ガンダムビルドダイバーズ 〝A〟   作:ジ ュ ン

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第五十七話

 最後に像を結んだのは、青々とした芝生を前景にそびえる白亜の別荘だった。

 いまだ、新興の別荘地として売り出し中だった伊豆高原にあって、規模も景観も一等地抜きんでていた呂名家の別荘。省エネやエコといった言葉が世間を回っていたその世相にあって、鉄筋とコンクリートをこれでもかとつぎ込んで建てられた頑健な邸宅は、その豪壮さで万人の目を引きつけた。その一方、どこか人を寄せつけぬ冷たさを感じずにはおかなかった。

 日本のガンプラバトルを陰から支えてきた〝財団〟の宗主、呂名哲郎が対の住処とするのにふさわしい佇まいと言えたが、それは新元号に入って以降の話だ。少なくとも19××年ごろに至る時期、呂名哲郎とその子供たちに〝終〟が忍び寄る気配は微塵もなく、高度成長に沸く日本の高揚を引き写したかのような輝きが伊豆の別荘を取り巻いていた。なにしろ伊豆高原の開発自体、〝財団〟の人脈と資金抜きにしては語れないものだったのだから、そのお大尽振りも知れようと言うものだ。

 お盆休みの数日間、その別荘には入れ替わり立ち替わり五百人あまりの人が訪れ、広大な庭はほぼ一日中宴席の場と化す。

 酒屋から毎朝トラックで運び込まれるビールケースの山。

 土地の漁師たちがてんでに売り込みにくる新鮮な海産物。

 業務用の冷蔵庫ごと貸し切られ、次から次へと出てくるバーベキュー用の肉。

 その間はホテルから派遣された給仕が人垣を縫って庭を行き来し、近所の主婦たちまでが賄いに動員されて、朝から晩まで人の声が絶えることはない。

 もとは親類縁者の集まりでしかなかった会が、知り合いの知り合いを手繰るうちに倍々ゲームで膨れ上がり、いつしか〝財団〟の運営に欠かせない年中行事になっていった。各々に日本GBNの重要点に配置され、膨れ上がった人脈を築いていた呂名一族の栄華を象徴する光景ではあるが、当の呂名哲郎はどんな思いで別荘に群がる有象無象を見つめていただろう? とまれ、福田が物心ついた時にはそこはすでに見知らぬ大人たちが名刺を交換し合い、酒を酌み交わす巨大な社交場だった。

 知り合いの知り合い同士が結びつき、互いの人脈を強固にするだけではない。GBNのや政治などのどれをとっても、エリートコースに乗ったからには地方回りが付きものになり、同じ派閥に属していてもおいそれと会うことができなくなる。

 それぞれが合わせる伊豆の集まりは、情報交換や懸案のにも最適の場で、福田家に嫁いだ呂名哲郎の長女、すなわち福田のの母である薫も、夫の実家を差し置いて必ず集まりに参加していたものだった。いや、むしろ積極的だったのは、当時は政府に努めていた父のほうだったかもしれない。山ほどの懸案事項と名詞の束を抱え、別荘に着くなり頭を下げて回る父の姿は、およそ帰省や行楽という言葉からは遠かった。母も似たりよったりで、伊豆の向かう、車中でのやりとりからしてこんな具合だ。

 ……今年は運営の伊藤さん、くるんだよな?

 あの人に間に入ってもらわないと、来年のGBNの概算要求がめちゃくちゃになるぞ。

 来るでしょ。〝対策室〟の小林さんが引っ張ってくるんだから。

 それより博司よ。踊りのお師匠さんに文武大臣を紹介するって約束だたのに、あいつったらまたほっぽりだして。これじゃ私の面子が立たないわ……。

 屋外に並べられた山海の珍味を盛られ、バーベキューの香ばしい匂いが漂うのをよそに、大人たちは名刺交換に飛び回り、込み入った話になるとガンプラを片手にGPデュエル装置に駆け込んでゆく。御馳走で腹が膨れてしまえば、子供には退屈極まりない真夏の宴だったが楽しみがなかったわけではない。

