第三十三話
GBNロシア。
“A〟が打ち上げの店に選んだのは、VIP向けのバー・タイプの店だった。
ロシアGBNの中でも、指折りの店でひと仕事終えた直後の詐欺師には、居心地の悪さを通り越して苦痛を感じさせる社交場に違いない。
ドジを踏んだ詐欺師には、特に。
午後12時20分。
社長権限で特別措置を発動し、500億の緊急支援願いが無事に受理された谷沼に見送られ、4人はグランプラスが入居するビルの前を離れた。
これから〝コングロマリット〟の法務関係者に連絡をとって、会合の日時をセッティングします。わたしはホテルのチェックインを済ませてきますので、それで手に入れた軍資金をしっかり見張っといてください――。
“A〟の言葉を疑う素振りもせず、谷沼は玄関まで見送りに出て、走り去るリムジンに深々と頭を下げた。
〝A〟がチャーターした全長10メートルはあろうリムジンの中からダイブしており、L字型のシートが内装した最高級タイプ。VIP入管を通じて、急遽調達させたらしい。サンクトペテルブルク市内ではそうそう見かけるものではなく、大通りに路肩駐車したそれに乗り込む時は通行人の注目を浴びてしまった。
グランプラスの口座には、銀行間取引で振り込まれた500億が確かに存在しているのだから、彼には1歩を踏み出した高揚感と酩酊があるのみだろう。問題は〝財団〟がすでに端末を監視していて、今この瞬間も泳がされている可能性があることだが、もしそうなら仮らにはもう待つ理由がない。
ここまで来ても踏み込まれなかったのだから、彼らはやはり計画の中身までは知らなかったの見るのが正しい。その点だけは、金家の読みが正しかったというわけだ。
支援資金願いが他にも200通提出され、グランプラス名義で総計10兆円の金が抜かれたと〝財団〟が知るのは、早くても6年後。ニューヨークが朝を迎え、ジョンブレイズ銀行が異変を察知してからのことになるが、これは限りなくゼロに近い可能性と言えた。
逐次モニターはしているものの、〝財団〟の資金管理の主体は日本にあり、500億の上限を超えない限り監査システムが異常を報告することはない。確実に露見するのは3日後、日本が週明けの朝を迎え、〝財団〟本部が201通もの緊急支援願いを目にした時になる。こちらが逃亡するには十分な時間で、残る懸案はエフゲニーの安全確保だが、彼はマフィアくずれから解放されたその足で家族と合流し、すでに家を空けているのだった。
事が成功した暁には、モスクワを捨てて遠方に居を移すというのも、エフゲニーと交わした契約の内だ。ここから先は彼の自己責任ということになる。あれだけのセリフ量を覚え、かつ自分の思想を織り交ぜるだけの頭があれば、新しい人生のスタートを切るのも不可能ではあるまい。
また家族に暴力を振るわなければ、の話だが。
対してこちらは、新しいスタートはおろか、ゴールに着いたという実感すら持ちようがない。エフゲニーの安全確認は警察に任せ、金家は不相応に豪華なリムジン車内から、携帯用のダイバーギアを用いてロシアGBNへとダイブしていたのだった。
エフゲニーとの連絡を済ませて以後、ミカヅキは口座確認に余念がなく、〝A〟も寡黙にシステム・ウィンドウを見つめては、時おりミカヅキと確認の言葉を交わすのみ。200の銀行から複数の口座に振り込まれた金を確認するのは、それなりに手間がかかる仕事なのだろう。
ひとり例外なのは、アリーナ役を演じた女。
彼女は車を降りる時、車内にあるボトルを持てるだけ持っていき、あげくの果てに自分の頬に何回も口づけまでしてきた。
もともと中村から紹介されたエフゲニー役候補のひとりであった彼女は、日本人を相手に商売をする高級クラブを生業としており、片言なら日本語を喋れるらしい。急きょロシア行きを決定した〝A〟に破格の報酬で雇われ、「とにかく何も喋らず、合図をしたら『同志』とカモの手を握ること」のみを厳命されたとのことだが、車内で嬉しそうにバッグにボトルを詰め込んでいる姿を見るに、事がうまく運んだというのは幸運という以外にない。
自分が何の手伝いをしたか、おそらく死ぬまで再会することはないだろう彼女を駅で降ろし、リムジンは市郊外にある空港への道をひた走った。
去り際、手にしたボトルを掲げて「同志!」と満面の笑みを見せた彼女は、これから古巣のモスクワに里帰りしたあと、ウラジオストックで店の準備をするのだという。
