複数の男女の声が折り重なり、デコレーションケーキに点されたいくつもの蝋燭の灯を揺らめかせる。それらは次の瞬間に吹き消され、つかの間の闇があたりを包む込むと、続いて巻き起こった拍手と歓声が部屋の空気をにぎわせていった。

 照明がつき、蝋燭を吹き消したサトシのにやけ顔が浮かび上がらせる。彼の面前には、ロシアGBN随一の店からのデコレーションケーキがあり、誕生日を祝うために駆け付けた十数人の男女がある。多くはサトシの知り合いのフォースのメンバーで、その次に多いのがグランプラスの社員、行きつけのナイトクラブから派遣されてきたらしいその筋のダイバーが数人くらいだった。

 サトシは手すきの社員全員を招待したそうだが、このGBNの保安のため、アップデートにかかる準備など、など、など……のためを考えたら、そうそう足を運べるものではない。それに、今いる別荘は、グランプラスからモスクワ・エリアまで4時間。車を使って1時間かかるものだから、パーティーの準備で駆り出されなかったら、秘書も同席しなかったのかもしれない。

「みなさん、ぼくは大変シャイな人間です。誕生パーティーなんてガラじゃないんだけど、今日はちょっと浮かれさせてください。今日は久々に良い風が吹いてくれて、これで可愛い社員たちに冬のボーナスを支払えそうです。ここ何年かは、試練の連続でしたけど、たまにはこういうことが起こるから人生も捨てたもんじゃない。素敵な誕生日プレゼントをくださった神様と、チャンスの世界GBNに感謝! みなさんに良い風がふきますことを!」

 上気した顔のサトシが流ちょうなロシア語を操り、呼応した拍手と歓声が暖炉付きのリビングに響き渡る。

 ロシアGBNの初期から存在する巨大フォースから安価で借りているこの場所は、日本で言う別荘、というより庶民的な色合いが強い。ロシアのフォースが保有するフォースネストの多くは、サトシがいう所の『夕方アニメの庶民的ハウス』的な一軒家なのだが、ここはそうした一般的な建物とは違っていた。

 レンガ調を模した屋敷の総面積は300平方メートルを超え、バスルーム付きの寝室が3つに客室が3つ、ビリヤード台付きのラウンジにサウナまで備えて、しめて5億ビルドコインなり。無論、とっくにフォースが支払ったとのことだが、べつにどうとの感想はない。

 各々に談笑し始めた一同から離れ、エイジはシャンパングラスを手に壁際を移動した。

 下着を見紛うシースドレスで思わせぶりの笑みをふりまく女たち。

 葉巻をくゆらす蝶ネクタイの紳士。

 身振り手振りがやたら大仰な高級スーツの男。

 ひと山当てたサトシの噂を聞きつけ、その恩恵にあずかろうと駆け付けた男女の目は、どれも旺盛な欲を湛えて、ぎらついている。日本に置いてきた、仲間の同業者の顔をそこに重ね合わせ、あいつらはまだ可愛いもんだと思いながら、窓のガラスごしに外庭の様子をうかがった。

 ランプ調のガーデンライトが橙色の光を灯す中、ちらちらと白い雪片が舞い降り、石畳を雪化粧を厚くしていくのが見えた。

 午後になってから降り始めた雪は、ものの数時間でモスクワ・エリアの景色を一変させ、このフォースネストも白く塗りこめつつある。初雪だというのに、GBNでもロシアは遠慮はない。これから来年の春まで、ほぼ毎日のように雪が降り続き、人の暮らしを長い雪の底に閉じ込めてしまう雪……リアルで住んでいる人間には、何の感慨もないだろうが、やはり、仮想空間でもロシアには雪が似合うと思っていた。

 その絵本めいた光景に、車のテールランプが赤い光を滲ませる。黒塗りの車体を音もなく滑らせ、雪のベールに溶け込んでゆくさまはなかなかに叙情的だが、中に乗っている者たちの心情はそんな穏やかなものではあるまい。

 先刻、殴りこむような勢いで現れたロシア政府の黒服たちは、結局は一方的な条件を呑まされて帰途につくことになった。しずしずと消え去る社内では、おそらく憮然と押し黙った男たちが――いや、あらん限りの罵詈雑言をわめき散らし、ダッシュボードを蹴りつけているかもしれない。

 ロシア政府のコンプラテック社買収計画が事実なら、連中は必ず今日中にやってくる。自信たっぷりのサトシの言う通り、彼らは場が引けると同時に電話を寄越し、つい1時間ほど前にネストの玄関の前に立った。

