月が出ていた。
円形を辛うじてわかる、まるでこのコロニーのように貧相な満月だが、済んだヲチカタの夜空ではそれでも十分に見える。どこのディメンションでも変わらない柔らかな光に縁取られ、丸々と星空に浮かんでいた。
村の明かりはほとんど消え、虫の声だけが聞こえる静寂が辺りを包み込んでいる。
見張り番の手伝いに<ガンダム>に乗り込んで、シートに身を沈み込ませながら、エイジはモニター越しに飽かず月を眺めていた。
山から下りてきた冷たい空気が吹き、昼間とは打って変わった肌寒さになっていたが、熱した頭にはちょうどいい。
ねぐらにあてがわれた掘っ立て小屋は公民館の裏手にあり、フォースの連中が雑魚寝のありさまで毛布にくるまっているが、彼らの盛大ないびきを感知しても、今夜は眠れそうにないと思う。
疲れきった体をよそに、今日1日ですっかり中身を入れ替えられた頭が熱を発し、空調のきいたシートに体をじんわりと火照らせている。まるで知恵熱……いや、この感覚は、遠足の前の晩に寝付けない子供といった方が正確か。
俺は斜に構えたガキで、その手の行事を楽しみにしたことなんて1度もなかったのに。この歳になって、まったくみっともないったらない。
そんな気分はエーイチも同じかもしれない。
夕食のあと、村長への挨拶周りや支援フォースとのミーティングをこなした彼は、今は近くの煮炊き場で火を起こしている。
煮炊き場は付近の家々が共同で使うもので、使い込まれたかまどが3つ4つある他、木と石で組み上げられたまな板代わりの台もいくつか置かれている。
明日の朝、支援フォースに振舞う特製鍋で、味は保証済みとのこと。寝付けないからそうしているのだろうことは確かめるまでもない。
かがり火が爆ぜる静かな音。
さぞ肉と香草が程よく溶け合った煮物の芳香があたりをただよっているだろう。鶏料理かな、とエイジは漫然と想像した。
HAROの搬入が始まったお祝いとかで、今日はかなりの数の鳥が潰されたそうだから、余った分をもらってきたのだろう。
本当にうまいものなら、HAROを通じてネットにレシピを紹介してもいい。話題になれば、それだけでもヲチカタ・コロニーの名が少しは世界に知られる。いや、いっさフランチャイズの店をつくって、GBN各地に進出するというのはどうだ? 長いひとり暮らしの余禄で、料理には多少自信がある。任せてくれるというのなら、エリア11でヲチカタ料理店の店主に収まると言うのも悪くない。
失敗したっていい。
成功するまで何度でもやり直す。
それくらいわけがないほど懐は温まっている。
50億あれば、大概の夢は買える――が、そういうことではない。この身に生じた温もりが、懐の中身と無関係であることは確かだと、エイジは胸中に認めた。
なんだろう、この途方もない安心感は。
〝財団〟の追跡。
ハンター。
そもそも実行するかどうかもわからない英一たちの計画。
問題は山積みで、どう対処していくかの道筋かも見えないのに、なぜだか不安は感じない。不快の波にさらわれることもなく、能天気に先の事を考えていられる自分……。
高い音が一回鳴った。
通信回線だ。
それからふっと月の光が陰ったように見えた。
いつからか閉じていた目をあけ、エイジは、通信回線を開いた。全天周シートに投げ出した自分の両足をペダルに置くと、ミカヅキの通信画面が現れていた。
見張り番に飽きてきた頃なのか、いつものむすっとした顔を、無言でモニター越しに見せていた。
「何もなくて暇なのか」
(そんなところだ)
エイジの質問を返すと、ぎこちなくミカヅキは視線をそらした。そうか……と言い返すよりも早く、(ここの夜は冷える)とぶっきらぼうな声を投げかけられ、エイジはあらためて星明かりに照らされたその顔を見上げた。
(コクピットは体を痛める。寝るのなら――)
「見ていたいんだ」
皆まで言わせず、天空に浮かぶ丸のような月に視線を戻す。
月は確かにそこにある。でも月に行って、裏側もこの目で見てこなければ、本当に月を知ったことにならない――。
ひと月前、同じこの顔にそう言われて自分の旅は始まった。仮想空間にも変わらず、自転と公転の不可思議な連動から、常に同じ面を地球に向け続ける月。
