ガンダムビルドダイバーズ 〝A〟   作:ジ ュ ン

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第三十話

(……誰にだって、消したい過去はある。そういうことだよ)

 電話越しに届く木下の声は、やはり端から感情を持たない死神の声に聞こえた。

「そんな一般論で括っていい話なんですか」

 と疲れた声を返しつつ、谷沼は壁の時計を目をやった。

 じきに午前1時。わけもわからぬままにシャトルから降り、ログアウトしてからこのグランプラスの社長室に戻ってから1時間以上経つ。本来なら〝財団〟本部に通報すべき非常事態とはいえ、規定を逸脱して行動している身としては誰になにを言うわけにもいかない。サブマネージャーの小川にだけは知らせるべきか? いや、事が頓挫した気配を悟った彼が自分を本部に売って、身の保全を図らないとも限らない……と、堂々巡りの思考に苛まれ続けた末に、ようやくかかってきたのがこの電話。こちらからかけても、一向に繋がらず、悶々と待つ時間を過ごさせたとしては、弁明にもなっていないと思える木下の声だった。

(君の方は大丈夫か?)

「とりあえずは大丈夫でしたけど……」

(誰か来て、身元を尋ねたりしたか?)

「なんにも。あのタダシさんって、先輩とどういう関係なんです? あの手の連中だったんですか?」

(だから、消したい過去だよ。〝財団〟に拾われるまでは、わたしもそれなりに色々とあった。ああいう連中ともつきあったさ。あの筋の連中ともな)

「ヤバイなぁ。穴あけちゃったんですか?」

(あぁ、大穴をな。それでオトシマエつけろって話になって、この世とおさらばする寸前に〝財団〟に拾われた。まさかこんな時に、こんなところで再会するとは夢にも思わなかったよ。世間は狭いというか……)

「たしか、カネイエとかって呼ばれてましたよね。それがあなたの本当のダイバーネームですか?」

(当時、連中とつきあう時に使ってたサブアカウントだ。本名は今使っている通りだ)

「本当に? ぼくも騙されているのもかも」

(名簿は確認しているんだろう?)

「してますよ、最初に会ったその日に。確かに木下雄二って名前は存在する。でもリストに名前は載ってない。監査って仕事柄、身分を偽って調査対象に近づくこともありますからね」

 専用ネットワークのディスプレイを見つめ、谷沼は慎重に懸念を切り出した。年齢などのパーソナルデータは、電話の向こうにいる木下と合致する。しかし、この専用ネットワークを閲覧できる何者かが、自分をはめようとしている可能性も皆無ではない。息を詰め、相手の反応に神経を凝らして数秒。(バレたか……)と吐息混じりの声が携帯のスピーカーを震わせ、谷沼は彼の心臓を跳ねる音を聞いた。

「え……?」

(これも監査のひとつのやり方でね。試したんだ、君を。財政危機のところにうまい話を持ちかけて、君が〝財団〟を裏切るかどうか)

 尻の感覚がふっとなくなり、いきなり椅子を引かれたような感覚が全身を包んだ。命綱をつかむ勢いでスマホを握りしめ、谷沼は「え? なんです?」と繰り返し、送話口に吹き込んだ。(せっかく順調に行ってたのに、こっちの不始末のせいでとんだ横槍だ)と木下は淡々と言う。

(本部に絞られるかと思うと頭が痛いが、まぁ所期の目的は果たしたことだし、よしとするか)

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 所期の目標ってなんです? ぼく、セーフですよね? まだ何にもしてないんですから」

(共謀目的でコンプラテック社と手を組み、本部に報告せずにエフゲニーにも接触した。たしかに未遂かもしれないが、監査の結果を出すには十分だ。君には〝財団〟を裏切る意思があった)

「そんな……」

 呻いた口が動かなくなり、全身から力が抜けた。なにもかもが嘘、自分の〝財団〟への忠誠度を示す罠だった? では、本部はグランプラスの不正経理の実態も知っているということか? 空回りする頭が矢継ぎ早に問い、おしまい、という一語を結実させてぴたりと静止する。その重みが頭から指先まで染みわたり、谷沼は呆然と椅子の背もたれに寄りかかった。と、吹き出すような音が電話越しに伝わり、半ばマヒした聴覚を刺激した。

 それはすぐに低い笑い声に変わり、くつくつと嘲る声音が静止した頭の中ですり抜けていく。死神が笑ってやがる、と他人事の心境で思った途端、(落ち着いて考えてみろ)と笑いを引きずった木下の声が続き、谷沼はそれだけ動く瞼を何度かしばたたいた。

(監査なんかのために、極上の情報を提供すると思うか?)

 言葉の意味を理解するのに、たっぷり数秒かかった。呆けきった頭に電流が走り、机に肘を打ち付ける勢いで身を起こした谷沼は、「それじゃ……!?」と両手でスマホを握り直した。(冗談だ。決まってるだろう)と木下が呆れた様子で返す。

「なんだよ、もう……! 勘弁してくださいよ。シャレになってないっすよ」

(これで少しは頭が冷えただろう。エフゲニーの情報に間違いはなかった。不安になったら、帳簿を開くなりなんなりして今日の儲けを確認しろ。そこに記されている数字が、すべてを裏付ける事実だ)

 反ばくの余地はなかった。いいようにからかわれた恨みも霧散し、谷沼は「はぁ……」と吐息混じりに応じた。(わかったら、もう家に帰って休め……と言いたいが、そうもいかないな)と木下の声が続く。

(専用ネットは開いているんだろう? 今日中に、やれるだけの照合作業はやっておいた方がいい)

「え? なんで……」

 まるでこの場を見ているかのような言いように、いったん落ち着いた心臓がまた跳ねた。思わず周囲を見回し、天井の防犯カメラを凝視した谷沼を知ってか知らずか、(あんなことがあれば、誰だって〝財団〟の名簿をもう一度確認したくなるさ)と木下は苦笑気味に言う。

(でも、そこにはなにも書いてない。君が書くんだ。〝財団〟の新しい歴史と、君自身の人生の答えを)

 笑い飛ばそうとして果たせず、谷沼は机の上に置いたUSBメモリーを見つめた。

(決行は明後日、金曜日だ)と木下の声が追い打ちをかけてくる。

(それで今後の人生が決まる。わたしはもう何も言わない。当日、オフィスで答えを聞こう)

「それまで会えないんですか?

