結局、なんのための犠牲だったのか。
誰が自分から弟と長男を奪い、今また次男まで?
冷たい湿気が滞留する地下室に立ち返り、邦彦の享年を追いこした英一と対面し直した呂名は、もうなにも言う気力もなく床に座り込んだ。
英一は静かにこちらを見下ろしている。目の前にいても別の宇宙を見ていると思える面立ちは、邦彦の死後、ますます向き合うのなくなった次男のものに違いない。
先刻まで瞳に宿っていた呂名哲郎の圧はなく、呂名は安堵ともつかない息を吐いて顔を伏せた。こうして振り返ってみると、マイケルの言う事がよくわかる。
今回の事件の中身は、たしかにあの時のアップデート版だ。ヲチカタ・コロニーという現実社会に引きあげ、投資者の投資先とするというアイデアは、インターネットをもってELダイバーを人間に平準化しようとした邦彦案の発展改良型。運営に働きかけて、ハッカーを暗に手引きし、ブレイク・デカール事件を引き起こしたやり方も、陸天事件のあとに呂名哲郎が為したことの合わせ鏡と言えた。
邦彦の死後、生活拠点を伊豆に移して完全に隠居した呂名哲郎であったが、最後に思わぬ時限爆弾をGBNに仕掛けていた。運営と日本GBN支部にそれぞれ働きかけ、ダイバーの権限引き締めによる公定換金の引き上げと、土地関連の総量規制が実施されるよう仕向けたのだ。
どちらも実体の伴わないGBN好景気の膨張を懸念し、政府が抑制先として検討していたものだが、この2つが同時に起爆すれば事態は抑制に留まらず、好景気が破裂するであろうことを父は直感的に悟っていたのだろう。
年の暮れから来年の頭にかけ、相次いで実行された2つの施策は、GBN日本の景気を崩壊に導いた。
投資額の引き上げは株主の欲を冷まし、全世界GBN支部のグローバル化への構造転換にあいまって、1年足らずの間でGBNの株価は半値近く引き下げる大暴落を招いた。
フォース達が所有していた土地の総量規制も土地売買を生業にしていたダイバーたちに壊滅的な被害を与え、膨れ上がるだけ膨れ上がっていた地価は次々と暴落。不動産を含み益に計上していた周辺企業はたちまちに悪化し、日本中に土地売買を進めていたGBNの金融部門は不良債権の山に沈み込んだ。
GBNの神話が崩壊し、終身雇用制は幻と化して、GBNのスタッフの間にはリストラの嵐が吹き荒れる。
いちからブログラムを立て直そうにも、ほとんどのエンジニアは海外に進出させられたあとで、空洞化したGBNには人をやとう余裕もない。日本GBNの企業格付けは低下し、買いあさった海外株は次々に売却され、人件費を切り詰め切った周辺企業は人材派遣会社に非正規雇用の調達を依頼する――それが20年後の〝派遣切り〟で大量の失業者を生み出し、GBNはさらなるどん底に突き落とすことになるとは想像する由もなく。
この時代の終わりとも符合するGBNの崩壊は、単にGBN好景気の終焉を意味するものではなく、日本というシステムの崩壊でもあった。以後、日本はGBN好景気復活の夢を見つつ、終わりのない不況へと滑り落ちていったのだが、呂名哲郎はどんな思いでそれを眺めていたものか。
日本の近代史、GPデュエルを挟みつつもほとんど途切れなく右肩上がりを続け、ろくな資源もなく疑十力だけで世界一の金持ちになった国が、もとに戻った。
フェアチャイルドの植民地として培養され、とめどなく成長してきたこれまでが異常だったのであって、GBNの価値の低下を経て、日本は分相応の国になったのだ……と、そんなとこだろう。
かつてのソ連が崩壊し、GBNという〝企業〟が世界へと飛散し始めた頃、もう実験国家としての日本に価値はなく、フェアチャイルド財閥も日本の暴走を止める呂名哲郎の置き土産を容認した。