その場にいかない限り、誰の目にも触れようがない月の裏側は、この向こう岸(ヲチカタ)の地に重ね合わせられなくもない。
ここがゴール……それもいい。
『A金貨』の真実なんて、もうどうでもいい。
それ以上のものを、俺はここで手に入れたような気がする。
何の抵抗もなく、そう思っている自分に呆れつつ、エイジはよっこらと半身を起こした。200メートルほど離れた<モビルドール・ミカヅキ>が立ち、村の外周部の向こうに頭部を向けている。
「この仕事終えたら、何か別の風景が……。本当に見えたよ」
通信画面の向こうで、少し虚をつかれたというミカヅキの顔は、ろくに見なかった。
現実世界ではまず絶対に見られない無数の星々を見上げ、エイジはそのか細い光の雨を満身に浴びた。通信画面の向こうで、ミカヅキがシートに身をしずめる気配が傍らに伝わる。
「久しぶりだ。こんな気分。なんか腹のあたりがじんわりあったかくって、なんでもできそうな……」
(知ることで、自由になれる。あの人は、そう言った)
同じ星空を見上げ、ミカヅキは独り言ともつかない声で呟いた。
(適応したり、便利に生きるための情報じゃない。それを知ることで、世界にどう働きかけていいのかがわかるような知識、知恵……。それさえあれば、私達はいくらだってやり直すことができる。感じる心があるんだから)
ミカヅキが横を向いた。あの人のためなら死ねる。あの人がやろうとしていることにはそれだけの価値が……と言った時と同じ、横顔。ミカヅキを模したモビルドールが青ざめた月の光に浮き出ち、なにがしかの波紋を胸に投げかけた。
「感じる、心……」
我知らず呟き、エイジは機器を操作し、エーイチのいる煮炊き場にサブ・カメラを合わせた。エーイチは窯の向こうで這いつくばり、火加減を調節するのに余念がないようだった。
自然と頬が緩んだ。
身の内に眠るなにかを共振させ、進むべき道を気づかせてくれる何者か。
かつて、ミカヅキという少女を救い、使い捨てのはずの詐欺師まで救い、ついにELダイバー達の世界まで救おうとしている〝神〟としては、威厳がないことをこの上ない。エイジは天を仰ぎ、
「まったく、一杯食わされたぜ」
と嘆いてみせた。無心に月を見上げている<ガンダム>の顔を<モビルドール・ミカヅキ>の方向に振り向ける。
(え?)
通信画面の向こうでミカヅキが目をしばたたく。
「すっかり騙されちまった」
(まだ完全とはいえない。あなたの言う事も、時々わからないことがある)
「たとえば?」
(酒は呑んでも呑まれるな、とか。言葉の問題じゃないとおもうけれど)
素性が明らかにされたことは、すでに英一から聞かされて知っていたのだろう。悪びれる様子もなく、ミカヅキは涼しい顔で言った。生まれや人種がどうであれ、やはりこいつはこうでなくてはいけない。いつも通りの憎まれ口が妙に嬉しい。「そんだけ皮肉が言えりゃ上等だっての」とエイジは通信画面を小突いてやった。
「ま、これからも磨きをかけてくれよ。特に敬語は重点的にな。GBNの、とくに日本人のダイバーはそこがうるさいからな。みんなが俺みたいにフランクってわけじゃ……」
ぐっと押し黙ったミカヅキが口をつぐんで、先の言葉を遮った。なぜだかひやりとしたものを感じ、
「また来るんだろ、エリア11。英一だっているんだから……」
エイジは、ミカヅキの顔を見た。
「ここに残るのか?」
重ねた問いにも応じず、ミカヅキは唇を噛んで横顔をうつむけ、無言を返事とした。
急に線をひかれた感じだった。雇われ詐欺師が関わって良いのはここまで。
ヲチカタに残ってHAROの配布を続けるにせよ、新しい財団を立ち上げて啓蒙活動に取りかかるにせよ、彼らの戦いはこれから始まる。
胸をつきぬけ、エイジは片膝を両手で抱え込んだ。
俺は、この先、どうしたいんだろう。
明日以降の身の振り方を考えようとしてまとまらず、再び青ざめた月を見上げた。
「なんでもいいけどよ、お前、英一からはなるたけ離れんなよな。ここを手始めに、ELダイバーたちの世界を変えてこうって本気で考えているバカ野郎なんだから。おまえみたいに腕のたつ奴がついてねぇとな」
見えない壁を作り、無言に徹しているモビルドールの背中。
これ以上、巻き込みたくない、か?