(あの場は収めたが、私の古傷がまだロシアをうろついている。また君に迷惑をかけてしまうかもしれないとも限らないし、それにもう会う必要もないだろう)

「なぜです……?」

(材料はすべて渡した。これ以上、君が出す答に影響を与えたくない。間違っても責任はとれないからな)

 突き放した声音でも、これまでもいちばん誠意を感じさせる言葉に聞こえた。谷沼は少し戸惑い、「先輩が望まない答えが出るかも」と憎まれ口を返した。(その時はしょうがない。縁がなかったと思って、あきらめるさ)と木下は動じない。

 電話は一方的に切れた。いい答えを期待する、ぐらいのことは言えばいいのに。ふと、得体の知れない心細さに襲われ、谷沼はGBNで保存していたデータUSBを手にした。まずは事実を確認することだ。エフゲニーの寄越した〝コングロマリット〟の内部情報が、〝財団〟のそれと合致すれば、この迷いは消える。最適かつ最良の答えも出せるだろう。

 ノックダウン式のプラグを露出させ、パソコン本体のソケットに近づける。直前、そうせずにはいられなくなっている自分に違和感を覚え、谷沼は手を止めた。指に挟んだUSBをじっと見つめ、自分はなぜこうも焦っているのだろうと考えてみる。

 グランプラスの財務状況はのっぴきならない状況まで来ている。

 ほかにこの苦境から脱する道がないことも確かだ。

 決行は明後日しかないという時間的制約もあれば、急がねばならないことは道理なのだが、それにしてもなぜ自分は――。

 わからなかった。

 それでも考え続け、USBをいったん机の上に置いた谷沼は、代わりにスマホを手にした。親指で番号メモリをスクロールさせ、〝K〟と登録された電話番号を呼び出す。

 相手はすぐに出た。電話をかけるには非常識な時間だが、彼らの世界ではまだ宵の口でしかない。念のためだ、これが棲んだら計画を進めよう。胸中に繰り返しつつ、谷沼は覚悟して最初の一語を吹き込んだ。

「グランプラスの谷沼です。夜分にすみませんが、カラムチェフさんにお話が……。えぇ、緊急です」

 

 

 

 

 

 ベッド2つが詰め込むように小部屋にあるのは、貧相なドレッサーデスクと椅子、それに今時まだ残っていたのかと思えるブラウン管テレビのみ。ロシアはまだデジタル放送に移送しきっていないのか、チャンネルを変えるたびに上下の黒味が現れたり消えたりする。ニュース、深夜バラエティ、ハリウッド映画。リモコンで次々チャンネルを変えながら、金家は携帯電話を耳に当て直した。「見たところ、テレビのニュースにはなってない」と吹き込みつつ、みしみしと音を立てる安いベッドに腰掛ける。

「でもネットの情報では流れている。ホテルに宿泊していた、身元不明の東洋人1名がフルダイブ型オンラインゲーム『GBN』ダイブ中にに、死亡。パスポートを所持していなかったため、当局が他の所持品から身元を照会中。併せて、逃走した他の東洋人数名の行方も追っている」

 小振りにもほどがあるドレッサーデスクと向き合い、携帯端末をいじっているミカヅキが微かに頭を動かす。ネット情報を調べるなら画面の大きいタブレット端末を使いたいところだが、モスクワに置いてきた電子機器の回収はあきらめるしかない。

 かなぐるようにダイバーギアを外し、タクシーを乗り継ぎ、着の身着のままでこのホテルに飛び込んでから2時間弱。

 複数用意したビザとパスポートが役だったのはよかったが、ビジネスユースの代表格とも言えるツインルームの内実は、豪奢なモスクワのホテルとは較べるべくもない。シャワーはちょろちょろとしか出ない、ベッドもサイドテーブルも極限まで経費を切り詰めた安物と来ている。

 その狭さと殺風景さは、日本の地方都市のビジネスホテルとどっこい……いや、それ以下か。そのくせ、建物の外装は奇妙に豪華で観光ホテル然としており、中身との落差はむしろ温泉地にある安手の宿を想起させる。1階のロビーにカラオケバーらしき飲み屋が併設され、各種の自動販売機が置かれているところなど、まるで熱海の安ホテルだ。

 なにより寂しいのは、窓から見える景色だった。市内を一望できるホテルのスイートとは異なり、ここから見えるのは旧体制時代に使われていたのだろう工場らしき建物の廃墟。真夜中に見るそれは不気味以外の何者でもないが、今はその陰湿な廃墟が視界に入る心配はなかった。金家がぴっちりカーテンを閉じて以来、1度も開けられていないからだ。

 現実世界に戻っても、あの冷気の持ち主から、そう簡単に逃げられたとは思えない。仮想空間内に相手が複数いる可能性も否定できず、いまだにGBNの中にうろついていると見た方がいいが、インしたら最後、いつ襲われるか知れないという恐怖は金家にはなかった。

 奴は他の要求はしなかった。奴は、こちらが追わない限り危害を加えるつもりはないということだ。理由は定かではないが、それがいま現在、奴が金家たちに適用している〝システム〟なのだろう。

「若には気の毒だが、当分は死体安置所で預かっておいてもらうしかない。日本に帰ったら、あの女に言って、引き取りの算段をつけるんだな」

 そんな隠微な状況は、電話の向こうの松音正には無縁のことに違いない。どこで野垂れ死のうが知ったことではないが、メダシの死で当局が動き出している以上、勝手な真似をさせておくわけにはいかない。

 警察に拘留された松音がすべてを白状しようものなら、こちらの身も危なくなる。子分から譲られた電話番号で携帯をかけた金家は、一蓮托生の危機的状況を説明したつもりだったが、返ってきたのは、(なんやね、その喋り方は。胸糞悪い)というのどかな声だった。

 立て続けの電話で、GBNで話していた時の口調が残っていたらしい。谷沼のケアも考えねばならないのに、こんなバカの面倒も見なくてはならないとは。金家は顔をしかめ、

「で、今はどこにいんだよ」

 と地の声を出し直した。(どこにも行く当てなんてあるかい!)と松音の怒声が返ってくる。

(ロシアのホテルは飛び込みの外国人はお断りやて、知っとるやろ)

