「あの野郎め!」
蹴りつけた机が軋み、床に転がり落ちたペンが乾いた音を立てる。それでも収まらない憤怒をぎりぎり呑み下し、「すまない、取り乱した」とマイケルは電話口に吹き込んだ。目前のノートパソコンの中で、永琳組の戦況グラフがまた1ポイント上昇する。戦場ではこちらの第19防衛ライン突破間近――自分の裁量で動かせる資金では、もうこの流れを止めることはできない。
「わかってる。認めるよ。ジャッブにしてやられた。義兄さんの顔を潰してしまってすまなかったけれど、まだ状況はコントロールできる。パリのモーリス叔父さんに話を聞いてもらいたいんだ。パリ分家の力添えがあれば、戦場は押さえられる」
早口でまくし立てる間にも、戦況は刻々と変化している。
いったいこれはなんだ?
明日の朝に戦況グラフを確かめて以来、もう何度言ったかわからない問いを口中に紡ぎ、マイケルはまったく乗り気でない義兄の声を聞いた。
無理もない。
戦略崩れが続くのを見越した、義兄はかなりの戦力を突っ込んでいた。それが急変したのだから、たまったものではない。彼の口利きで動いた主力のジュリアン・ホッジにそろって莫大な額を支払なければならなくなる。
もはや損を承知で戦場は完全に息を吹き返したのだ。二重三重の手を尽くして潰してやったはずなのに、なぜこんなことに――。
答はわかっている。呂名正彦だ。
〝財団〟の理事長が、我が子可愛さに金家たちに味方をした。
彼の反乱を予期して〝財団〟の戦力は残らず押さえ、彼が経営するGBNスポンサーも監視下に置いていたにも関わらず、行方をくらますや、私的な財産と〝財団〟で培った人脈を活用して、彼はクズ勢力化していた永琳組へ戦力を送ったのだ。
所詮は寄せ集めのゲリラ的集団。物量戦なら負ける道理はなかったが、呂名はこちらが押し寄せた戦線を逆手に取り、本筋が仕掛けた〝踏み込み〟に見せかけるという奇策をもって、戦場の空気を一変させてしまった。足並みが崩れた戦力をまとめ上げ、もう一度流れを変えるのは容易ではない。パリ分家に増援を頼み、さらなる物量を仕掛ける必要がある。マイケルは唯一の命綱となった電話を握りしめ、「これは面子の問題なんだよ、義兄さん」とたたみかけた。
「わたしのじゃない、フェアチャイルドの面子が潰れるかどうかの瀬戸際だ。逐次投入になんかならない。2度と同じことは起こらないと約束するよ。相手の面は割れてるんだ。奴らはこれが精一杯で、もう余力は残ってない。もしまだ仕掛けてくるようなら、物理的手段に訴えてでも……」
未だ金家たちはおろか、呂名理事長の行方もつかめていないこちらの状況は、ロンドンにも漏れ伝わっているだろう。はっきり断るでも罵るでもなく、ただ曖昧な生返事ばかり寄越す義兄にマイケルは苛立った。
厳しく跳ねつけるなら、それでいい。一点の誠意もない見せかけの同情で茶を濁し、無関係という柵の向こうに逃げ込もうとする態度は我慢ならない。
残念ですが、こちらでは戦力を出しかねます、か? ふざけるな。おまえたち本家の人間の代わりに、汚れ仕事をしてきたのは誰だ? とうに限界を迎えた〝システム〟を世界中に押しつける一方、自分たちだけで利益を囲い込み、反感を噴き出してもそれが人の世だとうそぶく。血筋の上にあぐらをかき、なにもしないお前たちに代わって、血人の血を汚しているのはいったい誰だ?