 パーティーの客が訪れ始めた頃合いで、黒服の彼らもその中に紛れそうなものだったが、3人の男たちがそろって漂わせる剣呑な空気、憤怒と焦燥の入り混じった表情は、事情を知らない者の目にも瞭然の異質さではあった。

 交渉にはサトシとオガワサブリーダーのみがあたり、エイジとミカヅキは顔出しを避けたものの、前後の経緯を見れば結果は聞くまでもない。

 密かに買収計画を進めてきたコンプラテック社を横から手を組まれた挙句、ロシア政府は言い値でその手を戻す屈辱を受けたわけだ。コンプラテック社買収に使ったこれまでの資金を無駄にせず、かつ他国の技術流出を防ぐという倫理に従って。

 当のコンプラテック社は……それも買収工作に組み込まれた経営陣ではなく、そこで生活の糧を得ている従業員たちは、この愚かしい寸劇をどう見るのだろう。

 社の業績も自分たちの働きぶりも関わりなく、自分たちの会社が見知らぬ他人の手から手へと渡る現実を、ガンプラ実力史上主義の〝システム〟に従うのだろうか? 昼間の余禄でふと考え、太いため息で打ち消した時、傍らにミカヅキが来るのを感じられた。

 どうだった、とちらと流した目で問うと、「はっきりとは言わなかったけど、たぶん4800」との答えが返ってきて、エイジは我知らず口笛を鳴らしていた。

 サトシは、4800ルーブルでロシア政府にゴンプラテック社の技術料を買い戻させた。もとは2500ルーブル近辺であった技術料を文字通り、倍の値段で売りつけたのだ。押さえていた元値の分とあわせ、どの程の儲けがでたのか。

 社員にボーナスが払えるどころの話ではないと再確認し、エイジはどこかの事業家と談笑するサトシを横目で見遣った。

「あきれたもんだ」

 と漏らした独り言に、ミカヅキも異論はないという顔で小さく息をつく。

「サブリーダーの話によると、これでも抑えた額らしい。あんまりふっかけると、向こうも自爆覚悟で法を持ち出してくるかもしれないからって」

「そうじゃねぇよ。呆れてんのは、本当に絵に描いたとおりに話が進んでるからだ。福田氏のネタがここまでドンピシャとはね」

「疑っていたのか?」

「そりゃあな。ここに来た時から、ずっといざって時にずらかる方法を考えてる。お前だってそうだろ」

 街中ならともかく、人けのない別荘地では逃げ出すのもそれなりに工夫がいる。万一に備え、奪えそうな車を物色するぐらいのことはミカヅキもしているだろう。図星を指された体で目を逸らしたミカヅキは、「いつでも最悪の事態を想定しておくのは常識だ」と決まり悪くいった。

「でも、この計画に失敗は許されない。福田さんもそれはよくわかっている。いい加減なネタを提供することは――」

「お前さ、簡単にいうけどさ、こりゃえらいことなんだぜ。現役のGBNスタッフがこんな情報横流しだなんて、バレたら汚職どころの騒ぎじゃねぇだろ。それこそ国際問題になりかねねぇよ」

「覚悟の上だ。貴方も同じかと思ってた」

「あのな。そういうセリフは、信頼で結ばれた同志って奴が口にするんだよ。2言目には『おあずけ』で、なんにも教えてくれない奴じゃなくてな」

 そう言って窓の方に向き直った途端、サトシと視線が合ってしまったのは偶然だった。

 とっさにキノシタの顔を呼び出し、手にしたシャンパングラスを口に近づけたエイジの隣で、ミカヅキもエレナらしい慇懃な面をかぶって半歩うしろに退く。こういう時の阿吽の呼吸は、そろそろ信頼に値する仲間と言えなくもないか。一瞬の思考を挟んだ直後、満面に笑みを浮かべたサトシの顔が窓に映りこみ、エイジはゆったりとした仕草でそちらに振り返った。

「先輩、握手させてください。あなたはグランプラスの救世主です」

 酒で赤らんだ顔でいきなり手をつかみ、勢いよく振る。想像以上の激しさに多少面喰いつつ、エイジは、

「なんだ、先輩って」

 と返した。

「だって、同じ〝財団〟の飯を食った者同士でしょ。尊敬する先輩っすよ」

 とサトシは興奮気味に答える。

「ネタは確かでした。政府の連中、頭から湯気が出てましたよ。よっぽどコンプラテックに突っ込んでたんでしょうね。もうロシアで商売できなくしてやるとか、さんざん脅しを並べてったけど、結局はこちらの言い値で買い戻すことになって」