「宿はとってなかったのか?」

(宿はモスクワや。あんなことあってから、手配もあったもんやないわ。ワレんとこ行ったるから、場所教えろや。このままやったら、凍えてまうわ)

「冗談じゃねぇ。あんたらみたいに目立つのに押しかけられたら、1発で場所が割れちまう」

(ほなどないせいっちゅうんじゃ! だいたい、命もらわれとるの、お前ちゃうんか)

「そう単純じゃねぇんだよ……」

 溜まった疲労を息にして逃がし、金家はうなじに手をやった。

 触れるな、と言って消えた冷気の持ち主。

 奴には自分には危害を加えるつもりはなかった。ただ監視するのが目的で、あそこでメダシを殺したのは、むしろこちらに逃亡の機会を与えてくれたようにも思える。

 あのままだったら、居場所を無理やり吐かせられないまでも、グランプラスに関する計画を洗いざらい喋らされ……いや、話の転がりようによっては、居場所を本当に喋っていたかもしれない。

 奴はそこに現れ、メダシを殺して再び闇に消えた。もしそうなら助けられたことになるが、感謝する気には到底なれない。東京で〝対策室〟に追われた時も、あれほどの恐怖は感じなかったと思う。深雪経由で送り込まれてきた松音たちとは違う、出自も目的も違う根本的に異なる第三者――。

 そのまとう闇の深さを思い出し、ざわと肌を粟立てた金家は、(誰が単純や。ボケ!)と返ってきた怒鳴り声に頭を小突かれた。

(命救ってもろたのに、ワレには仁義ないんか。若の冥福を祈って、わしら部屋に泊めんのが人の道っちゅうもんやないか)

「どこに頭ぶつけたらそんな理屈になんだよ。元はと言えばあんたらが――」

(もうええ。聞きたかない。ほなら、カモのところに行かさせてもらうわ。ワレが何者で、どんだけ悪どい男か洗いざらい話したる)

「そんなことしたら、親父さんの所には一銭もはいってこないぜ」

(かまへん。ホンマに行くで。それでもええんか)

 完全に意固地になっている……。そんなところか。

 ロシアでは、入国の事前申請がない限り外国人はホテルに泊まれない。しんしんと降り続く雪をカーテンの向こうに幻視しつつ、

「あぁ、行きたきゃ行けよ」

 と金山は言ってやった。ぐっと詰まったあと、

(計画がパーやぞ)

 と松音が低く言い返す。

「あぁ、パーになるだろうな。あんたが本当にカモの名前と居場所を知っているなら」

 沈黙の数秒を挟み、ノイズとも衝撃音ともつかない音がスピーカーを震わせるようになり、金家は携帯を耳から遠ざけた。

 谷沼と話して、身元が聞かれていないことは確認している。連続する衝撃音の中に

(このアホ! 言われんでも名刺ぐらいもろとかんかい、ボケ!)

 と松音の怒声の混じり、

(親分、ここは抑えて)

(人が見てまっせ)

 と子分たちの声が続く。

「それとな」

 冷静さを取り戻したらしい、松音が言った。

(ワレの戦い方は、カッコ悪いわ)

「なに?」

(ワレはガンプラをなんかの乗り物と勘違いしとるんちゃうか?)

「ガンプラは仕事の道具だ。人間とガンプラは違う」

(んな常識、もう古いで。今やHGサイズの可動域は、素組だとしても、人間と違いないくらい繊細で細かいんや。RGクラスになったら、その細かさと柔軟性……すなわち、人間と変わらん)

「…………」

(ええか、よく聞きいや。ガンプラは魂つこうて、命張って、ゲームで戦うんや。だが、ワレにはそれがない。まるでオカズと飯が別々みたいなもんや。<ガンダム>のでっかい力を感じているはずなのに、機体を軽トラかなんかしか扱わないからや)

「問題があんのかよ」

 ガンプラは生物でもない。アニメのロボットを模したただのプラスチック製品だ。GBNではプログラムに従い、数値化され、関節を駆動させるデータだ。上級フォースの所属するダイバーは、『ガンプラは第2の肉体』と呼ぶ者もいるが、あくまで例えに過ぎない。ガンプラは、たとえさまざまな形をしていようと、さまざまなプログラムの寄せ集めにしかすぎない。

 松音は、(気合が足らんのや)と静かな声で言い、(はっきり言わんとわからんか?)と言った。電話口の向こうでため息が聞こえた。それから、

(あんさんは<ガンダム>に遠慮しとるんや」

「なっ……」

(どつきあってようわかった。足の運びや腕の捌き、サーベルの振り方やその振り回しのひとつひとつ……そうしたすべてに遠慮がある。一見合理的だし、ようできとるけど、あんさんらしい動きではあるけれど――遠慮しとる。まるで顔をそむけているみたいや。<ガンダム>と目を合わせたくない。どうでもいい。それ以前の問題や)

 松音の言葉。その言葉が胸にひとつひとつが突き刺さった。

 その通り、俺は黒須の<ガンダム>の力を引き出しきっていない。ひとたび動かせば、体が振り回されてばかりだ。それでも追いつこうとした。

 その遠慮が、<ガンダム>の力をひきだしきっていない……。

(よく聞くんや、詐欺師)

「あんだよ、改まって」

(うちらが使うガンプラは、ただの乗り物じゃあらへん。ダイバーの気合のさらなる延長なんや。ダイバーの心は、そのまま機体にでてまうんよ。強うフォースとの戦いになってみ? それが決め手になるんや。自分を、自分のガンプラに遠慮なんかしとるやつに、これからの敵は決して倒せへんで。)

(まぁええ。首洗って待っとけや。これからの市内のホテルのしらみ潰しや。見つけたらただじゃおかんからな)

「……やってみろよ。最初の1軒目で通報されて、2軒目でおまわりが待ち構えてるぜ。あんたら、逃げ出した東洋人の一味なんだからな」

 再び、携帯を振り回しているのだろう松音の怒声と、どつき回されているのだろう子分たちの悲鳴がひとしきり続く。いい加減、携帯が壊れやしないかと思った時、(日本に帰ったら、覚悟しとけよ)と松音の荒い息遣いが耳朶を打った。

