ガンダムビルドダイバーズ 〝A〟   作:ジ ュ ン

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第1章はここで終わりです


第六話

 非接触式のカードキーに反応して、自動ドアが左右に開く。資材搬入用の緩衝材が張られた戸口をくぐった先は、がらんとした無人のオフィスだった。

 内装工事が終わったばかりなのだろう。横幅50メートル、奥行も20メートルはあろう広大なフロアには、まだ事務机ひとつ搬入されていない。難燃性のカーペットで覆われた床板はところどころ外され、床板を這う電線やLAN回線のケーブルが露出している。

 天井には埋込式のLED蛍光灯パネルがずらりと並んでいたが、電気をつける必要はなかった。ワンフロアをまるまるぶち抜いたこのオフィスは、三方がはめ殺しの窓ガラスで覆われている。完全なガラス張りで、ガラス板の間に継ぎ目がある以外、窓枠を認識させるものもない。さながら空中庭園を思わせるオフィスを取り囲むのは、38階の高みから見下ろすエリア11の中央エリアの景観だった。

 ビルは南側を向いているらしく、正面に高級ホテルや高級ヒルズが建ち並ぶ最新ネットワークタウン一帯のビル街が広がり、その向こうは日本GBNタワーの竣工以来、レトロスポットの感が強くなった東エリア。そのさらに向こうの西エリアには、土台から造成し直している東エリア一帯の工事現場があり、林立するビルやクレーンや前景にして、テクスチャーの海が鈍った蒼色で水平線を縁とっていた。

 右手に目を転じれば色々なフォースネストのガラス張りの塔が見え、左手には上級フォースから中級、下町方面へと至る街並みと、地平線上ににょっきりと生えているGBNツリーを一望のもとにできる。こうして見ると、歓楽エリアからははっきり旧市街で、ツリーは旧市街の狼煙というところだな。

 壁一面のガラスの前に立ち、午後の陽光に浴びるエリア11の街並みをぐるりと見渡したエイジは、柄にもないことを思いついて、しばし放心した。

 かつてはショッピング、歓楽エリアがエリア11のメインエリアで、電車エリア周辺は冴えない住宅地、この東エリアに至っては田舎も同然だったと聞く。それがここになって盛り返されて、雌伏の半世紀ののちに今度は旧市街の逆襲が始まる……のか? 続けて考えてから、詮無い話と結論して、わずかに苦笑した顏をうつむけた。

 いまどき『A金貨』にかがずらわっているようなネット詐欺師に、わかる話ではない。子供の頃、未来の代名詞とは違うが、振り返れば21世紀に入ってからの十数年で世相はすっかり様変わりした。

 車は相変わらず、タイヤで道の上を走っているが、その多くは渋滞情報を逐一教えてくれるカーナビを搭載し、電車の中では雑誌や新聞よりスマホのディスプレイを眺める者のほうが多くなった。

 ペーパーレスは20世紀の終わりごろから囁かれていたものの、小説や漫画をビューワーにダウンロードして読む時代が来るなど、少し前では考えられなかったことだ。昔の感覚に照らし合わせれば十二分に未来――昔、児童向けのテレビや雑誌で未来の想像を掻き立てられていた身からすれば、おもしろくもおかしくもない未来。

 どだい、当時の予定表には、経済危機と大震災で日本が半死の目に遭うなどシナリオもなかった。

 この先、なにがどうなるかなんて、もう考えるのも億劫だ。

 そんな思いを抱かせる景観をほしいままにして、このGBNタワーとやらの上層階に自社のオフィスを構えた何者か――ミカヅキの雇用主は、このご時世をどう見ているのだろうか? エイジは、窓外を見るのをやめて背後を振り返った。

 ヴァルガから帰還し、セントラルエリアへ。それからタクシーを拾って、渋滞気味の道路を走って30分あまり。東エリアと中央エリアの中間あたりに位置するGBNタワーは、IT関連の企業向けに建てられたテナントビルらしく、各階ごとに入退館者を管理するセキュリティ・システムが導入されている。