〝システム〟は決して盤石ではない。おまえたちが思う以上に、ふとしたきっかけで瓦解する脆さと矛盾を内包している。GBNというグローバル革命を手に入れた代償に、その脆さが増したことにこいつらは気づいているのか。効率を追い求めた結果は、破滅もまた効率的に忍び寄ってくるものだと自覚しているのか。
一刻の早く電話を切りたい。
それしか頭にない義兄の気配に絶望しつつ、「ここで退くわけにはいかない」とマイケルは辛抱強く重ねた。
「連中は世界の目をヲチカタに向けさせるためにこんなことをしてるんだ。テロ国家の嫌疑が嘘だとわかれば、芋づる式にすべてが露見しかねない。GBNともども、フェアチャイルドの権威は失墜する。わたしひとりの責任で済むことでは……え? ニュースがなんだって?」
こちらの声を半ば以上聞き流し、ネットのニュースサイトを斜め読みでもしていたのだろう義兄は、たまさかその一報を目にしたらしい。はぐらかしでもない、真実切迫した義兄の声にひやりとしたものを感じながら、マイケルもマウスを動かしてデスクトップにニュースサイトを表示させた。たったいま配信したばかりの見出しにカーソルを重ね、クリックしようとして、マウスに載せた手のひらが凍りつくのを感じた。
それほどにあり得ない、現状においては致命的とさえ言えるニュースだった。この見出しをディスプレイ上に凝視したきり、指ひとつ動かせなくなったマイケルをよそに義兄の説明が続く。「噂だろ、そんなの」と出した声がうわずり、電話を握る指先が痺れてゆくのをマイケルは知覚した。
「だって、実現するはずないじゃないか、そんな話。常駐スタッフだってひとりしかいないんだろう? そんな廃棄コロニーがどうして……桂木ゲームマスターの発表? いつ? なんで……?」
感覚の失せた指先から電話が滑り落ちる。机に転がった電話から義兄の声が漏れ聞こえていたが、もうマイケルはもう聞いてはいなかった。背もたれに寄りかかり、なにも見えていない目を中空に据える。
ヲチカタ・コロニー代表。
議事堂。
一般討論演説。
特別オブザーバー。
今聞いた義兄の声が頭の中でわんわんとこだまし、ニュースサイトの見出しが頭の奥で点滅して、致命的な勘違いをしていたという理解をゆっくりと全身に浸透していった。
世界の目をヲチカタにむけさせるための戦争。
その上で例の音声記録を公表するとあらためて脅迫し、呂名英一の解放と、ヲチカタの封殺解除を要求する算段だとばかり思っていた。
バカな話だ。そうなら戦場が激化する時点で脅しにかかってくるのが筋ではないか。にもかかわらず、こちらが火消しに工作をしてもなにも言ってこず、呂名理事長まで巻き込んでなおヲチカタの名を印象づけようとしてきた金家。
気づくべきだった。これは手段ではあって、目的ではないと……彼の真意を徹底的に分析し、あらゆる可能性を吟味しておくべきだった。
おいどうした、聞いているのかと、机に転がった義兄の声が漏れ聞こえていた。聞こえているが、聞く価値はない。もうおまえと話しても仕方がない。
同じ土俵に上がらされた隙に、事は奴の思惑通りに進んだ。
すべてはこれを実現するための行動だったのだ。
マイケルは目を閉じ、椅子の肘掛けをきつく握りしめた。吸い込んだ息を止め、ぎりと奥歯を噛み鳴らして認めたくない現実を胸中に認めた。
一杯食わされた。あのジャッブの詐欺師に――。
(……テロ組織の拠点と名指しされた直後、コロニー内にいる優秀なELダイバー保護権の噂が飛び交い、にわかに注目を集めているヲチカタ・コロニー。この国の代表オブザーバーを招き、総会の一般討論でスピーチを行うとの情報がGBNを騒がせています。出席者の名前はまだ公表されていませんが、昨今の風評について、当のヲチカタ・コロニーがなんらかの見解を示すことは間違いなく、廃棄されたコロニーはいまや世界の注目の的に……)
とうに型落ちした液晶ウィンドゥの中で、赤毛の女ダイバーが喋っていた。事が大きく動いたという感触を持ちはしても、だからどうという神経は働かず、アローンは女の唇が忙しなく動くのをただ見つめた。(それが狙いだったんだよ)という声は、左側にあるウインドウの通信から発し、鼓膜を機械的に揺らして過ぎた。