 将来を嘱望された大手芸能事務所の女優でありながら、結婚を機にすっぱりと芸能界から身をひいた瀬奈伯母。引退後も多くの芸能関係者が彼女のもとを訪れたのは、その飾らぬ人柄に慕われてのことか、背後にある〝財団〟のコネと資金力にあてられてのことか。

 事情はともかく、芸能界のトップスターやガンプラファイターらが一同に会し、グラスを片手に談笑する姿は壮観の一語で、政治家やら役人やら企業の役員やら、押しなべて灰色に見える大人たちの中でひときわ輝きを放っていたことは間違いなかった。テレビで見るより小さいのねぇなどと言いつつ、母は二枚目俳優の所作に目が釘付けだったし、仕事一途を絵に描いたような父も、売れっ子の女性歌手から酌を受けた時にはだらしない様子を見せていた。彼らを引き連れて灰色の大人たちの中を歩き回り、次のCМはこう、今度の映画がこう、と売り込みをかける芸能事務所社長の姿は、その眩しさに隠れて視界にも入らない。

 何より驚いたのは。

 彼ら芸能人たちと談笑する瀬奈伯母が遜色なく輝いて見えることだった。

 元大物女優の呂名家の嫁入りは、当時の〝財団〟関係者に少なからず衝撃をもって受け止められた。あの呂名哲郎も婚約の報告を受けた時にはつかの間絶句し、「これで闇まみれの呂名家も明るくなる」と笑ったそうだが、さもありなんと思える眩しさだった。

 実際、瀬奈が嫁いだことで、目白の陰御殿とあだなされた本家の空気はがらりと変わり、訪問者の数も倍増したというのだから、これは元スターという経歴だけでは説明がつかない。

 もって生まれた瀬奈の才覚だろう。

 奇しくも同年に生まれた長男の正彦を訪ね、福田も何度となく目白の呂名邸に足を運んだが、思春期の頃はまともにその顔を見られなかったと記憶する。

 こんな綺麗な女性がなぜ正彦伯父のもとに――呂名家の中でもいっそう陰にこもった、生真面目という以外に取り柄のない男に嫁ぐ気になったのか。一度、いっしょにガンプラを作っている時に、思いきって聞いてみると、「あの人も、あれで結構かわいいところがあるのよ」という答えが帰ってきて、中学生の福田はまた寝苦しい夜を過ごす羽目になったのだった。

 そんな瀬奈の明るさが、この時期の呂名家と日本を象徴していたと言ってもかごんではない。19××年後半のに勃発したアジアのガンプラ大会は、GBNサービス開始以来、蓄積されてきた世界の腐敗ガスが最初に見つけた

捌け口だったが、一方で日本にネットワーク特需を生み出し、高度経済の階段を駆け上がる原動力となった。『もはや欺瞞の国ではない』という言葉に背中を押され、働けば働くほど、ガンプラバトルを行えば行うほど、暮らしが善くなると実感できたあの頃。

 所得倍増計画。

 リニアモーターカー完成。

 東京ガンプラファイト開催。

 景気のいいフレーズで国中が沸き返り、工事現場の騒音さえも未来が呼び込む希望の音色に聞こえた。あの頃が日本の青春であったという感傷は、過去への郷愁を差し引いても揺らぎはしない。

 多くの青春がそうであるように。

 今がその時であるという自覚すらなく。

 いつか終わりがくると思いもしなかった日々。

 あの頃は成長に限界があるとは思いもしなかった。行くところまで行けば、日々発達する科学が新しい展望を示してくれると無邪気に考えられた。

 世界ガンプラ大会を中止に追い込むほどを迎えた全面戦争。

 二つの小国と大国がぶつかり合った紛争。

 公害問題。

 周囲を見渡せばいくらでも転がっていた闇はろくに目に入れず、反社の隆盛と衰退さえ時代の風物と受け流して、豊かな未来という幻想に国ぐるみで浸っていればそれでよかったのだ。

