それら事件の真相を知ったのも、『A金貨』という言葉を耳にしたのも、後年の事になる。福田たちにとっては、少年時代の輝きも併せて持ち去ったと思える〝隊長〟の唐突な死だった。
伊豆高原の集まりも、その年の夏が最後になった。
博司の供養を兼ねてということだったらしいが、集まった人数は例年の五分の一にも満たず、ちょっと顔を見せたら引き上げるというありさまで、まるで葬儀の延長のような湿った宴だった。
あれだけ呂名家の権勢にたかっていた連中が、ひとつ問題が起きると関わり合いを避けるようになる。
高校受験を翌年に控え、世の無常を感じ取れる程度には大人になっていた福田は、もはや形骸ですらない真夏の宴を寡黙に過ごした。
お義理で足を運ぶ連中の顔は見たくもないという思いは、邦彦も同じだったろう。故人の思い出には、二人ともまだ幼く、過ぎた時間はあまりにも短い。落ち着けどころのない福田と邦彦の足はおのずと叔父の書斎に向いた。
来客の相手は正彦らに任せて、呂名哲郎が書斎にこもっていることは知っていた。
お入り、と言ったきり、放心した体で椅子に座りこむ叔父を前に、福田と邦彦もしばし無言で座り続けた。
書斎の壁には毎夏の集まりで撮影した一族の集合写真が年代順に飾られ、いまの自分たちと同年代の博司の顔を見出すこともできる。
白黒写真からカラー写真へ。
年代を経るごとに一族の数は増え、博司の顔もたくましく削りだされていって、あの朗らかな、しかし飄々として正体をつかませない笑顔へと変化してゆく。
この先はないんだな。
昨年の集合写真にたどりついたところで、ふとそんな思いに胸を締め付けられ、予想外の痛みに福田は胸を噛み締めた。名前も繋がりもも定かでない親類縁者が増える一方で、ひっそりと消えてゆく者もいる。そう、呂名哲郎を陰から支え続けてきた妻、あの優しかった伯母も。五年前の写真を最後に姿を消している。だが、自然の摂理が連れ去ったと了解できる伯母に比較して、博司の死のたとえようのない痛み、喪失感はどうだろう。
自然とは異なる、その名の口を出すのもはばかられる不可視の力が博司叔父の命を無惨に、奪い去った。周囲の大人たちの態度からその力をおぼろに感じ取り、この世界の様相が一気に変わってしまったような、取り払われた幕の向こうに恐ろしく醜悪な現実を見てしまったかのような、なにか途方もない穢れに震えているこの胸のうちは――。
壁の写真を見たきり、凍りついた福田たちの表情に感じるところまであったのか。時は取り返しがつかんな……と叔父が不意に口を開き、福田は我に返った思いでその横顔を見つめた。少年時代の博司に視線を縫い付けられたまま、〝財団〟宗主の面差しにはない見たことがない疲労の色があった。
『前に、話したことがあったな。GPデュエルが始まったばかりのころ、わしは偉い人たちから莫大な財宝を預かった。政府はこれを、それを戦争の費用につかうつもりであったが、偉い人たちは違った。〝次の時代〟に勝利するための「アファーマティブ・システム」として役立てよ……。自らが捨て石になる覚悟で、その人たちはそう言った』
『アファーマティブ・システム』という言葉を聞いたのは、この時が最初だった。その異様で壮大な語感に肌が粟だつのを感じながら、福田は子供の目にも老け込んだとわかる叔父の顔を凝視した。そこに己の未来を予感したがのごとく、正彦も怖いほど思いつめた顔で呂名哲郎の声に聞き入っていた。
『次の時代……それは、アメリカとソ連の冷戦というような、わかりやすく目に見えるものではない。砲弾の代わりにプラスチックモデルを使い、領土の代わり他者の資金を奪う戦争。植民地戦争よりずる賢く、広い際限なく争わせるだろう時代だ。それはこの世界を勝者と敗者の二つに分かち、融和を見ることは永遠にない。そして敗者の逆襲に脅える勝者は、どれほど力を得ても飽き足りることはなく、勝者同士の争いの中からあらゆる敗者を生み出してゆく。おそらくは最後のひとりになるまで終わらない戦いは、この世界を壊滅的に荒廃されるだろう。自然のみならず、文明文化も摩耗させて、気がついた時には取り返しのつかない事態になっているだろう。
一方に別の主義という対抗馬はいるうちは良い。双方が互いに牽制し合うことで、暴走はおのずと避けられる。だが、根底に否定を含む主義というものは、内側からの軋轢で遠からず破綻する。その時、どうするか。勝ち残ったガンプラバトル主義が唯一絶対の正義となり、誰も彼もが本能のままに義を追求し始めたら。形こそ違え、本質的には植民地戦争と変わらない支配合戦が正当化され、暴走する主義が弱者を蹂躙する支配が来たとしたら。
