第六十一話
その一報は、鈍い衝撃となって心身に突きぬけたあと、寒々とした空気になって周囲に滞留した。
「……そうか」
どうにか応じる言葉を絞り出してから、通話を切る。いまだ手に馴染まない、買ったばかりのスマートフォンを背広の懐に戻し、呂名正彦は階段の続きを下った。下りきった先には短い通路があり、突き当たりのドアの前で見張りの男が椅子に座っている。
事前に連絡を受けていたのだろう。
三十代と思しき男は会釈もせずに立ち上がり、ドアの鍵を開けると、勝手に入れと言わんばかりに呂名に道をあけた。
日本人に見えるが、違うかもしれない。こうもつっけんどんなのは、フェアチャイルド筋の人間は〝財団〟に経緯を払う必要はないと教えられているからか、あるいはハンターとしての当然の態度か。益体なく考え、一報がもたらした動揺を忘れるよう努めながら、呂名はドアに向かって歩を進めた。
どうせ海浜倉庫の類いと決めつけていた素人考えを裏切り、マイケルが用意したこの男の隠れ家は日本語のオフィス街にあった。築三十年は経っていよう小振りなテナントビルで、聞いたことのない貿易会社の看板が掲げられているものの、人の出入りはほとんどない。
大方、在日機関の秘密拠点のお下がりに違いないが、地下に降りるまでに三台を数えた監視カメラといい、錆の浮き出た正面の鉄扉といい、その印象は陰惨の一語に尽きる。
自分の与り知らぬところでいったいどれほどの血が、流れてきたものか。
ひとつ階段をあがった先にはなんの変哲もない日常もあるのに、ここからはどんな音も地上に漏れ聞こえることはない。何人分の悲鳴と絶叫がこの黒ずんだ壁に反響し、行き場なく霧散していったものか――。
詮無いことと承知で考え、これから直面する無惨を覚悟したつもりになった呂名は、息を詰めて鉄扉を引き上げた。
八畳あるかないかの狭い空間だった。打ちっぱなしの床と壁はところどころひびが入っており、天井から吊り下げられた電球が陰鬱な光を投げかけている。
部屋の隅には急きょ運び込まれたらしい簡易へベッドが置かれ、〝財団〟の御曹司に対する最低限の配慮が見られたが、他は陰気で無機質な監禁部屋そのものだった。微かに漂う下水の臭いを嗅ぎつつ、冷たい湿気が滞留する室内に足を踏み入れた呂名は、ベッドの上で膝を抱える人影と目を合わせた。
「父さん……」
微かに無精髭の浮いた顔を上げ、呂名英一がかすれた声で呟く。目を逸らすなりなんなり、、反抗的な態度で迎えられると予期していた呂名は、その率直にすぎる視線と声音に戸惑うものを感じた。沖縄から着の身着のままなのだろう。薄汚れたネルシャツとスラックス姿にざっと目を走らせ、大きな怪我はないらしいと確認してから、「痩せたな」と一声を繰り出す。そのまま後ろ手にドアを閉めようとして、出し抜けに立ち上がった英一の勢いにぎょっとなった。
「父さん。フク兄さんは、福田兄さんはどこです?」
先刻の一報を受けたばかりの身に、その言葉は針となって突き刺さった。「あの人はただの使いだ」と続け、ひと息に詰め寄る英一の視線を受け止めきれず、呂名は閉じたドアにじっと背中を押し当てた。
「邦彦兄さんのことを持ち出して、ぼくが無理やり引き込んだだけです。なにも知らないし、なんの権限もない。手を出さないように外の連中に伝えてほしい。話なら――」
「福田は死んだよ」
それ以上は聞くに絶えず、呂名は言った。ナイフに刺されて……と余計な言葉を付け足す必要はなかった。
息を呑み、二、三歩あとずさった英一は、不意に両の拳で顔を覆い、よろよろとベッドの方に向かった。倒れ込むように膝をつき、薄い敷き布団に肘を押し当てて、食い縛った歯の奥から荒い呼吸を繰り返す。殺しても殺しきれない嗚咽が漏れ出し、小刻みに震える肩がぐっと力んで、「なぜ……」というかぼそい声音を結実させるのを呂名は聞いた。
なぜ。
以前にも同じ声を聞いたと思い、呂名は声を殺して泣く次男を見つめ続けた。邦彦が死んだとき……もっと前、家で飼っていた猫が死んだとき。母たる瀬奈の慰めも耳に入れず、なぜと泣き続けた。瀬奈に頼まれたこともあって、呂名はその時、どこか距離感を測りあぐねていた次男に語りかけたものだった。
順番なんだよ。みんながずっと生き続けたら、この世界はパンクしてしまうだろう?
