ガンダムビルドダイバーズ 〝A〟   作:ジ ュ ン

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第三十一話

 ホテルを出て、20分で終夜営業のバーに着いたのが幸いだった。

 外は雪が相変わらず降り続き、気温も明らかに低下傾向にある。さきほど通りですれ違った男は分厚いコートに、分厚い帽子をかぶった完全装備しており、トレンチコートの前をかき合わせるこちらに奇異の目を注いでいた。行き場のない人間がいつまでもうろつける状況ではないが、今さら引き返すこともできなかった。

 ここは深夜ともなれば人も車もほとんど通らず、街灯も極度に少ない。橙色のナトリウム灯が憂鬱な光を暗闇にともし、石積みの壁やロシア語の看板を局所的に浮きだたせている。異国情緒満点の光景であっても、宿無しの身には心細さしか感じ取れない

 その20分で、すっかり体も冷え切った。

 昼間は人や車がひっきりなしに往来している大通りも、この時間はさすがに閑散としていて、路面電車の線路が走る車道もむやみにただっぴろく感じられる。パトロール中の警官と何人かすれ違ったが、ここいらは治安があまりよくないのだろう。有名商社の身分証とビザでやり過ごせる自信はあるとはいえ、進んで職務質問を受けるつもりはなかった。

 同じく宿泊予約券も複数枚偽造してあるが、予約漏れと押し切ってどこかのホテルに潜り込むことはできる。英語の達者な人間をそろえている大手ホテルならともかく、ロシア語しか喋れない安ホテルで身振り手振りで交渉する気力もなく、ここが適当な落ち着き先になった。

 やる気のなさそうなバーテンがひとりと、若いカップルや飲んだくれの男が居座る細長い店内を見渡し、出入口が一望できる奥の席を陣取る。

 観光地だけあって、東洋人がひとりでいても気にかけられないのはありがたかったが、それは〝対策室〟の奴らにしても同じことだ。それだけ覚えた日本語でビールを注文し、しばらくはドアから目を離さずにいた金家は、しかし2杯目を頼んだころにはどうでもよくなり、いつしか店主の趣味であろう、棚に並べられたガンプラの列に目を吸い寄せられていた。

 どだい、素人が叶う相手ではない。こっちに来たきゃくればいい話だし、尾けたきゃつけるがいい。なるようになれだ、と開き直った勢いで3杯目を注文した金家は、それから無心になったつもりでガンプラの列を眺め、煙草をふかした。

 カルトーシュカ? とかいうロシア版のポテトサラダを肴に、波立つ胸にニコチンとアルコールを塗りたくり続けて1時間。そろそろ強めの酒をあおり、仮眠のひとつでも取らせてもらうかと思った矢先、年配の白人がロシア語でなにごとか話しかけてきた。

 言葉がわからないと身振り手振りで示すと、中国人か? と英語で聞いてくる。いや日本人だ、と英語で答えた金家に断わることなく、男は勝手に向かいの席に収まり、すでにかなりの酔いの回っている顔に人なつこい笑みを浮かべた。

 日本人か。おれの妹は日本のガンダムプラモの会社で仕事したことがある。世界がまだGPデュエルっていうゲームで盛んに盛んだったころだ。知ってるか、ガンプラ。機動戦士ガンダムのプラモデルだよ。

 自慢げに言った男は、軍隊で習ったというたどたどしい英語を駆使し、顔じゅう迷惑で訴える金家をよそにとりとめのない話を始めた。

 日本はガンダムプラモのメッカなんだろ? 日本製のガンダムプラモは出来がいいってロシアでも評判だよ。みんな日本人のオタクは日本製を使ってるのかい? ……そうか。最近はまわりの世界も変わってきてるものな。そうだよな、この頃はもう中国のものばっかりだ。つらいんだな、あんたらも。

 俺たちも大変だよ。

 俺ぁ、街角で小さなおもちゃ屋の親父をやってたんだ。ガンダムプラモもおいてた。だがガンプラオンラインだかをやるガンダムベースちゅうバカでかいプラモ屋とかのせいで店がつぶれて以来、俺も日雇いの毎日だ。昔は子供たちのガンプラデュエルで盛り上がってたんだけどよ。

 昔は子供たちが小銭握りしめて、ガンプラを買いに行って、ガンプラデュエルの筐体にかじりついて……。狡い奴、正直な奴、要領のいい奴、悪い奴。壊す奴も壊される奴も、みんなそれなりに、プラモ屋に、そしてプラモに、パーツに敬意を払って、筐体の前で肩を寄せ合ってた。