「聞いたよ。いい誕生日になって何よりだ」

 こういう時、エイジは内心で舌を出すような真似はしない。身も心もキノシタになりきり、彼が感じるであろうことを感じ、振舞うようなことを務める。現場は舞台、誠意をもって観客を騙せと言ったのは誰だったか。

「それでこれからの話なんですけど……」

 真顔で切り出したサトシから視線を逸らし、エイジは窓に反射する自分の目を見つめた。

「それは、この〝プレゼント〟をくれた本人に聞くといい」

 そう告げると、同じく窓に映りこむサトシの表情がはっきり変わるのが見て取れた。

「まさか、ここに……?」

「来ると思うよ。彼にはみんなわかってる」

 刹那、車のヘッドライトが窓の向こうできらめいたのは、偶然にしてもできすぎな天の配剤だった。およく高級別荘地には縁のない自称役者のこと、道に迷ってこられない可能性も考慮していたが、どうにか間に合ってくれたらしい。車が停まり、運転席から降り立った大柄な男を見て、

「大変だ……」

 呻いたサトシが窓から一歩あとずさる。そのまま踵を返し、玄関まで迎えに走る背中を見送ったエイジは、鋭い一瞥をミカヅキと絡ませた。

 ここより第2幕。一時の栄華と引き換えに、お前の懐から大事な鍵を抜き取る悪魔の到来だ。この時、エイジは初めて詐欺師の笑みを浮かべた。

 

 

 

 2階の奥にあるサトシの書斎は、グランプラス本社のリーダー室と似ていた。1流ブランドの調度品と応接セットが置かれ、素人目には落書きとしか思えない現代絵画が壁を飾る。違うのは本物――そっくりの暖炉が燃えているところで、深紅を基調とした壁や絨毯が炎の照り返しを受け、赤々と揺らめくさまには扇情的な趣がある。

 どこか背徳的というか、悪魔でも呼び出せそうな魔的な幻想趣味というか。

 大口の顧客はここでもてなすこともあるそうだから、サトシ……サトシにとっては趣味というより仕事道具なのだろう。これらの小道具で客を圧倒し、財布の紐を緩ませるのは、GBNの資金担当の常套手段だ。

 その応接ソファにどっつかりと腰を落ち着け、暖炉の火を髭面に浴びるエフゲニーは、さながら召喚に応じてやってきた魔王の風情だった。鍛えた甲斐があると言うべきか、神経の太さは端から1流というべきか。いざ、役に入った時の度胸の据わり具合はまったく驚嘆に値する。

 最高級のウォッカを注いだきり、腫れ物に触れる面持ちで向かいのソファに納まったサトシはもとより、エイジもミカヅキも少し気圧された思いで、エフゲニーが口を開くのを待った。エフゲニーは注がれたウォッカをひと舐めし、いくつもの修羅場を経験した闇世界の住人の面構えで曰く、

「これで、私の身辺調査は完了したと思う」

 重く切り出されたロシア語の一声に、「そりゃもう……」とサトシが震えた声を返す。エフゲニーの提供した情報で億単位の金を稼いだ身としては、酔いも醒める一声に違いあるまい。ロシア語のヒアリングはできないが、サトシの表情からシナリオ通りのセリフであることはわかる。エイジは暖炉脇の壁に背を当て、両者の動きを注意深く見守った。

「では、次はあなたの番だ。わかるね?」

「わかってます。こうなりゃ、相手が悪魔だってつきあいますよ」

「悪魔?」と眉をひろめたエフゲニーがこちらを見る。エイジが苦笑してみせるより早く、「あ、いえ、こちらのことで」とサトシが慌てて付け足し、「結構」と応じたエフゲニーが背広の懐に手をやった。

「資料をもってきた。あなたに資金提供してもらう企業の一覧と財務諸表、エリア拡大の開発計画の概要だ。それは使えるか?」

 取り出したUSBメモリーを太い指で挟み、執務机の上に鎮座するパソコンを指す。「もちろん」と応じ、メモリを受け取ろうとしたサトシは、しかしそれをつかんで離さないエフゲニーにぎょっと身をこわ張らせた。

「人を殺す情報というものがある」

 サトシに据えた視線を逸らさず、エフゲニーは低く続けた。

「これに入っているのは、そういう類のものだ。取り扱いには慎重を期してもらいたい」

「わかりました。閲覧中はGBNのイントラネットは使いません」

「インターネットの回線を使うと言うのか?」

「えぇ、ここはグランプラスの別荘ですから。インターネットの端末しか使えなくて……」

 あからさまに変わったエフゲニーの顔色を受けて、サトシが先の言葉を呑み込む。直後、「クソッ!」と弾けたエフゲニーの罵声が室内に響き渡り、メモリーに触れていたサトシの手がびくりと引っ込められた。