じゃあ、どうして生まれるの。
そう英一は続けた。
いつか死んでしまうなら、こんなに哀しい思いをするなら、なぜ生まれてくるの、と。
あの時、自分はなんと答えたのだったか。
英一は納得してくれたのだから、多分それらしい話をしたのだろうが、不思議と内容は覚えていない。教えてもらいたいものだ、と呂名は切に思った。
なぜ生まれてくるのか、なぜ生きるのか。
この辛さと苦しさを慰める言葉があるのなら、いますぐに。
肉親が次々と離れてゆく中、自分独りが耐用年数の切れた〝システム〟の中に取り残される。この理不尽を了解できる言葉があるものなら……。
無論、その時と今とでは状況がまるで異なる。英一は当時の自分と同じくらい同じだし、福田も天寿をまっとうして死んだわけでもない。が、なぜと問う声はは同じに聞こえる。博司の直情、邦彦の優しさをも想起させる声が、ひどく脆い外殻を震わせて英一の背中から滲み出ている。
対決を期して張り詰めた神経が肩透かしを食らい、代わりに黒々とした感情がわき起こるのを呂名は感じた。それは気がついた時には爆発的に膨れ上がり、押さえる間もなく口から噴き出していた。
「おまえのせいだ!」
わずかに頭を上げ、英一はぴたりと動かなくなった。「おまえだよ、おまえが福田を殺したんだ……!」と怒鳴り、呂名は近くに大股で歩み寄った。背を向けたままの英一をベッドから引き剥がし、無理やり立たせて胸倉をつかみ上げる。英一は充血した目をこちらに据えた。結露した雫がその頬を伝い、呂名の手に音もなく滴り落ちた。
「わかりきったことだろう、最初から。泣くくらいならなぜやった。なぜ福田を巻き込んだ。なぜくだらない詐欺師のために自分を犠牲にした! 福田だけじゃない。おまえは、おまえが救うつもりでいた未来も犠牲にしたんだ。自分の良心と引き換えに、世界を殺したエゴイストだ、おまえは。呂名哲郎と同じ、自分の事しか考えていないエゴイストだ!」
口を一文字に引き結び、英一は無言でこちらを見返し続けた。その瞳に、強い光が戻りつつあった。呂名は英一を突き放し、背を向けた。いつからか額に噴き出していた汗を拭い、気を落ち着かせるためにひとつ大きな息をはいた。
これでは話し合いにならない。いや、そもそも説得できる自信はなかった。では、何をしに来たんだ、自分は。もう一度、深呼吸をし、まだ動悸が収まらない体に新鮮な空気を送り込んだ呂名は、むしろ重くなった胸を感じて壁に手をついた。天井を這う剥き出しの配管から結露が滴り、小さな音を立てる。先刻の涙を思い出し、それを受けた手の甲を見るともなく眺めた途端、「為さねばなりませんでした」という声が沈黙の間を破った。
落ち着いた声音だった。肩ごしに振り返り、涙をぬぐいさった英一と目を合わせた呂名は、その奥に宿る強い光を避けて背を向け直した。「すべて覚悟の上、か」と出した声に「はい」と英一が即答する。
「福田もか」
「……はい」
「母さんは……母さんも、知ってのことか?」
なにかを言いかけて、口を閉じる英一の気配が伝わった。
それが返事だった。
「……だろうな」
お手上げだった。母親を悲しませるような真似を……という常套句も封じられ、よりいっそう重くなった胸を抱え直した呂名は、もう言うべき言葉もなくその場に立ち尽くした。
不思議なものだ。身軽という言葉に近いはずなのに、この孤独という奴はどうして人の心を重くする。
弟の博司。
長男の邦彦。
そして、今また次男の英一まで。
すべての発端たる呂名哲郎も含め、彼らも孤独であったろう。
『A金貨』という魔物と向き合い、あくまで我を通そうとしたエゴイストでありながら、満たされることなく、死んでいった愚者たちであろう。が、真に愚かなのは、孤独なのは、呪われた血筋に会って常識人しか演じられなかった自分ではなかったか――。
「……わたしが憎いか?」
意識するより先に、その言葉がこぼれ落ち、呂名は肩ごしに英一を見やった。こちらを見つめる能面に亀裂が入り、強い意思をはらんだ目に悲哀ともつかない色がよぎるのが見て取れた。
そんなはずがない。なぜあなたを憎めるものか。
そう言っている肉親の目、息子のものでしかない目の光を前にして、一度は抑えた感情がまたぶり返すのが感じられた。「なら、なぜだ」と叫ぶように言い、呂名は英一に全身を向き直らせた。