そう、〝次の時代〟とは、全世界を舞台としたガンプラバトルの時代だ。ガンプラバトルは己の闘争本能と向き合い、資金を人間性のなかに止揚している方策を確立していかなければならない。『アファーマティブ・システム』は、そのために使われねばならぬ。この金を使って、わしは特殊なシステムを造り上げた。倒すべき〝システム〟に与し、いつか敵の腹を食い破ってやるつもりで……その機会が訪れるのを待ちながら、この数年を生き続けた。
博司は……おまえたちの〝隊長〟は、そんな無為の中からひとり立ち上がろうとした。その手を振り払ったわしは、死んでも博司のもとへはいけまい。あやつこそ、「アファーマティブ・システム」の継承者になるべき男であったものを……』
自嘲するように呟く祖父の目には、涙があった。
言われたことの半分もわからず、ただ言い知れぬ闇の淵に立たされたような心細さを抱いて、福田も泣いた。
何も悪いことはしていない。人の役に立とうとしていただけらしいのに、〝隊長〟も〝大隊長〟も哀れだ。
いずれ我が身にも引き寄せられる人生の悲哀を予感し、感情を処理できなくなった体がとりあえず流させた涙だったろうが、正彦は泣かなかった。
膝上にの拳をぎゅっと握りしめ、仄かな、しかし底堅い光を宿した瞳をここではないどこかに据える。この時、邦彦はすでに闇の深淵を覗き込み、戦うべき〝敵〟の顔を見据えていたのかもしれない。博司の死を契機にして、呂名家の呪縛は新たな世代に引き継がれたのだった。間近にいながら闇と向き合う勇気も持てず、信頼を裏切ることになる臆病な男をよそに……。
その邦彦も、いまは亡い。弟たる英一は捕らえられ、その数年を経て裏切りをあがなった自分の命も尽きようとしている。状況は絶望的、やはり端から敵う相手ではなかった……と結論するべきところが……。
そうか?
渋谷の雑踏に立ち返り、我知らず懐に手をやった福田は、命と引き換えにもぎ取った〝逆転の目〟をしっかりと握りしめた。
無事に持ち出せたことを、あらためて奇異に思う。それを渡した正彦も、マイケルも、不思議なほどの迂闊さで看過してくれたのだ。知ったうえで泳がせているということは、まずあるまい。これが第三者の手に渡る危険性に鑑みれば、どれほど有効な罠も色を失う。
魔が差した。
たぶん、それだけの理由で、彼らはこの〝逆転の目〟の存在を見過ごしたのだろう。
だから、まだ終わりではない。
終わらせてはならない。
〝財団〟やフェアチャイルドのあずかり知らぬところで、可能性は引き継がれている。
彼らはわかっていないのだ。
呂名家の呪縛が、一族の人間にだけ伝染するものではないことを。善くありたいとする人間特有の本能が残っている限り、それは誰にも引き継がれる。〝システム〟に縛られた正彦やマイケルには感知し得ない熱が、『アファーマティブ・システム』には秘められている。
血筋は関係ない。
現に呂名哲郎は、他人からそれを受け取った。〝A〟の使徒として事を成し遂げた者たちも、呂名家とは縁もゆかりもない赤の他人。
『アファーマティブ・システム』……名が体を現しているではないか。
思いついた胸がいくらか軽くなり、福田は久々に頬が緩むのを自覚した。
信号が青になり、一斉に歩き出した通行人らをよそに、握りしめた〝逆転の目〟――スマートフォンを懐から取り出す。ディスプレイに目を落とし、メールの送信履歴が削除済みであることを確認してから、渋谷交差点の空をいま一度振り仰いだ。
この体を媒体として、熱はすでに新たな継承者のもとに注ぎ込まれた。あとは、それに呼応するだけの熱が『あいつら』の中に残っていることを祈るのみだ。
胸中に呟き、晴れ渡った空を閉じた瞼で覆い隠す。鈍った東京の空が消え、子供の頃に見上げた伊豆の空がじわりと染み出して、街の喧噪を潮騒や葉擦れの音に変えてゆく。
数十年分の芥を溜め込んだ心身がしんと静まり、懐かしい透明さに包まれるのを福田は感じた。
もう……恐れはない。
悔いもない。
生来の臆病者が、やれるだけのことはやったと――。
刹那。
冷たい気配がうなじを撫で、背後を行き過ぎた。
無心に立ち返った体がたまさか感知した、空気の揺らぎともつかない微かな気配だった。
福田は目を見開き、とっさに背後に腕を伸ばした。それがなんであるか確認する間もなく、掴んだ手首を夢中で捻りあげ、払い腰の要領でぐいと手前に引き寄せる。
そのまま投げ落とせる勢いだった。
が。
相手は巧みに福田の腰をすかし、するりと眼前に回り込んできた。
およそ表情というものがない、黒い穴のような目と目を間近に合わせ、福田は呑み込んだ息が吐き出せなくなった。
なにも映さない、感じてもいない目……それはハンターのそれに違いなかった。そのハンター――ずんぐりとした中年男は、肌を粟立たせる冷気を全身に滲み出している。
そうか、貴様だったか。