いまさら……と苛立ちに駆られ、「なんとか言えよ」とエイジは言った。ミカヅキはむっつりとした顔を崩そうともしない。
「あんな呑気な顔してるけど、すげえ奴なんだぜ。おまえの神様はよ。これから、味方と同じくらい敵も増える。HARO配ってるのは協力してるフォースの連中に任せて、お前はあいつについてやれよ。なんだったら、俺も――」
手伝ってやってもいい。
勢いに任せて言いかけた途端、ミカヅキが出し抜けに言った。
(嘘だ……)
と絞り出された声があとに続き、エイジは身を堅くしていた。
(誰も自由になんかなれない。誰も……)
「おい……」
(私達が幸せになれたからからって……世界中のELダイバーが幸せになれたからって、どうにもならない。私には、もう……)
抑えても抑えきれず、噴き出している感情がその細面を小刻みに震わせる。
いったいなんだ、何を言って――なにを隠している。
どす黒い不安につき上げられ、エイジは機器を操作して、通信の音量をあげた。
どういうことだ。
そう口を開きかけて、
(ミカヅキも警備してるんですね)
通話から吹き込まれた声。エーイチがいつの間にかHAROの通話機能で、こちらの回線に割り込んできていた。この闇夜で火を前にしていても、小さな人影にしか見えなかった。無言を徹したミカヅキの代わりに「まぁな」と詰まり気味の声を返した。(味見、します?)とエーイチは長閑に声をかけてくる。
(絶対、美味いはずですから。ちょっと休憩がてらにどうですか?)
返事をまたず、また鍋の前に座り込んで火の加減を調節している。
ひとつ息をつき、エイジはミカヅキの方に振り返った。
どんな事情があるかは知らない。エーイチに余分な負担をかけたくないのはミカヅキも同じだろう。
ちょっと休憩しようぜ、と口にしかけて通信画面のボタンを押そうとした直後、先刻とは一変したミカヅキの様子にぎょっとした。
その途端、センサーに警告音がなって、エイジは急いで操縦桿を握った。
向こうの<モビルドール・ミカヅキ>は1歩踏み出した脚に重心をかけ、闇の1点に意識を凝らしている。モビルドールから殺気が滲む。エイジは全センサーを全開にして、辺りを見回した。
ミカヅキのセンサーが反応している。
いつからか村の虫の途絶え、じっと息を殺す気配が伝わってきた。
なにかが、くる。
その言葉が意識に上るより早く、星空の向こうから、ウゥゥゥン……と鈍い音が聞こえ始め、エイジは全身を硬直させた。無造作と思える音が次第に大きくなり、空から何かが降下してくる。
何かが――。
降りてきたのは――。
闇の中にひときわ濃い闇の結集を際立たせた黒い石像だった。
手足の長い、ほっそり……とはしておらず、筋肉質な体を思わせるマッシヴなボディ。体の関節部分には赤い色が塗られており、装甲と思わしき箇所は灰色が塗られている。特徴的なのはその顔で、黒い顔に灰色のバイザーが装着されている。まるで覆面舞踏会に装着する仮面を思わせた。
