「……不可解だ。実に不可解だ。あなたもそう思いませんか?」
東部訛りの英語が、あからさまな苛立ちを含んで理事長執務室に響く。椅子を蹴り、執務室の机から離れたマイケル・プログマンの姿を、呂名信彦は目だけ動かして迫った。
「あなたのような立場の人には別の感想もあるでしょうが、日本のGBNは世界でも指折りの安全な場所だ。ツール規制は厳格だし、政情も安定している。日本のGBNへダイブした外国人ダイバーが最初に驚くことと言えば、それですよ。『悪質なツールを売りつけるダイバーがいないなんて!』とね。その日本支部で、しかも非戦闘区域で昼日中に銃撃戦が起こり、高速道路には警備のモビルスーツが墜落した。犯人は逃亡し、1週間が過ぎようというのになんの手がかりも得られない。現場には〝対策室〟精鋭のダイバーたちが居合せたのにも関わらず、だ。これが不可解でなくてなんです?」
(高速道路は爆破されていません。墜落したモビルスーツが1機横たわっているだけです)
オンフックにされた机上の電話には、淡々とした若い男の声が返ってくる。これもあからさまに揶揄を含んだ言葉だが、ネイティブと錯覚するほど流暢な英語を操る声の主は、これを声音に出したりはしない。間違いを訂正しただけと言わんばかりの慇懃な声は、〝対策室〟にあって局長に命じられた男のものにちがいなく、呂名は失笑ともつかない鼻息を漏らした。「それは重要ではない」と応じたマイケルの声がこわ張り、電話に向けられた視線が険しさを増す。
「重要なのは、あなたの部下がまたしても謀反を働いたという事実の方です。そう、またしても、だ。木城一尉は〝A〟の、呂名英一の謀議に与していた。その彼女の拘束もせず、現職に留めてあろうことか事案関係者の身柄確保に差し向けた。その結果がこれなのだということを、責任者たるあなたは自覚しているのかいないのか。これでは〝対策室〟が組織ぐるみで事に加担しても取られても仕方ないではありませんか?」
(現在、事実関係を捜査中ですが木城一尉が事案関係者と共謀したという証拠はありません。前後の状況、また車載カメラのモニター記録を鑑みて、我々は強制的に連れ去れさられたものと考えています)
「彼女の意思ではなかったと?」
(はい)
「〝対策室〟の監視をすり抜けてこちらへとやってきたミカヅキと、エイジという金家栄治とかいうダイバーに拉致されたということですか? 訓練を受けた〝対策室〟のダイバーが?」
(はい)
「……そのモニター記録とやらを拝見させていただきたいものですね」
(部外秘の資料です。民間の方にお見せするわけにはまいりません)
木で鼻をくくる、とはこの声のことだった。あっけにとられた体で息を吸い込み、ゆっくりと吐き出したマイケルが「どうも状況の認識にずれがあるようだ」と呻くようにいう。
非公開情報機関の長が通り一遍の人材であるはずもないが、この内局上がりの局長はじつに手強い。たかが属国の官僚を相手に、マイケルが攻めあぐねるというのも見物ではあったが、捜索状況に進展がなければ興味が続く者ではなかった。口をつける気になれないコーヒーをテーブルの奥に遠ざけ、呂名は午後の陽光が差し込む窓に目をやった。
木城深雪の失踪――局長の見解では拉致だそうだが――から、すでにまる5日。その間に関係機関のなかを吹き荒れた嵐をよそに、今日は世は事もなしと言いたげな秋晴れの空が窓の向こうにあった。運営を牽制しながらの捜索活動は一向にはかどらず、米つきバッタの本部長ではらちが明かぬと、局長との直談判を取り付けるためにマイケルが呼び出されたのであったが、電話を繋いでしまえば他にすることもない。深雪の安否は気になるものの、彼女が意思に反して連れ去られてたのでないことは事件の経過から察しがつく。2度目の任期を満了しつつある古狸の局長も、それを承知で煙幕を張っているのだろう。(本事案においてはアメリカGBNとの情報共有が不可欠である認識しておりますが、国内で起こったことは我々の専管事項です。調査も半ばの段階での個別資料の開示は――)と続く冷静な声をほとんど聞き流し、呂名は数日振りに訪れた理事長執務室を漫然と見渡した。