 それが大手のガンダムベースだかができてからどうだい。

 ガンプラなんとかオンラインっちゅーゲームができるからって、品ぞろえはおろか、ここでしか買えないパーツも取り揃えちまって、こっちにはひとっつも儲けを回して来やしねぇ。そいつは、子供たちを面倒見切れねぇほど集めておきながら、まだ足りねぇって奪っているのさ。無理もないわな。社長様はぷっこわしあうガンプラデュエルなんざ、もう時代遅れって言いたいんだろうさ。

 悲しいじゃねぇか。

 あの頃だって、子供たちはプラモがたくさん買えないで、苦労してたみたいだけどよ。今みてぇに安く買えるってことはなかった。もう、ガンプラデュエルの台で集まる時代はねぇんだ。寒いよなぁ、おい。これから一体、どうすりゃいいんだろうなぁ……。

 こんな夜、こんな酒場で、きっと世界中で何度となくこぼされた愚痴。

 しかし、その言葉には不思議と琴線に触れるものがあり、〝システム〟のせいだなと金家は言った。怪訝そうに眉をひそめたのも一瞬、そう〝システム〟のせいだと男は勢いよくグラスを置いた。

 みんな、〝システム〟が悪い。

 あの頃、子供たちはにぎわっていた。

 みんなが肩を寄せ合って、手を取り合っていた。

 資本主義に走った玩具会社はノーセンキュー。GPデュエル万歳。ガンプラオンラインくそくらえ――。

 じろりと睨みつけたバーテンに気付かず、男は大声で歌い始めた。勇ましいが、どこか悲哀を帯びた曲調は、旧政権時代の軍歌かなにかだろう。これではここに、長居できそうにない。まいったなと嘆息しつつも、調子はずれの軍歌を無縁と聞き流すこともできずに、金家は波立つ胸中に男の言葉を反すうしてみた。

 確か、エフゲニーも似たようなことを言っていた。

 GPデュエルは時代遅れ……GBNには主義も思想もない。ガンプラという現実のみから紡がれた言葉。もう一度、GPデュエルに華を、GBNの脱却を、という古いGPデュエルプレイヤーが願うのと変わらない。ようは「昔はよかった」と同義の年寄りの繰り言だ。

 わかっていながらそこに、一抹の共感を見出してしまうのは、GBNの普及でGPデュエルが、街角のおもちゃ屋が、衰退の一途をたどった現在を知っているから……ではなく、自分も年寄りの部類に片足を突っ込んでいるからであろう。

 泣こうとわめこうと、もう昔には戻れないし、そもそも人生に〝もう1度〟という言葉はない。もうやり直しのきかない我が身にそれら真理を重ね合わせ、緩慢な死に身を委ねる術を覚えてしまったからこそ、美化された過去に理想郷を見ようとするのだろう。

 詮無いことだ。

 人がそうであるように、GBNにも、GPデュエルにも、きっと誕生から成長、そして老衰へと至る生の過程がある。GBデュエルの隆盛、GBNのブレイク・デカール騒動からの戦乱の数々、そして大型アップデートへと至る過程は、それぞれの青春時代であったのかもしれない。だとすれば、もう一度、求めるのは、失礼な話だ。

 永遠に成長し続けるものなどない。

 自分も老いたが、世界も老いた。

 受け入れるしかないではないか。老境のどん詰まりを生きる世代として、不快を常態とする日々に腹をくくるよりないではないか。

 男は歌うだけ歌うと、テーブルに突っ伏してしまい、金家は奇妙に醒めた頭でひとりグラスを傾けた。

なんでこんな奴と……と考え、寂しいのかもしれないと思いつき、心底辟易した。

 この10年あまり、遊び相手の女は何人かいても、本気で他人と付き合ったことはない時分。虚しさを覚えこそすれ、どんな時こそ、人恋しいなどと感じたことはなかった自分が、言うに事欠いて、寂しいとは。この1か月あまり、他人と行動を一緒にすることに慣れてしまった体の生理現象なのだろうか、なんなんだろう、この紛らわしようのない喪失感は。

