大山リン。
関西最大手のサーバー会社、オーヤマ・コンツェルンの創業者夫人で、夫の没後しばらくは同社の会長を務め、勇退した今もしっかり院生を敷いている。
夫の大山高志は現職の警察官から闇社会へと進出し、京都の黒幕とうたわれるほどの権勢を手にした人物だが、その旺盛な精力と人脈の豊かさは女房の方も負けてはいない。
御年94歳にもなりながら、まるで10代の少女を思わせる麗しい容姿は、呂名が子供の頃から知る『関西の妖怪おばちゃん』で、見る者をぎょっとさせる洋装のセンスは当時から変わらず、今日もフリル付きの白いブラウスに羽根飾りのヘッドドレスが鮮烈だった。全体的に薄まった理事の顔ぶれの中にあって、ひとり往年の〝財団〟の空気を引きずっている傑女……魑魅魍魎の最後の1匹とでも言おうか。
「くよくよしてる間に、これからのこと考えなきゃ。木城社長はどうしたのよ」
「医大に運ばれたそうです。血圧の持病があるところに、こんな報せが届いては……」
理事のひとりが言う。
電話の一報で受けた直後で倒れたとかで、安静が必要だが命に別状はないという。遅くに授かった娘を、猫っ可愛がりしていた木城。「気楽なお人ね」と吐き捨てたリンの声を、呂名は言いようのない無力感の中で聞いた。
「実の娘が盗みの片棒かついで、〝財団〟が存亡の危機に立たされているっていうのに」
ずけずけと言ってから、ひたと呂名に視線を据える。「すいませんね、呂名くん」と鉄面皮に言い放ったリンと相対する気力はなく、呂名は目だけ動かしてそちらを見た。
「歯に衣着せる間も惜しい時なので」
お気になさらず、と軽く手を挙げて伝えた。実の息子が盗みの主犯である父親としては、この場は挟める口もない。リンはすぐに視線を外し、
「身内じゃなくて、手加減する必要はないわ。あの娘が情報を持っているなら、痛めつけてでも吐かせた方がいいんじゃないの? 〝対策室〟にはその道のプロがいるはず」
「リンさん、そりゃ乱暴だ」
リンと昔馴染みの議員理事が呂名の顔色も窺いつつなだめる。「乱暴ってなによ」と即座に言い返したリンが、お付きの秘書が静止するのもかまわず、細身の体を立ち上がらせていた。
「あんた達ね、これがどういうことかわかってんの? このまんま言ったら、〝財団〟は『A金貨』の管理権を失うかもしれんのよ。あんたらの父親、うちの人が必死で守り通してきたお金が、こんなことで……! 人ひとりの命にあーだこーだしてる時と違う。このお金は人を殺すと、あんたらも習ってきたでしょ。あの娘が言った通り、あんたらが座ってるその椅子も、誰かの血で濡れてんのよ。あんたら、その覚悟でここに座ったんじゃないの?」
指を突き出し、ひとりひとりの顔を指してゆく。それぞれに視線を外し、うつむき、理事たちは嵐がおさまる体で押し黙る。世襲か、社命で配置されて漫然とその座に就いている者たち、リンの言葉は年寄りのひとりごと以上の意味はもたない。リンはしらけきった座をねめるように見回し、「ホントに情けないわね、あなた達!」と罵ったのを潮に椅子に座り直した。
「どいつもこいつも、撃った撃たへん腑抜けの顔! うちの旦那はもっと厳しい顔をしてたわよ。この世には獲る者と獲られる者しかいないわ。たとえ、それがゲームの世界でもね。バカなハッカーに丸裸にされたGBNを立て直すには、なりのいいことは言ってられないわ。がむしゃらに……」
身の置き場もないという顔でうつむく秘書を尻目に、リンの説教めいた言葉が続く。ほとんど聞き流しながら、呂名は会議室の壁際に飾られた花瓶の花に目をとどめた。
名前はわからないが、白い花はいつか妻の部屋に飾られていた桔梗に似ている。英一が母親に手向けた花、今生の別離のように置き去られた白い花、あの時から――もっと以前、〝A〟と名乗ることを決意した時から、英一は今日という日が来ることを承知していたのだろう。
妻はいつから気づいていたのだ?