(どんなヤマ張ってんのか知らんが、こっちの殺し屋もどきより先にワレの息の根止めたる。そん時に泣いても遅いで)

「そのためにも、今はおとなしくしとけよ」

 怒鳴り返す隙も与えず、金家は続けた。

「地下鉄2号線。駅を出てすぐ、でっかい橋のたもとに朝までやってるバーがある。とりあえずそこで夜を明かせ。まだ大きなニュースにはなってないから、目立たないようにしてれば大丈夫だろう」

 どこで電話を受けているのかは知らないが、とびきり目立つ東洋人の集団を表に出しておくわけにはいかない。ここで電話を切られたら凍死しかねない我が身を承知してか、(ちょっと待て。メモさせるから)と松音は案外素直に応じてくれた。行き先を伝えた金家は、

「そこで休んだら、朝一番で帰国の手続きをしろ。捕まったら、お互い面倒だ」

(アホぬかせ。ここまで来て手ぶらで帰れるか)

「無事に帰れたら、アガリをわけてやる。億単位だ。文句ないだろ」

(信じられるかい)

「信じてもらうしかない。入り組んだ計画なんだ。このままじゃ、親父さんの命も保証できない。あの女に聞いてみろ」

(……こっちからは連絡できんようになっとる)

「だったら連絡が来た時に話せ。事件の一報はあいつの耳にも入るだろうから、すぐに連絡してくるはずだ」

 そういう律義さが、深雪にはあったと思う。ちらとテーブルの上に腕組みをして立っているミカヅキを見てから、金家は「わかったな」と念を押した。

(そっちこそわかっとるやろな。6年前の慰謝料に、若の香典も上乗せやで)

 また少し、落ち着いたらしい松音の声が応答する。

(しっかしワレ、どんだけ危ない橋を渡っとんのや。辰はホンマにあのわけわからんヤツに殺されたんか? GBNやっとんときにで人が死ぬなんて聞いたことないで)

「遺体を引き取ったら、医者にでも聞いてみろ。たぶん、足がつくような真似はしてないだろうけどな」

 息を呑む音を残して、松音は押し黙った。欲の皮が突っ張ったチンピラであっても、松音は根っからの悪人ではないし、己の分を知ろうとしない愚か者でもない。これが自分の手に余る事態であることは理解したに違いなく、金家はようやく「すまなかった」と言うタイミングを得た。

「別に誘ったわけじゃないが、親父さんたちがこっちの事情に巻き込まれちまったのは事実だ。若の香典、家族がいるなら弾んでやってくれ。あとで必ず返すから」

(言われるまでもないわ。ワレこそ借金返さんうちに野垂れ死ぬんやないぞ)

「わかったよ。6年前の話はともかく、香典の立て替えは立て替えだ。……ひとつ教えてほしい」

(んあ?)

「親父さん、どうやって俺たちの場所がわかったんだ。偶然なんだろ、お前が来たのは」

(ああ……。もうワレもわかっとるみたいやから言うけど、あの女から連絡が来てん。知り合いのロシア人がいることがわかったから、そいつと会えって言われたんや)

 やはり、この前の電話か。あれで深雪は居場所を知り、モスクワに送り込んだ松音に捜査員と合流しろと指示した。

「いつの話だ?」

 と重ねた金家に、(昨日の遅うや)と松音は答えた。

(せやけど、わしらまだモスクワに到着する前でな。いくつも国境越えて、ようやくモスクワに到着したのが昨日や。まったく、エライ目におうたで。船に揺られて、汽車乗り継いで、車走らせて、モスクワにたどり着くまでどんだけ苦労したか。まる1週間、まともに布団で寝られへんで。腰なんてガッタガタや。ようやっとホテルで眠れる思うたら、ロシアに知り合いがいるから、会いに行け、やろ? んで、そいつがワレがサンクトにいるっていうからついていったら、どういうわけか、ホントにワレがいたっちゅうわけや)

 偽装パスポートを用いての入国は、松音たちもそれなりの手順を踏んだらしい。

 同じロシア内でも、東のヴァイロンか、西のグランプラスか。

 どちらとも判断がつかない段階で、深雪は捜査員に連絡し、そのまま松音とコンタクトをとらせた。そして、捜査員に任せたら、谷沼の誕生パーティーに行き当たった。こちらは谷沼の誘いで、パーティーに誘われた。

 聞いてしまえばつまらない話だ、と思い、金家は太い息を吐いた。「じゃあ、すまないが、もう一晩だけベッドはお預けだ」と返し、目頭を揉む。

「この苦労は無駄にならない。分け前は必ず払うから、できるだけ早くここを離れてくれ」

(そう神妙に言われたら、かえって疑いたくなってくるわ。ワレは口が達者やからな。6年前の時も――)

「あれは……もういい。この番号はこれで消すから、子分に謝っといてくれ」

(おう)

「まぁ、でも番号の名前、親父さんも消したくなるんじゃないかな」

(なんでや)

「この番号、『ハダカ電球』って名前で登録してあった」

 三度、不穏な沈黙が流れ、怒声と雑音が電話の向こうで弾けた。皆まで聞かず、金家は携帯を切った。そのまま携帯のボタンを弄り、松音の電話番号を消して、ベッドに倒れこんでから、残り少ないタバコをズボンのポケットを探った。

「<ガンダム>と向き合ってない……か」

 この状況、そして今の松音の言葉。

 どっと疲れが押し寄せてきた感じだった。タバコに火をつけ、天井に紫煙をふきかけた金家は、しばらくは何もなれずに、脂で黄ばんだ天井を見つめた。

「なにがあったんだ」

 ミカヅキが口を開いたのは、そろそろ崩れてきた灰をサイドテーブルの灰皿に落とした時だった。

「え?」

「6年前。サーバーがどうとか」

「ああ……。あの親分がどうしても現場に出せってうるさいもんだから、GBN制作に関わった端役のメーカーって肩書きで出してやったんだよ。『A金貨』のお陰で成功したベンチャーって設定で。カモのサーバースタッフも、まぁ、外注だけど『A金貨』の恩恵を少なからず受けた人間だったから、うまくすりゃ役に立つし、まぁ、騙されとけば害はないと思ったんだがな。あいつ、カモと勝手に話し始めて、『うちのビールサーバーは天下一品ですんで』って」

