子供のころの記憶はまだらだ。どうでもいいことがなにかのきっかけで鮮明に思い出されたり、大切な節目の記憶が当時の写真を見ても曖昧だったりする。
今の自分とは異なる感性で編纂された記憶。時系列も重要度もばらばらな映像が堆積する混沌の沼だが、あの日の――。
あの日のことは忘れない。
小学校2年生の夏休み、午後6時台のニュース。
傍らにはめずらしく早く帰宅した父がいて、母はキッチンで夕飯の支度の最中だったと思う。
深雪は小さなテーブルにガンプラのパーツをまとめ、熱心な何かを作っていたと思っていたのだが、その時不意に、テレビから流れてきた奇妙な声音に顔を上げてしまったのだ。
(これは詐欺なんかじゃない。私は依頼された業務をこなしただけだし、依頼元が詐欺グループであったとも思っていない。誰が何と言おうが、それは実在するんです。今回の事件は上層部の行き違いから起こったことで、私は今でも疑惑のA氏の言うことを信じているし、彼の言うことを信じているし、彼の行方を探してもいる。
実名報道は控えられているけど、皆さんもうA氏の素性はもうご存じなのでしょう? あぁいう公的な仕事をしている人が詐欺なんてするわけないし、第一これだけ騒がれているのにいまだに行方不明なんて、どう考えてもおかしいじゃないですか。出ようにも出てこられない状態に追い込まれているんだとしたら、そっちの方こそ追及すべきだ。私だって決してまともな人間じゃないかもしれないが、こんな無法を許していいことはない……)
当時、最盛期を迎えていた陸天事件の特集で、詐欺に関与したととされる男がインタビューに応じる映像だった。興奮気味に話す声は加工され、顔にもモザイクがかけられていたが、彼が本気で怒っている気配は伝わってくる。こうした匿名インタビューでは、当人も意識しないうしろめたさがにじみ出てくるものなのに、この男にはそれがなかった。
なぜわかってくれない。
どうして伝わらない。
そうした絶望がテレビ越しに挑みかかるような勢いが感じられたことが、子供心にも注意を促したのかもしれない。
傍らでタバコを燻らせる父が、ひどく怖い顔で画面を注視していたのも印象に残った。その頃は〝財団〟という言葉も知らず、木城家の祖父とともに国内屈指のサーバー産業を切り盛りする父の仕事向きもろくに理解していない。
〝疑惑のA氏〟。
それが親戚の〝邦彦お兄ちゃん〟であることも知る由もなかったが、この数日、父の周囲に緊迫した空気はなんとなく感じ取れたし、冗談でも触れてはいけないなにかがそこにあることも気づき始めていた。それがいよいよ決定的になったのが、この時の父の表情であり、灰皿にタバコを押しつけながらふと漏らした言葉だった。
こいつは、車に轢かれるな……。
すぐには意味がわからなかった。ただ、口にした瞬間の父の横顔があまりにも恐ろしく、深雪はあらためてテレビに見入った。男のインタビュー映像は終わり、彼が実在を主張する『A金貨』についての解説映像を流れていた。
銀行から持ち去られ、行方知らずとなった金塊。
自衛隊の隠し財産。
GBNの基礎となった資金。
それらの言葉には明確な聞き覚えがあった。
去年、伊豆の別荘に行った時に、呂名の〝大おじ様〟から聞かせてもらった話だ。
かつてお盆になると一族中の人間が参集したという大きな別荘はは、今は大伯父である呂名哲郎とその孫たちが集う〝秘密の学校〟になっていて、去年、所用を抱えた父に連れられて別荘に一泊した深雪は、初めてその秘密の集いに参加したのだった。
夜、祖父の書斎に行こうと誘ったのは3つ年上の〝英一お兄ちゃん〟で、すでに大人だった〝正彦お兄ちゃん〟や〝フクお兄ちゃん〟は早すぎるだろうと呆れたが、〝大伯父様〟は笑って深雪の入学を認めてくれた。
そして、その夜には深雪にもわかるやさしい言葉で冒険譚の数々を語り聞かせ、この国と呂名一族の秘められた歴史を紐解いてくれた。
何年も前の生徒である遠縁の兄たちはには、さぞかし食い足りない特別授業であったろう。それでも話の半分は理解できず、〝大伯父様〟の緩急自在な語りにただただ聞き入るばかりだったのだが、ガンプラバトルの実力が人の立ち位置を決めるガンプラバトル実力主義の怪しさは本能に理解できたし、『A金貨』――『アファーマティブ・システム』の理念もおぼろながら理解していたように思う。
おじいさん、それじゃ今の子供には伝わりませんよ。ほら、深雪姫が困ってる。