 ミカヅキの雇用主が自社の入居先を決めた所以で、来月中には事務所開きをし、新たに100人近い社員を雇用する予定だという。

 ちなみにもらった名刺によると、社の名前はアルスター・フレイア。ドイツに本社を置くIT系のベンチャー企業……というのが、ミカヅキの説明だったが、わかったものではなかった。この世に名刺ほど当てにならないものもない。議院の名刺の裏に『よろしく』と手書きで記しておくだけで、先生からの紹介だと勘違いしてくれるカモが何人いたことか。

 もっとも、いまカモにされているのはこちらの方かもしれない。エイジは、先刻から段ボール箱の積み下ろしをしているエイジを見遣った。雇用主は少し遅れてくると言い置いたきり、ミカヅキはエイジなど眼中にない様子でオフィスの隅々を見て回り、それが終わったらかと思うと山積みになった段ボール箱の整理に追われている。

 備品でも入っているのか、おろしては開墾し、サインペンでチェックしてはまた積むのを繰り返しで、その姿は生真面目に雑用をこなす新入社員以外のなにものでもない。だったら客人に冷たいものでも用意しろよというところだが、まだ椅子も机もない空き家のことであるし、全館空調で冷房は作動しているのでとりあえず文句はなかった。

 最近の日本の夏の暑さは異常だ。

 今年も3年連続の猛暑で、8月の平均気温はエジプトのカイロを越えたと聞く。その余熱は例年9月の中旬まで続き、大荒れの台風のとともにぱたりと終了、今度はいきなり冬がやってきたと思うほどの寒さが始まる。地球温暖化のせいかなにか知らないが、日本から秋がなくなるというのも、昔の頃には予期し得なかった旧世紀の実相ではあるか。

 なまじ防音が行き届いているがゆえ、ごうごうと耳につく空調の音に、どすん、ばすん、と段ボールを移動させる音が入り混じる。IT系のベンチャー企業……騙りにしても〝財団〟のイメージからはほど遠い。  

 電力会社とか、同じ情報通信系なら、某電話会社とか、誰もが知っている基幹産業の役員クラスというのが定番なのに。

 多少は冷静になった頭で考えたエイジは、ミカヅキが段ボール箱から小型の機械を取り出すのに気づいた。

 携帯電話にしては大きく、タブレット端末にしては小さい。やや厚めの文庫本といった体で、表面はディスプレイ加工が施されている。

「なんだい、そりゃ」

「うちで開発した新型の携帯端末です。まだ試作品ですけど」

 意外というべきか、素直に答えの目がこちらにむけられる。その瞳に、これまでの印象を覆す無防備な光が浮かんでいた。少しどぎまぎしたエイジをよそに、ミカヅキは新品の携帯端末にバッテリーを仕込み、慣れた様子でディスプレイに指を走らせた。起動の電子音を奏でたそれをもってエイジの方に歩み寄り、見て見ろと言わんばかりに差し出してくる。

 受け取ったエイジは、スマートフォンをごつくした印象のPDAの裏表を眺めた。やはり表の全面がディスプレイで、テンキーの類いは見当たらない。裏をひっくり返してもみたが、カメラのレンズがあるのみで、スライド式のキーボードも装備されていなかった。

「音声入力です。検索したい言葉を言ってみてください」

 取り付く島もない硬さから一転、急に親身になったと思える声でミカヅキがいう。ちらとその顔を見返してから、エイジは半信半疑の面持ちで「アルスター・フレイア」とPDAに吹き込んでみた。デフォルトの待機画面が消え、『Please wait』の文字が現れたのも一瞬、グーグルの検索結果がずらりと表示される。ネイティブな女性の合成ボイスで言い、再度のタッチで会社のホームページらしいトップ画面が表示された。

「各国語に対応しています。検索エンジンの翻訳機能を使えば、外国語のホームページもある程度は見て回れる」

 流れる使い心地は、スマートフォンに出回っている同種のアプリとは根本が異なる。普通の携帯より大型なのは、音声認識に特化したシステムを組み込んでいるかららしい。面白い趣向ではあるが、携帯のトレンドは小型軽量化であるし、ベンチャーが手を出すほどの需要があるほどのものか? 思いつつも、エイジはいったん検索画面に戻り、『このページを訳す』の項目から、再度アルスター・フレイヤのホームページに入り直した。

