渋谷は快晴だった。林立するビルと絶え間ない人波に視界を塞がれ、空があることを忘れさせる都内有数の繁華街も、駅前の交差点に立つと奇妙に広い展望が得られる。背後にはQFRONTビル、信号を渡った先にハチ公前広場を望んで見上げる空は、車の排気でぼんやり霞みつつも、目に染みるほど青く、吸い込まれそうなほどに広い。午後の柔らかな日差しが、もう何日も陽を浴びていなかった頬を温め、骨の芯まで伝えてゆくのを感じられる。
何日ぶりだろう?
頭の中で指折り数えた福田輝義は、予想外に短いその日数に少し愕然とした。
韓国の小さな港で、事前に渡りをつけておいたコンテナ船に乗り込む直前、現地公館から派遣された〝対策室〟の局員に取り押さえられたのが月曜の早朝。そのまま日本に連れ戻され、〝対策室〟本部の地下室で一昼夜にわたる取り調べを受けた後、〝財団〟本部に移送されて呂名信彦理事長とマイケル・プログマンに対面した。
それが水曜だ。
今日は木曜だから、捕まってから解放されるまで三日と少ししか経っていない。にもかかわらず、もう一カ月も拘束されたような気分になり、陽の光に無上の喜びを感じているとは。
つくづく神経が細いな……と呆れるうちに、信号が青になった。せき止められていた人波が一斉に交差点を渡り始めた。
つられて歩き出した福田は渋谷駅に直結する白い百貨店ビルと、その手前にある交番の両方を視界に入れ、歩道の縁石を踏みかけた足をふと止めた。
このまま交番に飛び込み、助けを求める自分を夢想してみる。
今なら、どこかに張りついている監視の人間にも静止の暇はあるまい。GBN運営の身分証を見せれば、警官もとりあえず話を聞き、形だけでも保護の真似事はしてくれるだろう。
まずは最寄りの所轄署に移送され、弁護士を手配し、マスコミも集めて……と妄想を繋げたところで、まったく現実的ではない考えに福田は苦笑した。
そこらの暴力団ならともかく、相手は一国を偽情報で封殺できる力の持ち主だ。
おそらく。精神病患者にでも仕立て上げられる。人格も、経歴もずたずたに。そして恥だけがさらされる結果となる。
そして……すっかり事態が鎮静化するのを待って、あらためて死神がやってくる。
たとえ警察署に逃げ込んでも、彼らはほんの少しの隙をついて死の種をこの身に植え付ける。どんな手段が用いられるにせよ、その時は家族も巻き添えに――。
では、その家族の元に帰り、家から一歩も出ないと言うのはどうか。駅に行って、電車に乗ればそれが叶う。タクシーを拾ったってかまわないが、結果は死期をいくらか引き延ばすだけのことだろう。
自宅はすでに厳重な監視下にある。
よしんば帰りつけたとしても、家じゅうの人間がこれから引きこもり続けるわけにはいかない。
長男は就職したばかり。娘はまだ学生だ。
彼らが人質に取られ、結局は同じことになるなら、怖い思いをさせるだけ無駄と言うことになる。
すぐにでも声を聞きたい胸中を押し殺し、いまだ家族に電話をかけずにいるのは、その危惧が福田の中にあるからだった。
せめてひと声だけでも。
そう思わないでもないが、妻子の声を聞いてしまったら平静でいられる自信がない。不審を抱いた家族が自分の死の不自然さに気づき、事態に首を突っ込むようなことになったら……それだけは絶対に避けねばならない。
唐突に〝財団〟本部ビルから放り出され、人生の残務をこなすために方々を歩き回って半日あまり。許されたと言う冗談がない以上、監視の目を一時的に出し抜いたところでどうにもならない。わずかに余命を引き延ばすだけのことで、その代償はあまりにも大きい。
結局、独りその時を待つしかないと結論して、福田は赤になった信号を見つめた。あっという間に信号待ちの人波が周囲に溜まり、ひっきりなしに往来する車が廃棄混じりの風を吹きかけにくる。
頭上で騒ぎ立てる街頭ビジョンの音。
そこここで鳴る携帯の着信音。
慣れ親しんだ街の喧噪に身を浸しながら、傍目には惚けて見えるだろう目を広い空へと転じた。
呂名英一と組んで事を起こすと決めた時から、こういう日が来ることは覚悟していた。子供たちは一人前に育ってくれたし、妻にも生涯困らないだけの資産は残してある。
今日、〝財団〟を出た足で複数の銀行を回ってきたのは、それら資産を家族の名義に振り分け、相続で面倒が起きないようにするためだった。その場で始末すればいいものを、一時的にせよ自分を解放したのは、そのための猶予を与えんとした正彦伯父の温情……いや、マイケルとの間に流れていた隠微な力関係を見れば、マイケルが遠慮した結果と言った方が正確か。
どちらであれ、形だけでも自由になれたなら、やるべきことはごまんとある。
銀行を回りながら電話をかけ、メールを送り、半日かけて人生の残務整理を終えた福田は、いまは虚脱気味の顔を渋谷の雑踏に漂わせている身だった。
おかげでGBN運営の部下に仕掛かり中の案件を伝え、次にやるべきだった引継ぎを済ませることもできた。
社会人として。
父親として。
夫として。
それぞれ、最低限の役目は果たせたと信じられるのなら、進んで死刑台に立った無謀な行為も少しはなくすことができる。
それだけではない。
殊勝に死に支度をする一方で、事態に〝逆転の目〟を残せたという確信も福田にはあった。
これで終わりではない。逆転のチャンスはまだ残されている。
恐ろしい綱渡りになるだろうが、〝あいつら〟なら必ずそれを有効にしたがってくれる。