〝財団〟が作られてから数十年からだから、もう10年近くこの部屋に通っていたことになる。月に一度の理事会の他、〝財団〟絡みの事務や決裁はすべてここで行っていたので、通った回数も決して少なくない。
数年前に妻が病に倒れて以降、本業たるGBN顧問の仕事は在宅で片付けることが多くなった事実を鑑みれば、アルスター・フレイヤの社長室に通った回数とさして変わらないのではないか。そのせいかどうか、自宅の書斎と同様、ここにもカルチェラタンの香りがそこはかとなく染みついていたものだが、いまはコーヒーの強い香りに押されて片鱗も感じられない。新しい主が愛用するオーデコロンの匂いも加担して、もはや他人の部屋という赴きだったが、思ったほどの喪失感や不快感はなかった。引っ越した後に、他人の家になった我が家をたまさか目にした気分と言うか。もう喚起される感傷もなく、物珍しさと居心地の悪さが等分にあるのみというか。
なんなのだろう。
更迭されてからまだ1週間しか経っていないと言うのに、不思議なほどさばさばしている。事件が気にならないではない。誰が段取ったかはともかく、深雪の身を案じる気持ちもある。しかし、それ以上に、どこか身軽になった自分を感じている。まるで憑き物が落ちたかのように……いや、合わなくなった眼鏡を取り替えた直後のように、周囲のものすべてが妙に繊細に見える。この執務室は、こんなにも味気ない場所であったか。かくも息苦しい部屋に自分はいたのか。組織の長の執務室など、どこもそう代わり映えはしない。アルスター・フレイヤの社長室とさほど造りは変わりないのに、この部屋の閉塞感はいったいどうしたことか。
机の上に置かれたノートパソコン――その向こうの画面にいるアローンというELダイバーがいるのもそう感じさせる一因かもしれない。ふと思いつき、呂名はネットワークの向こうにいる銀髪のハンターを視界に入れた。
コウモリとあだ名されたドレル・中村の置き土産に相応しく、GBNで育ったELダイバーでありながら、フェアチャイルドの殺し屋に仕立て上げられた青年。ほとんど身じろぎもせず、マイケルの一挙一投足を見守る様は忠実な番犬そのものだが、彼の本当の主人はマイケル・プログマンではない。むしろ自分も見張られている側だということに、マイケルは気づいているだろうか。その地位も権限も、長年培われてきたルールに貸与されたものでしかなく、自分の自由になるこどひとつもない。この部屋に閉じ込められ、決まった役割を演じさせられているだけの自分を、マイケルはどこまで――。
ふとアローンと目が合い、呂名はとりとめのない物思いに蓋をした。端麗な顔だと言うのに、表情のないガラス玉のごとき瞳にぞっとしつつも、負けずに見返した。
「詐欺師の方は問題じゃない。留意すべきは、ミカヅキの方だ。彼女はヲチカタ出身のELダイバーだと聞いています。ヲチカタに居る分は放置しておいてもよかったですが、エリア11付近に出現して〝対策室〟のエージェントと組んだとなると、事情は違ってくる。注目コロニーのELダイバーという肩書きを利用して、Gチューバ―相手にこのコロニーの実情を訴える戦術も可能だということです。無論、そんなものは3日で封じ込められます。ですがヲチカタでの対サイバーテロ戦を予定しているアメリカGBNには大きな痛手になる。おわかりでしょうね? 他の事ならともかく、対テロ戦略を妨害された我が国がどんな態度に出るものか。その瞬間から、木城一尉はマスダイバー……テロリストと認定され、彼女をかばい立てしたあなたたちにも嫌疑が及ぶ。そんな事態を招いた政府も同罪だ。仮にも同盟国がテロ支援に成り下がるなど――」