一方、ロシアGBNエリアの空は、現実空間と同様に快晴だったはずの重い雲が立ち込め、雪がちらついていた。
ここ、ロシアエリアは晴天が似合うが、旧政権時代の面影を残しているサンクトペテルブルクを模した街並みは雪景色がしっくりくる。
無為に終わった数日間が雪と共に降り積もり、心身を重くしてゆく傍ら、それらを蒸散しせるほどの熱も胸の底で渦巻いている。今にも破裂しそうな圧を言葉にする術はなく、金家は、グラスになみなみと注がれたブランデーを睨むように凝視した。
沈黙の時間にようやく亀裂が入ったのは、
「確認、完了です」
そう、告げたミカヅキが、システム・ウィンドゥから顔を上げた時だった。
頷いた〝A〟がミカヅキから指で投げかけられたウィンドウを受け取り、自分の分と並べてタッチパネルと指を走らせる。ほどなく深々と息をつき、ミカヅキにウインドウを返した〝A〟は、
「成功です。ありがとうございました」
と言って、こちらを見た。不意にかけられた言葉より、含みのない視線に虚をつかれ、金家は無防備にその顔を見返してしまった。
世界最大のフルダイブ式オンラインゲームを形作った組織の裏をかき、10兆円もの金を手にした男にしては、穏やかでありすぎる声と眼差し――まるで、これで人生の収支を相償ったと達観してさえいるような。
「金家さんの口座にも入金は済ませました。ご覧になりましたか」
と続け、ウインドウを差し出した〝A〟の顔を見続けることができず、金家は再びグラスに顔を向けた。
「しくじった俺に、報酬なんかいるかよ」
久々に出した声がかすれ、喉にはりついた。
少し戸惑ったあと、ウィンドゥを閉じた〝A〟の気配をすぐに感じながら、金家はその横顔をちらりと盗み見た。まだ少女といっていい横顔が、この時はひどく寄る辺ないものに見え、「年の離れた兄妹だな」という予定外の一声が口をついて出ていた。
「え」
「呂名正彦。あんたの兄貴だろ」
微かに唇を噛み締め、〝A〟は無言を返事にした。
そう、呂名正彦。
“財団〟の現理事長である呂名信人の長男は、黒須を死に至らしめたあの事件の首謀者にとして、とうに自殺している。彼に弟が、しかも10以上も年の離れた弟がいるとは知らなかったし、ましてそれが〝A〟だなどと誰に想像できたというのか。無言で様子をうかがうミカヅキに視線を流してから、金家はもう見飽きたとばかりのグラスのブランデーに目を戻した。「もう十分に支払ってきたって、そのことか?」と重ねた声に、〝A〟――呂名英一はぴくりと肩を震わせたようだった。
「『A金貨』の宗主、呂名雄二の孫……。関係者だと思っていたけど、まさか〝財団〟の御曹司さまだとはな」
言いつつ、おまえも知っていたんだろう? とミカヅキも睨みつける。何かを言いかけて、果たせずにそらした横顔に舌打ちした金家は、「ふざけやがって」と低く吐き捨てた。
「これなら、最初からお前らだけでやりゃよかったじゃねぇか」
「金家さんがここまで段取ってくれたからできたことです。僕たちだけでは、こうはいかなかった」
「そうだろうさ。お前らのやり口はいつだってそうだ。外部の人間を引きこんで、自分は表に出ない。それでいらなくなったポイだ。黒須の親父も――」
「〝A〟は計画の中止を決定していた」
我慢の限界もというふうに、ミカヅキが差し込む。
「それを押し切って、強行してきたのはあなただ。だから、〝A〟は――」
「〝A〟じゃねぇ!」
溜め込んだ圧が怒声になって噴きだし、バー内の空気を揺らした。
「呂名英一だろ。知っちまったよ、もう。俺も、谷沼も。知っちまったんだよ……!」
立て続けに怒鳴った金山は、それでも足らずにバー・カウンターに拳を叩きつけた。
「バカだろ、お前。なんで来たんだ。なんで谷沼にツラさらすようなバカな真似したんだ! “A〟でよかったじゃねぇか。正体不明のまんまで。そうすりゃ、俺だって口の割りようがなかったんだ。。こういう時のために正体を隠してたんじゃねぇのかよ」
「……そのつもりでした。今回の計画がすむまでは、自分でも呂名の名前は封印していた」
「だったら……!」
「あなたを死なせたくなかった」
遮り、押しかぶせた〝呂名〟の目がまっすぐこちらを射る。他に理由はない、そんなことはわかっている。わかっているのから腹が立つのだと内心に叫び、金山は顔を背けた。
まったくもってふざけている。
こんな結果になって、俺はどうすればいい?