 スマホのディスプレイから顔を上げ、ミカヅキはわからないという目をこちらに向ける。説明するのも億劫な気分で「ザーバーはサーバーでも、サーバー違いだろって話」と金家は付け加えた。

「関西人特有のユーモアですってフォローしたけど、あとの祭り。そこからはもうグダグダ。松音は大丈夫だって言い張ったけど、俺はもう何もかもうっちゃって逃げ出した。案の定、次インした時は、運営が待ち受けてて、のこのこインした松音は運営に捕まってからの現行犯逮捕。事件のあらましをすっかり吐いたおかげで、俺はGBNの隅から隅まで手配されて、他人のデータやらアバターやら個人情報を買う羽目に……。まったく、賠償請求したいのはこっちだぜ」

 ふうん、とひと声も寄越さず、ミカヅキは金家のスマホに顔を戻した。お互い、懸案事項があることはわかっている。強いて勢いよく身を起こし、気を抜けばのしかかってくる沈鬱な空気を押し退けた金家は、「そんなことより、問題はあの女だ」と灰皿にタバコを押しつけつつ言った。

「松音なんて引っ張り出してきやがって、まったく忌々しいったらねぇ。おまえら、どういう関係なんだよ。いい加減、聞かせてもらいたいな」

「察してるんだろう?」

「ああ。だがな、こっちの目的がわかってるのに、本気で止める気はない。そのくせ、松音みたいな搦め手使って、邪魔だけは念入りにしてくるってのは、はっきり言って病気だよ。多少は自覚しているのか知らんが、本人が思っている以上に支離滅裂だ。なんなんだ、いったい。色恋沙汰にしたって、ああまで偏執的になるのは尋常じゃないぜ」

 深雪がその気になれば、谷沼に電話一本かけるだけで事は済む。本来、こちらの居場所が特定された時点で詰んでいる話だ。にもかかわらず、送り込んだ松音を顎でつかい、妨害行為に終始している彼女の腹の中身はなにか。振り向こうともしないミカヅキを遠目で睨み、ふんと鼻息をついた金家は、「おかげで、変な虫まで呼び込んじまった」と吐き捨てた。

「何者なんだ、あの男は。〝対策室〟じゃないんだろう?」

「〝A〟に報告した。照会中だ」

 目を合わせもせずに放られた言葉に、わかっていても腹に鈍い衝撃が走った。こうなった以上、もう報告せずにいるという選択肢はない。

 いつからあの冷気の持ち主の監視下に置かれていたのか、状況次第によっては〝A〟と福田輝義にも危害が及ぶことになる。

「もう、駄目かもしれない」

 と続いた声にさらなる一撃を浴びせかけられ、金家は我知らず拳を握りしめた。

 この部屋に立ちこめる沈鬱の正体が、それだ。

 これまでやってきたことがすべて無駄になり、おそらく次のチャンスはなくなるという予感。念入りに仕込んだ計画が土壇場でぽしゃるのは初めてではないが、これはそういう問題ではない。

 なんだろう、この正体不明の喪失感は。鼻先にぶら下げられた人参がひっこんだだけのことで、何かをうしなったわけでもないのに。

 つかみかけた蜘蛛の糸が音もなく、引き上げられていくような――。

「……冗談じゃねぇ。この世界に、2度目のチャンスなんてもんはねぇんだ」

 無意識に口走ってしまってから、下唇を噛み締める。こちらに振り返ったミカヅキが何かを言いかけた時、電話の呼び出し音が鳴った。

 着信ランプを点滅させる自分の携帯を取り上げ、ミカヅキと顔を見合わせる。計画用に調達したプリペイド携帯を鳴らせる者は、そう多くない。発信元不明の表示を確かめ、来るべきものが来たらしいと得心した金家は、日本語で、

「もしもし?」

 と応答した。

(話は聞きました。その後、おかわりはありませんか?)

 落ち着いてはいても、常になく硬い声音で〝A〟が問う。想定外の一報を受け止め、咀嚼し、必要な判断を下すだけの時間は経っている。すぐに連絡してこなかったということは、やはり、そういうことだ。不愉快な話になりそうだと覚悟した金家は、

「大丈夫だ」

 と短く答えた。

(あなたの場にあらわれた謎の人物は、おそらくフェアチャイルド財閥が差し向けたハンターかと思います)

「ハンター……?」

(『A金貨』のタブーに触れた者を探し出し、文字通り狩る。日本の〝対策室〟と同じ役回りですが、〝対策室〟が〝財団〟の直属に近い機関に対して、ハンターはフェアチャイルド財閥が管理している。内実は〝財団〟の人間にも知らされていませんが、アジア・サーバーでも数名、確認されています。もし、オンライン上で見かけたならば、その人物は恐らくELダイバーの可能性が高い)

「ELダイバーがなんで」

「東京での騒ぎを聞きつけて、マイケル・プログマンがGBN内の駒として、追跡を命じたんでしょう。これは〝対策室〟も〝財団〟も知らないことです」

 つまり、あの若僧は、ELダイバーで、アメリカ側の『A金貨』担当――フェアチャイルド銀行の若殿が送り込んだ刺客。しかも、フェアチャイルド財閥で飼われているELダイバーが、はるばるチンケな詐欺師を殺しに? 

 だが、どうやって若は死んだ?

「じゃあ、俺らはGBNにインしてるたびに監視されてたってことか?」

(わかりません。でも、もしそうなら、財閥はぼくの居場所も知っていなければおかしい。金家さんたちが補足されたのは、ロシアに旅立った以降のことだと思います。ミカヅキが初めて相手の存在に気付いたのも、ロシアGBNに着いてからなんでしょう?)