『A金貨』をもって日本を狂わせ、答のない問いかけで子孫を苦しめてきた本人が、引き際に為した唯一の償い――笑わせてくれる。
結果、日本は「平準化された無名の国家」のひとつになった。〝システム〟に支配された世界を構成するひとつの単位、それ以上でも以下でもない国として再出発を余儀なくされながら、いまさら生活やひきあげたダイバーのレベルを引き下げることはできず、無益な出動を繰り返したすえに世界一の借金大国になった。
いちど狂ったものが、そう簡単に元に戻る道理はない。にもかかわらず、狂わせてしまったものをもとに戻したとうそぶき、勝手に世を捨てた呂名哲郎は、おそらく終生理解することはなかったろう。
GBN好景気崩壊によってすべてを失い、多くの人々の胸の内を、倒産やリストラで家も職も失い、一家心中させるを得なくなった人々の叫びを。
誰も好んで好景気に身を浸したわけでもないし、分不相応な夢を見たわけでもない。与えられるがままに踊らされ、酔わされ、唐突に奪われた。一方的に〝もとに戻された〟者たちの無惨な空虚を――。
「……同じだな」
我知らず、その一語がこぼれ落ちていた。瞬間、自分でも予想外の激しい怒りに突き動かされ、呂名は無言で立ち尽くす英一の顔を睨み上げた。
「同じだよ。ブレイク・デカール事件は、おまえと福田が仕掛けたんだそうだな。どんな気分だ?」
壁に手をつき、立ち上がらせた体を英一に一歩近づける。びくりと震わせたまぶたを唯一の反応にして、英一は沈黙を通した。
「あれで何人の人が巻き込まれたと思う。ダイバーが、その周辺の企業が、人並みの幸せを奪われた者がどれだけいると思う。GBNの未来のために仕方がなかった。その責任は一命をもって償う、か? ふざけるな。おまえひとりの命にどれだけの価値がある。何千何万の不幸に見合うとでも思っているのか。おまえも、親父も、どこまで他人を見下したら気が済むんだ……!」
怒鳴った勢いで英一の胸倉をつかみ上げ、ぐいと引き寄せてから突き放す。うしろによろけた拍子に足を取られ、英一は尻もちをつくようにベッドに座り込んだ。
そうだ、わかるわけがない。
無益な理想にたぶらかされ、自滅していった肉親をただ見送るしかできなかった弱者の悲哀を。
その埋め合わせに己の魂を抹殺し、〝財団〟を効率主義の集金マシーンに変貌させた男の憤怒を。とめどなく噴出する感情に圧迫され、肩で息をしながら、呂名は英一の視線を避けて背を向けた。
「最初から勝ち目のない戦いだった。『A金貨』という資金をもって資金に対抗する術を養う、その考え自体が矛盾に満ちていた。これからも資金の支配は続く。博司や邦彦のような人間を握り潰して、我々は進んでその〝システム〟を受け入れる。資金を唯一の〝神〟と崇めて、自分で自分を殺し続けるんだ。
確かにわたしは〝神〟を見失った。気づいたんだよ、そんなものは最初からいなかったってことに。本当に〝神〟がいるなら、なぜ邦彦が死ぬ。なぜ何万のダイバーが、働いている人間が、無益に殺される。なぜたかが違法ツールでGBNが暴走するなんてことが起こるんだ……! 〝神〟を見失ったのはわたしだけじゃない。〝神〟なき世界を統べるのが法、〝システム〟だ。それさえ否定したら、人間は本当に闇に落ちる。従うしかないんで。〝神〟も奇蹟も信じられなくなった人間には、〝システム〟だけが……」
「それが、誤ったものだとしても?」
ベッドに据えた上体を動かさず、英一が言う。まっすぐに問いかける目を肩ごしに見て、すぐに視界の外にした呂名は、手遅れという言葉を内心で噛み殺した。