(お言葉ですが、まだすべての仮定の段階でその3段論法は受け入れられません。ご懸念のミカヅキの出自についても、我々はまだ提報を受けたばかりで脅威評価もできていない)
「悠長なことですね。運営経由で情報をお伝えしてから1週間以上経つはずですが」
(国外のことでありますし、1週間では確実なことは申せません。しかし予断を許していただけるなら、ご懸念の事態はまず起こらないと断定してよいかと)
「根拠は?」
(現在のヲチカタ・コロニーは国家として認められており、政治的にも、いちELダイバーの影響を持つことはないということはないというのがひとつ。ミカヅキがGチューバ―を通じてなんらかの告発を目論んだとしても、我々はそれを事前に察知し、必要なら阻止する手段する手段がある。インターネット経由でしょうから事後対処になりますが、為された告発を打ち消すのはさほど困難なことではない。他ならぬ〝対策室〟の一員として、木城一尉はそれを知悉しているというのがひとつ)
事前に会話内容を想定していたとしか思えない淀みのなさで、局長は淡々とした声を重ねる。世紀の変わり目のころ、40代の若さで内事本部長に就任した時から少しも変わらない。彼はそういう男だ。普通の役人なら、アメリカの代表者のような顔をしている――実際、その力もある――マイケルを前にすれば、平身低頭でやり過ごすしかないものだが、彼にはその手が通用する相手かどうかを見極める鋭い観察眼がある。土下座外交で引き出せる譲歩がないのなら、怒らせたところで結果は同じ。冷めた現実主義と、それを攻撃的なほどに機能させる秘めた熱情が、この〝対策室〟の最高責任者にはある。
「そういう人物なら、無駄なことはしない。ミカヅキを使っての告発劇はあり得ないと?」
(少なくとも国内では。そして、我々の監視をかいくぐってコロニー外に出ると言うプランも、現実外とは言えません)
「たいした自身だが、そのあなた方にも〝A〟は捕らえられなかった。あの詐欺師とミカヅキがロシアに行くにも止められなかった」
(木城一尉が調査活動をかく乱してきた結果です。彼女はもう組織にはいない)
「そう、逃亡中だ。自発的にせよ拉致されたにせよ、もうまる5日も優秀なあなたたちの目を眩ませている。その事実が日米関係に重大な支障をもたらすだろうという情報は、共有していただけたのでしょうね?」
(ご意見は拝聴しました。引き続き捜索に当たりますが、情報共有と言えばこちらからもお伺いしたいことがあります)
「なにか?」
(ヲチカタ・コロニーで、アメリカ運営が行動を起こすという情報の確度です。あの国の反GBNゲリラとサイバーテロ組織が地下で繋がっていることはもう10年も前に運営部のレビューで指摘されています。しかしそれは、政情の安定が安定しない後発国の業病のようなもので、ヲチカタだけが特別という事はない。ここ最近、ゲリラとサイバーテロ組織との連携が強化されているとのことですが、先方にルートがあるわけでもなし、うちのサイバー省も少々困惑しておりましてね。なにか大きなテロ事件が起こったのならともかく、このタイミングでヲチカタが槍玉に挙げられる理由が見つからない。ヲチカタで〝A〟こと呂名英一が拘束されたことは偶然は偶然なのか、そもそも米運営介入の情報は事実なのか。本事案の関連性を含め、にわかに関係筋の注目度が高まっているのです)
くそっ! というマイケルの声が聞こえてきそうだった。無論、局長は真相を知っているし、関係筋に情報を督促されたという事実もない。むしろ運営やサイバー防衛省は、事態と関わり合いになるのを避け、米運営がヲチカタに介入する不自然にも頬被りを決め込んでいるに違いなく、マイケルもそれは承知の上で声を喉に詰まらせている。
後ろ暗いのはお互いさまと突きつけてきた〝対策室〟のトップに、フェアチャイルドの権益代表者がいかなる返答を寄越すものか。「わたしを民間人と指摘してきたのはあなたですよ。運営のやることなど、知るわけがない」と苦しい言い訳は耳にしたものの、それ以上の興味はやはり続かず、呂名はまた益体のない物思いに沈み込んだ。