 その時点で報告してくれていれば……と暗に責める声に聞こえたが、気に留める余裕はなかった。

「待ち伏せか……」と呻き、金家はベッドから腰を上げた。(彼らの能力は〝対策室〟に引けをとらない)と、〝A〟が続ける。

(ある部分ではそれ以上ともそれます。仮にも公務員の〝対策室〟と違って、非合法活動に対する敷居が低いですから)

「何の手口かわからんが、1人殺ってるからな。しかも無関係のやつを」

(普段は一般ダイバーとして社会に溶け込み、指令が来ると姿を消す。日本国内でもGBNでも、ハンターが働いた事例はいくつかあります。そのGBNにいるハンターにかけられた者は決まって、脳が焼かれた状態でした)

「なんだって?」

(検死では不調による機械の故障……というのが見方ですが、人為的に電圧に高い負荷がかけられたに違いないでしょう。機械を人為的に操作できるELダイバーなら、そう難しくはないかと)

 “財団〟の頭越しに『A金貨』の秘密を守護するフェアチャイルド財閥のハンター。日本にも〝対策室〟という防衛機関があるにもかかわらず、アメリカが治外法権の手を国内に飼っている構図は、『A金貨』をめぐる〝財団〟とフェアチャイルド財閥の関係の縮図であり、ひいては日米関係の縮図といったところか。(でも、あなたは殺されなかった)と重ねられた〝A〟の声を金家は苦味の底で聞いた。

(泳がせて、首謀者の正体を探る……ということではないでしょう。それが目的なら、なにがあっても姿を見せなかったでしょうし、あなたを痛めつけて吐かせた方が効率的だ)

「じゃあなんだ」

(多分、泳がされているのは我々ではなく、谷沼です)

 予想外の、しかしそう考えればすべての辻褄が合う言葉が頭蓋を突き通り、金家はその場に棒立ちになった。気配を察したのか、ミカヅキもうかがう目を寄越す。

(あなたが最初に渡したUSBには、仕掛けがあった。あれに記載された資料には、見る者が見れば、〝財団〟傘下の企業が不正取引をしている証拠だとわかる)

 自身、状況を整理するような口調で〝A〟は続けた。

(でも、どこの企業かはわからない。当然、〝財団〟は各国の企業に財務証明を徹底させる。不正の張本人である谷沼は浮き足立ち、そこに現れて――)

「救いの手を差し伸べる。奴はしっかり握ったよ。それで?」

 こちらの狙いを欺瞞して、時間稼ぎのついでに突破口も開く。なにしろ自分も引っかかったのだから、素人が考えたにしては上出来なプランと認めざるを得ない。

 先を促した金家は、

(その欺瞞を、我々の予想より早く見破った者がいた)

 と断定した〝A〟の声を聞いた。

(電話があったそうですね。ホテルに。もっと早く教えてもらいたかった)

 感情を押し殺した声音の底に、怒りとも哀しみともつかない微かな振幅があった。虚を突かれた可能に構わず、(〝対策室〟が得た情報は〝財団〟の情報と共有されますが、そういうことじゃないでしょう)と〝A〟は言葉を継いだ。

(彼女は個人で動いている。情報管理も徹底しているだろうから、そこからマイケルや〝財団〟に漏れたということはまずない。彼女が見破ったからには、他にも見破るものが現れて然りだったということです。こちらの計画不備でした)

 かばうような言い方が引っかかったが、事実は事実だった。私が知っているからは他にも……深雪もそう言っていた。

(マイケルは、不正取引の犯人がグランプラスであることを知った。我々の狙いがそこであることも。となると、次に疑うべきは谷沼本人です。我々と谷沼は、最初から共犯関係にあるのではないか。莫大な負債で首が回らなくなった谷沼が〝A〟と共謀して〝財団〟から金をかすめ取ろうと……)

 メダシを始末し、こちらに逃げるチャンスを与えたハンター。

 教会の森で、ミカヅキにその存在を知覚されたハンター。郊外の遺跡で、自らの面をさらす羽目になったのは、彼には完全に予想外のことだった。

 メダシの死が人為的なものだと疑いもせず、自分たちはただその僥倖を利用して逃げおおせ、予定通り計画を進めていればそれでよかった。そうすることで、彼の――正確には、彼の主人の――利益にかなうからだ。

 

“システム〟に、触れるな。

 

 あの言葉が何よりの証拠だ。

 “システム〟にはまっていれさえすれば、お前たちは死なない。むしろ守ってやる。お前たちの計画を進めることが、我々にとっての計画なのだから。他に今夜の経緯を説明する理屈はなく、金家はよろと揺らいだ体を壁に押し当てた。

(あのUSBの資料だけでは、グランプラスの不正の実態はつかめないし、ぼくたちの目的もわからない)と〝A〟が続ける。

(そこであなたたちの行動を監視し、事が起こるのを待つことにした。共犯であれなんであれ、〝A〟の仲間と接触した谷沼は何らかの行動に出る。尻尾を出すのを待って一網打尽)

「谷沼の不正を暴くついでに、〝A〟の一党も挙げる一石二鳥……ってわけか」

(各国支部に独自裁量を認める新体制は、マイケルの肝いりで始まったことです。それがなければ、谷沼が無断取引で負債を作ることもなかった。事が公になった場合、マイケルも責任の追及を免れませんが、彼自身が不正を暴いたなら事情が変わってくる)

 しかも、〝財団〟に煮え湯を飲まされてきた〝A〟という土産までつく。金家は、握りしめた携帯がみしりと音を立てるのを聞いた。

(都合のいいことに、谷沼は日本人です。そして、〝A〟の事件の日本で起こった。話の持っていきようによっては、これは全面的に日本側の責任であり、日本人による〝財団〟の運営、人事はいっさい信用ならぬという論法にもすり替えられる。結果、呂名家を筆頭における創立以来の体制にひびが入り、相対的にアメリカ側の権限が増す……。『A金貨』の出自からして、フェアチャイルド財閥による一括管理は末来の宿願でしたからね。なんなら、谷沼に鼻薬を利かせて、彼らの望むような証言をさせてもいい)

 そんなところに、松音たちがしゃしゃり出てきた。ハンターを動かしているのがマイケル自身なら、迷う事もなかっただろう。マイケルの目論見通りに事を進めるためには、谷沼に行動を起こさせる必要がある。現時点において、〝A〟の計画を阻害する者は彼らにとっても敵――排除すべき対象だ。

(ぼくたちは利用されていたんです。マイケルに……)

 絞り出した声音にくやしさを滲ませ、〝EL〟は言った。掌中の虫にされていた自分にりつ然とする一方で、予感が現実になる寒々しさも覚えた金家は、

「で、どうするんだよ」

 と意識して無頓着な声を出した。しばらくの沈黙をはさみ、

(あなた方にハンターの存在を知られてしまった以上、マイケルがどういう手に出るか予測がつかない。計画は……中止するしかないかと)