(GBN管轄のコロニーとはいえ、常駐スタッフがひとりしかいないような廃棄コロニーのスピーチに耳を貸す物好きはいない。サイバーテロ国家の嫌疑がかけられていても、一般討論に急に割り込むなんて不可能だ。だが、そこがGBN注目の的になれば話は変わってくる)
マイケルの声は平静だった。フェアチャイルドの財力にものを言わせた物量作戦も失敗に終わり、敵の術中にずっぽりはまり込んだ男の胸中が穏やかな道理はないが、無理に装っているという声音ではない。憤怒も焦燥も、ある一線を超えると飽和してゼロに立ち戻るということか。頭のメモに一項目書き加える間に、(ヲチカタから招へいされるオブザーバーは、ミカヅキだ)と断定すね声音が鼓膜に突き立ち、アローンは神経に微流が走るのを感じた。
(自コロニーに『A金貨』が流れ込んでいる以上、もうヲチカタには日本側の運営支援を当てにする必要はない。GBNを当てにする必要はない。議事堂で掟破りのスピーチをしても、失うものはなにもないということだ。ミカヅキはそこですべてを暴露するつもりだろう。その場で音声記録を流して、切り札を使いきるような真似はしないだろうからな。一連の情報操作が明るみに出れば、こちらが被るダメージは計り知れない。以後の主導権は連中の手に渡る。呂名英一の身柄を返して、ヲチカタの封殺を解除。その上でシラを切り通して、事がうやむやになるのを待つしかなくなるというわけだ。無論、その頃にはわたしもおまえもこの世にいないだろうが)
マイケルの言葉を半ば聞き流しながら、右の手のひらをゆっくりと握りしめ、開く。何も感じない。福田は部下の清算の邪魔をしようと試みたが、部下には怪我はなく終わった。あれからひと月近くたったが、部下から無事という報告が入っただけだ。
が、それとは別に、腹の底に奇妙に疼くものがある。それはふとした折りに鎌首をもたげ、連動して福田の死を思い出させる。いまのもそれだったと思い、アローンは手のひらをしげしげと見つめた。(奴を消せ)とマイケルの声が続き、今度ははっきりと神経が痙攣するのを感じた。
(どんな手段を使っても、どれだけ金がかかってもかまわん。奴を……ミカヅキを抹殺しろ。幸い、議事堂はアメリカGBNにある。奴らがどこにいようと議事堂でスピーチするには我が国を渡り、ログインしなければいけない。やり方はある。わかるな?)
「はい」
(呂名英一の身柄はこちらで預かる。ただちに行動を開始しろ。ヲチカタのスピーチは3日後だ)
返事を待たずに電話は切れた。腹の底の疼きが、動悸ともつかない脈動になって全身に血をめぐらせるのが知覚され……これはなんだ? とアローンは脈打つ胸に手を押し当てた。これは熱に近い。腹の底をじりじりと焼き、集中させる不快な熱。これは、もしや――。
そこまで考えて、急ブレーキをかけたかのように思考が停止した。答はそこにあるが、向き合ってはならない。向き合えば、おまえは、なにかを大きく損なう。本能の叫びに促され、アローンは古ぼけた椅子から立ち上がった。ニュースを垂れ流すテレビに背を向け、部屋の戸口に向かう。
アメリカ、ニューヨークの南端に建つこのビルの地下室は、常に湿気が滞留して下水臭い。古い建物はそこかしこに点在する中で、倉庫を改造したこのアパートは文化財級の古さを誇る。今は住む者もなく、じきに取り壊されるのを待つ建物内に引きこもって、すでに3週間近く。〝狩り〟には参加できそうもないと諦めかけていたところに、あいつが自ら飛び込んでくるとは。またぞろ熱を増した腹の底に意識から切り離し、目に映る光景だけを捕らえるようにしたアローンは、監視カメラを起動したところで足を止めた。
監視カメラを通じて対象を見ているため、室内、という言い方は正確でないのかもしれない。床も壁も打ちっぱなしののコンクリートで覆われ、無論のこと窓の類いはない。あるのは囲いが壊れて剥き出しになって便器と、フレームの錆びついたベッドのみ。そこの空間の一角に、ベッドの上に腰掛ける呂名英一の姿があった。
この数日でますます頬をこけ、無精髭に覆われた顔は漂流者さながらだが、目の光に衰えはない。「移動するのかい?」と発せられた声もかすれてはおらず、アローンは監視カメラ越しにしばし自分と部下たちが管理する囚人と視線を絡ませた。