事件がもちあがったころの自分。
今の自分とは明らかに異なる。
この捨て鉢な心境はいつから始まったのか、ここ1週間の無様を頭に列挙しようとして、次男坊の顔ひとつが出し抜けに脳裏に浮かび上がった。
正確には、それは呂名英一ではない。
数日前、虜囚となった彼と面会した時に、その瞳に宿った自分の顔。遠い昔に葬ったはずの魂、この身の奥深くに封印した本音が、息子の形を取って立ち現れたその顔だ。あれからだ、と呂名は鈍い衝撃の中で確信した。あれから周囲のすべてが色あせ、これまで以上に意味のないものに見えるようになった。英一の中にいる過去の自分と目と目を合わせて、この身のうちで何かが変わりつつある。
こんなものであったか。
自明かつ不変の存在としてそこにあるとばかり思っていたのに、〝システム〟とはこの程度の干渉で揺らぐものであったか。その虜であった生涯に思いを至らせ、見えない檻の存在を知覚させるほどに――。
「とにかく、一刻も早く彼女らの身柄をおさえることです。できなければ、〝対策室〟の来年度の予算はそっくり組織の解体費用になる。外交的に孤立した日本が、それだけの予算を計上できる保証もない。事態の速やかな収拾を望みます」
一方的に言って、マイケルは叩くように通話ボタンを切った。握り拳を額に当て、「まったく……」と吐き出しながら、前触れなく呂名の方に視線を転じる。物思いから立ち戻りきらぬまま、呂名は一歩遅れてその青い瞳を見返した。
そのタイミングのずれに、なにがしかの異変を感じ取ったのかもしれない。口もとにだけ笑みを浮かべ、「どうかされたのです?」とマイケルは問うた。「心ここにあらずのようですが」
「別に……」
「そうですか? 手強い局長にやり込められていたのに、加勢もしてくれないで知らん顔だ。まるで……」
つっと目を細め、マイケルは続けた。「まるで、敵に挟まれた気分でしたよ。正面の敵と戦っている隙に後ろから刺されそうな」
PCの画面のアローンの視線が、ひたとこちらに据えられる。おまえもグルか――そう詰問するマイケルの目と目を合わせ、呂名はちょっとりつ然とする気分を味わった。
この自分が、フェアチャイルドの敵になる。
〝システム〟に楯突く?
弟や、我が子たちと同じように?
父の理念を継いで?
「……甥っ子を亡くし、息子は死刑台に立っている。その上、今度は姪っ子が謀反人になった男の心境を、少しは汲んでもらいたいですな。わたしは機械ではない」
なにを、いまさら。
笑い飛ばそうとして果たせず、呂名はマイケルをまっすぐ直視した。じっと見返した後、不意に顔をうつむけたマイケルは、「それはそうです。お許しを」と言って口もとの笑みを消した。動揺の収まらない胸を抱え、呂名もややかげりを帯びた碧眼を視界の外にした。
「わたしもいささか余裕を失っているようです。ヲチカタの件では、かなりの無理をしましたからね。これで姪御さんが騒ぎ立てて、米運営に横槍を入れられたら、政府に働きかけたフェアチャイルドの面子は丸潰れだ。その責は、すべて『A金貨』の管理責任者であるわたしが負うことになる」
執務机に手をつき、窓1枚隔てた向こうにある外界に遠い眼差しを向ける。逆光に浮きだつその背中が、ひどく寄る辺ないものに見えた。この男も自分と同じ、せざるを得ないからそうしている〝システム〟の囚われ人――いつか抱いた感慨を手繰り寄せ、小さく嘆息した呂名は、そうか? と疑いを挟むもうひとりの自分にぎょっと目を見開いた。
事実上、〝財団〟はフェアチャイルドに接収された。おのえは更迭され、マイケルがこの執務室の新たな主人となった。おまえはもはやこの牢獄の虜ではない。その役はマイケルに引き継がれた。〝システム〟という檻の看守のようでいて、実は自分が囚われている哀れなマイケル。どこへ行こうと、どこに居ようと、この牢獄からは逃れられない。
では、おまえは?