ゆらめくかがり火が、両腕に装着されている盾らしきものを照らして、浮き彫りにしてゆく。
「あいつ……」
間違いない。あれはモビルドールの1種だ。そして、乗っている奴は2度と忘れていない。
ロシアで垣間見た時の姿。
このうなじに手刀をつきつけたあの何も変哲もない男の顔……。
なぜ、と考える暇はなく、推定スペックを知るべく、前面のキーボードを弾いた。
スペック不明。
ジェネレータ出力不明。
その他さまざまな不明と書かれた情報がモニターに流れてくる。
モビルドールの頭部が動き、それと同時に何かが落ちる金属音を<ガンダム>の音響センサーが拾った。
エーイチが棒立ちになっている。その時には電撃的に、<モビルドール・ミカヅキ>は構えていた。
エイジも<ガンダム>にビーム・ライフルを右手に構えさせ、モビルドールに向けた。
視線と銃口を一体化させた<モビルドール・ミカヅキ>をしばし見つめたあと、エーイチのいる煮炊き場の方に黒いモビルドールは顔を向けた。胸部の装甲の空気が湾曲し、宙に浮いた青年がゆっくりと降りた。
(アローンさん、やはりあなただったか)
……アローン? あの男の名前か?
そう通信が吹き込まれ、煮炊き場から離れたエーイチがこちらに近づくのを見た。エイジは、とっさに<ガンダム>に右手をふらせ、静止させようとジェスチャーした。
バカ、こっちに来るな。
そう言おうとして、(呂名、英一様)と発した抑揚のない通話に遮られた。
(ご同道を)
機械のごとき冷静さで、アローンと呼ばれた男が続ける。
エーイチは足を止め、なにごとか含んだ目でアローンを見返した。
ミカヅキのモビルドールは動かない。
黒いモビルドールも微動だにせずに、片膝で座り、右手のひらを地面の上に下ろしている。
流れること、数秒。
最初に動いたのは、アローンだった。
目前の銃口を気にも留めず、そのままの姿勢でいるアローンを睨みつけたエイジは、「やるぞ、ミカヅキ!」と反射的に叫んでいた。
「こいつが例のハンターってやつだ。かまわねぇ、俺たち2人で倒すぞ。でないとこっちがやられるぞ」
黒いモビルドールは動かなかった。
ミカヅキはまだ動かない。
「何してる! こいつはタダシんとこのやつを殺してるんだぞ!」
エイジは叫び声を重ねた。<モビルドール・ミカヅキ>は飛びかかろうと機体がかがんだが、
(もういい)
唐突に発した声に、エイジの目が見開いてトリガーを押そうとした指を硬直させる。それきり動かなくなった<モビルドール・ミカヅキ>を見つめ、エーイチは止めていた足を動かした。
なぜだ?
呆然とうかがうより他ないエイジ。
(話したはずだな。いいんだ、もう)
エーイチは穏やかに言った。うなだれる<モビルドール・ミカヅキ>は頭部をうなだれ、徐々にさがってゆく。
なんだ? 話したはずってなんだ?