 計画中止の物言いは出たが、俺はまだ断崖絶壁にへばりついている。

 蜘蛛の糸が断ち切れたとしても、最後まで這い上がってやるという気力は持ち続けているのに、すでになにかを失ってしまったと感じている心根の正体は。

 本気ではないことを口にして、あの2人を遠ざけてしまった。

 つまるところ、その後悔が収束した喪失感であるなら、笑止千万と言うほかない。嘘を生業にしている詐欺師が、自分の嘘に傷つくとはなんたる体たらくか。これだから、他人と関わりすぎるとろくなことがない。

 仲間は作るな……黒須の口癖だっけ。

『張りが必要なんだよ。自分の分と他にもうひとつ、誰かの人生を背負ってるって張りがな』

 いつしか、イビキをかく男の傍らでグラスを手にした〝亡霊〟が言う。

 そう、仲間を作るなと言いながら、自分という人間を常に置き続けたのもあんただ。

 それで何かを手に入れるというより、失ったものを取り戻す、あるいは埋め合わせるための仕事。長らく追い求めていた『A金貨』の本筋の仕事を、黒須はそのようにとらえ、のめりこんでいった末に命を落とした。

 自分は、今それとまったく同じ穴に落ちようとしているのかもしれない。濃厚な1か月を共有したとはいえ、出会って間もない人間たちに何がしかの共感を覚え、お前らも俺を信じろと子供のような要求をしながら? 人間は独りとうそぶき、他人との関わりを遠ざけてきた詐欺師が……まったくどうかしている。

 でも、それだけではない、とも思う。あの2人はきっかけに過ぎず、この破滅的な行為に駆り立てる源泉は以前から自分の身の内にあった。『A金貨』の真実を追い求めてきたのも、その一環だ。

 知れば〝システム〟を無力化し、対抗できると思った。

 知りたいのではなく、変えたい。

 その無意識の欲求に火をつけたのが、世界を救ってみないかという人を小ばかにしたかのようなあの〝A〟の言葉だった。指針も確信も持てず、不快の波に洗われるだけだった欲求は、その瞬間から形を得て走り始めたのだ。

 なんてこった。

 金家は苦笑し、一向に酔えない体にウオッカを流し込んだ。

 身の内に眠る何かを共振させ、進むべき道を気づかせてくれる何者かの出会い――ミカヅキに言わせれば〝神〟との出会い。

 やっぱりあいつは、疫病〝神〟だ。

 あいつとさえ出会わなければ、こんな無謀に駆り立てられることはなかった。

 "神〟を見失ったまま、たまに訪れる不快の波をやり過ごすだけで済んでいたのに、今の俺はこのどん詰まりの世界で何かせずにいられなくなっている。もう元には戻せないと知っているのに。自力で断崖を這い上がったとしても、約束された報酬すらないと承知の上でなお……。

 うつらうつらとするうちに、閉店の時間になった。

 金家は男をたたき起こし、店から出た。いつの間にか雪はやんでいた。

 重く垂れこめた雲も徐々に流れ始め、東の空は刻一刻と明るみを増しつつある。立っているのもままならない男に肩を貸し、金家はとりあえず大通りに出るつもりで、運河沿いの道を歩いた。今日1日の晴天を予感させる朝陽を浴び、河向こうに建つ大きな教会のドームが輝いて見えた。

 砂糖菓子を想起させる極彩色のドームを背に、何かの配達車が傍らを通り過ぎてゆく。

 帝政ロシアで栄華を極めたとある王朝が、暗殺された皇帝を悼んで建立した大聖堂……だが、そんな小事は目先の生活に追われる人々にとってさほどの意味を持たない。

 ロシアの歴史に比べれば、異国から用意されたGBNという新世界など刹那の出来事……とエフゲニーは言った。

 あれは事前に用意したシナリオにはなかった、エフゲニーの内から出てきた彼自身の言葉だ。ぽっと出で用意された電脳世界という新世界など足るに至らない、100年で2度も革命を経験した国の人間ならではの達観、ある種の念に結びつくその言葉には、逆に人間主体の強固な歴史感覚を感じないでもない。電子上の付き合いにはない、行き過ぎた人間の営みこそが、歴史と呼ばれる物の正体と言われるような。