幼い新入生を相手に苦難する〝大伯父様に茶々を入れつつも、兄たちは真剣な面持ちで話に耳を傾けており、難しいもんだな……と懸命に言葉を噛み砕く〝大伯父様〟も、時折り刃のように鋭い光をそのやさしい瞳によぎらせる。
それがなんであれ、彼らがとても大切なことと向き合い、戦おうとしている空気は十二分に感じ取れ、自分もその秘密を共有したつもりになっていたのだから、テレビから『A金貨』という言葉が聞こえてきた時には少なからず衝撃を受けた。詐欺だとか疑惑だとか、悪し様に言うアナウンサーらの言葉に腹も立てもしただから思わず言ってしまったのだ。
このテレビ嘘言ってる。
と。
『A金貨」は、いいことするために遺されたお金だよ。呂名の大叔父様が偉い人たちから預かったんだって。悪いことする人がもってるわけないよ。〝A〟って、私達を救うためのお金だって、大伯父様が――。
パチン。
五感を遮断するような激しい音がつんざき、先の言葉を封じた。
40を過ぎて儲けたひとり娘を溺愛し、それまで決して手をあげたことがなかった父が、先刻よりさらに恐ろしい顔で深雪を見下ろしていた。
殴られた。
そう理解するより早く父の震える手が動き、深雪の胸倉をつかみ上げると、テーブルから浮き上がりそうになった体をぐいと乱暴に引き寄せた。
2度と言うな。
その怒声が耳鳴りの中に響き、深雪は何も考えられぬまま父の顔を見返した。
大叔父様の話はでたらめだ。2度とその言葉を口にするな。外でも家でもダメだ。でないと死ぬぞ。パパとママもおまえも死ぬことになるぞ。わかったな。
頷く他なかった。父がテレビを消し、部屋を出ていった。そこまでは覚えているものの、その後どうしたのかは記憶にない。多分、キッチンにいる母のもとに駆け込んで大泣きしたに違いないが、まったく印象に残っていないのも、それで埋め合わせのつく傷ではなかったからであろう。
こいつは車に轢かれる。
耳にこびりついて離れない声ともども、その時の父の目と声は8歳の子供が〝死〟を意識するきっかけとなった。自然の摂理として訪れる死ではなく、人が人につきつける理不尽な〝死〟を。
子供は聡いが、気移りも激しい。それだけで終わっていたなら、生涯残る傷になるようなことはなく、〝10年遅く生まれた特権〟を活かして、呂名一族と無縁な人生を歩むこともできたかもしれない。が、現実は、それからひと月と経たずに〝邦彦お兄ちゃん〟が死んだ。
当時は名前も知らなかったテレビの男、黒須修二が本当に轢かれて死んだことも、葬儀から漏れ聞こえた大人たちの話から知った。父も後ろ暗い秘密によって成り立っている。その理解は、それを当時のことと受け止める一族の人々と、彼らの存在を容認する社会のへの懸念と嫌悪をつのらせ、深雪を用心深い子供に仕立て上げた。
級友たちと笑いあっても心の底では打ち解けず、両親の愛を満身に受けていると自覚しつつも、その笑顔の向こうに底暗い闇の存在を覚えもする。ここにいてはいけない。その服も、ランドセルも、私立学校に通うための学費も、すべて人を殺すお金によって賄われたものだ。
どうしたらいい、どうしたらここから抜けだせる?
祈りによって頭のなかで膨れ上がり、家の中の空気を吸う事さえ困難にさせる妄念は、それから3年後、思春期の入口に立った時に爆発した。生活を支える周囲の人や物、煎じ詰めれば自分自身への嫌悪が高じて、拒食症になってしまったのだ。
3年も前の自身の行いが引き金になっていようとは、父も想像がつかなかったろう。生来の潔癖性が、初潮を迎えて精神のバランスを崩しただけのこと。一時的なことであろうという医者の判断をよそに、病状は刻々と悪化し、ついには痩せさらばえた体を病院のベッドに横たえることになった。
父は財力に物を言わせ、あらゆる分野の名医を呼んでは治療に当たらせたが、治る気のない患者を治療できる医者はいないものだ。自明の根本原因は誰にも明かさぬまま、深雪は己の体から肉が削げ落ちてゆくのを感じ続けた。狼狽し、自分同様瘦せ衰えた両親を見るのは辛かったが、治療にかかった金の出自を考えると、ここでこうしている自分も拒否したい。日々狭く、薄暗くなる病院の視野に病院の天井を捉えながら、これも〝死〟のひとつだろうかと考えた。自然に与えられる死ではなく、人が人につきつける〝死〟。呂名邦彦がそうしたように、自分が自分に与える理不尽な〝死〟――。
そうじゃない。兄さんは殺されたんだ。
入院して、10日も過ぎた頃だったろうか。そんな声が間近に聞こえ、深雪は重いまぶたを押し上げた。