 が。

 そんな輝きに満ちた時代の裏側で、〝財団〟は年を重ねるたびに規模を拡大させ、『A金貨』も高度成長を支える裏金として日本経済の根幹にも着々と浸透しつつあった。煎じ詰めればアメリカへの窓口へとなり、彼らの〝システム〟の中で『A金貨』――『アファーマティブ・システム』を護らんとする呂名哲郎の大望は、必然的に巨大な資本を孕み、あのニューヨーク資金の時から変わらぬ、アメリカ大会時から変わらぬひとかたまりの闇を輝き続ける日々にも落とし続けたと言える。

 瀬奈の明るさをもってしても祓いきれず、ついにはその半身を不随に至らせる色濃い闇は、振り返ればあの真夏の宴にもところどころ顔を覗かせていた。

 塾生。

 そう呼ばれる七、八人の勇ましげな青年らに囲まれ、紋付き袴の巨躯を日傘付きテーブルに落ち着けている壮年の男性。

 灰色の大人たちに紛れ、如才なく社交辞令をこなしつつも、その壮年男性や呂名哲郎と話す時には猛禽類の鋭さを目に覗かせる背広の男。

 宴に混ざっているようで、混ざっていない。昼間でもどこか夜の匂いを漂わせる男たちは、ふと気がつくと屋内に引っ込んで密談をしていたり、煙のように消えたりしている。

 反社の大立て者。

 大手商社の役員。

 果てには、関東一帯をとりしきるヤクザの大親分と……。

 出自も肩書もも因縁浅からぬ関係にあったらしい。

 ある者は戦犯としてアメリカの収容所に。

 ある者はシベリアに抑留し、捕虜として。

 彼らの〝戦線復帰〟は、19××年の末期であったらしい。

 中には大陸から引き揚げる際に、自衛隊の資産を持ち出し、裏社会へばらまいて財を成した者もいるが、自衛隊出身者の多くは、下をうつむいていた日本で、あるいはシベリアの極寒地獄で、仕える国を失くしてきた士官を失くしてきた哀しみを体にしみ込ませてきた者たちだ。

 傍目には同類と見なされる少数の成り上がり者を内心毛嫌いする一方、呂名哲郎は行き場をなくした多数の兵たちには同情をよせており、〝財団〟の周辺企業に職を斡旋した他、参謀先の幾人かには大手商社への働き口を紹介してきた。

 生来、利発で語学も堪能な自衛隊参謀ならば、海外とのGBN進出での取引でその力を発揮することができる。スポンサー企業側もそういう人材を集めていた事情もあって、哲郎の感知しないところでも自衛隊参謀の採用は積極的に進んだ。そしてビジネスという新たな戦場を与えられた彼らは、かつての軍略を企業戦略に応用するのをためらわなかった。

 たとえば、GBNへの進出ビジネス。

 インドネシア、ジャカルタ、韓国などへのGBNテストサービス開始問題は、毎年数百万ドル相当の金を支払うことで決済したが、これらは現物による支払いが条件とされた。

 つまり。

 相手政府が必要な物資などを日本企業に注文。その代金の支払いは日本政府やGBNスポンサーが保証する。

 日本にとっては、これほど旨味のある商売ができるわけで、各商社はその巨額利権をめぐって争奪戦を繰り広げたが、この戦いを先導したのが元参謀らの自衛隊のコネクションだった。

 かつてのアメリカに派遣されていた兵たちは、現地政府の間に人的繋がりをもっている。彼らが現地に赴き、当該政府高官を相手にリベートの交渉をし、商社の言い値で賠償品となる現物を納入する。

 そのような手腕を持ち、ある者は自ら貿易商へ。

 ある者は、利権弁護士へ。

 ある者はGBNの条約委員会へ。

 そうして日本復興の一翼を担う様になった。

 ビジネスという〝任務〟に挺身する彼らの行動力は縛るものはなく、相手国の高官らもリベートを運んでくる者の過去を詮索はしなかった。哀しみも怨念も置き去りにしたまま、日本のGBNのアジア進出の足掛かりとなり、双方の政財界にも潤す結果となっていった。

