GPデュエルアメリカ最高委員会。ダグラス・フェアチャイルドを委員長とする国際連合のガンプラファイター代表団は、19××年8月30日、その名にニューヨークの遺恨を示す専用航空機に乗って、日本の土を踏んだ。
最高委員会の使命は、GPデュエルで失墜した日本の信用を回復させ、また新たなガンプラの国にすることにあった。
日本主導のGPデュエル交戦条約の改定。
ガンプラを使った犯罪行為の殲滅および遊戯の自由のあらゆる束縛の廃止。
これらの政策は現存の日本政府機構を利用する間接統治の形で実施された。欺瞞のアメリカ大会で日本人の信頼が、精神的に困窮の極みにあったのとあいまって、彼らの施策は砂漠に降る慈雨のごとく、受け入れた。
多くの日本人ガンプラファイターの予想に反して―もしくは一部のインテリ層が予想した通り―、アメリカのガンプラファイターたちは概して紳士的で、先進的だった。
サングラスにカーキ色の軍服を着たダグラスは、ガンプラの現人神からただの人間になり得た日本の委員長に代わり、日本ガンプラファイターたちの〝父〟になりえた。それは以後の日米関係を象徴するパラダイムシフトであり、のちにダグラスにして、「ぬるま湯につかったまま」と言わしめるに至る、純朴に過ぎる国民性の発露に違いなかったが、当のダグラスの心中は決して穏やかなものではなかったろう。日本のGPデュエルを安定化させるという大目的の一方で、彼にはもうひとつ心を捕らえて離さなかったものがあった。
消えたニューヨーク財宝の行方がそれだ。
GPデュエルアメリカ委員会は、ガンプラ部門を司る製造部と、運営を司る運営部からなり、このうち情報担当の運営第2部が財宝の行方を探る目の役割を果たした。財宝を日本に移送する作戦の指揮を執ったと目される現地のガンプラファイターたち、今は死刑宣告を待つばかりの〝猛将〟たちは、財宝の持ち出しに携わっただけでその行方を知らない。アメリカでダグラスと共にガンプラバトルで徹底抗戦したアメリカン・サムライのひとり。カロッゾ・ウィロビーは、ダグラスの特命を受け、秘密諜報部隊に財宝の捜索を行わせた。
捜索は日本のガンプラファイターたちが国内に分散隠匿した隠退蔵物資の摘発と同時で進められ、ほどなく政府巨大銀行にしまい込まれた大量の金塊が明らかになった。
1部が加工され、支援物資のパッケージに偽装されてはいるものの、アメリカから持ち出された財宝であることは間違いない。ただし、その量は全体の半分程度。残り半分の行方を追ったカロッゾは、やがて耳にする。
東京湾の海底で、剥き出しの金塊が複数発見されたというのだ。
さっそく回収の算段を整えられたが、引き揚げられた量は1トンに満たず、まるで〝見せ金〟のように残された泥まみれの金塊たちにカロッゾは苛立った。撤退のどさくさに持ち出された600トンもの金塊。自衛隊が言う所の『A金貨』は何処へ――。引き続きカロッゾに捜索を行わせている傍ら、ダグラスは回収した分の金塊を日本国外に持ち出す手段を模索した。
ニューヨーク財宝が公にできない性格のものである限り、たとえダグラスアメリカ委員会でも所有権はできない。自衛隊の皮をかぶっている以上、その所有権は日本政府にあり、売却して民間に払い下げるなり、欺瞞の大会の賠償費に充てるなり、あくまで日本の資産として処分する必要がある。ダグラスが勝手にできる道理はなかったが、当時の日本は、地下ファンディングを代表される隠微な流通が公然と行われていた暗黒の時代だった。この〝地下〟にくぐらせて、公的資産を吸い上げてしまう方法はいくらでもあった。
たとえば、自衛隊は新兵器用の軍需資材として各国から工業用ダイヤを買い付け、その数を60万カラットまでにも増やしていったが、委員会が接収できたのは30万カラット弱。このうち、略奪品であることが明らかなものは、アメリカに返還され、最終的に日本政府に戻されたダイヤは16万カラットに過ぎなかった。
すなわち、公的に返還されたものを除く数十万カラット分のダイヤが〝消えた〟わけだが、これはダイヤに限った話ではなかった。GPデュエルシステム用の部品などを含む機械資産、いわゆる隠退蔵物質の大半が、年月のどさくさに紛れて政府首脳から民間に流出し、地下ネットワークで売りさばかれている事実は公然の秘密だった。
特にGPデュエル用のエネルギー、マザーボードなどのパーツなどの電子部品は、ブローカーを通じて市価に出せば10倍から50倍の利益が得られる。金をポケットに入れて黙認する委員会に利得の大半に吸い上げられてもなお、旧財閥や成金商を潤すのに十分な利益があり、日本はすなわち地下ネットワーク社会だった。地下との関わりとの関わりを拒み、粗悪なパーツでのみのガンプラバトルが続き、スポンサーから見放されたファイターが後を絶たなかったという報道記録が、当時の現実を物語っている。
またこれら消えた隠退蔵物資がさらなるスポンサーを太らせる結果となり、のちの親米についた玩具企業の礎になったという話もある。
権威を振るうスポンサーと商人の癒着。
暴力団と癒着したスポンサーが始める、闇ガンプラバトルの基礎は、すべてこの時期に完成ができたと言ってもいい。そして、過去日本のこの黒い流れには、アメリカの関与というもうひとつの底流が密接に関与していた。
日本を舞台とした代理戦争は、テロ組織の台頭から始まっている。アメリカ大会のあと、イギリス世界大会が開かれたのは、満州を欲していたため。少しでも領土に食い込んでいたいため。