 

 ほら、来た。

 

 別に、驚かない。

 

 とっさに張った予防線もむなしく、想像以上の喪失感が胸を吹きぬけ、

「中止、ね……」

 と呟いた声が無様に震えた。小さく息を呑んだミカヅキの視線がこちらに注がれ、ゆっくり伏せられてゆく。

(移動の算段はミカヅキが知ってます。すぐにそこを引き払ってください。フェアチャイルドの監視を逃れるために、少し寄り道してもらいますが、必ず日本に帰国させるようにします。残念ですが、マイケルにここを知られてしまった以上――)

「違約金」

 考えるより先にその言葉が飛び出して、金家はつかの間二の句を失った。ミカヅキが思わずというふうに顔をあげ、同じく絶句した〝A〟の気配が電話越しに伝わる。

「そりゃ、松音みたいな奴を呼び込んだのはこっちの……いや、違うな。それだって、あんたとあの女のなぁなぁが招いたことだ。そっちの事情で注視するんだから、違約金は寄越せ」

(それは……全額とはいきませんが、お支払するつもりではいます)

「いくらだよ。元は50憶の違約金だぞ。あんたら、スマホの開発やらなにやらですっからかんだろうが。10兆円がフイになったら、5,000万が500だって怪しいところだ」

 反論の隙間も与えず、「そんなはした金に用はない」と押しかぶせる。

 タバコに火を点け、吐き出した煙で寒々しい空気を吐きちらしたつもりになった金家は、こちらに注視する金家と視線を絡ませつつベッドに腰掛けた。

「俺が欲しいのは副賞の方だ。『A金貨』の真実。そいつを違約金代わりに支払ってもらう」

 他に、この喪失感を埋め合わせる術はない。理屈抜きの衝動に従い、金家は全身を耳にして〝EL〟の返答を待った。ひどく長い数秒の後、(……それはできません)と半ばかすれた声が携帯のスピーカーを震わせた。

(あなたはもう十分、〝システム〟に触れている。現状をかえられない限り、ここから先は命に関わります)

「手遅れだよ。ここでやめたって、俺は死ぬまで〝財団〟に追いかけられる」

(そうならないよう力を尽くします。しかし、あなたがすべてを知ってしまったら、それもできなくなる。これはおどしじゃない。そうやって死んでいった人間を、ぼくは何人も見ている)

「詐欺に引っかかったどっかのダイバーとかな」

(金家さん、これは冗談じゃない)

「あたりめぇだよ。誰が冗談で――」

 

(もう誰も死なせたくないんです!)

 

 ほとんど絶叫に近い声音が脳を突き抜け、五臓を揺さぶって過ぎた。金家は雷に打たれた体で硬直し、なにかを察したらしいミカヅキも顔をうつむける。

 〝A〟がいちばん恐れているのは、この計画に犠牲がでること。

 昨夜聞いた言葉が脳裏によぎる間に、金家は拳を握りしめていた。

(犠牲はもう十分に払ってきた……。『A金貨』……呂名雄二が見た夢のために、どれだけの人生が……。今度こそ、終わりにしたい。終わりにできると思った。でも、そのためにまた血が流されるというのなら、それは……)

 震える声が、湿り気を帯びて全身に入り込んでくる。これがあのつかみどころのない、ろくに体温を感じさせなかった〝A〟か? 疑う端から、いや、この熱は折々に感じてきた、だから自分は引き込まれたのだと納得して、金家は溜め込んだ息をゆっくり吐き出していった。

 最初からわかっていた。

 必要上、〝A〟という仮面をかぶっているだけで、こいつの本質はもろい。こんなことをするには、やさしすぎるのだ……と。

(お願いします。なにも聞かずに、抜けてください。報酬と、あなたの身の安全については、できる限りのことをすると約束します。すでに無関係の人間がひとり殺されているんです。このままでは、〝システム〟に触れたあなたは――)

「また〝システム〟か」

 不快の波が渦巻いていた。ひと仕事終えた時に感じるのと同じ……いや、それ以上に激しく渦巻き、心身を絶望の底に抜け込めてしまう波。言葉を失った〝A〟の気配を遠くに感じながら、金家はタバコをもみ消して立ち上がった。

 そう、またしても〝システム〟……。そのために人が殺され、自分も掌中の虫と化している。自分だけではない。ミカヅキも、〝A〟も、そこから抜け出そうとしたしながら、一歩も動けていない。

 そして、いつかは黒須のように――。

 

『〝システム〟に触れるな』

 

 ハンターの声がよみがえってくる。垣間見たその昏い瞳を真正面に見返し、金家はそこに横たわる闇を凝視した。

 受け入れろ、何もかも忘れてトンズラしろ。必死に訴えかける理性を力任せに押し退け、「答えはノーだ」と口を動かしていた。

「俺は抜けない。最後までやる」

(金家さん……!)

「落ち着いて考えてみろ。俺たちはまだ生きてる。電話で話した谷沼にも変わったことはなかった。そのハンターとやらは、俺たちが計画を続けるのを待ってるんだ。これがどういうことか、わかるか?」

(だから、谷沼の不正を暴いて、利用するために……)

「そうさ、俺たちが計画を進めない限り、あいつらは何もできない。つまり、あいつらは何もつかんじゃいないさ。俺たちの目的も、何をしようとしているのかも」

 虚を突かれたという顔で、ミカヅキがこちらを見る。わかるよな、とその目に念押しした金家は「そうでなきゃ、とっくに谷沼は挙げられてグランプラスは閉鎖だ」とひと息に続けた。

「なにせ、谷沼の手にはウイルス入りのUSBが握られているんだからな。あれが〝財団〟の専用通信にとり憑いた日には大事だ。谷沼を挙げるためのリスクにしちゃ高すぎる。俺がマイケルっていう野郎だったら、さっさと谷沼を更迭して、ウイルスを回収しろって命令してるよ。ついでに俺たちもとっ捕まえて、あんたの居場所と正体も吐かせる。その方がずっと効率的だよ」

 そっちが言ったことだ、と無言の圧をかけ、〝A〟が押し黙った隙に、ペットボトルの水をあおる。狭い部屋を行き来し、熱した頭の中身を整理しながら、「でも、奴らはそれをしない」と金家は続けた。

