「すみません、突然。谷沼さん、僕のこと、覚えてます?」
あと1秒遅かったら、なにもかも喋っていたかもしれないタイミングだった。聞き知った声が背中を打ち、金山は体全部を背後に向けていた。
「彼らはぼくの指示で動いていただけです。話を聞いていただけませんか?」
そう言い、つかの間こちらを見つめた〝A〟は、ろくに視線を絡ませる間もなく谷沼はを正面に捉え直した。
なんで、ここにいる?
頭が真っ白になり、金家は谷沼の肩ごしに見える〝A〟の顔を凝視した。彼の肩にはミカヅキが乗っており、2人を止めようと追いすがったらしい小川の姿がある。
「すみません、お止めしたんですが……」
と言ったサブマネージャーの顔は見ず、〝A〟だけを見返した谷沼の背中がまた後ずさり、
「呂名、英一……様?」
そう呟かれた声がひどく明瞭に室内に響き渡った。
「呂名……」
無意識に繰り返した声がかすれ、その意味するところを受け止めた頭に電流が走った。『A金貨』の創設に関わり、〝財団〟を興したという呂名哲郎。
その実子にして、現在の〝財団〟理事長を務める呂名信人。
では、呂名英一と呼ばれたこいつは――?
「何年か前のパーティーでお会いしたきりですね。先日は祖父の7回忌にもご参列していただいたそうで、ありがとうございます。ご承知の通り、ぼくは父との関係がちょっとこじれておりますので、式には出られませんでしたが」
「は、いや、その……」
戸惑った声を返し、谷沼はこちらを見る。どうなってる? と詰問する視線には応じず、金家はどうとでも取れる無表情の維持を務めた。
揉めている気配を察してか、セルゲイが救いを求める声を張り上げ、男たちに押さえ込まれる。蒼白になった小川に、
「ここはいいから」
言いつつ、谷沼は〝A〟を押し戻すように戸口に立ったが、場所を変えて……と出るはずの声が声になることはなかった。それより先に〝A〟が先に1歩を踏み出し、ミカヅキともども戸口をくぐっていたからだ。
室内の様子から見ても表示ひとつ変えず、無言で谷沼を見据える。背丈はさして変わらないのに、見下ろす視線がそこにあった。いつまで自分をそこに立たせておくのだと言わんばかりの、傲慢な圧をたたえた視線。
強いてそう振舞っているのではなく、敬われるのが当然としつけられ、上に立つ者の整理を自ずと馴染ませた視線。父や祖父と告げられた言葉より。その視線が何より雄弁に〝A〟の素性を明らかにし、金家は痺れた頭で確信した。
呂名一族の御曹司。〝A〟が〝財団〟の後継者――。
「この人を放してあげてください。モニターの向こうの女性も」
穏やかでも、有無を言わせぬ硬さを潜ませた声で〝A〟が言う。
一変した空気を察したのか、男たちが顔を見合わせ、何事だという顔で谷沼を睨む。まだ事態を呑み込めない目をうろうろと動かし、
「しかし、これはどういう……」
呻いた谷沼に皆まで言わせず、〝A〟は少し困ったような笑みを浮かべ、
「すみません。この計画を立てたのは、ぼくなんです」
舌でも出しそうな調子で言ったかと思うと、不意に笑みを消し去った目が手下の男たちを見、再び谷沼を見据える。言ったことがわかりませんか? と言外に叱咤した御曹司に射すくめられ、全身を硬直させた谷沼は、青ざめた面持ちでロシア語を口にした。
何事か言い返した手下の男を睨みつけ、半ば裏返った声で指示を押しかぶせる。彼らが不承不承の体で、エフゲニーを自由にするのを待ってから、谷沼は畏怖と警戒が半々の目を〝A〟に向け直した。
まずは御掛けに、とソファに目で示した谷沼を見ることなく、〝A〟はディスプレイの中の少女を凝視している。谷沼は慌てた様子でロシア語を重ね、手下たちのひとりが携帯電話を手にするのを金家は見た。
彼がそれを耳に当てて間もなく、少女の後ろに立つ革手袋の男も携帯を取り出し、短いやりとりの後に少女に話しかける。怯えた顔の少女が何度か頷き、立ち上がって椅子から離れた途端、通信映像は唐突にブラックアウトした。四つん這いの恰好でディスプレイを見上げていたエフゲニーが、信じられないという目でこちらを向け、よろよろと立ち上がる。
“A〟は一連の会話をミカヅキに翻訳させ、谷沼の指示に間違いがないことを確かめると、
「では、失礼して」
と優雅な物腰でソファに収まった。
向かいに座ろうとした谷沼を目で制し、立ち尽くすセルゲイと手下の男たちをちらと見遣る。恐縮した谷沼が再びロシア語で指示を飛ばし、手下の男たちが部屋から出ていく。続いて戸口をくぐりながら、エフゲニーがもの言いたげな視線をこちらに寄越してきたが、応じる余裕は持てなかった。ドアが閉まる音を背に、金山は〝A〟の横顔を凝視し続けた。