さっきのミカヅキの態度といい、考えられる唯一の答に思い立ったエイジは、コクピットの中で絶句した頭を、ぐらとさげた。
認めない、そんなこと断じて認めない。
胸中に叫ぶ間に、エーイチは黒いモビルドールを正面に捉え「良くできたモビルドールだ。でもこの2人には手を出さないでほしい」と落ち着いた声音で言っていた。
(村の人間にもだ。僕の覚悟はできている。抵抗はしない)
うつむき、棒立ちになった<モビルドール・ミカヅキ>の肩が震えていた。影に塗りこめられていた白い機体を一瞥し、黒い<モビルドール>に向かって歩き出そうとする姿を見たエーイチを見たエイジは、夢中で全方位マイクを起動させた。「なんだよ、どういうことだよ……」と張り上げた怒声に、エーイチは初めて<ガンダム>と目があった。
「ミカヅキと何話したんだよ。俺、行かせねぇぞ」
(金家さん……)
「ずっと尾けてやがったのか、あいつ。なんで逃げなかったんだよ。今からでも遅くない。俺とミカヅキであいつを倒すからそれからトンズラしようぜ。ミカヅキだって、そのつもりだったから、モビルドールで警備の手伝いしてたんだよ。そうだろ、ミカヅキ? やろうぜ、2人でやろうぜ! 俺が責任持つよ。ほら、こんなところで突っ立ってないで――」
刹那、センサーに反応。
森の陰からゆらりと機体があらわれた。
<ダガーL>。
<ストライクダガ―>を元に、隠密行動に改造した黒い機体であった。その機体がひたと後ろからナイフを<ガンダム>の首元にあてた。
進退窮まり、未だ同じ体勢で座している黒いモビルドールに向き直る。周囲からも2つ、3つと機影が現れ始め、じりじりと包囲の輪を縮めてくる。
黒一色の<ブリッツガンダム>。
ナイフを装備した、黒一色の<ダガーL>。
黒一色の<ガンダムピクシー>。
人気のある黒い機体が勢ぞろいしたが、その姿はまるで昏く、冷たい。
ガンプラバトルを楽しむとは程遠い、まるで人が乗っているとは思えないモビルスーツ――その名の通り機械の目。あの中に乗っているのも、おそらくは――。
アローンとかいう奴を量産したかのようなハンターたちの乗る機体たちに取り囲まれ、エイジは膝が嗤いだすのを感じた。
なぜ?
いつの間に?
どうやって?
こいつらがどこから進入してきて入り込んだ?
見張りのザクは何をしていた?
尾けられているのを承知で、なぜエーイチとミカヅキは――。
(ミカヅキ)
エーイチが静かに呼ぶ声が通信越しに聞こえた。
一瞬の躊躇のあと、ミカヅキはコクピットを開け放った。背後の<ガンダムピクシー>も離れ、とり囲んでいたモビルスーツたちも武器を下ろした。
アローンが左拳を掲げた背後で、他の黒いモビルスーツたちも一斉に足を止める。すべて事前に予測していた段取り……これだけの連中が村に入り込んでいて、ミカヅキがその気配を感じ取れなかった道理はない。
とうに包囲されていると知った上で、ミカヅキはそれでもモビルドールで、最後までエーイチのそばにいようとしたのだろう。万にひとつ、エーイチを護る可能性にかけて。そのエーイチに、抵抗はするなという命令を受けていながら。
この村に着いた時から……否、エーイチが自らの正体をさらした時から、すべては決まっていた。
俺だけがそれを知らず、悠長にこれからのことに思いをめぐらせていた。
ようやく事実を受け入れた体から力が抜け、エイジは悄然とエーイチを見つめた。
無人となったモビルドールが立ち上がり、赤い線を思わせる頭部の眼がほのかに光る。
村のザクは喰われたあとか――あるいは、最初からエーイチに言い含められたのかもしれない。
(こちらへ)
黒いモビルドールは停まったのを背に、アローンが言う。エーイチは頷き、
「少しだけ時間が欲しい」
そう告げてエイジと向き合った。黒いモビルドールが再び膝を曲げて座り、今度は胸部の装甲が開く。アローンらが物を見るような目を注ぐ中、青ざめた月光が映すエーイチの瞳が眼前で揺れた。
なにを言っていいのかわからない。
どうすれば、どんな顔をして出ていけばいいのかわからない。
ただモニター越しに見返すしかないエイジに小さく笑いかけると、コクピットの画面にデータが流れ込んできた。
(これ、報酬の残りです。あなたが知りたかったことは、すべてこれに記録されてると思います)
信じられない思いでエーイチの顔に視線を戻す。
『A金貨』の真実……。
そんなものがいったい何の役に立つ?