英一の部屋からテレビの音が漏れ聞こえてくる。ヲチカタ・コロニーをめぐる数週間の動き、それにつれて変動する自らの人質としての立場を、彼はニュースの音声から理解している。わかっていながら放置していたのは、最低限の正気は保たせておけ、というマイケルの命令を遵守したからにでしかない。時間の経過も判然もとしない地下室に幽閉されていれば、情報は正気を維持するための栄養になる。
返事を待つ英一に答えることなく、監視役の部下に空になったペットボトルを回収し、新しいミネラルウォーターを戸口に置くよう命令した。迎えの人間に引き渡した時点で、監視役としての自分の仕事は終わる。だからどうとは考えず、そのまま立ち去ろうとして、「マイケルは焦っているだろうね」とかけられた声に足を縫いつけられた。
「永琳組を巻き込むだけならまだしも、議事堂へだなんて……。本当、あの人のやることは予測がつかない。ミカヅキや深雪まで一緒になって、まったく……父さんまで……」
苦笑を浮かべた表情とは裏腹に、その双眸から滲み出すものがあった。急な感情の動きに理解できず、アローンはカメラ越しに英一に向き直った。「怖いのか?」と繰り出した問いに、英一はびくりとまぶたを震わせたのも一瞬、強い否定の光を宿した目をこちらに向けた。
「なら、なぜ泣く」
「……わからないだろうな。実の主に〝システム〟を守る機械として育てられたあなたには」
強靭な意思をたぎらせる黒い瞳から、また新たな雫が噴きこぼれる。腹の底の熱がじわりと勢いを増し、アローンは英一の目を凝視した。まただ。いったいなんなのだ、これは。突拍子もない衝動を連れて体内を跳ね回る、この熱の塊は。戸惑い、我知らずあとずさるうちに、英一の目が不意に伏せられ、こぼれ落ちた雫が膝上で握りしめたその拳を濡らした。
「ぼくの父さんは、違った……」
絞り出すように言い、口を閉じる。
だから、なんだのというのだ。
ほとんど詰め寄りたい衝動に駆られている自分にりつ然とし、アローンはその場に棒立ちになった。
違うのは当たり前だ。おまえに主の何がわかる。時代に、国に翻弄され、日本にもアメリカのどちらにも居場所を見つけられなかった男の分裂した電子の粒……自分の不実が疑ったのような呪いの子を憐れみ、涙を流した男の心理が、すべてに満ち足りた者に理解できるものか。
考えるより先に胸中に溢れだした言葉が喉に詰まり、窒息する錯覚にとらわれながら、遠い昔に耳にした何者かの声が再生されるのを聞いた。
心のないElダイバーなんて、いるはずがないもんね。
その声が水面の向こうに沈んでゆく少女の顔に重なって頭の中に響きわたる。
やはり、そうなのか。
これはそういうことなのか。
こちらの気配を感知する能力を持つミカヅキと、自分の手の者にかかって死んだ福田。
呂名英一に関わる者たち、『A金貨』の一方の申し子たちに詰め寄られた衝撃で、断線した神経が繋がりつつあるとでも――。
「あいつらは、こっちに来る」
あり得ない。断じた勢いで、カメラ越しにアローンは英一を直視した。英一も伏せた目を微かに上げる。
「GBN中の空港に人を配置する。あいつらが議事堂にたどり着くことはない。必ずあの女は殺す。そうしたら、もうおまえに用はない」
なにを言っているのか、自分でもわからなかった。
余計なことだ、向き合うな。
自戒する一方、腹の底を焼く熱の勢いは押し止めがたく、アローンは衝動に任せて口を動かし続けた。
「あいつらの死ぬところ、見せてやる」
不快な熱を言葉に変え、吐き出し切ったつもりが、むしろ喉になにかを詰め込まれたような感覚が残った。
英一は無言でこちらを見返している。
おまえは、おまえたちは自分とは違う。
なぜ違うのだ?
違って当然と思う傍ら、なぜと問い続ける自分を止めることができず、アローンはウインドウから背を向けた。
正体不明の感覚を断ち切ろうと、勢いよくウィンドウを閉じる。英一の視線は消えたが、全身を駆け抜ける脈動は収まる気配はなく、アローンは勢いをつけて椅子に座った。
消えた英一の視線が、いまだ背中に突き刺さっているのがわかる。
水底に沈んだELダイバーの少女の視線とも重なるそれを感じながら、再び目の前に通信ウインドウを開き、〝狩り〟の最初の手順に取りかかった。