 検索エンジンの不完全の翻訳のこと、もとはドイツ語の文章の大半は意味の通らない単語の羅列だったが、会社概要などのトピックはなんとか判じられる。『あるすたふれいやについて』、『会社情報』、『コーポレート・ガバナンス』の項目を立て続けにタッチし、取締役のリストへ。そのたびに項目名を発音する合成ボイスを聞き流しながら、5名ほど表示された役員の名前とリストに目を落とした。

 社長はウーリ・アイヒンガー、フリードヒリ・シラー大卒の48歳。以下、ドイツ人の人名が並ぶばかりで、日本人の名前はない。各国支社の項目も見当たらず、エイジはあらためて手の中の携帯端末を眺めまわした。ディスプレイの下端に、箱舟を模したアイコンが刻印されている。ホームページに表示された社章と同じものだ。この携帯端末が本当にアルスター社製のもので、ミカヅキもその一員である証と見るべきか。あるいは、作りこんだ騙りか――。

「行く行くは、IFX理論を応用した独自のネットワークを立ち上げて、ピア・トゥ・ピアの万能端末になる予定です。マニュアルなんて読まなくても、触っただけで誰でも使えるような……」

 ふと流した疑いの視線に気づく素振りもなく、どこか遠くを見る眼差しのミカヅキが続ける。カモの情報を集める必要上、最低限の扱いを知っているというだけで、基本的にパソコンは得意ではない。言っていることの半分も理解できなかったエイジは、

「すげぇ、コンピュータ会社もびっくりだ」

 と感想を述べるのに留め、見た目より軽い携帯端末をミカヅキに返した。

「不景気不景気って言っても、技術だけは着実に進歩してるってわけだ。……未来だもんな」

 一応、GBNのメール機能を通じて、ガストたちにはここの所在を告げて、3時間経っても連絡がこない場合、風林会に一報するよう頼んである。今なにを疑っても始まらないと思い、エイジは無縁に広がるエリア11のパノラマに目を戻した。こちらを見つけるミカヅキの顏がかすかにガラスに映り、すぐに背を向けて段ボール箱の山の方に戻っていく。なにを言われたのかわからない、と言っている訝しげな表情が印象に残り、エイジは肩ごしの視線を細身の背中に据え直した。

 ミカヅキくらいの世代なら、未来という言葉に対する幻想など端からなく、皮肉な感慨も持ちようがないということか? それにしても異質な、他の星から来たような相いれなさを感じ取ったエイジは、「でも、今どきウィンドウのアプリじゃないんだな」と会話をつないでみた。備品のチェックを再開しつつ、「この方が頑丈ですから」とミカヅキは目を合わせずに言う。

「ヤワにして、どんどんアプデさせるのが商売だろ?」

「これはそういう目的のために開発されたものじゃない。本当に必要とする人が、5年でも10年でも使えるようにする。砂漠地帯でも、スコールの中でも――」

 思わずという風に反論したミカヅキは、そこで不意に口を閉じ、こちらに振り向けた視線を決まり悪く、逸らした。そんな慈善事業みたいな心持ちで、消耗品の代名詞と言っていい携帯市場に参入する? ありえない。

 喋りすぎた、と後悔しているミカヅキの横顔をうかがったエイジは、「君の雇用主の方針、か?」と静かに先を続けた。

「そろそろ教えてくれよ、その雇用主ってのを――」

「お呼び立て申しわけありません」

 出し抜けに朗々とした声が振りかけられ、エイジはぎょっと口をつぐんだ。閉じてゆく自動ドアを背に、ひとりの男が凛然と立っているのが見えた。

 ミカヅキがすかさず立ち上がり、神経を凝らす気配が伝わる。まるで大気を命ぜられた番犬だと思う間に、均整の取れた男の体躯が一歩を踏み出し、急ぎも焦らしもしない足取りでこちらに歩み寄ってきた。30代……いや、20代の終わりくらいか? どちらにせよ、あつらえたとわかるグレーの背広に身を包み、朗らかとしか言いようがない表情で近づいてくる男の顏は、同じ若さの張りを湛えていてもミカヅキとは位相が異なる。