この牢獄から追い出され、何者でもなくなったおまえは、これからどこに行くつもりなのだ……?
「本家の人間ならやり直しもきくでしょうが、外様の私には再起のチャンスも与えられない。わたしにだって家族はある。察してくれとは言いませんが、いまはあなたのご子息が引き起こした事態を収拾することが――」
唐突に鳴り響いた電子音が、マイケルの口を封じ、もうひとりの自分の声をも消し去った。必要以上に跳ね上がった胸を押さえ、呂名は呼び出し音を発する机上の電話を見やった。
普通回線より音の間隔が短い。秘書室を通さぬホットラインの呼び出し音だ。「まただ」とマイケルがうんざりした声で言う。
「あなたの引っ越しを知らない人たちから、日に3度はかかってくる。通知してあげなさい」
限定したつもりでも、ホットラインの番号を知る人間は50人は下らない。〝財団〟の地殻変動を察知すれば、人づてに聞き出した掛けてくる者もいるだろう。当面と言っていたはずの更迭が、いつの間にやら引っ越しに変わっていることに内心苦笑しつつ、呂名は重い腰をソファから上げた。
オンフックの通話ボタンを押したマイケルと入れ替わりに机に近付き、「はい」と日本語で応じる。一拍の間をおいて、
(そこにマイケル・プログマンさんはいらっしゃいますか)
そう、日本語の声がスピーカーから通じた。
知らない声――だが、なぜか肌が粟だった。びくりと反応したアローンの気配を背後に感じた呂名は、
「あなたは?」
呂名は問うた。今度は間を置かず、
(マイケルさんとお話したいんです)
と、涼やかな男の声音で返ってくる。
マイケルという単語は聞き取れたのだろう。目顔でアローンに通訳を命じたマイケルを肩ごしに確かめ、呂名は通話ランプを点す電話に視線を戻した。ナンバーディスプレイに携帯電話らしい番号を読み取り、「彼は日本語が不得手です。よければわたしが通訳をたまわるが?」と慎重に応じる傍ら、電話の録音スイッチを押す。こちらの空気をどこまで読み取っているのか、(ああ、そうですよねぇ)と応じた電話の声はひどくのどかに聞こえた。
(フェアチャイルドの若殿様が、日本語なんてローカルな言葉を話せるわけがない。でもまぁ、通訳は必要だと思いますよ)
「どういう――」と言いかけて、回線が切り替わるような音が電話の向こうで張った。少しの沈黙の間を挟んで、聞き知った英語の声が流れ始め、呂名は頭が真っ白になるのを感じた。
(〈現在、ヲチカタ・コロニーは国際サイバーテロ組織の拠点になっている。このテロ組織が現地の……〉)
間違いなく、マイケルの声。それだけは理解した頭に、「なんだ、これは……」と現在のマイケルのうめき声が重なる。続いて(〈初耳だな〉)と別の男の声が電話から流れ、(〈多くのダイバーにとっては、ヲチカタ・コロニーというエリア自体が初耳ですよ〉〉と過去のマイケルの声が応じて、呂名は目の前の光景がぐらりと傾くのを感じた。
数日前、まさにこの部屋で交わされたマイケルと福田の会話が、電話の向こうから聞こえてくる。その場で記録され、何者かの手に渡ったのだろう音声データが、当時のひりついた空気とともに再生されている。
いったい、なぜ。
誰が?
どうやって?
矢継早に考え、呂名はその時の様子と現在の理事長執務室に重ね合わせた。
福田は先刻まで座っていた来客用のソファに収まり、マイケルは確か窓際に立っていた。自分はこの執務室の向こうに座り、福田を説得しようと――。
どくん、と音を立てて心臓が跳ね、呑み込んだ息が出せなくなった。
違う。
説得しようとした相手は英一だ。そのために、福田に彼の携帯電話を返した。おまえからの電話なら英一も取るはずだと、〝対策室〟が没収したスマートフォンを福田に手渡した。
彼はそれを受け取り、それから……それから、どうなった?