「彼があなたに伝えた、GBNのロシア国有化に関する話はすべて事実です」
つかの間こちらに流した視線をすぐに動かし、〝A〟は正面に谷沼を直視した。
「え……」
呻いた谷沼が、ソファに座りかけた身を硬直させる。
「ぼくがこの話を聞いたのは、3年前の大統領選の直後です。ごり押しで再選を果たした大統領ですが、各地で反対デモが起こるのは見るまでもなく、自身の政治生命が長くないことを知っていた。そこで就任早々、退職金の準備を……ということなんですが、その辺の事情はもう聞いてらっしゃいますよね?」
「えぇ、それは……」
応じつつ、谷沼はまだ判然としない目を金家に向けた。「おもしろい話だと思いました」と〝A〟が涼しい顔で続ける。
「世界経済の景気低迷が明白になってゆく中で、強いのはやはり技術のある国です。日本がガンプラバトル・ネクサス・オンラインの開発に躍起になり、ただの島国から再び技術大国に成り上がろうとしているように、これからの国はいざと言うときに、インターネット・ウェブで結ばれた深い交流力を持ち、かつ高い技術力を輸出できるポテンシャルの有無が、安全保障も含めた国の強度を決定する。ロシアには、これがありません。ロシアの情報技術はいまだ2000年前半で止まったままだし、開発が進んでいるはずのインターネット事業も、国外からの技術支援あってのものです。経済が減速すればまともに煽りを食うという点では、工業と同等でしかない。必要なのは、国民の命を担保するためにインターネット技術をどう向上していくか、なんです。
GBNには、それがある。
だからこそ、大統領はGBN上層部にも非公開にして、我々にこんな話を持ちかけてきた。彼の個人的な利得行為から始まったことでも、これが実現すれば、かわりに日本を輸出優先国へと押し上げ、同盟を建設することができます。ぼくはすっかり興奮して父に話しましたよ。今回のロシア大統領からの申し出は、きっと後世の歴史において同様の転換点になる。その大事業を主導して引き受けることは、まさに〝財団〟の設立目的に適しているし、国富としての『A金貨』の面目躍如ではないか、と……。しかし、その返事は」
両の手のひらを上にし、〝A〟は肩をすくめてみせた。すっかり話に引き込まれている様子の谷沼が、それとわかるほどにのどぼとけを上下させる。
「リスクが高すぎる、というのがその理由でした。なにせ、大統領の口約束がすべてですからね。さんざん投資をさせられて、土壇場でハシゴを外されては目も当てられない。ロシアのインターネット事業では、実際に日本の企業が何度もそういう目にあってますし。しかし、父が反対した理由は別のところにある。ぼくも悪かったんです。事もあろうに、日本がGBNの絶頂のあろうかという時に、説得をしようとしたんですから。ご存じの通り、父は創始者たる呂名雄二のやり方に反発して、現在のインターネット経営に特化した〝財団〟を再建した。父の前では禁句なんですよ。国のためとか、未来のためとかっていう観念論はは。あの人を説得できるのは、経済原理と財務諸表のみ。わかっていながら、あえてああいう話をした。リスクヘッジについても、手持ちのカードをあえて全部は見せなかった」
「……なぜ、です?」
「断わってもらいたかったからです」
にやと笑い、〝A〟は狐につままれた顔の谷沼をよそにミカヅキのほうに振り返った。頷いたミカヅキが部屋のドアをノックし、外で待っていたらしい女を室内に招き入れる。黒い毛皮のコートを片手に、オーダーメイドとわかる背広を着こんだ白人の女が戸口をくぐり、まとめられたアッシュブロンドの印象的な髪型と麗らかな面を一同の前にさらした。
「彼女はアリーナ。FSОの高官です。本物の」
説明した〝A〟に目で会釈し、アリーナと呼ばれた女が谷沼を真正面に見据える。
年の頃は自分と同じ30代前半、どちらかと言えば美人の部類に入るとはいえ、その目つきは鋭く、無言で立っているさまはなぜか異様な迫力がある。谷沼が気圧されるのがわかったが、谷沼には女の素性の察しがついた。その所作といい身なりといい、すべて見覚えがある。
エフゲニーを長官に仕立てる際に、自分が施した演出術のコピー。
この女が本物などという話は金輪際ない。
どういうつもりだ。
乾いた口中に呟き、金家はあらためて〝A〟の横顔を見た。
なぜ来た。
なぜこんな真似をする?