「なぜ、こんな真似をする。おまえも、邦彦も、なぜいまあるもので満足できないんだ。確かにこの世は完全じゃない。未来どころか、十年先、五年先の保証もない真っ暗な闇だ。でも不完全な世界で人間は生きていた。他にどうしようもない、せざるを得ないと呻きながら、〝システム〟を守って生きてきたんだ……!」
無意識に動いた手が、英一の肩をつかむ。思った以上にがっしりと組み上がった骨の感触を手に覚え、これは言い訳だ、自分は息子という他人に言い訳をしている、と我に返ったのは一瞬だった。溢れ出る感情を留める術はなく、呂名は肩をつかんだ手に力を込めた。
「『アファーマティブ・システム』、世界との戦い、みんなおまえの伯父の戯れ言だ。世の中をどさくさで金を手に入れて、それがうしろめたくて、夢がみたいな話で自分をごまかしていただけだ。人間にはもっと別の生き方がある。世界には、GBNには常に改善の意志がある。その無責任な考え方が博司を殺し、邦彦を殺した。はっきりした答もないくせに、自分では何もせず、わたしの弟や息子たちをたぶらかして……! いったい何様だ? 『A金貨』を手に入れたからって、神にでもなったつもりか? みんな騙されているだよ、呂名哲郎というペテン師。わたしも、おまえも……」
言葉と一緒に力が抜けだし、肩をつかんでいた手をずり落ちていく。立っているのも億劫なほどの脱力感にのしかかられ、呂名はくずおれるようにその場に座り込んだ。
なんだ、これは。
まるでこちらが赦しをこいているようではないかと思いつつも、しばらくは顔を上げる気力もなく、視線の先にある英一の両足を見つめる。その段になって、呂名は英一が裸足であったことに初めて気づいた。
「〝神〟は外側にはいない」
その素足がこちらに向かって動き、すぐ目の前で立ち止まる。英一の両手がふわりと肩に降り、呂名はのろのろと顔を上げた。
「いつだって、この体の内にある。あなたは〝神〟を見失ってたんだ。あの時から……」
電球の逆光を背負い、呟いた英一の瞳が別人の光を帯びて揺れる。子が父に向けるものではない、むしろ父が子に向ける眼差しがそこにあった。いたわりと憐憫を含んだ目と目を見交わし、叔父さん、という言葉が喉まで出かけた刹那、はるか声音がが呂名の頭蓋に反響した。
――あやつこそ、『アファーマティブ・システム』の継承者になるべき男であったものを……。
数十年前、伊豆の別荘で聞いた声。
博司の供養も兼ねて一族にが集まった最中、書斎のドア越しに聞こえてきた声。快活で決断力のある弟への劣等感を消化できぬまま、呂名本家唯一の跡取りになってしまった身には、おまえの方が死ぬべきだったと言われたに等しい父の声。その瞬間の喪失、憤怒、絶望が一時に押し寄せ、呂名は慌てて英一の手を振り払った。
あり得ない。ここにいるのは英一だ。
あれはまだ英一が生まれる前の出来事だ。
手を振り払った勢いで後ずさり、立ち上がらせた体を壁に押し当てながら、目前の人影をあらためて見つめる。
姿形は英一であっても、その瞳はやはり英一のものではない。GPデュエルの始まったばかりのこと、居酒屋で壮大な理念を夜ごとに語って聞かせた男の瞳。それから数年後にはGBNを創り出し、経営を軌道に乗せ、それから豪邸に移り住んだが、あなたの瞳は少しも変わることのない、ここではないどこかを映し出していた。
だから気づかなかった。だから見逃したのだ。
もうそれを異常と感じる神経は働かず、呂名は眼前にある父の瞳を睨み返した。
いつも彼方を見据えるばかりで、あなたは目の前にいる我が子の思いを推し量ろうとはしなかった。〝システム〟を破るのを承知で博司に協力したのは、あなたに認められたいがためだった。弟のように振るえなくとも、あなたの理念は誰よりも理解できるつもりだった。
外側にあるのではなくこの身の内に宿る〝神〟――そう、あなたの存在、あなたの言葉が、この体の内奥に〝神〟を宿らせた。そして、殺したのだ。自らを継ぐべきはおまえではない、という冷徹な本音をもって。
父は何も言わなかった。子の肉体を通して無言の存在感を放ち、息子の怒りを黙然と受け止めている。辛うじて保たれていた足もとの地盤が崩れ、すがるものとてない体が時の奈落を沈み込んでゆく。父の瞳を持つ息子に凝視され、呂名は喪失の連続であった過去へと転がり込んでいった。
そう、あれは――。