(〈火のないところに煙は立たない。しかし小火を大火にする方法はいくらでもある〉)
凍りついた呂名を嗤い、過去のマイケルが言う。現在のマイケルは蒼白な顔で立ち尽くし、PCのアローンは相変わらず無表情だったが、電話を見つめる目の奥には暗い光があった。
(〈近々、米運営の一掃作戦が展開される貧しいエリア。いかに整備が行き届こうと、そんなエリアに投資する企業はいない〉)
また回線の切り替わる音が響いて、過去の声は止まった。(聞こえたよな)と日本語の声があとに続き、呂名は我に返った思いで電話に目を戻した。
(これ、マイケルさんの声だろ。知ってる奴が聞けば、すぐにわかっちゃうんじゃないの。マスコミがとびつくかもなぁ。Gチューバ―も。きっと)
砕けた口調でも、芯に刃物の鋭さを宿した声音が言う。アローンの通訳に無言で聞き入るマイケルを横目に、呂名は机に両手をついて電話を睨み据えた。
(要求はひとつだ。すぐに呂名英一を解放しろ。でなきゃこいつをGBNのエリア中に流す。情報操作はお手のもんなんて、調子こいてんなよ。Gチューブとかウィキとか、いくらでも手段はあるんだからな)
英一を解放しろ。その一語が耳の奥で爆発し、体がひと揺れするのが感じられた。呂名はとっさに足を踏ん張り、「音声だけの記録に証拠能力はない」と早口に押し被せた。
「Gチューバ―も黙殺する。GBNに流しても、封じ込める方法はいくらでもある。それはわかってるんだろうな?」
(わかってますよ。でもマイケル氏が詰め腹を切らされる結果に変わりはない。突然の心臓麻痺か、自殺にしか見えない死体がニューヨークの港に浮くか。どっちもあんまり楽しい結末じゃないはずだぜ)
「君は、誰だ……」
(こっちもあんたが誰かとは聞かない。ここは情を抜きにしてビジネスライクにいきましょうや。英一を解放すれば、この音声記録が表に出ることはない。簡単な話です。マイケルさんにとっても、悪い取引じゃないはずだ)
「深雪……木城くんはそこにいるのか? 話がしたい」
(そいつは無理だ。彼女には彼女の仕事があるんでね)
「仕事……?」
(一応、自覚はしてるんだよ。ほら、ブレイク・デカールっツールが暴走して世界中のGBNをログアウトできなくなったっていうさ。あれほどインパクトのあるネタじゃないだろ? みんなヲチカタなんてエリアがあることもろくに知らないんだから。ちょいとした細工が必要なわけ)
「どういうことだ」
(言った通りさ。これから、マスコミが黙殺できない状況を作り上げてやる。フェアチャイルドと〝財団〟の嘘が勝つか、零細詐欺師の嘘が勝つか。結果が出るまで、英一は大事にしたほうがいい。これは忠告だって、マイケル氏にしっかり通訳を頼んます)
不遜で挑発的な物言いの最後に、そっと付け足された敬語が違和感になって耳にこびりついた。
この男は、自分が誰か知っている。〝財団〟の理事長であり、また呂名英一の父親であることがわかった上で話している。
そんな状況ではないし、不適当な表現になることも承知だが、この脅迫者には自分に対する遠慮があるのだと呂名は直感した。呂名英一という友人の父親に対する、距離を測りあぐねた遠慮と最低限の敬意が。
君は……と口にしかけたところで、電話は一方的に切れた。しばらくはなにも考えられず、呂名は不通音を鳴り響かせる電話に目を落とし続けた。GBNのセーフハウスにいたアローンがシステムウインドウで番号を表示させ、通話機能のボタンを押す。「通話の発信エリアを調べたい。番号は――」と話し始めた抑揚のない声を聞きながら、呂名はオンフックの通話ボタンを切って不通音を止めた。
無駄だろう。
深雪も1枚噛んでのことなら、位置情報は間違いなく欺瞞されている。表示された番号もおそらくでたらめだ。携帯の応答を待つアローンを尻目に、呂名はマイケルを見た。彫像さながら凝り固まった顔が、目を合わせた途端にひとつ瞬きをし、間を取り繕うように前髪をかき上げる。「ジャッブのやりそうなことだ」と毒づいた声は、独り言ともつかぬ響きをもって耳に刺さった。