察しの良いあいつのことだから、それまで何も知らなかったということはあるまい。おそらくは〝A〟の攻撃が始まった当初からその正体に気づき、夫には沈黙を保ってきた。毎日朝食をともにしながら、そんな気配はおくびにも出さず……いや、出していたのか?
そういえばあの朝、妻は久しぶりに正彦の夢を見たと言っていた。家の呪縛に囚われて、正彦に続いて英一までが先立とうとしている。その哀しみを受け止め、片鱗なりとも自分に伝えようとしていた。
あれは妻なりの謎かけであったか――。
「あの娘の方がよほど根性が据わってるわ。あそこまで言うからには、本人も覚悟してるんでしょ。どんな手段を使ってても、知ってること話してもらわなきゃいけないのよ。今のゲームマスターは確か桂木という人よね。なんなら私が電話して――」
リンの一人芝居が続いていた。「大山さん」と遮った勢いで物思いを断ち切り、呂名は傍らのデスクトップを目で示した。
「その必要はありません。〝向こう〟は、もう必要な情報を得ている。……そうでしょう? マイケルさん」
一同の視線が、デスクトップのディスプレイに注がれる。少しの間を置き、(確かに)と低い声がそのスピーカーから流れだし、呂名はそれとわからぬほどに眉をひそめた。
最初に軽く挨拶をして以来、不気味に沈黙を保ってきた〝向こう〟からの声。回線の調子が悪いとかで、スカイプ経由の通信は音声のみになっているものの、薄く笑って足でも組んでいるのだろうマイケル・プログマンの姿は容易に想像できた。
ニューヨークはまだ夜も明けていない頃だが、すでにフェアチャイルドの手は動き始めており、彼はおそらくここにいるより誰よりも正確に事態を把握している。
深雪が無事に帰国できたのが、その証明だった。
1000単位の口座に振り分けられた10兆円の行方も、それを盗み出した者たちの消息も、五里霧中であるなら重要参考人であるなら重要参考人なら日本に預けたりしない。他に情報を得る方法がいくらでもあるからこそ、マイケルは深雪が〝対策室〟の手に渡るのを看過したのだ。
(呂名英一の行き先はわかっています。盗まれた金の動きも。たったいま入った情報によると、彼が所有するベンチャー企業の携帯端末も続々と現地に運びこまれているそうです。現地のフォースを通して)
<NO Image>のアイコンが表示されたディスプレイを通し、東部訛りの英語が淡々と続ける。秘書から耳打ちで通訳を受けるリンをよそに、
「携帯端末?」
「現地にどこの……」
と顔を見合わせた理事たちは、説明を求める視線を呂名に注いだ。
英一がドイツのベンチャー企業を買ったらしいことは知っているが、それといまの事態がどうつながるものか。呂名は目だけ動かし、アイコンの影絵が言葉を継ぐのを待った。
(我々が調べた呂名英一の思考、性向からして、導き出される仮定はそう多くない。理事長ならおわかりでしょう。彼は、彼の兄がやろうとしたことを実現しようとしている。十数年の技術革新を取り入れ、バージョンアップをした上で)
20人あまりの理事たちのうち、当時のことを知る5、6人が一斉に顔色を変える。自身、予想外の衝撃を隠す余裕はなく、呂名は机に置いた手のひらをぐっとこわ張らせた。
携帯端末、現地のフォース……そういうことか。
25年前、まだGPデュエルとGBNが両立していたころの呂名邸が像を結び、その書斎で必死に訴えかける正彦の姿が明瞭に思い出されて、呂名は目の前が暗くなるのを感じた。当時は30にも届いていなかったであろう内藤が「それは……?」は訝し気にディスプレイを見つめる。(非常に興味深い試みといえます)と返したマイケルが、その質問には答える気がないようだった。
(成功すれば、彼が望む通りGBNは変わるかもしれない。問題はそれは我々の望む変化ではないということです)
否定に力をこめて、理事たちの反応をうかがうように間を置く。
やはり、そういうことか。あのバカ者は、愚直に祖父の理念と心中するつもりでいるのだ。叔父や兄の犠牲からなんら学ぶことなく……いや、だからこそなのか?