 今と言う瞬間。

 自分という個人もまた歴史の一部であり、終点のない大河に軌跡を刻み続けているような。人の足跡が色濃く残るこの街には、そんな壮大な戯言を信じさせる力がある。

 退くか、進むか。

 ちっぽけな個人の選択が、歴史の歯車を動かすことだってあるかもしれない……と。

 この仕事を引き受けた時から、答は決まっている。半ば意識のない男を肩に抱え直し、金家は凍てつく空気の中を歩き続けた。

 〝システム〟を変え、その先にある景色を見たい。

 それができるなら、どんな結果になってもかまわない。計画をもちかけた人間が止めても……いや、これは自分自身の計画だった。

 俺を信用できないのなら、そう言え――よく言ったものだ。

 人が人を信じるのは難しい。

 自分で自分を騙すことだってある。

 あいつらに乗せられたと言いながら、俺は端から自分のことしか考えてなかった。誰のためでもない。火をつけたのはあいつらでも、それを為すのは自分の意思だ。

 誰にも止められはしない。

 止めてたまるか。

 それこそ欺瞞、とささやく奥底の声を押しやり、金家は雪で舗装された歩道を無心に歩いた。粒だった朝の光が雪景色の中で跳ねまわり、流れ続ける運河の水面をきらきらと反射した。

 

 

 

 翌日 午前11時10分。快晴。

 昨日に引き続いての晴天で、おとといの雪はほとんど姿を消している。タクシーのドアを開け、金家は凍結気味の地面に足を着けた。ネクタイの結び目を正し、最初の一歩を向けた先に、グランプラスを向けた先に、ネットと同じ外観のグランプラスが入居するビルの玄関があった。

 到着前に周辺の道路を2周して、異常がないことは確かめている。

 素人に〝対策室〟の刺客の気配がつかめるものではないが、少なくともいまこの段階で手出ししてくることはあるまい。それ以上のことは考えても始まらないと腹をくくり、金家は早足で玄関に向かった。短い階段を昇り、ドアに手をかけようとして、ふと背後を振り返った。

 腕時計を見てから、観光客が往来する大通りを見渡す。路面電車が行き過ぎた向こう、車道を挟んで反対側の歩道にも目を走らせたが、やはりミカヅキの姿は見つけられなかった。日本やニューヨークの時差を顧みて、谷沼に特別支援を発動させるのはこのタイミングしかない。考え直して手伝いにくる……ことはなくても、止めにくるくらいはしてもいいだろうに。

 なにかあったのか? と考え、懐のスマホに手をやりかけた金家は、すぐに考え直して正面に目を戻した。

 あとのことは関知しないと宣言したとはいえ、よほどの緊急事態が起これば向こうから連絡が来るはずだ。

 便りがないのは無事な証拠。

 冷えた胸に言い聞かせ、金家は年季の入った木製のドアを押し開けた。どだい、ここから先はミカヅキの手伝いはいらない。独りで充分だ。

 問題は、あの誕生会での一件で谷沼の中で化学反応が起こり、自爆覚悟で〝財団〟本部と連絡をとった可能性が皆無ではない点だが、それこそ確かめようのないことだ。

 結局、家まで送り届ける羽目になった男の紹介で安ホテルにこもり、悶々とする昨日の一日を過ごして、そのへんの迷いは吹っ切った自信がある。最後に電話した時の感触からして、谷沼の意思は変わらない、連絡のない一日を経て、触れれば落ちる状態になっているはずだ。難しいことではない。

 逸っている自覚はある。

 不確定要素が多いことも認める。

 普段なら2の足を踏む状況だが、ここで退いたらすべてが失われる。ここで退いたら、すべてが失われる。尻尾を巻いて日本に帰り、まだ不快の波に洗われるだけの日々を過ごす、そんなのはご免だ。〝システム〟に搦めとられ、闇に怯えて惨めに朽ちてゆくくらいなら、いっそ――。

 一昨日と同様、先に続くはずの言葉と向き合うのを避け、金家は5階に到着したエレベーターから降りた。グランプラスのネームプレートが掲げられたドアをくぐり、受付で名前を告げると、現地雇用の女性社員がすぐに迎えに来た。

 少し意外だった。

 監査役を名乗って初めて押し入った時には、サブマネージャーが血相を変えて迎えに来たのに。

 なにか引っかかるものを感じつつも、金家は平常通りに営まれるオフィスを通り抜け、社長室に通じる廊下に出た。谷沼が待ち構えているだろう社長室のドアを見つめ、対面後の第一声候補を頭に呼び出す。

 無言で頷き、『歴史を変える日だ』。

 未だ決心がつかない様子なら、気づかぬ振りで『さあ、始めようか』と押しの一手も考えられる。

 どちらにせよ、まずは相手の顔を見てから。

 ある程度まで仕込んだ計画なら、事前のシナリオに関係なく、相手の心情に合わせて最適な言葉が自ずと紡ぎ出される。直前にこんなことを考えられるのは、緊張している証拠だ。