この先、ELダイバーたちを救えるきっかけを残せたという信じる心があれば、じきに訪れる死神とも恐れずに対せる。せいぜい奴らの迂闊さを嗤ってやろうではないか。
福田は無意識に胸に手をやり、懐に収めた〝逆転の目〟を上着越しに握りしめた。
正直、看過されるとは思っていなかった。十中八九、無駄な行為になると覚悟しつつも、昨日、ほとんど偶然の経緯でそれを手にした時から、福田は意識してマイケルに議論を吹っ掛け、必要なものを手に入れることにのみ専念した。〝財団〟を出るまでは身の縮む思いだったが、正彦伯父とマイケルはその可能性を完全に失念してくれたらしい。今さら気づいたとしても、もう遅い。この中にあるものはすでに飛び立っていった。いまどこでなにをしているにせよ、その意味を気づかぬ『あいつら』ではないはずだ。
もう思い残すことはなく、この空疎な雑音に身を浸している必要もない。家に帰るのは無理にしても、どこでも好きなところにいけばいい。十何年も人間をやっていれば、家族と出かけた行楽地やら、若いころにデートした店やら、朴念仁にも思い出の地は一つや二つはある。
この渋谷にだって思い出はあるが、当時と今とでは様相が違うし、昔からあまり好きな街ではない。数十年前は、堅苦しい社会に組み込まれる前の猶予期間を過ごす若者の街。
今は将来という言葉を端から持てず、昨日今日の幸せに望みを託すよりない老いた若者たちが集う街。
普段なら用でもない限り近づかない場所なのに、いまは何故だか立ち去る気にならない。その喧噪を肌身に取り込み、無性にありがたいと感じている自分がいる。
買ってくれ。
観に来てくれ。
そう物乞いのごとくわめき立てる街頭ビジョンの広告も。
もはや学芸会レベルでさえないアイドルグループの合唱も。
ハエのような雑踏を飛びかうキャッチの男。
彼らに声をかけられるのを待っている女たちの下卑た笑い声。
それが今はどうしようもなく貴重なものに感じられる。
末期に立った男の達観――そんなものではない。結局ひとりが怖いのだ。誰でもいい。自分がここにいたということを知ってもらいたい。無縁な他人たちであってもかまわないから、自分の最後を見届けてほしい。
そういったヤワな神経は、つまるところ凡人の域を出るものではなく、呂名の血族としては線の細い我が身を福田に思い出された。
昔からそうだった。
人見知りで、引っ込み事案で、取り柄と言ったらガンプラバトルくらいの……臆病な子供。それでは魑魅魍魎がばっこする呂名家の人脈には生きてゆけず、自発的に武道を学び、それを反映させたガンプラバトルで腕を鳴らし、努めて豪放な単純漢を演じてきたが、生来のものでなければどこか無理が生じる。
正彦は……何年前、この自分が見殺しにした英一の兄は、そんな自分を気づいていた節があった。
ふと思い、福田は見知らぬ人波の中に亡き幼なじみの顔を探した。
見た目は自分よりずっと優男なのに、負けん気が強く、何者にも屈せぬ意気をその内を秘めていた信彦。
それゆえに〝システム〟に立ち向かい、自壊していった呂名家の長男は、福田の根っこを見抜いていながら口には出さず、敢えてガンダムベースに誘い出しては、力量を試すような真似をよくしたものだった。
伊豆の別荘からしばらく歩いたところにあった岩壁に飛び移る距離を競い合い、あわや転落しそうになってみたり。少し長じてからは不良の溜まり場のようなガンダムベースに乗り込み、ガンプラバトルの実力を見せつけたがゆえに、負けた不良の怒りを買い、結局は大立ち回りを演じてみて、それゆえに警察の厄介になってみたり、臆病な自分を変えるために大口を叩くと、実証しろとばかりに難題をふっかけてくる正彦は、しかし意地悪でそうしているわけではなかったし、福田も退くに退けずに嫌々つきあっていたのではなかった。
最初は怖いと思えたことも、勇気をもって踏み出せば意外となんでもやれてしまう。同じ人間がやれることなら、自分にもできない通りはない。
そうして知らず知らず修練を積む中で、福田には〝なりたい自分〟に少しずつ近づいてゆく実感があり、正彦もそれを見越したうえで無茶な誘い続けていた気がする。今にして思えば、あれは将来のパートナーを選び出す正彦流のテストであったのかもしれない。
以後、一生続く戦いに――〝システム〟という巨大な敵との戦いに備えるために。
あいつは、いつからこの途方もない戦いを決意していたのだろう?
無縁な人波の中に正彦の顔は見つけられず、福田は再び渋谷交差点の霞んだ青空を見上げた。先んじて〝システム〟に挑んで敗北した叔父、博司が死んだときあたりか?
その喪失を嘆き、あの巌のような呂名哲郎が涙を流すのを見た時からか?
バカな者たちと世界中から叩かれこそ、当時の日本にはまだガンプラの暴走が現実化する兆しはなかった。十年、二十年先を読むおまえの思考についてゆけず、俺はその手を振り払ってしまったというのに。生来の臆病風に吹かれ、パートナーと目した男にまで裏切られながら、おまえはなぜ独りで……。
答は、なかった。
いまさら聞く必要もない……そう思い、福田はしばし目を閉じた。
わかっている。
あの伊豆の別荘で呂名哲郎の言葉を聞いた時から、お前の運命は決まっていた。
二十数年の間を空けて、俺もいま同じ道を歩んでいる。
俺も。
お前も。
そして、英一も。
あの夏の暑い日に宗主から洗礼を受け、彼の語る〝次の戦争〟に駆り立てられたのだ。口中に呟いた途端、周囲の喧騒が急にかき消え、福田は十数年前の夏に引き戻されていた。
そう、あれは伊豆の別荘で――。