“財団〟の御曹司、黒須を殺した組織の首魁に命を救われて――それも彼自身の命を危険にさらす犠牲的行為に救われて、俺はこれから何を追えばいい?
誰を憎めばいい?
どうしたら、この借りを返せるというんだ……?
「……どうすんだよ」
ひどく長い沈黙の間を挟み、金山はぽつりと呟いた。〝A〟は黙して微動だにせず、代わりにミカヅキが押し殺した顔を上げる。
「俺はいいよ。報酬もらって、トンズラすりゃいいだけのことだ。でも、お前は逃げようが……」
表情を殺しても殺しきれず、辛そうに顔を伏せたミカヅキの態度が答えだった。
確かに計画は成功した。
グランプラスの投資届は200倍に複製され、そのすべてが用意された複数の口座に振り込まれている。が、それを引き出せる唯一の男は、その正体を谷沼に知られてしまった。
GBNの〝財団〟サーバーにハッキングを仕掛け続けてきた男。
その集大成として10兆円をかすめ取った男が、事もあろうにその〝財団〟の御曹司である事実は、谷沼の口を介して遠からず〝財団〟の知るところとなる。身内だから許されるなどという話はない。現に彼の兄、呂名正彦は死んだ。なら、英一もまた――。
バーの周囲に目のやり場などなく、ジャズが流れる空間を身を任せた金山は、ふと差し出されたウインドウに促されて再び英一と目を合わせた。
「インターネット式の航空チケットです。窓口で自由に行き先を変えられる。でも当分、日本には戻らない方がいいでしょう」
ウィンドゥを差し出された英一の顔は、捉えどころのない〝A〟の顔に戻っているように見えた。「それが返事かよ」とうそぶき、金山は顔を背けながらウィンドゥの承認ボタンに手を伸ばした。
「あとはお前の知ったことじゃないってか? お払い箱かよ、こんな気分のまんまで」
承認ボタンを押せば、チケットになるのみ。言った勢いでボタンを押そうとして、ぐっと引き戻される感覚が手に伝わった。思わず振り返った金山は、手をつかんで離さない英一の顔を正面に見た。「でも、その前に、あなたに見てもらいたいものがある」
寸前で、ウインドウを止めたまま、英一の目がこちらを直視する。底堅い瞳に気圧され、「なにを……?」と問うた金山から目を離さず、
「詳しくは日本のセントラルエリアで」
と言った後、〝A〟は最後の謎かけを口にした。
「世界が変わる、その瞬間を」
ジャズが最後の伴奏をして、遠ざかっていった。とっさに聞き返す頭も働かず、金山は目前で瞬く一対の瞳を呆然と見つめた。
バーの中にまで入る必要はなかった。
彼らのこれからの行動計画は、マイケル・プログマンが動かす他の〝手〟を介して入手してある。空きビルの屋上のすみに身をかがめ、アローンは通信機に耳を当てていた。
(またとんでもない大物が釣れたものだな……)
流れたマイケルの声は、抑えきれない興奮と喜悦で震えているようだった。
(呂名英一……〝財団〟トップの息子が〝A〟だとは考えもつかなかった。呂名理事長の驚く顔が目に浮かぶ。あるいは彼も共謀者……〝財団〟の日本側トップが、組織ぐるみで加担していた可能性も皆無ではないか)
その可能性があるのではなく、そう断定して動けるだけの材料が手に入ったということだ。常になく饒舌なマイケルの物言いに無意識に補完しながら、アローンはバーの入り口を見つめた。