 金家は小さく深呼吸し、木下の顔を装い直した。

 女性社員が開けたドアをくぐり、社長室の様子を視界におさめたところで、一声を繰り出すべき喉が硬直して動かなくなった。

 エフゲニーが――正確に言えばエフゲニーと名乗らせていた男が、そこにいた。

 一昨日で最後の役割を終え、もう谷沼と対面するはずのない男が、大統領のフトコロガタナとは打って変わった蒼白な顔、着古したセーターにスラックスという出で立ちで。

 ソファに収まる彼の面前には、執務室を挟んで谷沼が座り、やはり少し青ざめた顔でこちらの視線を受け止めていたが、それ以上の観察をする頭は働かなかった。

 バレた。

 その一語が脳裏で形を結ぶより先に、踵を返してすかさず部屋から出ようとする。一瞬、早くドアが閉じられ、金家の行く手を遮ったが、それは案内の女性社員がしたことではなかった。

 部屋の内側に控えていた2人の男が、ドアを閉めた勢いで壁際から1歩を踏み出す。どちらも金家より頭ひとつ大きい白人で、スーツごしにも膨れ上がった筋肉が見て取れる。明らかに堅気ではない、険しい視線に射すくめられ、金家はつんと刺激な臭いが拡がるのを感じた。

 そのひと吸いで全身の細胞を壊死させ、自信も気力も奪い去ってしまう。これまでも何度か傍らをかすめていった、絶望という致死性ガスの臭い――。

「……エフゲニー、どうしてここに?」

 平衡を保とうとする神経が、虚しい芝居を続ける。

 無意味なことはわかっていた。

 少しだけ合わせた目に怯えの色を浮きだたせ、ロシア人の男は何も言えない口をぱくぱくと動かした。エフゲニーの威厳は微塵もなく、ただの負け犬に戻った男の目と目を合わせ、金家は敗北の2文字をそこに重ね合わせた。「エフゲニーじゃないでしょ」と谷沼が暗い声を差し挟む。

「先輩、やっぱ悪魔だったんですね」

 悪意を凝縮させた眼が、1対の黒い穴になって金家を直視する。

 このまま朽ちてゆくなら、いっそ――その先に続くはずだった言葉と面と向き合い、金家はその場に立ち尽くした。後悔より強い自責の念が胃液と一緒に滲みだし、染みついた心身をじわりと痺れさせていった。

 

 

 

 

 

 木下は無言だった。

 否定も肯定もせず、ただそこに立ち尽くしている。

 その前では、エフゲニーと名乗っていた男が身も世もなく震え、膝上に置いた拳をきつく握りしめる姿がある。こんな男にビビらされていたとは、まったく泣けてくる。靴をなめろと言えば、すぐにそうしそうな中年男の目を見つめ、谷沼は唾棄する思いで顔を背けた。

 いや、昨日までは本当にロシアの深部に住まう大統領のフトコロガタナに見えたのだから、役者としてはたいしたものと認めるべきか。しかしそれも演出次第であったに違いなく、谷沼はあらためて木下と凝視した。エフゲニーと対面した時は動揺を滲ませたものの、今の彼の顔に表情はうかがえない。能面を凍り付かせ、ただこちらの視線を受けている。

 血も涙もない死神かと思いきや、グランプラスを苦境から救い出し、想像外の飛躍までもたらす救世主になるはずだった〝財団〟の監査役。2重3重の化けの皮が剝ぎ取られようという時に、その無表情はなんだ。怯えるでなく、開き直るでもなく、まるで木下という人格が停止し、無に立ち返ったかのような……そう、どうせ木下という名前も嘘だ。昨日の客はエイジと呼んでいたが、あれが本名か? それともまだ他に名前があるのか? もうどうでもいいことだ。