 いや、ミカヅキとて表情次第ではなかなかの気品のある顔立ちなのだが、こちらは臆面がない分、より純正品の輝きというか。大らかな育ちのよさが全身から滲みだし、見る者を気おくれさせるほどというか。

「来てくれてありがとう。やっと会うことができた」

 エイジを据えた視線を動かさず、すぐ目の前で立ち止まった男が右手を差し出す。反射的に応じそうになるのをこらえ、エイジは一歩退いた目で男の顏を捉え直した。

 こいつがミカヅキの雇用主……アイネアーク社の関係者であることは間違いない。代表取締役の名前は何だったか? そんな歳には見えないし、顔立ちも言葉も正真正銘の日本人だと思えるが、この男が――。

「あんたが、その……」

「社のホームページに記載されているのは、経営を委任している現地の方の仲間です」

 先回りの言葉を並べて、男は微笑した。笑うと、年齢の読めない目の光がますます子供に近づくようだった。自分で起業したのか、買収したのか。仕事柄、いわゆるIT長者と呼ばれる連中の顏と名前はあらかた頭に入っているが、アルスター社の存在を含め、こんな顔はどこの資料にも載っていない。新興勢力にしても、携帯端末を自社開発するほどの規模をもつ会社を所有しておいて、これまでまったくノーマークだったということはないはずだ。

 唯一、〝財団〟の関与という可能性をのぞいて――。胃袋がぎゅっと収縮するのを感じながら、エイジは自分からは逸らさぬと決めた目を男に向けた。男は空振りに終わった右手を引っ込め、少しだけ笑みの量を低くすると、心持ち鋭くなった視線をエイジのそれと絡め合わせた。

「ぼくのことは〝A〟とお呼びください」

 言うに事欠いて……とはこのことだと思ったが、男にはふざけている気配は微塵もなく、エイジも笑い飛ばす心境からは遠かった。核心に一歩近づいた視線と興奮を押し、「……〝A〟、ね」と低く呟く。〝A〟と呼ばれた男は身じろぎひとつしなかった。

「我が社の資金繰りに協力してもらいたいのです。あなたの技術を使って」

 技術、の一語に隠微なニュアンスをふくませて言うと、〝A〟は急に視線を外して歩き出した。棒立ちのエイジの傍らを通り過ぎ、窓際の方へと近づく。

「失礼ですが、あなたのことを調べさせてもらいました」

 と続いた声を、エイジは背中で聞いた。

「本名、金家栄治。東京都出身、27歳。中学を卒業してすぐに家を飛び出し、現在の職につく。大学は通信制ど修了。専門は、さまざまなVRММОにて、古参ランカー相手に架空資金詐欺で、今はガンプラバトル・ネクスト・オンラインに籍を置いている。ネタは古典とされる『A金貨』ネタを現在に至るも使う。仕事もモットーは手間隙かけてハイリターン。去年、Aランクフォースで打った仕事をミスして以来、偽の個人情報とアカウントを取得して、風林会の庇護下に入るが、専属ではない。基本的に仕事の成功率は高く、指名手配中の身でありながら、いまだ逮捕歴なし。社交的な性格とは裏腹に人嫌いの気があり、家族、恋人、ペットもなし……」

 他人から自分の履歴を聞くのは楽しいものではない。まして、それをすらすら暗唱するような相手であればなおさらだ。エイジは大きく息を吸い込み、睨む目を〝A〟に振り向けた。

「気を悪くなさらないでください……と言っても、無理ですね」

 と困ったような笑みをうかべた〝A〟の背後で、灰色に鈍ったエリア11の街並みが奇妙にまぶしく思えた。

「我が社の社運を賭けようというのです。人選は慎重にせざるをえなかった。ご容赦ください」

 そう言い、〝A〟はミカヅキに目配せをした。秘書というには険を漂わせすぎた細身が〝A〟の傍らに歩み寄り、懐から取り出した小さな物体を手渡す。そっと手のひらで押し包んだそれを腰に回し、〝A〟は再びエイジと視線を交らわせた。

「あなたにもご興味のある仕事だと思います。嫌らしい言い方ですが、報酬は思いのまま……と言っておきましょう」

 さすがに腹が立ち、エイジは無言で5本の指を突き立ててやった。

 小僧が、安く見るな。

 目で伝えた言葉を受け止めたのか、やや気圧された様子の〝A〟が顎を引き、しばしの間をおいてから、ふむ、と息をついた。

「50億……ま、いいでしょう」

 大真面目に返ってきた声に、腰が砕けそうになった。吹っ掛けて5億のつもりが、50億とは。連邦準備銀行でも襲う気か?