自殺だったかもしれないけど、それは結果だ。邦彦は殺された。たぶん、君を殺そうとしてるのと同じ奴に。
ちょうど母が買い物かなにかに出たタイミングだったのだろう。他にには誰もいない病室に、私立中学の制服を着た呂名英一の姿があった。私を殺そうとしている奴――誰の事? 私は、自分で自分に〝死〟を与えようとしているのに。
前後の状況がわからず、ほとんど血のつながりのない遠縁の兄をただ見つめた深雪は、僕も殺されかけた、と続いた英一の声を聞いた。
でも、死なずに済んだ。助けられたんだ。
そう言い、英一は小さく折りたたまれたハンカチを深雪に握られた。ひよこの刺繍が施された子供用のハンカチは、見覚えがあった。昔、お気に入りだった自分のハンカチだ。なぜ……と思い、不意にその時の記憶に突き当たった深雪は我知らず英一の顔を凝視していた。
邦彦兄さんの葬儀の時――9月も終わりに差し掛かっていたのに、暑い日だった。〝財団〟所縁の会葬者が列をなしていても、本心から故人を悼む者は誰もいない。一族に泥を塗った奴と内心で罵り、事件との関わりを避けるように手早く焼香を済ませながら、一方では野次馬的な好奇心を抑えられずにいる。気だるげに扇子を動かし、隠微な目くばせを交わしつつ、喪服の大人たちはぼそぼそとこんな会話を垂れ流していた。
首吊りだからな、遺体はひどかったらしい。
棺にすがって泣いてたの、あれ誰だ?
福田の長男よ。ほら、伊豆の別荘で邦彦くんと一緒に駆け回っていた。
ああ、例のゲーム運営に入ったフク坊か。まさか、あいつも陸天の件に?
断ったから、ああやって泣いてんでしょ。
そりゃ命拾いしたな。下手すりゃ葬式のハシゴになってたとこだ。
ちょっと変なこと言わないでよ。本当に自殺だったんでしょ?
わからんぜ、例の仕掛け人も轢き殺されたって話だし、呂名のご隠居ならたとえ自分の孫でも……。博司さんの例だってあるしな。
なんにせよ、呂名の威光もこれで終わりさ。見ろよ、代理の秘書ばっかりで、政治方面の参列者はひとりもいないぜ。おれたちの身の振り方を考えないと……。
冷たく湿った複数の声が、読経の声音を圧して心身を推し包んでゆく。
耳を塞ぎたかった。勝手なことを言う大人の足を蹴飛ばし、今すぐ葬儀場から逃げ出したかったが、それはできない。そんなことをすれば、自分も秘密を知っているとバレてしまう。張られた頬の痛みがよみがえり、パパとママもおまえも……と告げた父の声も思い出した深雪は、〝死〟が充満する葬儀場の中を闇雲に歩いた。どこでもいい、とにかく声の聞こえないところに行かなければ。そこここで噂話に興じる喪服の列をかきわけ、境内の外れに出たところで大きな松の木の前にぽつんとたたずむ背中を見つけた。
周囲の大人より頭ひとつ小さい体を凛と立たせ、木と、境内を囲む壁しかない空間をじっと見つめる背中。
惚けているのでも、途方に暮れているのでもない。
両の拳をきつく握りしめ、なにかに耐えているように見える呂名英一の背中が視界の中で浮き立ち、深雪はそちらに足を向けた。
大好きな〝邦彦お兄ちゃん〟の悪口をいう人しかいない、こんな場所でなにを見ているのだろう。どうして逃げ出そうとしないのだろう。そっと背後に歩み寄り、その見つめるものを見ようとして、英一の背中が小刻みに震えていることに気づいた。
下ろしたての革靴に、頬から滴り落ちた雫がひとつ、ふたつと染みを作る。とめどなくあふれる涙を拭いもせず、英一は怒りをたたえた瞳を拭いもせず、英一は怒りを湛えた瞳をなにもない空間に据えていた。
なんでも言え、僕は逃げない。最後までここに立って、お前たちに背中を向け続けてやる。
濡れた瞳がそう叫び、血のような涙をまた爪先に滴らせる。深雪は思わず英一の手をつかみ、持っていたハンカチを差し出した。
泣く人が誰もいないお葬式で、〝英一お兄ちゃん〟は人の分まで涙を流している。これでは体中の水が抜けきってしまうだろうと傷口に包帯を当てる思いで差し出したハンカチだった。少しぎょっとした顔を振り向け、無言で見上げる深雪と目をあわせた。
どんな時でも礼儀を欠かさない遠縁の兄が、この時はなにも言わずにハンカチを受け取り、泣き顔を見られたのを恥じるように視線を逸らした。代わりに動いた手のひらが深雪の方にのび、暗闇で手がかりを求めるかのごとく中空を探る。深雪はとっさに自分の手のひらを触れさせ、英一はそれをしっかりと握った。