なんであれ、マイケルが現在進行形で英一を監視下に置いていることに疑いはなく、呂名はよろけそうな上半身を椅子の背もたれに預けた。
正彦の時と変わらない。
呂名哲郎の呪縛を引き継いだ時点で、あいつはあらかじめ断頭台に上がっていた。
それゆえ、使い捨てのダイバー……いや、詐欺師を表に立て、自らは〝A〟という不可知の仮面を被り続けていたはずが、土壇場で自ら名乗りを上げるような真似をした英一。なぜだ? と呂名は噛み締めた歯の奥で自問した。
件の詐欺師は正彦の事件と間接的な繋がりを持つ相手とはいえ……そう、『A金貨』専門の詐欺師のくせに、これまで〝対策室〟の監視頻度が低かったのはそのためだ。誰にとっても忘れたい事件を蒸し返さぬよう、気をつかせたつもりの誰かが彼の監視等級を下げた。
そうしても問題ない、価値もない人間が金家という男だ。
そんな詐欺師1匹を救うために、なぜ。
計画を危険にさらし、自分の命を差し出すほどの価値がどこにある。
それとも、これも事前に策定された計画か?
父の顔を潰し、〝財団〟を破滅させるために、おまえは姿を現したのか?
母に手向けた花一輪を遺言の代わりにして?
わからなかった。
どだい、わかるだけの繋がりが自分と英一との間にはないのだと再確認し、呂名は目を閉じた。
長男の死以来、意識して顧みなくなった次男の面影を呼び出そうとして、(金額の問題ではないのです)と続いたマイケルの声を聞いた。
(10兆円は確かに大金ですが、我々の会社資金の総量に鑑みて取り返しはつく。平均資産が少し大きめに動けば、1日でならされる程度の変動幅でしかありません。しかし呂名英一の計画が実現すれば、我々は計り知れない損失を被る可能性がある。事は『A金貨』だけに留まらない。GBNサービス開始から、牽引してきた我々に対する……いや、長い戦乱の末に人類が最終的に選択した――〝システム〟。我々が造り上げた、GBNに対する挑戦であり、その恩恵を受けるすべての人間に対する敵対行動する。我々はこれを阻止しなくてはならない。それが蟷螂の斧であっても〝システム〟を乱す者はすべて)
その我々とは合衆国のことか。
フェアチャイルド財団のことか。
はたまた、そのGBNを象徴させる、ある民のことか。
皮肉を承知で聞きたかったが、いつになく感情を高ぶらせているマイケルの声を聞けば、口にする気力は持てなかった。
そう、彼らが創り、維持してきた世界を我々は生きている。
変えることなどできない。
進んでその身の中に潜り込み、いつか腹を食い破ってやるつもりでいた呂名哲郎を含め、変えられるのは幻想でしかない。(呂名理事長、あなたにも選択してもらいたい)と突きつけられたマイケルの声を、呂名は常以上に深い諦念の底で受け止めた。
(心中はお察ししますが、あなたは〝財団〟の長……つまりGBNのもうひとつのトップだ。私情に流されず、我々の側に居続けることを願います)
「というと?」
(呂名英一の処遇は、我々に一任してもらいたい)
冷然と放たれた声音に、理事たちの視線が再びこちらに集中する。
なるほど、このやりとりを聞かせるために、理事たちに緊急招集をかけたわけだ。
GBNの……〝財団〟の綱紀粛正には必要な措置とはいえ、この自分に問うか。すでに半身を贄に捧げた老骨に、残る半身を捧げる気はありやなしやと問うか。
机上の拳を握りしめ、深く息を吸い込んだ呂名は、「わたしの選択は、このGBNができた時に済んでいる」と吐息混じりに応じた。
「異論はありません。〝システム〟に従う所存です」
緊迫しきった会議室の空気が心持ち緩み、理事たちがほっと息をつく気配が伝わる。通訳をうけたリンもわずかに表情を緩め、椅子に寄りかかる姿を横目にしながら、呂名はこれでなにもなくなった我が身を他人事のように傍観した。(感謝します、理事長)とマイケルは押し殺した声で言う。