信号が赤になる。立ち止まった通行人が周囲を取り囲む中、福田は目前の黒い穴だけを凝視した。
日本からミカヅキと金家栄治を追い、無関係の人間を死に至らしめたフェアチャイルドのハンターたちのひとり。フェアチャイルドの陰の部分をもち、立ち回っている男たちのひとり。
お前か。
理解した体がかっと熱くなり、福田は男の手首をつかんだ左手に力を込めた。
逃れようとする男。その襟首を締め上げ、その手に握られた小さいナイフを目に留める。それはナイフに液体のようなものが塗られており――先端から滴る液体がぎらと透明に輝いた瞬間、すでに振り下ろされていた死神の鎌が福田の心臓に突き立てられた。
最初に感じたのは、胸を突き上げる灼熱だった。最悪の胸焼けにも似た圧迫が喉元までこみ上げ、気管を、血管を押し広げていく。意思とは関係なく体が仰け反り、福田は圧迫を吐き出そうと口を開いた。ぎゅるぎゅると音を立てておくびが噴き出し、併せて噴き上がった胃液が口からこぼれ落ちる。路面に滴ったそれが茶色い染みを作り、次にはその上に倒れ伏す我が身を予感しながらも、福田はそのハンターの手をつかんで離さなかった。足を踏ん張り、今にも萎えそうな膝を立たせて、眼前を塞ぐハンターの顔を睨み据えた。
掴まれた腕を引き離そうともせず、ハンターは変わらず表情のない目で福田を見つめている。あと数秒で相手は事切れる、下手に抵抗して周囲の注目を集める必要はない。冷静に判断し、人ひとりの末期を無感動に見据えるハンターは、次は呂名英一をその歯牙にかけるのだろう。
彼だけではない。
彼と共同し、他のハンターたちが、金家、そしてミカヅキ、場合によっては深雪まで。
〝A〟の計画に与したすべての人間を殺し、十数年にわたる『アファーマティブ・システム』の連鎖を断ち切ってゆく。なにも考えず、木からリンゴをもぐほどのためらいもなく。
博司の犠牲、邦彦の孤独。
彼らを見送るよりなかった呂名哲郎の無念。
他にも数多流された血の重み、人の中にだけ生じる熱を一顧だにせずに――。
そうは……させない。
溢れ出る泡混じりの吐しゃ物を噛み潰し、福田は痺れてゴムのようになった右手を男の手首に添えた。
従前つかんでいた左手と合わせ、渾身の力で男の右手首を締め上げる。
男の目に浮かんだ微かな動揺も、
振り払おうとする腕の抵抗も、
もはや遠い世界の振動とした伝わらなかった。
体に残った熱をすべて両手に続き込み、福田は無心で男の手首を絞め続け――二度目の激痛が胸の奥で爆発するのと同時に、男の手首がみしりと音を立てるのを聞いた。
恐怖。
苦痛。
どれでもない。
ただ驚き、戸惑いの色を滲ませたハンターの目が見開かせ、次いで青空が福田の視界を埋めた。ハンターに突き飛ばされた体が、仰向けに倒れたのだった。小さな悲鳴があがり、信号待ちの通行人らが一斉に身を引く気配が伝わる。もう首をめぐらす力もなく、福田は目だけ動かしてハンターの姿を追った。
折り重なる複数の足の向こうに、さえないジャンパーを着たハンターの背中が見え隠れする。痛めた右手首を押さえ、少し前かがみになって、行く手の雑踏に慌てて逃げ込んでゆく。
バカな。
あり得ない。
なぜだ。
無表情なりに動揺し、繰り返し自問するその顔が見えたような気がして、福田はにやりと口もとを歪めた。
ざまぁ見ろ。
もう貴様はそのナイフを自由に操ることはできない。風のごとく駆けるフェアチャイルドの死神様は、今日を限りに廃業だ。その腕で上司の命令をやってのけられるかどうか、やってみるがいい。『あいつら』は手強いぞ。呂名家を縛りつけてきた呪い、『A金貨』をあっさり盗み出してみせた連中だ。その手は、自分が託した〝逆転の目〟が握られてもいる。このまま終わると思ったら大間違いだ。
ああ、でもここまでだな。おれはもうおまえたちとは行けない。なにもしてやれない。
死ぬなよ、英一、ミカヅキ。
そして金家栄治……期待を裏切ってくれるなよ。すべては、あんたに――。
そこまで紡いだ意識がふっと遠くなり、福田は伊豆の青空を見た。
なに、どうしたの。救急車呼べよ、救急車。見知らぬ他人たちの声が妻の声になり、息子と娘の声になり、子供のころに聞いた父と母、叔父の声とが入り混じってゆく。
〝隊長〟が呼んでいる。
早く、早くと邦彦がボートの上で叫んでいる。
福田は十歳の少年になり、海岸に続く坂道を一気に駆け下りた。
恐れはない。
怖いものはない。
怖い事も辛い事も我慢して、ようやくこの海にたどり着いたのだから。
行こう。どこまでも。水平線に横たわる島の向こう、はるか彼方まで船を走らせよう。
やっぱりすごいな、フクちゃんは。
ボートの上でから身を乗り出し、福田に手を伸ばした邦彦が笑いかける。応じた言葉はひとつの雫になり、散大した瞳孔から音もなくこぼれ落ちた。