「胸騒ぎはしていたんです。ここで福田氏と話した時、妙に絡んでくるな、とね。最初からそれが目的だった。わたしから言質を引き出すために、彼は捕まってみせた。自分の命と引き換えに、福田氏は爆弾を残したわけだ」
こちらに視線を流したものの、その目は呂名を見ていないし、呂名に話していない。「あの詐欺師……奴は、ただの雇われ人じゃなかったのか……?」と独白を続け、ふらふらと窓際に歩み寄ったマイケルは、窓ガラスに手をついたきりまた動かなくなった。呂名は目を伏せ、「計画ずくということはないだろう」と英語で伝えた。
マイケルは何も言おうとしない。
「あなたがヲチカタに仕掛けた工作を、福田はここに来るまで知らなかった。会話を記録する手立てもなかった。わたしが携帯を差し出すまでは……」
そう、福田は手渡された携帯を上着の懐に入れた。その後、マイケルを長い論戦が始まって、彼に携帯を渡したことは完全に失念していた。〝対策室〟で入念なボディチェックを受けた上でここに連行されたのだから、言わなければマイケルの護衛たちがあらためて検分するはずはない。誰に咎められることもなく、福田はここの会話を記録したスマートフォンを手に解放された――呂名の目の届くところでの処理は避けるべきという、マイケルのバランス感覚によってもたらされた半日の猶予とともに。
「魔が差した……他に言いようがない。わたしの責任だ。あなたの非では――」
窓に手をついたまま、きっとこちらをにらみ据えたマイケルの視線に、先の言葉封じられた。本当か――激情を細糸1本繋ぎ留めた碧眼にそう問い詰められ、呂名は答に窮した体を硬直させた。
本当に魔がさしただけか。あなたは意図的に福田を携帯を渡し、知らぬ顔をしていたのではないか。いや、例え偶然の経緯だったにしても、こうなることはまったく予想していなかったと言いきれるか。その期待が、半ば意識的に携帯のことを忘れさせたのではなかったか。そうではないと、あなたは身命に賭けて誓う事ができるのか。
どんな時にも紳士的な態度を崩れなかった男が、露骨に疑った表情を浮かべて――否、まるで追い詰められた獣のごとく怯え、猛り、問うている。無理もない。本人も言った通り、フェアチャイルド財閥におけるマイケルの立場は決して盤石ではない。ヲチカタの封殺作戦が現実に進行中である以上、この福田との会話記録は彼の命にも関わる。福田との血縁関係を差っ引いても、疑われて当然なのが自分の立場だ。〝財団〟のこと、GBNと日本の将来を考えるなら、ここは全力で疑いを晴らしておかなければ。言葉を尽くし、思いを尽くし、潔白を訴える以外にない。いい悪いの問題ではなく、これもまたせざる得ないことだ。ひと息に考え、返す言葉を探した呂名は、しかし一方で急速に冷めてゆく自分を感じてもいた。
背負った権威で常に周囲を威圧してきたマイケルが、いまはひどく矮小に見える。息子のような年齢のいちアメリカ人。まだまだ未熟な若僧に見える。こんなものであったか、と呂名は今日2度目の驚きを覚えた。
彼も人間、そんなことはもうわかっている。自分と同じ、せざるを得ずにそうしている男だと了解するからこそ、自分はこれまで彼の方針に口を出さなかった。
英一はもう死んだものだと思って、その処分を預けてもきた。
しかしこれは、そうした心理の働き方とは違う。いまマイケルが怯えているのは、彼が〝システム〟の囚人であるからだ。他の生き方があるとは知らない、知ろうともしない囚人であるからだ。そう感じる自分に戸惑い、戸惑うことにもバカらしくなった呂名はは、昨日までの自分なら絶対にしなかっただろう行動に出た。
目を逸らすことなくマイケルを受け止め、嗤ったのだ。