 のちにGBN利権事件に繋がる次期アップデート内容選定疑獄も、GBNスタッフになった自衛隊参謀の暗躍を無しにしては語れない。GBNアップデートに際し、初めてのアップデートを開始する区画は、ヨーロッパかアジアか。

 それぞれを後押しする日本の商社間で激しいリベート合戦が繰り広げられ、その波はGBNの上層部から政界にまで及んだ。たがいに相手が押す区画の弱点をつかもうと、スパイ戦まで起き、巻き込まれた役員が自殺する騒動まで発展した。

 これらはすべて〝戦果〟を〝売上〟と言い変え、ビジネスに軍略を持ち込んだ自衛隊らが引き起こした混乱だった。スポンサー会社を使って、裏資金ルートを作り、仕事の後始末を糸口に相手国への経済進出を果たすやり方は、フェアチャイルド財閥に連なる企業群がアメリカ大会後の日本にけしかけたやり方の模倣とも言える。

 こうやって戦う事しか教えられてこなかった彼らには、そうする以外に生きる術がなかったという言い方はあろう。が、彼らのうちの幾人かは、ニューヨーク財宝の存在を知っている。その魔性の金が日本を金の虫へと変え、いままた日本経済をそれが支配していることを知っている。

 彼らの任務はまだ続いているのだ、と呂名哲郎はいつか漏らしたことがある。

 アメリカの支配を押し退けるには、彼と同じように金を手に入れ、国力を増強するしかない。そう考え、同じ土俵へと立って、無惨に寄り切られた結果からなにひとつ学ぶことはなく、彼らもまたしても愚直に日本をまもろうとしているのだ、と。

 そうではなく、資金戦争を生じさせる人間の本性と向き合い、自由主義の中に止揚してゆく道を探ることこそ日本にかせられた〝贖罪〟であるはずだ……という思いは思いでしかなく、『A金貨』の宗主として、そうした経済闘争も滋養にして地力を蓄えねばならなかったのが呂名哲郎の立場だったのだろう。事実、かのような〝戦線復帰〟が常態化するなかで、彼は旧自衛隊学校に連なる人材を呼びかけ、〝対策室〟の原型となる情報機関の創設に着手していった。

 今後、世界の紛争が激化していった時、最前線へと自衛隊派遣をせざるをえなぃ日本が、GBNの権益を維持するのは難しい。国会には、各国の利権代表しかおらず、警察機構は保守路線の延長上に終始するのであれば、国際的に見て日本の諜報能力は大きく後れを取ってしまう。

 これは『A金貨』の秘密保持にとっても由々しき問題である、と詭弁すれすれの論理を受けいれ、公職追放で下野した士官らの復職に手を貸したアレックス・マーカスーー『A金貨』の一方の管理人は、どこかで呂名哲郎の真意を見抜き、敢えて看過していたのかもしれない。

 ニューヨーク財宝の奪還に固執したダグラスは、『A金貨』システムの先見性に思い至れなかったばかりか、情勢を読み違えて後手に回った。

 流行語にもなった『ミステイク』の結果、日本を護るために急きょアメリカ軍の代わりを組織し、発布まもない平和憲法を自ら反故にする行き当たりばったりは、日本人を『ぬるま湯につかりすぎている』と断じた大国の発言に対して粗末がすぎる。

 ガンプラ実力主義の構造を施行するための実験国。だったはずなのだが、真実、それ以外の何者でもない日本の状況を痛感した時、少なくとも呂名哲郎という日本人を知るアレックス・マーカスには、自国の冷徹さと傲慢さに辟易する部分があったのではないか。しかもそれはアメリカという民主主義国家とする総意ではなく、フェアチャイルド財閥という、富者の思惟でしかないのだ。

 そうした思いを内に秘めたまま、末娘の婚姻を通してフェアチャイルド一族と親戚関係を結び、子孫に『A金貨』間の仕事を託していったアレックス・マーカス。

 この推測が正しければ、その直系であるウィリアム・マーカスの鬱屈ぶりもの買いできるというものだが、それまだ先の話である。

 企業家に転身した兵たちらの群略のが生産から破壊に転じ、ガンプラチック・アニマルという誹謗や、環境問題を表出させるのもまだ先のことで、とにかくあの一時期、高度成長時代の夢を具現したかのような輝きが伊豆の別荘にあった。