アメリカが新型パーツを装着したガンプラを独自で開発したのは、国力の差というデモンストレーションがしたいため。
世界各国に囲まれた極東の島国は、その地政学上の観点から太平洋の要石であり、望むと望まざるとにかかわらず、世界情勢の行方を左右するポジションにある。これの赤化を防ぎ、反社の防波堤を仕立てられるか否かは、GPデュエルの復興や、解放を優先する委員会の最重要課題だった。
かつてのクラッキング犯が釈放され、紛争を推進した旧日本政治家が裁判で裁かれる一方で、委員会の秘密機関が暗躍し、ガンプラ実力主義の芽をひとつずつ花開かせてゆく。その活動は日本を足掛かりにしてアジア全域にまで広がり、反実力主義と結びついた密貿易、闇金操作の収益は国内に潮流して「アメリカの傘の下で復興を図るのがガンプラバトル100年の計」と断じた保守政党、闇商人の懐に流れ込む。
国内において治外法権的な地位を保証されたアメリカ系企業もこれに加担し、特にマーケット・オブ・アメリカは「アメリカ闇ネットワーク」とも揶揄された。
莫大なネットワークの力を持ちながら、外国企業の力では、工作資金を蓄積するのはもちろん、クラウドファンディングで集められた闇換金するのは間違いではない。こうした闇の金を操作して得た収益はマーケット・オブ・アメリカがアジアに進出するための資金であり、後に創設されるアメリカ諜報機関を一手に管理する役目を勝ち取っていったのだ……と、その資金工作の渦中にいた主……父、ドレル・中村は語ったことがある。
もはやどこまでが闇で、どこからが公的な資金なのか誰にもわからない。
出自の怪しい裏金が〝反社〟のレッテルを貼られ、ガンプラ遊戯にあえぐ日本の足元を音も立てずに回遊する。それが林立する闇ガンプラバトルに覆われた日本の姿であり、貧困たる日本の魑魅魍魎を育んだ地下ネットワークのありようということだった。
この頃の話になると父が饒舌になったのも、引き裂かれた精神には当時の心地よかったからだろう。昨日までガンプラバトルを指導する立場にあった者が、今日はアメリカにすりより、反共を唱えては委員会のおこぼれに与っている。
アメリカ打倒を念仏にしていたガンプラファイターたちが、ガンプラ・ファイトと叫んで、アメリカ選手を追い回す子供たちを黙認している。上から下まで行き渡った国ぐるみの不実を前に、個人の不実がいかほどの意味を持つものか。委員会は、「日本のガンプラバトル水準は、かつて日本が蹂躙したアジア諸国を超えてはならない」と規定した。
非共産化を押しつけ、矮小なガンプラ小国に押し戻そうとする勝者の傲慢と、それにすりより共通の利害を見出しては私腹を肥やす――彼らには「ガンプラ国家100の計」なのだろうが――。
勝者の卑屈。
狡猾。
理念の公私も区別。
それらもなく、必死にならなければ生き残れない事実のみがあった当時の日本ガンプラファイターたちを、ドレル・中村という人間の写し絵であったのかもしれない。
日本とアメリカ。
ふたつの祖国のどちらにも居場所を見つけられず、不実であることに安息を求めた哀れな男の。
他方、その頃の呂名哲郎の動向についてあまり情報が多くない。父が話したがらなかったせいもあるが、詳細については彼も知らなかったというのが本当のところだろう。『A金貨』隠匿の際に軍に残る自分の資料をすべて破棄し、幾人かの口を封じてでも委員会の捜査上から逃れた男が、不実な道化を自認するドレル・中村を本気で信用していたとも限らない。複数の筋からの情報を統合すると、大会からしばらくの間、呂名哲郎は、IT関連会社に職を得ていたらしい。
その会社はGPデュエルのプログラム開発にも関わった国策会社で、以前は大陸における諜報活動の拠点になっていたそうだから、背景に陸自学校の人脈があったことは想像に難くないが、興味深いのはその間の彼の行動だ。
『A金貨』に関する交渉を委員会に持ちかけるまで、呂名哲郎はドレル・中村率いる諜報機関の下請けとなり、闇ガンプラバトルを始めとするさまざまな謀議に間接的に協力。ひとつ間違えば追われる身でありながら、委員会の暗部に進んで立ち入り、彼らの内情と手口をつぶさに観察していなかった。
ガンプラバトル大国日本の大命題を掲げる一方、プログラム開発を始めとするIT土方の労働争議に裏から介入し、活動家はもちろん、反対派の経営者をも闇から闇へと葬ってゆく手口。渦巻く金は、すべて日本政府に食わせ、後に親米政権を支配の構図。
その全てが、呂名哲郎にとっては『A金貨』システムの構築するための学習となり、十数年後の今日、子孫を介して噴き出した〝システム〟に対する敵意を育んでいったのだろう。
当時の呂名哲郎を捉えた数少ない写真のなかに、父と2人でうつっているものがある。場所は日比谷、皇居の堀に面して建つビルの前。当時、委員会の本部であった白亜の建物を背に、2人でのどかに撮っているのだから、おそらく委員会との交渉窓口が開いたあとに違いない。アメリカの制服姿にサングラスをかけ、ダグラスを気取ってみせる父の傍らで、くたびれた背広を着た呂名哲郎はにこりと見せず、厳しい眼差しをカメラのレンズに捉えていた。単なる緊張とは異なる、巨大な敵を背後にした者の張り詰めた表情――そういえば、あのモノクロの写真は現在の呂名英一によく似ている。
後年、孫たる英一がその雌伏の日々を真似したように、呂名哲郎は委員会の裏仕事に身をやつし、計画を進める機会が訪れるのを辛抱強く待ち続けた。
その時はアメリカ大会から2年たった暮れの日に訪れた。