その必要がないとはいえ、追跡中の対象を視野外にするのは本意ではない。が、2度もこちらの気配を感知されてしまった以上、避けられるリスクは避けておく必要がある。
当初の目的はすでに達成された。
グランプラスの不正の証拠をつかみ、可能なら〝財団〟を攻撃する敵の正体をつかむというマイケルの計画は、望外の結果を得たと言っていい。彼がこの件を武器になにをするつもりかはわからないし、わかる必要もないが、ここから先は以前にもまして慎重な監視が要求されることだけはわかる。
ロシアの別荘の一件で、対象はこちらの存在を明確に意識している。
ここでまた感知されて、彼らが予定を変更するような事態は避けねばならない。こちらは彼らの動向を把握するのみで、その目的は依然としてわかっていないのだ。マイケルはその先の情報を欲している。
だから、取れるだけの距離を取って、彼らに当初の行動を続けさせなければならない。それはもどかしい〝縛り〟であり、不快だと感じている自分にアローンは戸惑った。
もっと面倒で、慎重を期さねばならない仕事は過去にいくつもこなしてきた。その時は不快に感じたことなどなかったし、自分はそもそも感じるという神経は断線しているはずなのに、この体を突き上げるもどかしさはなんだろう。しばし考え、ミカヅキと言う女の顔ひとつに行きついたアローンは、通信機を握る指先がぴくりと震えるのを感じた。
そう、あいつだ。
ことごとく、こちらの気配を感知し、先日はあと一歩のところまで追跡してきたELダイバー、ミカヅキ。
あいつのために、自分は対象に近づくことができない。
対象を目前にしながら、こんな場所に留まらされている。仕事に付随する条件的な〝縛り〟なら許せるが、、それが一個人の能力に起因するものであることが許せないのだ。これでは、まるで自分は彼女を恐れているようではないか。
その仮定は刺激的だった。
この自分が、なにかを恐れるとは。
感じたことのない変調に戸惑い、アローンは立ち上がった。身を包んでいた雪がはらはらと落ちるとともに、
(私は日本に飛ぶ)
とマイケルの声が続いた。
(彼らがグランプラスで何をしたかは、こちらで調べる。お前は彼らから目を離すな。彼らの行くところへ、行き、〝その時〟を待て)
望むところだった。これで監視任務を決定づけられてはたまったものではない。無条件にそう思い、また戸惑ったアローンは、
「はい」
と少し詰まり気味の声を返した。マイケルはハンターの微かな変調に気付く素振りもなく、無言で電話を切った。
通信機を懐に戻し、玄関口を視線に据える。
彼らの行く先は他の〝手〟によって、わかるようになっている。彼らがバーの向こうから出てくるまでは、ここに留まっていた方がいい。〝縛り〟に基づいた判断はやはりもどかしく、苛立ちが体が突き上げるのを知覚されたが、アローンはもうそれを不快とは感じなかった。
それが何時であれ、〝その時〟は必ず来る。彼らが不要になり、ハンター本来の仕事に委ねられる時が、必ず。それまでは、その感じたためしのない不快な律動に身を任せるのもいい。もしかしたら、それは、完全に未知の精神の領域……喜悦という感情を自分の中に呼び覚ましてくれるかもしれないのだから。
頬のあたりに微かな電流が走り、肌がざわめいた。初めて通電した顔面神経は、しかし嗤うという表情を作り出すには至らず、アローンは舞い散る雪の底で棒のように立ち尽くし続けた。