繋いだ手から熱い体温が流れ込み、冷たい声にさらされ続けた体をじんと温めてゆく。〝英一お兄ちゃん〟ではない、呂名英一という異性の熱を満身に受け止めながら、深雪がまた涙を流した。
邦彦兄を慎んでか。
英一に同情してか――。
そうではなく、〝死〟が充満するなかで〝生〟を見出した喜び、繋げる手を得られた安堵の涙だったのかもしれない。真相は深雪自身にもわからず、それは3年後、この手に返ってきたハンカチを見ても同様だった。
確かなことは、英一がこのハンカチをずっと持ち続けていたという事実。
まるでお守りのように。
助けられた、という言葉とともに。
一気に理解した頭がぼうと熱くなり、深雪は音もなく英一の顔を見つめた。
〝死〟は肉体のそれに限らず、心にもたらされることもままある。あの時、彼はその瀬戸際にいた。いまの私がそうだと言っているから、英一はこのハンカチを持ってきてくれたのだろう。
今度は自分が助けるために――その思いが伝わった途端、落ちくぼんだ頬を見られるのが辛くなり、深雪は顔を背けた。
英一はベッド脇のスツールに腰掛けたまま、聞いてほしい、と静かに口を開いた。
呂名家には、おじいさんの代から続く念願がある兄さんはそれを果たそうとして、一族を取り巻くシステムに……そう〝システム〟に殺された。ぼくは、一生をかけて兄や叔父の無念を晴らすつもりだ。たとえ一族の人間すべてを敵に回すことになっても。
ひやりとした感触が胸を走り、あの葬儀の日、誰とも目を合わせずに立ち尽くす凛とした背中が像を結んだ。寄せつけず、交らわず、しかし頑としてその場に踏みとどまり続けた背中――彼はまだあそこにいるだろうか? 深雪はかすかに頭を動かし、英一の方を見た。英一は差し出したハンカチを握りしめ、それには仲間がいる、と続けた。
一緒に戦ってくれる仲間、同志だ。一族の中に留まって、いまの気持ちを忘れないで、内側から〝システム〟を変えてゆくための同志だ。誰にでもできることじゃない。心を持ってなきゃだめだ。それをなくすくらいなら、自分で自分を殺せるくらいの強い心を持っていなきゃ……。
すっと英一の気配が遠のくのが感じられ、深雪は慌ててそちらに顔を向けた。スツールから立ち上がり、握りしめたハンカチを胸元に当てた英一が、ぼくはこれを返しに来たんじゃない、と言っていた。
もっていたいんだ。独りじゃないってことを忘れないために。……持っていていい?
独りにしないで。
言葉より強く、まっすぐに注がれた目がそう訴えていた。刹那、生気の抜けきった体に電流が走ったように思い、深雪ははっきりと頷いた。点滴の繋がれている右腕を持ち上げ、暗闇で手がかりを求めるように指を泳がせる。英一の手がそれを握りしめ、いつしかそうしたように熱い体温を注ぎ込んで、空腹という忘れかけていた感覚を深雪に思い出させた。
英一の考えの全てが理解できたわけではない。が、彼の手助けがしたい、自分にしかそれはできないと思わされたのは確かだし、呂名一族に加わりながら、外面では服従しつつ生きる、そういう身の処し方もあると教えられたことは大きかった。
それなら生きていける。
そんな生き方を支え、一緒に歩いてくれる人が自分にはいる。
退院後、まず取りかかったのは勉強の遅れを取り戻すところで、小学校の残り1年で学年トップの成績を叩き出し、市内で開かれるガンプラバトル大会では優勝のトロフィーを並べ、中学、高校と文武両道で研鑽を続けた深雪は 大学を卒業するころには〝10年早く生まれていたら〟と親戚連に言わしめるようになっていた。
他方、英一もエリートコースを突き進み、東大卒業後には日本GBN支部に就職。傍目には〝財団〟の理事長職を継ぐ既定路線を順当に歩み続けたが、あの病室で語った〝いまの気持ち〟を忘れることはなかった。邦彦の死以来、伊豆の別荘に隠遁した〝大おじ様〟の話を聞く機会はなかったものの、学生時代は暇を見つけては会い、〝システム〟を変える方法について真剣に話し合った。
普及し始めた携帯メールは用いず、携帯電話で話す時は事前にとり決めた符牒を使った。よもや自分たちがマークされることもないだろうが、用心に越したことはない。
そういう目配りが必要なことをしているという自覚はあったし、社会勉強の名目で父の会社に出入りしていた当時、具体的に気をつけねばならない相手の顔を何度か目撃もしていた。
その頃は、〝政府〟の傘下に置かれていた非公開情報機関、〝対策室〟の男たちだった。