「こりゃ、一体、何の冗談なのかね」

 唸るように呟き、エイジは〝A〟の顏を睨み据えた。その口が開かれるより先に、

「俺は〝財団〟の人間に会えると聞いて、ここに来たんだ」

 と硬い声を押しかぶせる。

「『A金貨』を管理運営する〝財団〟……。それが本当に実在していて、あんたがその一員なら、わざわざ外部の人間に仕事を依頼する必要はない。ヤバい仕事なら、傘下にいる本筋のブローカーに当たればいいし、第一莫大な資産があるはずだ」

 今にも胸倉をつかみ上げそうな気配を察したのか、ミカヅキが殺気をみなぎらせて〝A〟の傍らに近づく。〝A〟は微かに動かした手首でそれを制し、笑みを消した顏をエイジに向けた。

「それが、縁もゆかりもない詐欺師の『技術』を借りたいってのは、どういう了見だ? あんた、前に俺がハメたヤツの知り合いかなんかで、俺に復讐しようって魂胆なら――」

「信じているんですね」

 俺のバックが黙っちゃいない……と出かかったハッタリを呑み下し、エイジは予想外の口を開いた〝A〟を凝視した。

「『A金貨』のこと。信じているだけじゃなくて、調べてもいる。もう何年も……。仕事に活かすためではなく、その余禄で仕事をしているかのように」

 初めて見せる真摯の瞳に、覗く者を無条件に引き込むような不可思議な色があった。奥底の闇が目を醒まし、同じ波長に共鳴して身じろぎするような、あの不快な波が出口を見つけて荒れ狂うような。違う、という言葉を呑みこんだまま、エイジはエリア11のパノラマを背負った〝A〟の双眸を見つめ続けた。

「そうして『A金貨』詐欺を繰り返していれば、いつか本筋と接触できるかもしれない。そう考え、実行してきた原因は察しがつきます。でも理由となるとわからない。黒須修三は、あなたにとっては恩師と呼べる存在だった。しかしそのためだけに、それから3年以上もの間――」

「見込み違いだ」

 どうにかそれだけの言葉を吐いて、エイジは〝A〟に背をむけた。これ以上その目を見ていると、自分が制御できなくなる恐怖があった。頭を振ってぐらついた視界を立て直し、雲を踏んでいるような足を出口の方に踏み出す。まずはここから離れることだ、こいつの目の見えない場所に行くことだ。考えるのはその後と決め、大股で歩き始めたその時、〝M〟のとどめの一声が深々と背中に突き立てられた。

「『A金貨』を盗んでもらいたい」

 殴られたような……というのとは違う、物理的に頭蓋を揺さぶられた衝撃が全身を突き抜け、足が動かなくなった。

「〝財団〟から、あなたの技術を使って」

 と続いた声を遠くに聞きながら、エイジは背後に立つ〝A〟に振り返った。

「『A金貨』を盗む……?」

 国家を盗むというのと同じくらい、非現実な言葉の組み合わせに思えた。〝A〟は口元にわずかな笑みを取り戻し、「詳細はこれに」と告げて、右手に隠し持っていたものを掲げてみせた。

 100円ライターを一回りの小さくした細長い物体は、USBメモリーの類と知れた。思わず近づき、手を伸ばしかけたエイジを正面に捉え、〝A〟の唇に不敵な笑みが浮かぶ。

 育ちのよいお坊っちゃんの表皮がやぶれ、得体の知れないなにかが姿を覗かせるのを監感じ取ったエイジは、USBメモリーに触れつつあった指先を危うく硬直させた。

 こいつは、なんだ?

 ほとんど畏怖に近い感覚に捕らわれたエイジから目を離さず、〝A〟はこの先、生涯忘れられなくなる言葉をエイジに投げかけた。

 

「ぼくと一緒に、世界を救ってみませんか?」

 

 と――。

 

 

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