(あなたは弟君やご子息たちとは違う。これからも変わらぬ友情を。続きはそちらでお話ししましょう)
「こちらで?」
(用件をすませてから、東京空港に着陸します。日付が変わる前にお目にかかれるかと)
早晩、こちらに来ると思っていたが、まさか飛行機の中とは。
回線の問題で映像が送れないと言っていた理由はそれかと思い、呂名はディスプレイに映る影絵のアイコンを見やった。動揺する理事たちの顔は見ず、「では、お待ちしております」と無表情に返す。(〝対策室〟の方にもよろしくお伝えください)と重ねたマイケルは、もう自分が何を迫ったのかも覚えていないような声だった。
(福田氏との会見をセッティングしていただきたい。〝対策室〟も聴取の時間は必要でしょうから、すぐでなくてかまいません。わたしはしばらく日本に滞在するつもりですので)
意外な要求ではなかった。
行動的な幹部、とは物事の一面だけを見た評価で、ようは一切他人を信用せず、何事も自分の目で確かめ、自分で手をくださずにはいられない強迫観念に憑りつかれた男、それがマイケル・プログマンだ。
理事たちに歩調を合わせる間も与えずに電話会議を招集し、否も応もない選択を彼らの面前で強いる。見事に理事長の権威を引き剥がされた我が身を嗤い、「伝えましょう」と呂名は応じた。(こんな形での再会になって残念です)とぬけぬけと付け足し、マイケルはスカイプの回線を切った。
しばらくは誰もなにも喋ろうとせず、しんと静まり返った空気が会議室に降りた。取り繕う言葉も、それを口にする意義も見いだせず、呂名ははもはや形骸ですらない理事長席に身を沈ませ続けた。「フェアチャイルドの若殿がくる、か」と理事のひとりが言い、「あの人が予告もなしに、来日するのは初めてのことではありませんが……」と外務官僚が机に両肘をつく。それを合図に理事たちはてんでに喋り出し、とりとめのない言葉が会議場の空虚を満たしていった。
「どうするね、呂名さん。向こうの出方次第じゃ、〝財団〟はまるごと接収なんてことになりかねんよ」
「理事は更迭、総取り替えか」
「早急に対応策を練る必要がある。理事の総入れ替えなんてなったら、運営への影響も……」
そう言った内藤が懐からスマホを取り出し、どこかへ電話をかけ始める。どうもこうもない、と呂名は内心に呟いた。
選択はすでになされた。
フェアチャイルドの審判に身をゆだねるよりない。
〝財団〟の主体性など、所詮この程度のものではないか。宗主の呂名哲郎の命に従い、『A金貨』を本来の目的のために解放するか。
それとも、無謀な賭けに出ることなく、数十年にわたって運営されてきた〝システム〟を維持するか。
後者を選んで、自分はここにいる。
おまえたちもそうだろう。
後悔はしてないし、誰に言われる筋合いなどない。当の呂名哲郎でさえ……あの剛直な父でさえ、ついには踏み切れなかったのだから。
父の気性をまっすぐに受け継いだ弟の博司。祖父と叔父の薫陶を受けた正彦に続き、英一までが前者の選択に命をかけたのは、そうとしか生きられなかったこの自分に見切りをつけてのことか。漫然と思う間に、「あんたら、覚悟しなさい」とリンの声が流れ、呂名はぎょっと顔をあげた理事らとともにそちらを見やった。
「また占領軍がくるわよ」
それだけで言うと、リンはもうここには用はないとばかりに、一同から顔を背けた。
ぴたりと押し黙った理事らを尻目に、違いないと呂名は口中に応じた。仮初めの自治期間は終わり、このGBNはまた利益に満ちたものとなる。深雪が言った通り、最初からすべて借り物だったという意味では、この日本は、オンラインゲーム大国であり続けたかもしれないが。
いずれ、じきに最後の血筋までが絶たれる身に、過去も未来もあったものではない。現在の重みだけを噛み締め、呂名は窓から差し込む午後の陽光を見つめた。渋谷の高層ビル群は、うっすらもやをかぶって都会の空気に沈んでおり、ほとんど実体のない蜃気楼のように見えた。