「とんだ無駄足だ。では後日、あらためてオフィスで」

 言いざま立ち上がり、部屋の戸口に向かって巨躯をひるがえす。戸惑い顔でエイジを観たのも一瞬、サトシは「ま、待ってください」と追いすぎる声を出した。

「オフライン回線で閲覧すれば、このパソコンでも漏洩の心配はありません。よろしければ――」

「しかし、履歴に記録は残る。その全てを消去したとしても、私には確認できるだけの技術的知識がない」

「それは、わたしが責任をもって」

「私が命がけで負わねばならない責任を、あなたがどう取れるというのだ?」

 暖炉の照り返しを反面に浴び、ほとんど鬼面になったエフゲニーがずいとサトシに歩みよる。絶句し、立ち尽くすばかりのサトシを見下ろしたエフゲニーは、「今のインターネットのセキュリティは、強固なものだと聞いている」と低く押し被せた。

「だがGBNのイントラネットと一部接続はしているものの、そんな普通のネット接続では話にならん。使い終わったあとにハードを叩き壊して、その暖炉の火にくべない限りはな」

「なんなら、それでもかまいません。必要なデータを移し替えて、そのパソコンを空に……そうだ、タブレット型端末ならすぐに用意できます。使い捨てにしてもいいやつを」

「いや、日をあらためよう。ここに閉鎖型ネットワークがあると思い込んで、タブレットのひとつも用意してこなかったわたしもうかつだった。あれはどうも使う気になれなくてね。近距離無線通信で簡単に情報を抜き取れるのに、アイパッドだの電子財布だの使う奴の気が知れん。だからわたしは、未だに旧バージョンの端末を使っている」

 と、エフゲニーは肩をすくめてみせる。対照的に焦燥を深めるサトシの表情は、予測の範疇だった。

「明日、グランプラスのオフィスにお邪魔する。都合のいい時間帯を教えてもらいたい」

 そう続けたエフゲニーを見て、棒立ちのサトシに視線を映したエイジは、「ひとつ、問題が」と絞り出されたサトシの声に内心で快哉を叫んだ。

「GBNの規定で、ネットワーク操作を部外者にお見せすることはできないのです。社内でセキュリティを確保しますから、他の端末で閲覧させていただくことは可能でしょうか」

「後ろに回って、あなたのパスワードを盗み見るような真似はしない。特別に目をつぶってもらえんかね」

「もちろん、信用しないわけではありません。ですが、お恥ずかしい話ですけど、このところGBNがハッキングの脅威にさらされておりまして、常以上に規定が厳しくなっているのです。またハッキングのようなことが起こった場合、全端末のログイン状況と、すべてのオフィスの警備記録が精査されるでしょう。例えば、防犯カメラの記録とかと照らし合わせれば、わたしがあなたの前で端末を操作したこととも露見してしまうかと……」

「ハッカーには我々も苦労させられている。災難だな」

 そのハッカーがすぐ横にいることも知らず、エフゲニーはシナリオ通りに話す。

「しかしそうなると……〝財団〟の端末でなくてはだめだ。それもあなたがログインして、リーダークラスの閲覧権限を持たされた端末でなくては」

「なぜです?」

「資金計画の説明をするのに、GBN内部の存在する〝財団〟のデータベースが必要だからだ。〝財団〟が収集した企業情報は、我々のそれに引けを取らない。経営陣の個人情報、発表前の事業記録。それらの情報と対照させることを前提に、このメモリーの資料は作られている。普通の端末から引き出せる通り一遍のデータは話にならない。リーダークラス権限でしかアクセスできない〝財団〟のデータベースを使うか、もしくは私が用意した連邦のイントラを使うか。後者がいかなるリスクを伴うかは、説明するまでもないだろう」

「お話はわかりましたが、どうにも……。リスクという観点からすると、〝財団〟のイントラを使うのも似たようなものかと……」

 エフゲニーがため息をつき、こちらを見る。険悪な空気を感じ取った振りで、エイジはミカヅキに翻訳を頼む仕草をしてみせた。「予定通り」と耳打ちしたミカヅキに何度も頷き、事情説明を受けるだけの十分な間を取ってから、「サトシさん」と日本語で割って入る。憔悴しきった顔を振り向け、サトシはすがる目を注いできた。