「いるかよ、そんなもん!」と操縦桿を握りしめ、エイジは首をさげて叫んだ。モニターの向こうのエーイチは作り笑いも限界という顔で、哀し気に目を伏せた。
「どうすんだよ」
(ミカヅキがあとを継いで、この試みを世界に拡げます)
「お前は」
(したことのけじめはつけないと)
「けじめって……。お前、バカだよ。俺を助けたりするから、あいつらに面が割れちまって――」
(いいんです。あなたは『A金貨』を解き放ってくれた。祖父も、兄も……呂名家の全員が望んでいたことが、これで叶うのかもしれないのだから)
モニター越しにエイジの顔をまっすぐに見返し、エーイチは微笑んだ。その含みのなさに胸を突かれ、エイジは今度こそ言葉をなくした。
俺のせいだ。
俺がしくじったばかりに、〝A〟の面が割れてしまった。
ハンターの尾行はまいたつもりでいた。ミカヅキも何も言わなかった。福田さんも国外に脱出したはずのだという話を鵜呑みにして、こうなる可能性を完全に失念していた自分。それがある種の遺言であることも気づかず、エーイチの遠大な計画にただ聞き入り、バカみたいに新しい風景に見とれていた自分。
最低だ。
とめどなく渦巻く思考の底にその一語が結実し、エイジはその場に這いつくばりたい衝動を辛うじて答えた。モニターの1部に流れてゆく『A金貨』の真実に目を落とし、立ち尽くすほかないエイジを見つめたエーイチは、(もう数十年前の話です)と静かに口を開いた。
(呂名哲郎が、政府巨大銀行から『A金貨』を盗み出した時……この時に、当時の、政府銀行の頭取にに言われたそうなんです。この先、日本はインターネット社会にしずんでいく。自分もその犠牲になるだろう。多くの犠牲を払い、力の論理を身をもって学んだ日本人には、2度と同じ過ちを繰り返してもらいたくない)
その言葉が呪文のように体を押し包み、現実の感覚をつかの間拭い去ると、ここではないどこかの風景が目の底に拡がるのをエイジは感じた。
巨大な建物。
まだ青年のような男が、老齢の背広の背中を見つめている。
数か月後にはその地位も価値を失い、1個の人間……いや、大罪人として裁かれる男の背中。
自らを、十数年越しの狂った国家を看取るかのごとく、剛直な中に一抹の悲哀をまぶした背中が揺らぎ――。
「ネットワークを背景とした大国のガンプラ実力主義は、これからも続く。官僚の連中は、哀れな政治家どもはこの時代の流れをむさぼるかのように享受し、また同じことを繰り返すだろう。呂名、連中にこの金を渡すな。おまえの責任において、正しく未来のために使え。これは、この犠牲となった作戦の血と涙の結晶。すべての世のために使われる――」
背広の男が振り返る。その強い瞳が現実の光景と重なり、エイジはエーイチの瞳を直視した。
(アファーマティブ・システムであるべきだ)
エイジの視線を正面にとらえ、エーイチはそう言った。すぐに何を聞いたかわからず、「アファー……マティブ……」と無意識に繰り返した。エーイチは捕らえた視線を逃さず、
(人とELダイバー。差別的な認識を乗り越えるためのシステム。それがアファーマティブ。それが答えです。)
「答え……ANSWER……〝A〟……」
じんと頭が痺れ、何も考えられなくなった。
AFFIRMATIVEのA。
『A金貨』のA。
アファーマティブ・システム。
人類もELダイバーも関係なく、差別も受けない、すべての生命のために託された先人たちの遺産――それがアファーマティブ・システム。
(あなたには、知ってもらいたかった)
小さく微笑み、受信データの流れが止まった。