 すべては嘘だった。こいつは自分をたぶらかし,まんまと500億をせしめようとした詐欺師だ。

 GBNのロシア国有化の話はない。

 負債の埋め合わせたついでに、〝財団〟の理事に昇り詰める計画もでたらめだ。

 なんとか言えよ、と谷沼は叫んだ。

 言い訳するなり、這いつくばって許しを請うなり、何かすることがあるだろう。

 全てを失うのはあんただけじゃない。

 数日間の夢から醒めて、僕もまた負債漬けのファンドマネージャーに戻り……いや、〝財団〟がこの1件を知ったが最後、クビだけで済むかどうかわからない。

 騙せるものなら、また騙してみろよ。

「言ったでしょ。ロシアでこういう仕事してると、嫌でも怖い人たちとの付き合いはできるって」

 怒鳴りたいのをこらえ、低く切り出す。日本語だ。戸口を挟んで立つ2人の〝会社員〟どもに聞かれる心配はない。

 木下は無言でこちらを直視した。

「実際、彼らはいい仕事をしますよ。おとといの晩、あなたと電話で話したあとに、スバルタクスの旦那に頼んだんです。そこにいるおっさんの身元を洗ってくれってね。別荘に来た時、車の番号は控えていたから。レンタカーだったけど、彼らはきっちりエフゲニーの居場所を突き止めてくれましたよ」

 エフゲニーの一語に、目前のロシア人がびくりと反応する。本名はなんといったか……そんなことはどうでもいい。

 こいつは何者でもない。

 問題は、その何者でもない男をひとかどの人間に仕立て上げた演出家の方だ。わずかに痙攣した木下のまぶたを見逃さず、「モスクワの住民を雇ったのは賢明でしたね」と谷沼はたたみかけた。

「サンクト市内の住民だと、どこで知ってる人間と鉢合わせしないとも限らない。でもね、スパルタクス・コングロマリットは……そう、〝コングロマリット〟だ。エフゲニー氏の話はリアルでしたよ、本当。ロシアとか、中国とか、バカでかい大陸に住んでる連中は身内の結束を大事にする。排他的なくせに、いったん仲間に入るとメチャクチャ親密になって、互いをばっちり守りあうんです。固い絆と、緻密な情報網で結ばれてるって点では、〝コングロマリット〟のマフィア的手法とまったく変わらない。ウラジオストックで落ちた針の音が、サンクトにいるボスの耳に入ったりする。ましてモスクワなんか、彼らにとっちゃ庭先みたいなもんだ。1日で調べ上げてくれましたよ。このおっさんの住所も、仕事も」

 指をさされた拍子に、エフゲニーがびくりと身を退く。怯えきった姿に苛立ちつつ、谷沼は突き出した指先に力を込めた。

「いや、こいつに仕事なんかない。昔はGPデュエルでならしたらしいけど、鳴りを潜めたあとは、GBNで初心者相手にポイント荒稼ぎしてる最低野郎だよ。しかも、ブレイクデカール使用の前科もあるんだって? 木下さん、仲間は選ばなきゃ。こんな奴がFSОの長官だなんて――」

「カムフラージュとは考えなかったのか?」

 不意に発せられた日本語に、谷沼は続く言葉を呑み込んだ。木下は無表情を崩さず、「マフィア崩れに裏を取られるようじゃ、大統領のフトコロガタナは務まらない」と静かに重ねた。

「その調査結果が事実なら、君は3流の最低野郎に騙されたことになる。よく考えてみろ。これまでに君が会ったエフゲニーと、今ここで怯えた顔をしているエフゲニー。どちらが演技にしろ、これだけ自分を装える人間が最低野郎かどうか」

 およそ感情の振れ幅が感じ取れない、しかしずいと奥に押し込んでくる声は、最初に会った時から変わらない死神のものに違いなかった。

 これにやられた。

 これに幻惑されたんだ。

 わかってはいても、揺らぐ心中に戸惑い、呆れ、怒りをかき立てられた谷沼は、ひとつ息を吸い込んでから机上のデスクトップに手をかけた。

 20インチ大のタブレット・ディスプレイをスタンドごと木下たちの方に向け、「……見ろ」と絞り出す。

 そこに映し出されたものを見て、小さくうめいたエフゲニーが思わずと言う風に中腰になる。押されたテーブルセットががたん、と大きな音を立てる中、木下も微かに目を見開き、身体が前に出る気配を見せたが、遠目にはほとんどわからない振れ幅でしかなかった。

 深く息を吸った木下の目が、責める色を宿してこちらにむけられる。直に受け止める気力はなく、「このおっさんの娘ですよ」と言わずもがなの説明をした谷沼は、我知らず視線を横に流していた。

「彼女の話だと、こいつは酒癖が悪くて干されたんだとか。才能はあるらしいのに」

 デスクトップのディスプレイには、椅子に座る15、16の少女の姿が映し出されていた。

 学校に行く途中に拉致された彼女は、両親のいない自宅で椅子に座り、おそらくはわけのわからずに目前のカメラのレンズと正対させられている。彼女の背後には男の立ち姿があるが、顔は見えず、椅子の背もたれごしにベルトのバックルと革手袋をした手だけは見え隠れする。