おまえが呂名家の人間なら、〝財団〟と切っても切れない関係にある身なら、この行為がどんな結果をもたらすかわからないはずはない。その為に俺を雇ったのだろうに、どうしてお前は――。
「KGB時代からこの世界にいるアリーナは、〝財団〟の内情についても詳しいです」
口を半開きにした谷沼に向き直り、〝A〟は話を続けた。
「それで、父ではなく、ぼくのところに話を持ってきた。大統領の懐刀として、彼は大統領個人の権益のために働く一方、今回の件を通して新しい国際秩序が開かれることを願っている。それゆえ、日本独自の情報技術によって造り上げたGBNの〝財団〟の功績があっても、結局は根っこの親米路線からは離れられない父が相手では実りのある話ができない……と、こう判断したわけです。ただひとつ問題があって、ぼくには父の承認なしに資産を動かす権限はない。なので、このような搦め手を……。本当にすみませんでした」
深々と頭を下げた〝A〟を前に、中腰になった谷沼が意味もなく左右を見回し、
「いや、あの……」
と詰まった声を漏らす。〝A〟は苦汁を呑んだ顔を上げ、「兄を亡くしてから、父と僕の関係は冷え込む一方でした」と静かに言葉を継いだ。
「ぼくも関連事業からは手を引いて、〝財団〟の仕事からは遠ざかっていましたからね。もう後継の目はないと思われていたようですが、そんなことはありません。確かに父の跡を継ぐ気はないけれど、〝財団〟を継ぐ気はある。父が、父の世代が受け継いだつもりで、腐らせてしまったものを、ぼくたちの世代で立て直したいんです。その為に少しずつシンパを増やして、〝財団〟の内情をも聞き耳を立てて……グランプラスのことは、その過程でたまたま耳にしたんです。失礼ながら、その莫大な負債を抱え込んでいる御社の状況からして、1も2もなく今回の絡め手に飛びついてくれるのではないかと……」
最後は言い難そうに紡がれた〝A〟の声に、谷沼は多少は霧が晴れたという顔でソファに寄りかかった。
「じゃあ……」
吐息混じりに呟かれた声にうなずき、「あなたは何も知らないはずだった」と〝A〟が目を見て押しかぶせる。
「何も知らずに、ロシア企業への支援資金を進めてもらい、抜き差しならなくなったところで種を明かす……というのが当初の計画でした。なにせ、ある種のクーデターに手を貸してほしいという話ですからね。いくらグランプラスが困窮しているとはいえ、正面きって持ちかけるのは危険だった。真相を知ってしまったが最後、あなたにはぼくを本部に売り、恩赦を得るという選択肢が発生する。……無論、このオプションは、依然としてあなたの手中にあるわけですが」
それを使えばあなたの命もなくなる。
すっと細められた〝A〟の目が言外に付け足し、谷沼のみならず、金家も背筋に寒気が走るのを感じた。
「でも、こうなってしまっては仕方がない。もともとタイトロープだと警告はされていたんです。やはり谷沼さんは一筋縄でいく相手ではなかった。あなたの読み通りだったね」
“A〟の視線が不意にこちらに注がれる。金家はとっさに苦笑を浮かべ、「最善を尽くしたんですが」と応じたが、うまく表情を作れた自信はまったくなかった。
「谷沼さん、今さら言えたことではないし、こんな状況で難しいことは承知していますが、ぼくを信じてもらえませんか?」
口元に刻んだ笑みを吹き消し、身を乗り出した〝A〟が、言葉の切っ先を突きつける。谷沼はぎょっと全身をこわばらせた。
「この事業がうまくいけば、〝財団〟は変わる。今後、100年は維持される利権を手土産に、ぼくは順当に父の地位を引き継ぐことができる。フェアチャイルドの連中は水をさしてくるでしょうが、こちらには日露同盟という後ろ盾がある。耐用年数を過ぎたふるい秩序には退陣してもらい、ぼくたちが新しい秩序を作るんです」
「ぼくたち……?」
「もしあなたがもっと歳のいった役員であったなら、ぼくはグランプラスを計画の拠点に選ばなかった。ぼくと同世代のあなたでなければ」
「どういう……」
「谷沼さん、ぼくもあなたも古い秩序の被害者だ。改革のなんだのと耳障りのいいことを言いながら、上の世代は自分たちのことしか考えていない。その場しのぎの延命工作で茶を濁すか、そうでなれば無責任なスタンドプレイでやりたい放題、あとは野となれの独善三昧だ。彼らはいい。古い秩序の恩恵をたっぷり享受してきたのだろうから、これまで間違っていたとか、これからは発展や成長より人間の幸せを追求しようとか、好きなことがいえる。ぼくたちはどうなる? インターネットの高度成長化も経済成長の熱も知らず、彼らがさんざん遊んだあとのツケを支払わされているぼくたちは? 縮小化に入ったこの世界で、彼らの言いなりに生産性の向上に努めるしかないのか? 本音では自分が引退したあとの世界がどうなろうと知ったことではないと考えている連中、10年後の世界よりオンラインゲームの利潤を重要視している連中に顎で使われて、終わりゆく世界の目撃者になれというのか?