「知らないからさ。谷沼の手にウイルスが渡ったことも、その威力も。だから俺たちがことを起こすのを待っている。なら、考えることはない。やってやればいいさ。もう舞台装置は整ってる。あとは谷沼に特別措置を実行させるだけだ。全部がすんだ後には、あとの祭りって奴だ。連中は何が起こったか調べているうちに、俺たちは国外にトンズラすりゃいい」

(しかし、グランプラスが標的であることはわかっている。専用回線の端末も監視下におかれているはずです。緊急融資を実行した途端に、踏み込まれるかも)

「どうかな。俺がマイケルなら、500億の融資願いは始まりだって思う。その金の行く先に、〝A〟の真の目的だってあるはずだってな。それがわかるまでは静観する。連中にとっては、500億は捨ててもいい金だ。なにもかもつかんでからでないと、日本陣営を黙らせて、〝財団〟を乗っとるなんてできねぇしな。ウィルスが融資願いをコピーして、10兆円抜き取られる羽目になるなんて想像もしてねぇさ」

(今夜のことで、谷沼が疑いをもった可能性もある……!)

「あいつなら言いくるめたよ。今頃は専用回線に例のUSBを突っ込んで、ウィルスを流し込んでくれてるさ」

(あなたの言ってることは全部推測だ。当てずっぽう、ギャンブルと言ったっていい。ぼくは、ギャンプルをするためにあなたを雇ったわけじゃない!)

 我慢も限界という声で〝A〟が叫ぶ。

 わかっている。そんなことは。

 でも状況を見る限り、決して確率の低いギャンブルではない。どだい、ここで退いたら何が残るというのだ? “システム〟に搦めとられ、闇に怯えて惨めに朽ちていくくらいなら、いっそ――。その先に続く言葉を呑み込んだまま、「じゃあ、なんのためだ!」と金家は怒鳴り返した。

「なんなんだ、お前ら。〝システム〟を変えたいだの世界を救うだの、さんざん壮大なこと言っといてこれかよ。10兆円でなにする気か知らねぇけど、こんなことであきらめちまうぐらいのことだったのかよ!」

 隣室にまで漏れ出したであろう大声に、ミカヅキが鋭い視線をこちらに注ぐ。微かに揺れている目と目を合わせ、すぐに逸らした金家は、少し落とした声を携帯に吹き込んだ。

「そりゃ、俺は世界なんてものとは無縁に生きてきた詐欺師だよ。『A金貨』にこだわって、まともな人生を歩きそこなったバカ野郎だよ。でもな、そんな人間でも……そんな人間だからこそ、〝システム〟って聞きゃ、ぴんと来るものがあるし、今の世の中がまともじゃねぇってこともわかるんだ。呂名雄二の夢? 知らねぇよ。俺に見えるのは、お前らだけだよ。どいつもこいつも思いつめた顔しやがって、ずるいったら、ありゃしねぇ。きっちり乗せられたよ、俺は。この計画終えたら、何か別の風景が……右を左を見ても効率効率、数字がどうデータがどうってさ、そんなくだらねぇもんじゃなくて、もっと別の風景が見えるような気がして……。それを、今さら引けるか。2度目のチャンスはねぇんだ」

(金家さん……)

「俺を信用できないのなら、そう言え」

 その言葉は、自分でも探ったことのない深い領域から吐き出された、〝A〟のみならず、ミカヅキも絶句した気配を背中に、「別にいいさ」と金家は吐き捨てた。

「所詮、雇われ詐欺師だ。こっちだって、あんたらを全面的に信用してたわけじゃない。今夜のことだって、あとを勝手に進めて、俺に分け前を寄越さないようにする芝居かもしれないしな」

 そういう考え方だって、ある。

 舞台装置は整った

 もう自分がいなくてもあとは進められる。

 深雪が内通しているなら、最初からこうするつもりで松音を差し向け、ハンターなどと言うでたらめで脅した可能性も皆無ではない。自分に言い聞かせるほどに口中の苦みが増し、金家は携帯から耳を離した。

(何を言ってるんです……!)

 と発した〝A〟の声を遠くに聞きながら、通話状態の携帯をベッドの上に放った。

 テープルにいたミカヅキが、それを拾って耳に当てる姿は見なかった。その気配を背中に感じつつ、金家は部屋の戸口に向かった。コートを羽織り、解く間のなかった旅行鞄を手にする。ドアノブに手をかけたところで、

「行くな」

 とミカヅキの鋭い声がかかった。

 最初に会った時と同じ、忠実かつ容赦のない番犬の――ミカヅキの目が足元にあった。両腕をいっぱいに拡げた姿を見て、衝撃ともつかない痛みが胸を走った。「暴力は嫌いじゃなかったのか」と言い、金家はミカヅキの目を見据えた。容赦のない眼光をこちらに向けたまま、ミカヅキは無言を返事にした。

「邪魔するんならしてみろ。んなちいせぇ体で何になる」

「考え直してほしい。貴方を傷つけたくない」

「どうして? “A〟が必要とするから、俺を守ってきたんだろ? もう必要とされてないぜ」

 ミカヅキは答えなかった。それだけじゃない、とその目が言っていた。

 そう、それだけじゃない。

 数日間の苦楽を共にしただけでなく、お前とは奥底で共振しあう何かを確かめ合った。

 他人はおろか、自分自身も信用できない詐欺師に、『俺は信用できないならそう言え』などと口にさせた。

 その全部が思い込みに過ぎないなら、かかってくるがいい。

 お前の〝システム〟に従って、暴力を振るうがいい。

 ほんの数秒とも、数分とも取れる時間だった。ミカヅキの目がふと動き、右耳に手をあて、何らかの指示を受け取った気配が伝わった。

 行かせていい、か。

 ゆっくりと横に歩いていき、金家はドアノブに手をかけ直した。安堵も後悔もなく、繋がっていた何かが断ち切れる痛みだけが胸中にあった。

「あとのことは関与しない。〝A〟からの伝言だ」

 同じ痛みを共有してか、いつも以上に押し殺したミカヅキの声が背中を打つ。突き放された虚しさを感じている自分が腹ただしく、金家は無言でドアを開け放った。人けのない廊下は冷たく、閉まったドアの音が奇妙に大きく響いた。

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