 素人が撮影したものゆえに光量が乏しく、低性能の回線ゆえの荒い画像ではあったが、その革手袋に握られた猟用ナイフの刃のきらめきは、エフゲニーの目にも十分に判別できるはずだった。

 どこの国でも、暴力団、マフィアといった類は金にならない暴力は振るわない。

 拉致する時に多少の乱暴をしたとしても、彼女にはまだ何の危害も加えられておらず、無用に怖がらせる真似もしていないだろうが、それも今後の展開次第でどうなるかわからない。

 この部屋にいる男が電話を1本かければ、映像の中の男はためらいなく必要な行動をおこす。

 切り苛まれる少女。

 泣いて許しを請う父親……。

 まったく、反吐が出る。

 血を見るのは嫌いだ。ホラー映画の類でさえまともに見られない。こんなことに巻き込まれないよう、注意して生きてきたつもりだったのに、いったい何の因果で。

「頼む、娘には手を出さないでくれ!」

 噴き出したエフゲニーの声に自制の柱をへし折られ、谷沼は、「うるさいよ!」とロシア語で叫び返していた。

「僕だって趣味じゃないよ。こんなこと。でも、この人たちが言う事を聞くかどうか……」

 戸口に控える男たちを顎でしゃくり、その表情をうかがう。

 こういう時の定番セリフのつもりだったが、男たちは眉ひとつ動かさず、どこを見ているか判然としない目をくらく輝かせるのみであった。

 そう、本当に言うことを聞かせられる連中じゃない。風向き次第でどうなるかわからない我が身も自覚して、谷沼は完全に血の気を失ったエフゲニーの顔に視線を戻した。

「うちはスパルタクス・コングロマリットの金も預かってる。うちが潰れたら彼らも損を被るんだ。ロシア人なら知ってるだろう、〝コングロマリット〟の別の側面は」

「知ってることはみんな話した。わたしは、この男に雇われただけだ……!」

 木下を指さし、エフゲニーが勢いよく立ち上がる。変わらず無表情の木下を見てから、「だから、それを証明してくれよ」と谷沼は机を殴りつけた。

「目的、背後関係、〝財団〟の情報をどうやって手に入れたのか」

「知らない、私は――」

「ただ僕をカモろうとしたわけじゃない。バックに黒幕がいるのはわかってるんだ。早く話さないと、娘さんは何をされるかわからないぞ。彼らは人を痛めつけるプロだ。指を切り落とされるか、顔を切り裂かれて二目と見られない姿になるか」

 突然、何事か叫んだエフゲニーがテーブルを蹴倒して突進してくる。とっさに立ち上がった谷沼は、椅子が倒れる間もなく背後の窓枠に背中をおしつけた。すかさず動いた2人の男がエフゲニーを押さえ、床に組み伏せる。「娘には手を出すな! なんでもするから、娘だけは……!」と悲痛な声が足元から立ち昇り、谷沼は肌が粟だつのを感じた。

「エイジさん、あんたからも言ってくれ。わたしは何も知らない。あんたに言われるままにやっただけだって……!」

 棒のように突っ立ったきり、木下は何も言おうとしない。こんな修羅場に立ち会わねばならなくなったのも、みんなこいつのせいだ。谷沼は、「やっぱりエイジさんって言うんだ」とその顔を睨みつけた。木下――金家の頬が、それとわからぬほどに痙攣する。

「すごいよね。こんな時でも無表情で、我関せずって顔してさ。心とかあんの? どっか壊れてんじゃないの、あんた」

 無言のまま、金家の目がひたとこちらを見返す。表情のなかった瞳に殺気が走ったように思い、これ以上退かれぬ体を窓際に押しつけ直した谷沼は、「なんだよ、怒れる立場かよ」と半ば震えた声を押しかぶせた。

「ここ何年か、GBNの〝財団〟専用サーバーにハッキングを仕掛けてる奴がいてさ。セキュリティ規定が厳しくなってるのも、全部、そいつのせいだよ。あんたらなんだろ、そのハッカーは」