さぁ、どうですか。もしかしたら、そういう心境もあったかもしれませんな――。
無論、声に出したりはしない。表情も動かさなかったつもりだが、口もとは嗤ってしまっていたのかもしれない。瞬間、マイケルは頬をこわ張らせ、恐怖と敵意が半々の色を碧眼に宿した。すぐにそれを消したり、呂名から視線を逸らすと、「アローン」と鋭いひと声を放つ。
「わたしは帰国する。すぐに準備させろ。ここにはもう、信用に足りる相手はいないようだ」
アローンは無言でウインドウを閉じ、違う番号を撃ち込んでいく。「おまえも同行しろ。呂名英一も連れていく」゜と続けながら、マイケルは早足で執務室に近付き、アローンを映している自前のノートパソコンからネット回線のケーブルを引き抜いていた。
「こちらは3時間もあれば出発の支度がととのう。すぐに飛び立てるように準備しておけ。〝A〟の出国手続きは外務官僚にひと声かけておけばいい。担当は――」そこまで言って、その〝A〟の父親を目前にしていることを思い出したのか、マイケルは呂名と目を合わせた。「詐欺師の忠告通り、身柄は丁重に扱え。奴らを叩き潰すまでは利用価値がある」
そう言い、文句があるか? と言いたげにじっとこちらの顔を見据える。彼ほどの知性を持った男が、こうも露悪的な態度を取らなければ己の足場も確認できない。憐れに思いはしても、他に感じることはなにもなく、呂名は無言でマイケルの目を見返した。眉間に皴を寄せたのも一瞬、マイケルはいっさいの表情を消してノートパソコンに向き直り、あとはひと言も発さずにシャットダウンの作業に取りかかった。
まるで夜逃げのあわてようだと思いつつ、呂名は所在のなくなった体を窓際に退避させた。机の引き出しを開け閉めし、アタッシェケースに書類を詰め込む傍ら、マイケルも自分の携帯電話を耳に当てて誰かと話している。
ここにはもう、信用に足り得る相手はいない――そうだろう。
〝財団〟の理事長までが敵対的な態度を転じ、そのインフラも人材も信用できなくなったいま、マイケルが日本国内でできることはない。ニューヨークにあるGBN支社に戻った方が、機密安全も確実にできるし、動かせる手も増える。
その判断は正しい、と呂名は胸中に紡いだ。
常に2手3手先を考えて最善の対処行動を取る。それが君の美点だ。が、君はやはり気づいていない。君自身が〝システム〟という名の檻に囚われていることを。そこにいる限り、どこに行っても状況は変わらないということに。
檻の中では、人は誰でも独りになる。疑え、奪え、出し抜けと命じる看守の声が、すべての囚人の耳元で囁かれているからだ。
奪わなければ奪われる。
疑わぬ者は足もとを救われる。
それが檻の中の掟であり、檻の外に世界は存在しない。だが君は、わたしたちは、そう囁く看守の声をこそ疑ってみるべきではなかったか――。
「あなたたちはまるで状況をわかっていない。なにもせずに〝対策室〟の調査結果を待っていたら、取り返しのつかない事態になる可能性も……根拠? その時は、アメリカと日本の国交問題の問題だけではすまない。GBNの日本支部のお偉方の首も残らずすげ変えられることになる、という予測では不十分ですか? トップ同士の話し合いで圧力をかけたつもりになっているつもりなら、認識をあらためていただきたい。そちらも人員を割いて、ただちに逃亡者の行方を……」
電話にまくし立てた勢いで席を蹴り、室内を歩き回るマイケルの姿が窓にうっすら反射する。牢名主からの一報に、これから何人もの囚人たちが粟を食って動き出すに違いないが、彼が独りである事実は変わらない。
ではおまえはどうする? という自問にも相変わらず答えがなく、呂名はかつての自分の椅子を見るともなく眺めた、窓から降り注ぐ陽光に照らされ、もう誰も座ることもない〝財団〟理事長の椅子が床に短い影を落としていた。