 それぞれ成人した子供らと孫に囲まれ、表面上は人並み以上の幸福を得たように見える呂名哲郎に見守られながら、福田と正彦は子犬よろしく広い庭を駆け、GBNにはまっていったのだった。

 小学生になるとその行動範囲は広がり、周囲の山々と海の全てが二人の遊び場になった。昆虫採集、魚釣り、段ボールを持ち寄っての秘密基地造り。

 すでに都内ではオンラインゲームくらいしか遊ぶことが難しくなっていたので、造成途中の伊豆高原はまったく不自由しなかった。新しい遊びに誘ってくるのはいつも正彦の方で、魚はもちろん、釣りえさのミミズやゴカイさえ触ったことのない福田は、内心は悲鳴をあげながら付き合っていたのだったが、見くびられたくないという意地は、これ以上に強く、可能な限り数々の初体験を臨んだ。

 いずれもやってみればどうということもなく、びびっていた自分が可笑しくなっていたこととはいえ、高い木によじ登ったり、遊泳禁止の岩場で手足を切り傷だらけにしたり、いま思うと冷や汗だったことも多い。

 フクちゃんはすごいよ、バカじゃないのに怖いことやれるもんな。

 そんな言葉に乗せられ、以後、学生時代まで続くさまざまなテストに挑戦させられたが、あいつはどこまで自分という人間の質を見抜いていたのだろう?

 その独特の言葉遣いといい、目白の陰御殿で祖父母と一緒に同居していた正彦には、福田以上に強く呂名哲郎の教えを受けるところがあったのは間違いない。

 恐れを知らぬ者は愚か。

 怖れを知ってなお奮い立たせるのが本当の勇気。

 友にするなら、勇気ある者を選べ……。

 などと教えられていたのはともかく、同時代の少年にはない何かが正彦に備わっていたのは確かで、福田の強がりもそれに誘発されていたものだとしたら、それから十年後、協力を求める正彦の手を振り払ってしまった自分の行為にも多少の筋は通る。

 同い年にも関わらず、どこか兄を仰ぐように正彦を見上げていた福田は、そこに投影された呂名哲郎の影を強く意識していたのだろう。だから正彦が独断で『A金貨』を動かしていた時、それまで彼を支えていた宗主の影が消えたように感じて、その手を振り返すことをためらってしまった。彼という人間ではなく、そこに映る祖父の影しか見ていなかった自分の不実が、独り苦しむ正彦に引導を渡す結果となったのだった。

 まずいよ、正彦。今度だけは絶対にまずい。伯父さんはともかく、じいさんも応援してくれないってのはさ、うまく行きっこないってことだよ。〝隊長〟がどうなったか、知ってるだろう……?

 聞いたふうな言葉で協力の要請を退けた二十数年前の夜、テルはバカじゃないもんな、と寂しげに笑った正彦の顔が思い出される。俺はそうらしいよ……と昏い目で続け、向けた背中に〝隊長〟のそれが重なって見えた時点で、なにをしてでも止めておくべきだったのだ。

 結局、都内の雑踏で向き合ったその夜を最後に、正彦は福田の前から消えた。

 次に見たのは、棺の中に横たわる死に化粧を施された顔で――精も根も尽き果てた、いまはただ眠りたいと言っているその顔に、やはり〝隊長〟の死に顔を重ね合わせた福田は、悔根という言葉の真実の重さを知った。

 子供の頃、〝隊長〟が死んだときとは質も量も異なる悲哀に身悶えし、自らのものになった呂名家の呪縛にしみ込ませたのだった。

 そう、呂名家の歴史を語るうえで、欠くことができないもうひとりの人物がいる。

 〝隊長〟こと呂名博司。

 福田たちが誰よりも慕っていた呂名哲郎の次男だ。

 太陽の明るさと、月の孤独の両方を持ち合わせる叔父こそが、あの伊豆での夏の日々を輝かせ、また永遠に奪い去ったのだ。

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