 殺気をはらんだ瞳が瞬き、ほんのわずかな間だけ逸らされる。

 やはり、そういうことだ。「凝ったやり方だよなぁ」と無理にでも嗤い、谷沼は窓際にへばりついていた背中を引きはがした。

「決済なんかやられたら、うちの帳簿粉飾もバレちまう。弱ってるところに、うまい話をぶら下げて……ってのが筋書きなんだろ? でも、イントラのセキュリティも厳しくさせたのはまずかったな。あれだけしつこくイントラを使わせろって言われたら、さすがに変だと思うよ。このUSB、ウィルスかなんかが入ってるんだろ。うちの名義で500億を吸い上げたあとに、システムをぶっ壊して追跡させなくするためにさ」

 机を回り込んで金家の方に近づき、おととい渡されたUSBメモリーをポケットから取り出す。金家は無言を返事にしたが、そのまぶたが動揺を示して震えるのを谷沼は見逃さなかった。

「危うく引っかかるとこだったよ。あの客のやりとりが割り込んでこなかったら、行くとこまで行ってたかもしれない。あれは事故なんだよね? 正直、今日のこのこやってくるとは思わなかった。普通、ああいう事故が起こったらトンズラするもんでしょ、あなたみたいなプロは。なんで来たの?」

 立ち尽くす金家の2メートルほど手前で足を止め、核心の疑問を突きつける。ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、足元でエフゲニーを押さえつける男たちも金家の方に視線を流した。

「僕のこと、なめきってたんだろ。相手はバカだから、どうとでも言いくるめられるって。答えろよ。それとも、どうでもやめられない理由でもあったわけ?」

 心臓がどくどくと鳴っていた。揺れているような床に足を踏ん張り、「言えよ!」と谷沼は怒声を叩きつけた。

「状況、わかってるよね? この親子、あんたが喋らないと死ぬよ。もちろん、あんたも死ぬ。死後の世界とかどうなってんのか知らないけどさ、恨まれるよ、あんた。これまでさんざん人を騙してきたんだから、最後にこの親子くらい助けてやったら?」

 床に顔を押しつけられているエフゲニーを見下ろし、背後のディスプレイに顎をしゃくる。怯えた顔の少女が嫌でも目に入り、「頼むよ」と谷沼は無意識に口にしていた。

「僕も嫌なんだよ、こういうの。正直に喋っちゃおうよ。黒幕は誰で、本当の目的はなんなのか。こんだけ大掛かりなことやってんだから、うちから金つまむのだけが狙いってわけじゃないんでしょ。〝財団〟を攻撃するのが目的で、うちは入口に使われただけだよね? 教えてよ」

 そのはずだ――いや、そうであってくれなければ困る。黒幕の名を聞き出し、不正経理から始まった自分の罪を相殺するには、彼らは〝財団〟の転覆を狙う巨大な敵でなければならない。谷沼はさらに1歩踏み出し、「そうすりゃ、みんな助かるんだ」と無言の金家にたたみかけた。

「喋ってくれたら、あんたは証人になる。ぼくの口添えで命は助かるよ。あんた、交渉は得意だろ? わかるよね。あんたの持ってる情報が、〝財団〟との交渉材料になるんだ」

 それまで微動だにしなかった金家の表情にひびが入り、殺気を向けていた瞳が左右に震える。もう少し、もう少しで落ちる。

 身を起こそうとして、再び床に押しつけられたエフゲニーの気配を足元に感じながら、「もう十分でしょ」と谷沼は慎重に重ねた。

「僕だって、いつまでこいつらを押さえちゃおけない。キレたら本当に何するかわかんないよ。このおっさんはともかく、あの娘はかわいそうじゃない。助けてやろうよ。本当は堪えてんだろ、あんたも」

 金家の体がゆらりと揺らめき、泳いだ目がパソコンのディスプレイに注がれて動かなくなる。固く引き結ばれていた口がうごめき、なにか言葉が紡がれようとした刹那、戸口の向こうで慌ただしい人の声が錯綜した。

 ほとんど音になりかけだった言葉を呑み込み、金家がぎょっとした風情で背後を見る。エフゲニーを押さえつける男たちも戸口の方を見て、張り詰めきっていた空気が霧散するのを感じた谷沼は、舌打ちして戸口の方に向かった。

 もう少しだったのに、どこのバカだ。

 苛立ちに任せてドアノブに手をかけた途端、向こうから先にドアが押し開けられて、谷沼はよろけるようにあとずさった。開いた戸口の向こうに立つ人影と目を合わせて、吸い込んだ息が吐き出せなくなった。

 

 

「すみません、突然。谷沼さん、僕のこと、覚えてます?」

 

 

 

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