「これじゃ平行線だ。どっちかが折れないと話が先に進まんぜ」

「わかるけど、先輩もここ数年のハッキング騒動は知ってるでしょう? マジに規定が厳しくなってて、やばいんすよ」

「500億を引っ張って、〝財団〟のお歴々を尻目にでかい利権をかっさらおうって言うんだ。些細な規定違反を云々してる時じゃないと思うがね」

「だからこそですよ。計画がうまくいったら、ぼくらは絶対、GBNの……〝財団〟の理事連に恨まれる。追い落として利権を横取りしてやろうって揚げ足取りを狙う連中がたかってきます。軌道に乗る前に規定違反を突かれたら、そこから過去の不正も芋づるになるかもしれない。そうなったら通報処分くらいじゃ……」

 エフゲニーがこれ見よがしに身じろぎし、わからない言葉で話すな、と言わんばかりにタバコに火をつける。サトシは慌てて口を閉じ、すっかり酒の抜けた顔をうつむけた。

 いいぞ、エフゲニー。あんたは本当にたいした役者だ。

 苛立たしげにタバコを吹かしてみせる髭面を見、サトシのそばに歩み寄ったエイジは、「それはこっちの事情だ」と抑えた声で言い放った。

「こんな手前でごたついていたら、それこそエフゲニーの信頼を失う。向こうにしてみれば、こちらは複数ある選択肢のひとつでしかないんだ。唯一の蜘蛛の糸が切れてしまうぞ」

 でも、と言いかけた口を虚しく動かし、サトシは困った犬のような目をこちらに向ける。エイジはその二の腕を軽く叩いてから、ミカヅキの傍らに戻って耳打ちの素振りをした。頷き、伊達眼鏡に手をやってミカヅキがエフゲニーを直視する。「提案させてください」と発せられたロシア語に、エフゲニーはじろと目だけ動かした。

「時差を利用して本部確認を遅らせる都合場、特別措置を発動するタイミングは金曜日に限定されます。つまり明後日。これを逃すと、次のチャンスまで1週間待たねばならず、その間に今回の資金支援の件が〝財団〟やロシア政府で騒がれるリスクが高まります。必然、実行の機会は明後日しかなく、我々には時間がない。概要説明は今晩中に終え、明日中には相互に確認作業も終えるのが望ましい……というより時間的条件から見てそうするしかない」

「〝財団〟のイントラさえ使えれば、概要説明と確認作業が一挙にできる。本来なら双方とも法務担当を並べて、信用調査に1週間かければならん案件だ。それを権限を持つ者同士、信頼関係で内々に済ませようとしているのに――」

「信頼関係と仰るなら、このメモリをサトシ氏に渡すと言う選択肢もあなたにはある。ここで概要説明をした上で、確認作業はサトシ氏ひとりに全面的に委任するのです」

「人を殺す情報だと言った。〝コングロマリット〟の命運をかけた資料、手放しで他人に預けられるわけが……」

 そこまで言って、エフゲニーは自分の言葉の矛盾に気づいた顔で視線を逸らした。「当然のことだと思います。信頼関係というものは、一朝一夕で結べるものではない」と冷静に続け、ミカヅキは1歩前に足を踏み出す。

「ここは、双方ともにリスクを分担するのが現実的な解決方法かと」

「どうすると言うんだ」

「まず、エフゲニー氏にはここで資金計画の概要を説明していただきます。USBメモリーの閲覧には私のシステムウインドウをお使いください。閲覧後はこれを消去してもかまいません」

 なにか反論しかけたエフゲニーは見ず、ミカヅキは「次にサトシさん」と間を置かずサトシに視線を映した。

「サトシさんは明日、確認作業をオフィスでひとりで行ってください。ただし、ここで聞いたことをメモに取ったり、記録に残したりすることは禁じます。可能な限り暗記して、それをもとに〝財団〟データベースとの突き合わせを行っていただきます」

「そ、そんなの無理だ。到底、覚えきれない」

「それがあなたの負うリスクです。双方の事情で共同確認ができない以上、作業に不確実性が伴うのは仕方のない事でしょう」

 すなわた、サトシはエフゲニーから一方的に説明を受け、事実関係の確認は記憶を頼りに行わなければならない。平等とは言い難い条件に、サトシは助けを求める視線をこちらに向けてくる。

 それしかない、了承しろ。

 無言で伝えるまでに「いいだろう」とエフゲニーの声が響き、エイジは青ざめたサトシの横顔を注意深く窺った。

 ここですべてをひっくり返すという選択もサトシにはある。暖炉の爆ぜる音のみが聞こえる静寂が降り、じりじりした思いで待つこと数秒。「……わかりました」と消沈しきったサトシの声が耳朶を打ち、エイジはそれとわからぬほどに息を吐いた。

 

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