邦彦の時と同じ――ここまで追い詰められなければ、英一と向き合う機会を持てず、本音のひとつも語れなかった。父を神聖視しながら自らは〝神〟足り得ず、父権すら示そうとしなかった自分こそが、息子たちを逸らせてしまったのではなかったか。
「……法律の条文を変えるのとはわけが違う。ガンプラバトル実力主義という〝システム〟は、人類がその歴史の中から最終的に選択した答だ。強欲で身勝手で、放っておけば殺し合う人間同士が共存するために、最適と判断された法だ。理想的でないのは認めるが、ひとりの人間の頭で正否を決められる問題ではない。人類がその総意で受け入れたことを、〝神〟ならぬ人がなにを根拠に裁くと言うんだ? 呂名哲郎が言っていたことは――」
なにも言わず、すっと胸に手を当てた英一の挙動に、先の言葉は封じられた。決めるのは心、その内奥に住まう内なる〝神〟――。「また、それか。堂々巡りだな」と吐き捨て、呂名は目を伏せた。弟と長男を奪われた腹いせに半生をかけて〝神〟を殺してきた男にそんな戯れ言がなんの意味を持つ。嗤う気力もなく、鼻息を漏らす間に「父さんこそ、何を根拠に否定するんです」と言った英一が立ち上がり、部屋の空気を微かに揺らした。
「人の総意が決めた事なら、人の力で変えられるはずだ。変えられない、変えてはいけないと決めつけることの方が、よほど傲慢な行為だとなぜ気づかないんです」
「それはお前のエゴだ。呂名哲郎に端を発する独善だよ。おまえの兄、叔父、福田、響きあう者はいただろう。世界に問えば、いまなら億単位の同調者を得られる可能性もないじゃなかろう。だがそのために行動を起こせる者が何人いる? 命をかけて、生活を犠牲にして、家族や世話になった人間に迷惑をかけて。おまえたちのように身勝手な人間、本気で〝システム〟に刃向かえるバカ者が何人いると思うんだ?」
「時間はかかるかもしれない。でも実例を示せば応えるくれる人はきっとたくさんいる。人には、善く在りたいとする欲が――」
「ならば死ね!」
そのひと声は生乾きの傷口を突き破って胸の奥から噴き出し、血のそれに似た据えた臭いを室内に充満させた。絶句した英一の目を見ることなく、呂名は残りの言葉を言い放った。
「自分で死んで、殉教者になれ。これ以上、人の手を汚させるな。邦彦も……おまえの兄さんも、そうしたのだから……」
胸から漏れ出した不可視の血が、堪えがたい生臭さを口腔に押し広げていく。負けだな、と呂名は認めた。説得はおろか、引導すら渡し損ねて自爆以下の暴言に絡み取られるとは。もう手の施しようのない胸の傷口を眺め、自分はいったいなにをしにここまで来たのだろう? と再三自問した呂名は、「それは違う」と発した英一の声を背中に聞いた。
「兄さんはやさしかった。どこに逃げようと、いずれ殺されることがわかっていたから、自分で自分を……。あなたに、子殺しの罪を背負わせまいとして――」
「黙れっ!」
振り向きざまに英一の胸倉をつかみ上げ、自分の体ごと壁に叩きつける。そんなはずはない――わかっていたからこそ堪えられない。100回焼き尽くしてもこの身を赦せないのだと叫ぶ心身が、咄嗟にやったことだった。英一は合わせた目を逸らさず、「僕は兄さんほどやさしくない」と冷静に続けた。
「間違ったことをしたとは思っていないから、自分では死にません。違うと言うなら、あなたの手で殺してほしい」
胸倉をつかんだ呂名の手首を手をかけ、自分の喉首に導くように力を込める。不意を打たれ、英一の喉仏に親指を触れさせてしまった呂名は、慌てて両腕を引っ込めた。そのまま背後によろけ、冷たい床に尻餅をつく。ゆらりと壁から離れ、こちらに1歩を踏み出した英一の長身が天井の電球を隠し、座り込んだ呂名の全身を影で包み込んだ。
「フォー・オール・ワールド」