老害なんてもんじゃない。彼らは害虫ですよ、谷沼さん。ぼくたちが引き継ぐはずの世界を、数に任せて食いつぶしている害虫どもだ。彼らから学ぶことなんてない。彼らの方法論、古い秩序はもう機能していない。彼らがすっかり食いつぶしてしまう前に、ぼくたちが主導権を握らなくては。ぼくはずっとそのチャンスを待っていた。それが今、目の前にある。こんなチャンスは、2度と訪れない」
ひと息に喋り、〝A〟はソファから立ち上がった。圧倒された様子の谷沼を見下ろし、静かに手を差し出す横顔を見て、呂名は思わずあげそうになった。
「ぼくと一緒に、〝財団〟を手にしてみませんか?」
そう告げた〝A〟の視線はまっすぐ谷沼に注がれていたが、意識はこちらにいるとわかる。
また、この手だ。
“ぼくと一緒に、世界を救ってみませんか……〟。そういった時時と同じ視線、同じ表情。
何が役者が必要だ。
俺なんか、必要じゃなかった。
こいつの方がよっぽと巧みな役者じゃないか。もはや救われた驚きも安堵もなく、金山は来るべき当然の帰路を待った。案の定、谷沼の手がおずおずと伸び、差し出された〝A〟の手をしっかりと握っていた。
「……わたしに、できることなら」
完全に魅入られた目で、糸に吊られたかのごとく立ち上がる。それまで無言で立ち尽くしていたアリーナが歩き出し、握り合わされた〝A〟と谷沼の手に自分の手のひらを重ね合わせた。
『同志』
とどめだった。
空いているもう一方の手をアリーナの手に重ね、わずかに頬を緩めた谷沼が〝A〟に頷いてみせる。
「では、例のUSBを」
とほほ笑んだ〝A〟は、そのまま谷沼を執務室に誘い、専用回線の端末の前に座らせた。
夢うつつの面持ちで谷沼が、ポケットからUSBメモリーを手渡す。〝A〟がそれを受け取り、端末本体のソケットに差し込む。
「ぼくも概要は理解していますが、あなたの疑問に答えきれる自信はない。説明は彼にさせましょう」
といい、ミカヅキを呼びよせた。
“A〟は、ディスプレイを凝視する谷沼の背後に立ってこちらを見た。責めるでもなく、憐れむでもなく、ここに来て初めて素に戻った瞳が自分という人間を見つめ、金家は耐え切れずに視線を逸らした。
なぜ、ここに?
その問いに聞こえる光を、〝A〟の瞳の中に見てしまったからだ。
バカげている。
本当にあり得ないことだと前置きした上で、しかしこれはもう認めざるを得ない。おとといの時点で、〝A〟はすでにあきらめていた。今の彼にとって、計画の完遂は二の次でしかない。にもかかわらず、〝A〟が、呂名高次が、自らの身をさらしてここに来た理由は、多分、ひとつ。
伊達眼鏡にディスプレイの反射光を宿し、ミカヅキは涼やかに資金計画の詳細を説明している。そう、お前もかつては〝A〟に命を救われたといっていた。
それは人の形をした……〝神〟に見えたと。
自分の外にあって、自分の心の奥底を照らす〝神〟。
自分では取り出せなかった言葉と感情を引き出し、以後の生を呪縛する。出会いによって生じる――
――内なる、〝神〟。
バカげたことだ、と今いちど胸中に繰り返す。
自分がすべてを喋ったら、〝A〟はどのみち危険にさらされる。御身のために雇い人の不始末をつけに来た、それだけのことだと予防線を張る一方、今、この瞬間に呪縛された我が身を否定する根拠は持てず、金家は窓の逆光を背負った〝A〟を声もなく見つめ続けた。
あなた、神様に出会ったことはあるか? 私は――。
データのダウンロードが終わり、〝A〟が抜き取ったUSBを自分のポケットに収める。谷沼は気づきもせず、専用回線のディスプレイに目を吸い寄せられている。
これで完了。
あとは谷沼が特別措置を実行すれば、流し込まれたウイルスが所定の仕事をしてくれる。あっさり完遂された計画の最終局面を、金山はまばゆい光の中で目撃した。