それを最後に踵を返し、<モビルドール・ミカヅキ>の方向に顔をむける。足の装甲に手をかけたエーイチの横顔が月光に浮き立ち、エイジは幻の続きを見る思いでそれを見つめた。
(君に会えて、本当によかった)
この世の宝、自らを半身を慈しむように、<モビルドール・ミカヅキ>に語りかける。操縦席の中のミカヅキはどういう表情をしているか――推して知るしかない。
モビルドールの胸部装甲が開き、やがて耐え切れないという風にミカヅキが装甲の上に立った。ミカヅキは歯を食いしばって、エーイチを睨み据えている。
肩を上下させ、荒い息を必死に押し殺すその双眸から、ぼろぼろと雫が噴きこぼれている。
泣いているんじゃない。悲しいから泣くなんてしたことがないし、したくもない。
ただ、悔しい。
助けられただけで助けられず、あなたを見送ることしかできない自分が悔しい。
護ると誓ったのに。
この命に替えて、守ると誓ったのに――。
言葉より強く訴えかける目と目を合わせ、なにかを言おうとしたエーイチの口が静かに開き、果たせずに閉じ合わされてゆく。それきり背を向け、アローンの方に歩き出したエーイチが行き、声もなく泣き続けるミカヅキの姿がモニター越しにエイジの視界に残された。
周囲のモビルスーツたちが陣形をとき、黒いモビルドールを中心に集まってゆく。アローンに二の腕をつかまれ、黒い<モビルドール>のもとに引き立てられるエーイチの姿を見た。
ちょっと待て。
こんなのねぇよ。
胸の中に何度も叫び、エイジは渾身の力をこめて操縦桿をわずかに動かした。<ガンダム>はそれに呼応するように1歩踏み出す。「待てよ……!」とかすれた声を出した。
「待てってんだよ……! あの女、木城深雪って言ったか? 彼女に頼んで〝対策室〟と連絡取ろう」
アローンは黙々と歩き続ける。
「どんな犯罪人だって、法の裁きを受ける権利はあるんだ。運営が、日本政府がまもってくれるよ。ちょっと待てって!」
黒いモビルドールの手のひらにエーイチをのせ、アローンは自分も手のひらに続こうとする。エイジは衝動的にコクピットを開き、「なぁ、取引! 取引しよう!」と浴びせかけた。
「50億ある。ビルドコインにすれば、大金持ちになれる。全部やる。だから、見逃してくれ」
意に介する様子もなく、アローンは片腕をあげた。連動するように前面に立っていた<ガンダムデスサイズ>に挟まれ、エーイチは辛そうに目を伏せる。「こっち見ろよ!」と全身を声にして叫び、エイジは<ガンダム>を操作する。
ビーム・ライフルを構え――。
照準。
「ELダイバーなんだろ、あんたら。ボスに伝えてくれよ。こいつのやろうとしてることは、世界の〝システム〟に適ってる。話せば折り合えるはずだ。あんたらだって、このままじゃヤバいってわかってんだろ? だったら――」
(お前たちに〝システム〟を作る権利はない)
発砲しようとしたその時、ぼそりと言ったアローンが細い首をめぐらせ、手のひらをゆらりとあげた。その目を見たと思った瞬間、目前の光景が弾けるように遠くなり、天地がさかさまになった。
ガーガーピーピーと、危険アラームが鳴る。
ショック・アブソーバーの限界を超え、地面に叩きつけられていた。
その衝撃が頭蓋に突き通り、つつっと水のような鼻水が鼻孔からこぼれ落ちていた。
エイジはうろうろと目だけを動かした。なんとか、手を操縦桿に置き、カタカタと流れてゆくデータに目を小刻みに動かした。
<ガンダム>が、ちっとも動かない。親父の、<ガンダム>が。
どういう倒れ方をした?
損傷の程度は?
手足は無事なのか?