呪文のように唱えた瞳が影の中で瞬き、別人の光を宿してゆく。呂名哲郎の目を持つ影に見下ろされ、呂名は床をかくようにしてあとずさった。
「すべての世界のために。『アファーマティブ・システム』の解放は、祖父や叔父、兄たちの願いであり、またあなたの願いでもあった。その想いが強すぎたがために、あなたは戦う前から膝を折ってしまった。失敗して絶望するより、自分を曲げて現実に順応する道を選んでしまった」
呂名哲郎の影が博司と入れ替わり、邦彦になり、依り代たる英一の上に幾重にも存在の圧を重ねる。
幻だ、こんなのは現実じゃない。
疲労と後悔の念ががあいまって幻覚を見せているだけのことだ。
叫んだ声は声にならず、呂名は両手で顔を覆って顔を覆って瞼を閉じ合わせた。
「おかげで守られてきたものもある。ぼくがこれまで生きてこられたのも、あなたが自分を殺して〝システム〟に従ってきたからでしょう。でもその〝システム〟は、人間を、世界を幸福にはしない。与える分より奪う分の方が多く、奪われた分は誰の手にも入らない。『A金貨』という〝システム〟を肥え太らせるだけのことで、その資本にがいまやぼくたちの世界を食い尽くそうとしてるんです」
博司が言う。わかっている、わかっていたから手を貸した。一緒に父の理念を実現しようとした、その結果はどうだ?
おまえが生きてくれたら。
わたしよりずっと行動力があって知恵も回るおまえがいてくれたら、わたしは邦彦を失うことはなく――。
「これを倒すことはできない。飼いならし、共に生きていく道を考えるしかない。差し当たって必要なのは、未来という餌だ。それが指し示さられない限り、資金は増殖本能に従い暴走を繰り返す。その本能に従って世界を平準化し、すべてを消費単位で括ろうとするフェアチャイルドに未来は造れない。すべてのELダイバーたちが人間としていける未来、今日より改善される明日がそこになければ、ELダイバーたちが、人の位置のだって食い尽くすのが資金という魔物です。〝財団〟の長として、あなたはぼく以上にそのことがわかっているはずです」
邦彦が言う。
そうだ、魔物だ。わたしはその魔物に魂をくれてやった。おまえを奪った父とその理念に対する、それがささやかな復讐だった。他に正気を維持する術はなかった。そう考えること自体が正気ではないと承知の上で、わたしは冷静に狂い、いつしか狂ったことも忘れていた。お前の弟はそれを知って――。
「父さん、今ならまだ間に合う。一緒に戦ってほしい。ぼくたちは、たくさんのものを失ってきた。これ以上、失うものはない。自分を殺してまでも守らなければならないものなど゛、ぼくたちにはもうないのだから……」
やんわりとつかまれた手首が、顔から引き剥がされてゆく。跪き、こちらを直視する英一の瞳が現実の視界に映り、呂名は呆然と目をしばたたいた。
幼いころの面影を残す次男の瞳が、答を促して奥底の光を揺らめかせる。なんだろう、確かに英一であるのに、この瞳はやはり彼ひとりのものではない。
呂名哲郎。
博司。
邦彦。
どれとも違う。
まじまじと、思わず声が出そうになった口を閉じた。
遠い昔に葬ったはずの魂、この身の奥深くに封印した本音が、息子の形を取って目の前に――。いや、息子の中に宿って自分自身を見つめている。父や弟、長男の魂と一緒くたになり、お前はどうするのかと質している。これが向き合える最後の機会になると自覚する一方、抑圧に慣らされた心身は無様に硬直し、呂名は床に座り込んだ意思になるのを感じた。
ノーとも、無論の事イエスとも言えずに、答を待つ瞳から目を逸らす。結露した冷気が天井から滴り落ち、殺風景な地下室に水滴の落ちる音を響かせて、静止した時間に見えない波紋を押し広げていった。