それでもモニターを流れる損害報告に目を動かし、月を目に入れた刹那、黒いモビルドールが右手の盾を巨大な爪にしてあげているのが見えた。
(次は殺す)
それだけ言った。
コクピット・ハッチの閉まる音があとに続き、黒いモビルドールは手を下げ、その場からふわりと浮かんだ。残りの3機の機体は後ろに下がっていく。
たちまち遠ざかる、アローンとエーイチ。もとい黒いモビルドール。
ギイィィンというセミを思わせるような音を遺し、たちまち遠ざかる音を遺して、モビルスーツたちがどんどんと小さくなっていく。
行ってしまう。
ようやく見つけ出した答が消えてしまう。
なんの疑問も持たずにそう考えてから、エイジは添付ファイルとなったデータを見つめた。長い時をわたって追い求めた『A金貨』の真実……でも、これは違う。これは問いかけであって、答ではない。
俺が本当に探しているものは――。
黒い機体群が闇にとけて見えなくなる。駆動音も聞こえなくなり、また音響センサーが、また鳴り始めた虫の声があたりを静寂に引き戻していった。
まだコクピットはひらけるくらいのことはできた。
エイジはコクピット・ハッチを開き、胸の装甲に足をつけ、その場で膝をついた。
ミカヅキは無言で立ち尽くしている。
面倒を見る者がいなくなったかがり火がゆらゆらと揺れ、噴きこぼれた鍋の音を遠くに響かせる。
「……なんでだよ」
拳を強く握りしめ、エイジは震える声で呟いた。振り向き、膝立ちになり、「なんで何もしないんだよ!」と重ねた怒声に、ミカヅキはコクピットハッチを開けた。同じくコクピットを開けたミカヅキはうつむけていた顔をしていた。その顔を少しだけ挙げた。
(あの人が決めたことだ)
「決めた事って……!」
(〝A〟という仮面を脱ぎ捨てた時から、こうなることはわかっていた。抵抗すれば皆殺しにされる。私達だけでなく、この村のELダイバー全員が。だから……)
声をつまらせ、ミカヅキは顔を背けた。
俺のせいだ。俺を助けたせいで、あいつは〝A〟という仮面を失った。
あなたが呂名英一を死刑台に送った……。
深雪の声が明瞭によみがえり、エイジは再び装甲の上に両手をついた。容易には自分を責められない。責任転嫁なんかできやしない。それほどの怒りに突き動かされ、「だから、なんだよ……!」と拳を装甲に叩きつける。
「だから行かせちまっていいのかよ! おまえの神様だろ。命を助けてくれた人だろ。このまま行かせちまって、お前はいいのかよ!」
怒る権利はない。
実際、ミカヅキを怒っているわけではない。分かったうえで、エイジは立ち上がり、なお叫んだ。
「おい、ミカヅキ!」
(ここで、お別れです)
声を張り上げたところで何も効果はなかった。それにすら応じることはなく、コクピットにミカヅキが戻ると、<モビルドール・ミカヅキ>は背を向けた。
その背中を睨みつけ、「丁寧に言やぁいいってもんじゃねぇんだよ!」とエイジは怒鳴った。
「あいつ、殺されるぞ。何があとを継ぐだよ。人ひとり助けらんないで、お前たちの未来、救えるのかよ!」
振り向きもせず立ち止まりもせず、<モビルドール・ミカヅキ>は歩いていく。
救えない。これでは何も救えないし、救われない。
「こうするしかない、これが最善の策か? 冗談じゃねぇ、お前も英一も〝システム〟に取り込まれてるよ。感じる心はどこに行ったんだよ! 俺はそのてめえの頭を救ってやりたいよ……!」
痺れるような体が萎え、<ガンダム>のコクピットから、もつれるように落ちた。
もうどこが痛いのかわからない身を起こし、両手で土を握った。
わかっている。
こうするしか他はなかった。
自分という人間を助けた時から、英一に他の選択肢はなかった。
誰も死なせたくない。
犠牲はもう十分に払ってきた。
犠牲の上に立った救済など救済ではないと。身に染みて知っているから……。
だからこそ、あいつは。にもかかわらず、俺は。
「俺のせいだ……。俺の……俺の……」
土を握りしめた拳に、ぼたぼたと熱い雫が落ちる。虫の声、噴きこぼれる鍋の音を遠くに聞きながら、エイジはしばしゴミのようにうずくまり続けた。